これは、私が2002(平成14)年9月18日(水)〜9月22日(日)に研修で出かけた北方領土色丹島の訪問記と、ついでに回った、北海道東部の旅行記です。


 <目 次> 項目をクリックすると説明へ跳びます。  
<準備運動>                                      記載年はいずれも2002年
@ まずはお勉強。北方領土へ何しに行くんだ?  ※※※  09/15掲載
A 北方領土は誰でも訪問できる?  ※※※  09/25掲載

<北方領土訪問記>
B 根室、納沙布岬、そして歯舞諸島  9月19日(木)のこと  09/25掲載
C コーラルホワイト号根室出港、一路国後島へ  9月19日(木)・20日(金)のこと  09/26掲載
D オホーツクの航海、イルカ・クジラ?           9月20日(金)・22日(日)のこと  09/28掲載
E 色丹島上陸、すごいところですここは  9月20日(金)のこと  09/30掲載
F 幼稚園・中学校訪問  9月20日(金)・21日(土)のこと  10/01掲載
G ロシア人家庭ヴィジット、ロシア語だぞ!!!  9月21日(土)のこと  10/03掲載
H セヨ ビロ ハラショー  9月20日(金)・21日(土)のこと  10/06掲載 

<北方領土問題を考える・・・・公式報告書>
I 北方領土問題を考える  ※※※  10/20掲載

<北海道東部あちこち旅日記>
J 北海道はでっかいど−、ん、ずいぶん古いコピーだぜ  9月18日(水)のこと  10/09掲載
K 摩周湖、釧路湿原                        9月22日(日)・23日(月)のこと  10/13掲載
L 石炭が取れたところ、北海道  05/08/27追記    9月23日(月)のこと  10/16掲載 

<番外編>
M あの時のこと それからのこと1                  ※※※  10/26掲載
N あの時のこと それからのこと2 「東」について  ※※※  11/02掲載

<続編> 2003年以降記載
 色丹島で知り合ったダネリア家との草の根交流記のTopページです。               
  ○2006年の夏の新しい視点で書いた北方領土問題「ロシア警備艇の銃撃事件」等です。 →交流記21
  ○2006年の色丹島の現状「ロシアのクリル諸島開発計画」等です。→交流記22
   ○2006年の色丹島の衛星写真です。斜古丹村→交流記26 穴澗村→交流記24
   ○明治〜昭和時代の色丹島とについてです。(戦前の色丹島の地図を掲載)→交流記25

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@ まずはお勉強 北方領土へ何しに行くんだ           | このページの先頭へ |

○はじめに
 北方領土というのはどの島のことか分かりますか。このサイトをご覧の方は、みなさん御存知でしょう。下の地図の三つ島(国後くなしり、択捉えとろふ、色丹しこたん)と一つの小さい島の塊(歯舞はぼまい諸島)のことです。

 この島々、日本の主張では、本来日本固有の領土であり、日本が統治すべきものなのですが、現実にはロシアの施政権下にあります。この領土の帰属問題が北方領土問題であり、その領土の返還運動が北方領土返還運動です。

 北方領土がどの島であるかを御存知の方でも、それがなぜ日本固有の領土なのか、いま現在なぜロシアが支配しているのか、領土返還の今後の見通しはどうなのか、 的確に答えることはできないのが普通です。
 あるいは、北方領土返還なんて面倒くさいことはやめとこう、とか、興味がないとか言う人もいるでしょう。

 北方領土の意味を正しく理解し、その返還運動を推進することが、この研修が設定された理由であり、研修の参加者の「使命」なのです。(^.^)

○北方領土は日本固有の領土?
 研修参加者全員に配布された、外務省国内広報課著『われらの北方領土 2001年版』によれば、北方領土に関する歴史は、次のようになっています。 

 

1635年

江戸幕府により蝦夷地に所領を与えられた松前藩、北方4島へ調査隊を派遣。4島を自藩領と認識し、1644年の「正保絵図」に4島を書き入れる。

1798年

近藤重蔵、幕府の命令により、択捉島などを探検。択捉島に「大日本恵土呂府」の標識を立てる。

1855年

日露通好条約締結、択捉島とその北の得撫島との間を国境とし、得撫島以北の千島列島(ロシア名、クリル諸島)はロシア領とする。樺太は、境界を設けず両国人雑居の地とする。

1875年

樺太千島交換条約締結、樺太における日本の権利を全て放棄する代わりに、千島列島全島(カムチャッカ半島のすぐ南のシムシュ島まで)は日本の領土とする。

1905年

ポーツマス条約締結、日露戦争の勝利により、ロシアは日本へ樺太の南半分を割譲、日本領とする。

1945年

ソ連軍、千島列島に侵攻。国後、択捉を含む千島列島、及び色丹島、歯舞諸島を占領。

1951年

サンフランシスコ平和条約締結(ソ連はこの条約は未調印)
「第2条領土の放棄」で、「千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」

 

 この年表を見ると明らかなように、4島は古くから日本に帰属しており、戦争とか争いで他国より奪ったものではありません。これが、4島を日本固有の領土とする論拠です。
 色丹島・歯舞諸島は、地政学上も動植物学上も、北海道の一部です。国後島・択捉島は、正確には千島列島(クリル諸島)の最南端の島ですが、サンフランシスコ平和条約で放棄した「クリル諸島」には、両島は含まれないと言うのが日本の見解です。戦争とは関係のない固有の領土なのですから、「放棄」した対象とはならないと言う考え方です。

○ソ連はどうやって北方領土を占領したか?
 これはクイズにしてありますから、こちらを参照してください。→「クイズ日本史 戦後」

○その後現在までの北方領土返還運動
 ソ連は、サンフランシスコ平和条約そのものを、日本がアメリカ陣営に取り込まれるという点から調印を拒否し、この時は、日本とソ連を国交は回復されませんでした。
 その後の情勢は、次のように推移しています。

1956年
10月

 

日ソ共同宣言(鳩山首相・ブルガーニン首相)
領土問題は解決できず、平和条約ではなく共同宣言になる。平和条約の締結後、ソ連が歯舞諸島・色丹島の日本に引き渡すことを決める。

1960年
1月

 

グロムイコ書簡(ソ連首相の書簡
ソ連は日米安全保障条約の改正=アメリカとの軍事同盟強化に反発し、歯舞・色丹の引き渡し条件として、「日本領土からの全外国軍隊のの撤退」を加えることを日本に通知してくる。

1961年
9月

 

フルシチョウフ書簡
ソ連首相フルシチョウフは、池田勇人首相に宛てた書簡の中で、「領土問題は一連の国際協定によって解決済み」と主張。ソ連は態度を硬化させ、この後しばらく、北方領土問題の存在そのものを否定した。

1991年
4月

 

日ソ共同声明
ゴルバチョウフ大統領の訪日にともなう日ソ首脳会談で、4島が平和条約に置いて解決される領土問題の対象であることを初めて文書で確認。

1993年
10月

 

東京宣言
細川護煕首相とロシアのエリツィン大統領が署名。ソ連崩壊後ロシアが、北方領土問題は4島の帰属をめぐる問題という考え方で一致。

1997年
11月
  クラスノヤルスク合意
橋本龍太郎首相とエリツィン大統領が会談。東京宣言に基づき2000年までに平和条約を締結するように全力を尽くすことで合意。

2001年
3月

 

イルクーツク合意
森首相とプーチンロシア大統領との間で、93年の東京宣言の合意に基づき、引き続き、4島の帰属問題を解決することにより、平和条約を締結すべきことを確認

2005年
11月

 

プーチン大統領訪日
小泉首相と訪日したプーチン大統領が会談。
両首脳は、平和条約締結問題につき、これまでの様々な合意及び文書に基づき、日露両国が共に受け入れられる解決を見出す努力を行うことで一致した。

 
 上表は、外交交渉の流れです。
 それ以外の、ことについて、さらに説明します。
 
 ソ連崩壊後、1990年代において、ロシアの社会は大きく変動しました。
 端的に言えば、それまでのソ連時代の政治体制の修正にともない、同じく計画経済が崩壊し、新たに進められた自由主義経済が整備されないまま、経済的にも財政的にも非常に無秩序の状態におかれてしまったのです。
 各地で、インフラの整備等の投資がとどこおりました。
 その最たる所が、領土交渉の対象であり、投資効果が疑問視された北方領土です。
 このため、国後・択捉・色丹・歯舞諸島の空港・港湾・道路の等の設備の改善はなおざりになり、住民の生活環境は悪化しました。

 そこに、日本の政策が功を奏するタイミングが生じました。
 おりしも、1994(平成6)年、北海道東方沖地震が起こり、北方4島にも大きな被害が出ました。
 これを機に、日本政府による人道支援が本格的に行われ、4島在住のロシア人の中には、日本との交流に期待をかけたり、返還を認める人も一定の割合で存在するようになりました。

 人道的支援は1991年から開始、最初は食料の供給でした。1993年には支援委員会が設置されて本格化します。
 地震前の1993年4月30日には2000トンの発電用燃料の供与が行われています。

「北方4島の政治家で構成するクリル地区評議会のカシブルク議長は29日、択捉島の発電用燃料の不足問題はロシア政府もサハリン州も助けてくれないとして、横道北海道知事に5000万円の援助を要請する緊急電報を打った。
 イタル・タス通信によると、 同議長は、つい最近ま北方4島に対するロシアの主権を無条件で認める愛国主義者だったが、択捉島で電気を供給されているのは病院だけになってしまった現状から「頼りになるのは北海道だけだ」との結論に達した。」と報じられています。
 (『朝日新聞』1993年4月30日夕刊)

 地震の後、1997年に北海道出身の鈴木宗男衆議院議員が第2次橋本改造内閣の北海道開発庁長官となってからは箱もの(施設)の建設援助も進みました。
 国後島の「友好の家」(宿泊施設)、自航式はしけ、国後島桟橋、色丹島等のディーゼル発電設備、燃料給与など。


 また、1998年には、日本漁船が一定の条件で、北方領土海域に入って操業することが認められるようになりました。
 1990年代は、簡単に言えば、戦後の北方領土返還運動・交渉の中で、日露両国が一番理解をし会えそうな雰囲気が生じた時期でした。

 【2006年10月15日追加】
 しかし、2000年代に入って、ロシアの経済が比較的安定し、また、サハリンの石油・天然ガス開発が進むと、状勢は少しずつ変化してきています。
 2005年11月のプーチン大統領の訪日では、2島返還で妥協しようとするロシア側と、4島返還を求める日本側の主張は平行線のままで、なんらの進展はありませんでした。

○北方領土に関する禁句
 北方領土は日本の固有の領土です。
 そのため、4島に関する発言について、そこがロシアの領土であると言うことを前提とする表現は使ってはいけません。
 たとえば、納沙布岬と歯舞諸島の間に「国境線」がある、と言ってはいけません。正式には、「中間ライン」と言います。(じゃあ、何と何の中間なんだろう)
 4島を訪問して、入国・帰国という表現は使ってはいけません。「到着」(入域)、「出発」(出域)と言います。
 もちろん、向こうについて「日本から来た」というのは禁句です。そこも日本ですから。あくまで、「岐阜から来た」とだけいうのです。

2006年の8月の日本漁船拿捕(銃撃のよる船員死亡)事件やロシアの「クリル諸島開発計画」については、「色丹島との草の根交流」21・22に掲載しています。


A 北方領土は誰でも訪問できる?              | このページの先頭へ |

○日本人の訪問
 ソ連軍は、1945年9月の始めまでに、北方4島を占領しました。日本軍守備隊は即座に武装解除され、樺太(サハリン)経由で、結果的には、シベリアに送られます。
 その時点で、4島住民にはまだそれから先がどうなるかは分かっていませんでした。
 
 ところが、日常生活が次第に圧迫され、ついには、ソ連から強制退去命令が出るのです。その時期は島によっては多少違いますが、1946(昭和21)年のことでした。
 家財道具や財産は一切残して、しかも貨物船で、樺太経由の強制帰国でした。樺太で越年した人たちもいて、ここでも多くの犠牲者が出ました。中には、ソ連軍の目を盗んで、小さな漁船などで脱出を決行し、悪天候のために遭難して命を落とした人も少なからずいました。
 
 これらの結果、北方4島は、完全にロシアの施政権下に置かれ、日本人は誰も住まない島となったのです。

 4島に対する墓参は、1956年の日ソ共同宣言批准後、1964年から数回行われました。しかし、1976年ソ連が態度硬化させ、墓参団にビザ(査証)の取得を求めると、日本はこれを拒否し、墓参は中断しました。査証を求めて入島するということは、4島がソ連の領土であることを日本が認めてしまうことになるからです。

 ビザなし墓参の再開は、1986(昭和61)年になってやっと実現し、現在まで続いています。しかしこの訪問は、当然ながら、4島の合計52カ所に墓がある遺族の方しか対象にはなりません。

○ビザなし交流
 1991年のソ連崩壊によって、4島は経済的に苦しい状態となりました。1992年には、北方4島のソ連住民に対する緊急人道支援物資の供与が行われます。
 このような相互交流の気運の高まりの中、1992年から「ビザなし交流」が開始され、4島ロシア住民の日本への訪問と、特定の条件で認められた日本人の4島訪問が実現します。
 
 さらに、1999(平成9)年からは、もっとも手続きが簡素化された形で、元島民とその家族の自由訪問が開始されました。
 墓参・ビザなし交流・自由訪問のいずれも、ビザなしで行われる訪問です。但し、墓参と自由訪問は、遺族や元島民と家族のみが該当します。
 島民以外が参加することができるビザなし交流により、これまでに日本全国から、9722人が4島を訪問しています。

○教育関係者訪問
 教育関係者が相互交流する「北方4島教育関係者訪問事業」は、ビザなし交流の一つとして1999年から始まりました。これまで、日本側からは国後島2回、択捉島1回実施されており、今回の色丹島訪問は、日本人教育関係者としては、初めての訪問となりました。

 北方領土返還に関する運動の母体となっているのが、国からの資金で運営されている、特殊法人北方領土問題対策協会であり、ビザなし交流事業は、直接には各都道府県に組織を持つ、北方4島交流推進全国会議が実施しています。

 今回の教育関係者派遣は、岐阜県を対象としては3回目です。私は、岐阜県の教員としては3人目の北方領土渡航者であり、色丹島に関しては、岐阜県で初めて渡航した教員となったわけです。

 今回の訪問団には、原則として各都道府県から各1名の教員が参加しました。これに、全国会議事務局のスタッフ、北海道庁の役人、外務省・内閣府の役人、通訳、医師、北海道新聞の記者を加わって、総勢61人のメンバーが今回の訪問団を形成しました。

   
B 根室、納沙布岬、歯舞諸島                 | このページの先頭へ |

○根室は東の果ての漁業の町
 私たち北方4島交流団の一行は、北海道の根室に集合しました。9月18日のことです。
 この日は、北海道東海上を低気圧が通過し、気温も低く、時折雨が降ると言う悪い天候でした。日中でも長袖のシャツにトレーナーをしっかり着込むといった状況で、これからどうなることやらと、不安がよぎる「前夜」となりました。
 
 根室は、東の果ての町です。夏至の時には、午前3時頃にはもう明るくなるそうです。

 根室本線は、根室駅が終点です。駅の端にはちゃんと終点を示す標識が立っていました。根室市から東に車で30分ほど走ると北海道の東の端、オホーツク海・太平洋に面した納沙布岬です。

 根室から納沙布岬に向かうと、歯舞(はぼまい)と言う地名の地区を通ります。その地区は、今は根室市歯舞ですが、戦前は、歯舞諸島と併せて、歯舞村でした。
 したがって、旧歯舞村に属していた歯舞諸島は、現在では、歯舞村が併合された根室市に所属しています。つまり、行政上は、歯舞諸島は、根室市の面積に含まれているのです。

 このことに代表されるように、根室市は、戦前は北方4島との交易や、そこから上がってくる魚や海産物で栄えた町でした。ソ連の4島占拠以後、根室の経済的発展は止まりました。現在の人口は34000人、年々減少しつつあります。
 それでも、サンマの水揚げでは4年連続日本一、全国のサンマ漁獲量の40%がここから全国に送られていきます。漁獲量全体では、12万トン350億円を記録し、水揚げ高全国5位という漁業の町です。

 根室本線終点。東京駅から1607`576b。  オホーツク海に面した納沙布岬。向こうは北方領土。

 海峡から間近に見える歯舞諸島には、一番大きな志発島を中心に、戦前は5281名の人口を数えていました。
 
 ソ連は、納沙布岬から僅か3700b沖合にある貝殻島の灯台をも占拠し、ここと納沙布岬との間の珸瑶瑁(ごようまい)水道が、日本とソ連(現在のロシア)との境となりました。

 今は、それほど多くありませんが、ソ連時代には、ソ連の主張する領海に侵入し、銃撃を受けたり拿捕されたりする漁船が多く出ました。

 密漁中の蟹船は、ソ連の高速警備艇に追跡されると逃げ切ることは不可能です。そこで、船尾から、わざと警備艇から見えるようにあらかじめ積んでいた品物(食料品・衣料品などが詰めてある)を海に落とし、ソ連艇の追跡を逃れたという「伝説」が残っています。

 つまり、追いかけるソ連艇が、漁船が投げ込んだ生活物資入りの箱やドラム缶を拾い上げているうちに、逃げてしまうというわけです。
 うそっぽい話ですが、1980年頃の『週刊朝日』に載っていました。

納沙布岬と北方4島の説明は、2006年10月にリニューアル版をつくりました。
「色丹島との草の根交流」21に掲載しています。

また2006年に色丹島を訪問した方の写真をお借りして、新たに2006年時点の北方領土問題と色丹島の現況を掲載しました。


   

 左上は、納沙布岬から見た北方領土。水平線左側の平らな陸地が、歯舞諸島の水晶島。真ん中の小さな棒のようなものが、貝殻島の灯台。岬突端から灯台までは、僅か3700b。

 手前の白波は昆布漁の日本漁船の航跡。
 昆布漁の期間は、6月から9月。ロシア施政権下の海域に入るため、漁協は1年に1億2400万円の入漁料をロシアに支払います。
 ところが、最近では、韓国から安い昆布が入ってくるため、根室漁協の昆布漁は苦戦を強いられています。

 右上は、岬にある北方館の望遠鏡ののぞき口にデジカメのレンズを直接あてて撮影するという裏技で、貝殻島灯台を撮影したものです。よく見ると傾きかけた、ボロ灯台です。
 実は、1936(昭和11)年に岩礁の上に日本が建設しました。貝殻島は小さな岩礁です。それでも、ここは現実にはロシアの施政権下です。後ろの平たい陸地は、歯舞諸島の秋勇留島(あきゆりじま)。

 右下は右上の写真と同じようにして撮影した、水晶島のロシア軍見張り所と兵舎。納沙布岬からの距離は、3700b。歯舞諸島には、現在はロシアの一般島民は住んでおらず、居住者のすべてが国境警備隊員です。
 


 現在では、北方館には、ライブカメラが付いていて、常時、インターネットで上の風景を見ることができます。こちらです。 →http://www.hoppou.go.jp/webcamera.html


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