○はじめに
北方領土というのはどの島のことか分かりますか。このサイトをご覧の方は、みなさん御存知でしょう。下の地図の三つ島(国後くなしり、択捉えとろふ、色丹しこたん)と一つの小さい島の塊(歯舞はぼまい諸島)のことです。
この島々、日本の主張では、本来日本固有の領土であり、日本が統治すべきものなのですが、現実にはロシアの施政権下にあります。この領土の帰属問題が北方領土問題であり、その領土の返還運動が北方領土返還運動です。
北方領土がどの島であるかを御存知の方でも、それがなぜ日本固有の領土なのか、いま現在なぜロシアが支配しているのか、領土返還の今後の見通しはどうなのか、 的確に答えることはできないのが普通です。
あるいは、北方領土返還なんて面倒くさいことはやめとこう、とか、興味がないとか言う人もいるでしょう。
北方領土の意味を正しく理解し、その返還運動を推進することが、この研修が設定された理由であり、研修の参加者の「使命」なのです。(^.^)
○北方領土は日本固有の領土?
研修参加者全員に配布された、外務省国内広報課著『われらの北方領土 2001年版』によれば、北方領土に関する歴史は、次のようになっています。
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1635年 |
江戸幕府により蝦夷地に所領を与えられた松前藩、北方4島へ調査隊を派遣。4島を自藩領と認識し、1644年の「正保絵図」に4島を書き入れる。 |
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1798年 |
近藤重蔵、幕府の命令により、択捉島などを探検。択捉島に「大日本恵土呂府」の標識を立てる。 |
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1855年 |
日露通好条約締結、択捉島とその北の得撫島との間を国境とし、得撫島以北の千島列島(ロシア名、クリル諸島)はロシア領とする。樺太は、境界を設けず両国人雑居の地とする。 |
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1875年 |
樺太千島交換条約締結、樺太における日本の権利を全て放棄する代わりに、千島列島全島(カムチャッカ半島のすぐ南のシムシュ島まで)は日本の領土とする。 |
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1905年 |
ポーツマス条約締結、日露戦争の勝利により、ロシアは日本へ樺太の南半分を割譲、日本領とする。 |
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1945年 |
ソ連軍、千島列島に侵攻。国後、択捉を含む千島列島、及び色丹島、歯舞諸島を占領。 |
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1951年 |
サンフランシスコ平和条約締結(ソ連はこの条約は未調印)
「第2条領土の放棄」で、「千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」 |
この年表を見ると明らかなように、4島は古くから日本に帰属しており、戦争とか争いで他国より奪ったものではありません。これが、4島を日本固有の領土とする論拠です。
色丹島・歯舞諸島は、地政学上も動植物学上も、北海道の一部です。国後島・択捉島は、正確には千島列島(クリル諸島)の最南端の島ですが、サンフランシスコ平和条約で放棄した「クリル諸島」には、両島は含まれないと言うのが日本の見解です。戦争とは関係のない固有の領土なのですから、「放棄」した対象とはならないと言う考え方です。
○ソ連はどうやって北方領土を占領したか?
これはクイズにしてありますから、こちらを参照してください。→「クイズ日本史 戦後」
○その後現在までの北方領土返還運動
ソ連は、サンフランシスコ平和条約そのものを、日本がアメリカ陣営に取り込まれるという点から調印を拒否し、この時は、日本とソ連を国交は回復されませんでした。
その後の情勢は、次のように推移しています。
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1956年
10月 |
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日ソ共同宣言(鳩山首相・ブルガーニン首相)
領土問題は解決できず、平和条約ではなく共同宣言になる。平和条約の締結後、ソ連が歯舞諸島・色丹島の日本に引き渡すことを決める。 |
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1960年
1月 |
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グロムイコ書簡(ソ連首相の書簡)
ソ連は日米安全保障条約の改正=アメリカとの軍事同盟強化に反発し、歯舞・色丹の引き渡し条件として、「日本領土からの全外国軍隊のの撤退」を加えることを日本に通知してくる。 |
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1961年
9月 |
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フルシチョウフ書簡
ソ連首相フルシチョウフは、池田勇人首相に宛てた書簡の中で、「領土問題は一連の国際協定によって解決済み」と主張。ソ連は態度を硬化させ、この後しばらく、北方領土問題の存在そのものを否定した。 |
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1991年
4月 |
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日ソ共同声明
ゴルバチョウフ大統領の訪日にともなう日ソ首脳会談で、4島が平和条約に置いて解決される領土問題の対象であることを初めて文書で確認。
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1993年
10月 |
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東京宣言
細川護煕首相とロシアのエリツィン大統領が署名。ソ連崩壊後ロシアが、北方領土問題は4島の帰属をめぐる問題という考え方で一致。 |
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1997年
11月 |
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クラスノヤルスク合意
橋本龍太郎首相とエリツィン大統領が会談。東京宣言に基づき2000年までに平和条約を締結するように全力を尽くすことで合意。 |
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2001年
3月 |
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イルクーツク合意
森首相とプーチンロシア大統領との間で、93年の東京宣言の合意に基づき、引き続き、4島の帰属問題を解決することにより、平和条約を締結すべきことを確認。 |
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2005年
11月 |
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プーチン大統領訪日
小泉首相と訪日したプーチン大統領が会談。
両首脳は、平和条約締結問題につき、これまでの様々な合意及び文書に基づき、日露両国が共に受け入れられる解決を見出す努力を行うことで一致した。 |
上表は、外交交渉の流れです。
それ以外の、ことについて、さらに説明します。
ソ連崩壊後、1990年代において、ロシアの社会は大きく変動しました。
端的に言えば、それまでのソ連時代の政治体制の修正にともない、同じく計画経済が崩壊し、新たに進められた自由主義経済が整備されないまま、経済的にも財政的にも非常に無秩序の状態におかれてしまったのです。
各地で、インフラの整備等の投資がとどこおりました。
その最たる所が、領土交渉の対象であり、投資効果が疑問視された北方領土です。
このため、国後・択捉・色丹・歯舞諸島の空港・港湾・道路の等の設備の改善はなおざりになり、住民の生活環境は悪化しました。
そこに、日本の政策が功を奏するタイミングが生じました。
おりしも、1994(平成6)年、北海道東方沖地震が起こり、北方4島にも大きな被害が出ました。
これを機に、日本政府による人道支援が本格的に行われ、4島在住のロシア人の中には、日本との交流に期待をかけたり、返還を認める人も一定の割合で存在するようになりました。
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人道的支援は1991年から開始、最初は食料の供給でした。1993年には支援委員会が設置されて本格化します。
地震前の1993年4月30日には2000トンの発電用燃料の供与が行われています。
「北方4島の政治家で構成するクリル地区評議会のカシブルク議長は29日、択捉島の発電用燃料の不足問題はロシア政府もサハリン州も助けてくれないとして、横道北海道知事に5000万円の援助を要請する緊急電報を打った。
イタル・タス通信によると、 同議長は、つい最近ま北方4島に対するロシアの主権を無条件で認める愛国主義者だったが、択捉島で電気を供給されているのは病院だけになってしまった現状から「頼りになるのは北海道だけだ」との結論に達した。」と報じられています。
(『朝日新聞』1993年4月30日夕刊)
地震の後、1997年に北海道出身の鈴木宗男衆議院議員が第2次橋本改造内閣の北海道開発庁長官となってからは箱もの(施設)の建設援助も進みました。
国後島の「友好の家」(宿泊施設)、自航式はしけ、国後島桟橋、色丹島等のディーゼル発電設備、燃料給与など。 |
また、1998年には、日本漁船が一定の条件で、北方領土海域に入って操業することが認められるようになりました。
1990年代は、簡単に言えば、戦後の北方領土返還運動・交渉の中で、日露両国が一番理解をし会えそうな雰囲気が生じた時期でした。
【2006年10月15日追加】
しかし、2000年代に入って、ロシアの経済が比較的安定し、また、サハリンの石油・天然ガス開発が進むと、状勢は少しずつ変化してきています。
2005年11月のプーチン大統領の訪日では、2島返還で妥協しようとするロシア側と、4島返還を求める日本側の主張は平行線のままで、なんらの進展はありませんでした。
○北方領土に関する禁句
北方領土は日本の固有の領土です。
そのため、4島に関する発言について、そこがロシアの領土であると言うことを前提とする表現は使ってはいけません。
たとえば、納沙布岬と歯舞諸島の間に「国境線」がある、と言ってはいけません。正式には、「中間ライン」と言います。(じゃあ、何と何の中間なんだろう)
4島を訪問して、入国・帰国という表現は使ってはいけません。「到着」(入域)、「出発」(出域)と言います。
もちろん、向こうについて「日本から来た」というのは禁句です。そこも日本ですから。あくまで、「岐阜から来た」とだけいうのです。
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