色丹島では日本軍の抵抗はなく、ソ連軍が無血占領しました。
日本人島民の中には漁船などによって密かに島から脱出する人もいましたが、多くの島民はそのまま島に残りました。
島は、最初はソ連軍の民政下におかれましたが、やがて民政に移管されます。それとともに、ソ連領内から新しい住民が移ってきました。そして、しばらくの間、日本人との混住が行われました。
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「 第二次大戦後、ソ連の占領下におかれてまもなく、シコタンにもロシアから移民が送りこまれ、ある時期、日本人とロシア人の混住の時代があった。混住といってもむろん、日本人は被占領者の不自由な立場におかれていたものの、新しい移民と旧住民とのあいだにトラブルばかりがあったわけでもなかった。当時の移民を第一世代とするならば、すでに第一世代の多くは、この島にはいなくなっている。
シエラーチェフ村長が思案投首で考えた末に紹介してくれたのは、リールイエワさんという1933年生まれの、ルーズヴェルト夫人を思わせるような堂々たる初老のウクライナ女性だった。
戦争未亡人となった母とともに、リールイエワさんが、はるばるこの島に渡ってきたのは1946六年の雪解けの季節、母親は漁業加工の臨時工として毎日ミガキニシンの現場で働いた。現場には日本人もいた。むろん日本人に仕事の手順を教わることの方が多かったという。斜古丹の海岸には日本人の小さな家があちこちに点在するだけの淋しい漁村で、リールイエワさん母子はナシデさんという日本人家族と隣りあわせに住んだ。ナシデさんの家にはミエ子さん、サデオさんという姉弟があって、同い年のミエ子さんとはことばは通じないものの心はすぐに通いあい、丘の上の共同墓地に出かけては野苺を摘んだセピア色の想い出がのこっている。
戦争の勝者と敗者とか、民族差別とか、そんなものはなかった。リールイエワさん母子も父が戦死し家は焼かれ、着のみ着のまま国の募集に応じて東の果てにやってきた被災者だったのだから。隣のナシダ家に遊びに行くと、いつもごちそうしてくれた。母が島で再婚して妹が生まれたときには、日本人の産婆さんに世話になった。」 |
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井出孫六著石川文洋写真『北方四島紀行』(桐原書店 1993年)P233−234 |
1948年の秋、日本人は引き揚げました。
ソ連閣僚会議は、1948年10月4日、「極東の水産業の発展について」という決定を下しました。4年後の1952年までに、千島列島を含むサハリン、オホーツク、カムチャツカ沿岸地域に、「自由な意志に基づいて1万8000家族を移住させる目標を設定しました。
これを進める具体策として、移住者本人には最高2000ルーブル、同行の家族一人あたりに300ルーブルを供与することを決めました。この時代の2000ルーブルというと、当時の平均賃金の30ヶ月分という、破格の条件です。
クリル諸島に移住する場合は、年金受給年齢の引き下げや、割増賃金などさらにいい条件が加えられたそうです。
そして、この厚遇は、その後も続けられました。
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「 80年代後半の時点で、こうした優遇として例えば色丹島の工場勤務の場合、最初の月給は大陸の2倍。以後、4年間、半年ごとに大陸の給料の10%ずつアップした。つまり、大陸で300ルーブルの月給をもらっていれば、島に移って4年たてば月給は840ルーブルになった。
教員の場合もほぼ同じで、ウクライナで月給300ルーブルをもらっていた教員は、一気に700ルーブルに上がった。
ソ連全土から大勢の人々が西部から極東へ、そして北方領土へと移り住んだ。とりわけウクライナからの移住者は多かった。91年夏の時点で、北方領土の住民はウクライナ人4割、ロシア人3割、残りはその他という割合だった。第二次大戦で主戦場となったウクライナは、疲弊していた。北方領土へ移り住んだウクライナ人が多かった事実は、当時、ウクライナが貧しかったということを反映しているのだろう。
彼らの多くは、一時的な金稼ぎの季節労働者か、ひと稼ぎしたら大陸へ戻り、人より早く、ゆとりある年金生活へ入る。そんな生活設計を描いていた。いわば出稼ぎである。」 |
こう書くと、人々がソ連各地から色丹島へ来たのは、経済的な理由ばかりと思えてしまいます。
私は、そうではないと思っています。
ナターシャやアンドレイに直接聞いたように、彼らのように1980年代に色丹島に来た、しかも大学出のインテリの人たちにとっては、色丹渡航は単なる経済的な理由ばかりではなかったと思われます。
最早完全にソ連の「領土」となっていた色丹島は、彼らにとっては、「辺境」「自然」「日本に近い」などなど、それ以外の「魅力」がある島だったのでしょう。
ともあれ、この時点では、彼らも含め北方領土に移住してきたソ連人には、ひとつ大事なことが知らされていませんでした。
この地域が、日本との領土争いの土地であるという大事なことです。
ソ連は、一時期、日本との領土問題は存在しないという態度でしたから、多くの人々は自分たちが移住していく北方領土が、日本との係争地であることを知りませんでした。
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