色丹島との草の根交流記23

 これは、私が2002(平成14)年9月18日(水)〜9月22日(日)に参加した北方領土色丹島訪問以来、友人となった色丹島のロシア人英語教師一家との間に続いている草の根の交流について記録したものです。


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023 2006年の色丹島状勢2 水産業                            

 クリル諸島開発計画では、クリル諸島のインフラを整備し、さらには産業を強化するねらいがあります。
 しかし、前ページの参考文献によれば、ロシア政府も、クリル諸島にそうたくさんの産業が花開くとは思っていないようです。
 閣僚レベルでも、せいぜい水産業と観光業ぐらいだと判断されています。色丹島の場合はどうでしょうか?

 色丹島の歴史を振り返り、そして、未来を考えてみます。

@色丹島の戦後史 占領と移住

 色丹島は、太平洋戦争敗戦時の1945年8月15日の人口は、206世帯1038人でした。2004年1月1日現在では、3222人のロシア人が住んでいます。

独立行政法人北方問題対策協会のHPより。http://www.hoppou.go.jp/

 しかし、これらの数字は、もちろん、この59年間に単純に人口が増加したことを意味しているのではありません。
 
 話は、太平洋戦争終了時にまで遡ります。
 1945年8月、日本が無条件降伏をしたあと、ソ連は、北方領土に侵攻しました。
 色丹島上陸は、9月1日のことです。

 8月17日カムチャッカ半島のペトロパブロフスク基地を出発した第2極東軍の千島列島上陸部隊は、8月18日、千島列島最北端の占守(シムシュ)島に上陸しました。
 日本軍守備隊との間で4日間にわたる戦闘が行われ、日ソ両軍あわせて2600人の死者が出ました。
 この後、8月27日には、得撫島が占領されます。

 スターリンは、この時、北海道占領計画(釧路ー留萌を結ぶ北東側半分)を持っていましたが、トルーマン・アメリカ大統領の反対を受けるとこれを断念し、日本固有の領土である、4島への攻略を命令します。
  4島攻略は、千島列島攻略軍とは別の部隊で、サハリンを占領した第1極東軍第87軍によって行われました。
 こうして8月終わりから9月始めにかけて、択捉・国後を初めとする4島はソ連軍によって占領されたのです。
  ※斉藤勉著『スターリン秘録』(産経新聞社 2001年)P121〜130


 ロシアの行政区分を確認しておきます。
 先ず大きな区分です。
 千島列島(クリル諸島)やサハリンは、あわせて、
サハリン州に属しています。この州は、ロシアに89ある連邦構成主体のうちのひとつです。

 州の中にはいくつかの行政区があります。
 千島列島部分ですが、日本では北方4島とまとめて言いますが、ロシアの区分では異なります。
 北の占守島から択捉島までが
クリル地区という行政区で、国後島・色丹島・歯舞諸島(国境警備隊以外は居住していない)は、南クリル地区に属します。
 
南クリル地区には、1町3村があり、国後島には、古釜布(ロシア名、ユジノクリリスク町)と(とまり)(ゴロブニノ村)の1町1村があり、色丹島には、2村があります。 

 <地図の番号をクリックするとテーマにジャンプします。>

 日本が支配していた時代は、島南部の入り江にも漁村がありました。

 しかし、現在では、島の北岸に中心地をもつ
マロクリリスコエ(マロクリリスクとも表記される、日本名は斜古丹しゃこたん)とクラボザボツコエ(クラボザボーツクとも表記される、日本名穴澗あなま)の二つの村のみで構成されています。この二つの村の中心集落は、それぞれ良港をなす湾の奥にできています。

上の地図は、いつも使っている「NASAのWorld Wind」からの借用写真をもとに作成しました。
「NASAのWorld Wind」の説明はこちらです。


 色丹島では日本軍の抵抗はなく、ソ連軍が無血占領しました。
 日本人島民の中には漁船などによって密かに島から脱出する人もいましたが、多くの島民はそのまま島に残りました。
 島は、最初はソ連軍の民政下におかれましたが、やがて民政に移管されます。それとともに、ソ連領内から新しい住民が移ってきました。そして、しばらくの間、日本人との混住が行われました。

「 第二次大戦後、ソ連の占領下におかれてまもなく、シコタンにもロシアから移民が送りこまれ、ある時期、日本人とロシア人の混住の時代があった。混住といってもむろん、日本人は被占領者の不自由な立場におかれていたものの、新しい移民と旧住民とのあいだにトラブルばかりがあったわけでもなかった。当時の移民を第一世代とするならば、すでに第一世代の多くは、この島にはいなくなっている。
 シエラーチェフ村長が思案投首で考えた末に紹介してくれたのは、リールイエワさんという1933年生まれの、ルーズヴェルト夫人を思わせるような堂々たる初老のウクライナ女性だった。
 戦争未亡人となった母とともに、リールイエワさんが、はるばるこの島に渡ってきたのは1946六年の雪解けの季節、母親は漁業加工の臨時工として毎日ミガキニシンの現場で働いた。現場には日本人もいた。むろん日本人に仕事の手順を教わることの方が多かったという。斜古丹の海岸には日本人の小さな家があちこちに点在するだけの淋しい漁村で、リールイエワさん母子はナシデさんという日本人家族と隣りあわせに住んだ。ナシデさんの家にはミエ子さん、サデオさんという姉弟があって、同い年のミエ子さんとはことばは通じないものの心はすぐに通いあい、丘の上の共同墓地に出かけては野苺を摘んだセピア色の想い出がのこっている。
 戦争の勝者と敗者とか、民族差別とか、そんなものはなかった。リールイエワさん母子も父が戦死し家は焼かれ、着のみ着のまま国の募集に応じて東の果てにやってきた被災者だったのだから。隣のナシダ家に遊びに行くと、いつもごちそうしてくれた。母が島で再婚して妹が生まれたときには、日本人の産婆さんに世話になった。」

井出孫六著石川文洋写真『北方四島紀行』(桐原書店 1993年)P233−234


 1948年の秋、日本人は引き揚げました。
 ソ連閣僚会議は、1948年10月4日、「極東の水産業の発展について」という決定を下しました。4年後の1952年までに、千島列島を含むサハリン、オホーツク、カムチャツカ沿岸地域に、「自由な意志に基づいて1万8000家族を移住させる目標を設定しました。

 これを進める具体策として、移住者本人には最高2000ルーブル、同行の家族一人あたりに300ルーブルを供与することを決めました。この時代の2000ルーブルというと、当時の平均賃金の30ヶ月分という、破格の条件です。
 クリル諸島に移住する場合は、年金受給年齢の引き下げや、割増賃金などさらにいい条件が加えられたそうです。

 そして、この厚遇は、その後も続けられました。

「 80年代後半の時点で、こうした優遇として例えば色丹島の工場勤務の場合、最初の月給は大陸の2倍。以後、4年間、半年ごとに大陸の給料の10%ずつアップした。つまり、大陸で300ルーブルの月給をもらっていれば、島に移って4年たてば月給は840ルーブルになった。
教員の場合もほぼ同じで、ウクライナで月給300ルーブルをもらっていた教員は、一気に700ルーブルに上がった。
 ソ連全土から大勢の人々が西部から極東へ、そして北方領土へと移り住んだ。とりわけウクライナからの移住者は多かった。91年夏の時点で、北方領土の住民はウクライナ人4割、ロシア人3割、残りはその他という割合だった。第二次大戦で主戦場となったウクライナは、疲弊していた。北方領土へ移り住んだウクライナ人が多かった事実は、当時、ウクライナが貧しかったということを反映しているのだろう。
 彼らの多くは、一時的な金稼ぎの季節労働者か、ひと稼ぎしたら大陸へ戻り、人より早く、ゆとりある年金生活へ入る。そんな生活設計を描いていた。いわば出稼ぎである。」

岩下明裕(北海道大学スラブ研究センター)・本田良一(北海道新聞小樽支社)著「日ロ関係の新しいアプローチを求めて」(スラブ研究センター 研究報告集No15 2006年7月) P111
Topページhttp://src-h.slav.hokudai.ac.jp/ 
論文http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/coe21/publish/no15/contents.html

 
 こう書くと、人々がソ連各地から色丹島へ来たのは、経済的な理由ばかりと思えてしまいます。
 私は、そうではないと思っています。
 ナターシャやアンドレイに直接聞いたように、彼らのように1980年代に色丹島に来た、しかも大学出のインテリの人たちにとっては、色丹渡航は単なる経済的な理由ばかりではなかったと思われます。
 最早完全にソ連の「領土」となっていた色丹島は、彼らにとっては、「辺境」「自然」「日本に近い」などなど、それ以外の「魅力」がある島だったのでしょう。
 
 ともあれ、この時点では、彼らも含め北方領土に移住してきたソ連人には、ひとつ大事なことが知らされていませんでした。
 この地域が、日本との領土争いの土地であるという大事なことです。

 ソ連は、一時期、日本との領土問題は存在しないという態度でしたから、多くの人々は自分たちが移住していく北方領土が、日本との係争地であることを知りませんでした。


<斜古丹湾 マロクリリスコエ>

 斜古丹(マロクリリスコエ)湾北岸の国境警備隊基地の衛星写真。色丹島の穴澗湾、斜古丹湾は、昔から北方海域を航行していた艦船が、海が荒れた時に非難する港湾でした。
 ソ連占領後、斜古丹湾には、国境警備隊の基地が設けられました。
 このため、今でも、日本の交流船はこの港の桟橋は利用できません。| 島全体の地図へ

 斜古丹湾全体の衛星写真は、「交流記26」にあります。

上の衛星写真は、グーグル・アースよりGoogle Earthhttp://earth.google.com/)の写真を借用しました。特に断らない限り、このページの衛星写真は、グーグル・アースから借りています。


 上の衛星写真の中央下の桟橋部分を地上から撮影した写真。警備艇が停泊しています。(撮影日 02/09/20)
 写真の右手の建物がある部分は、戦前は、日本人の漁業会社の加工場や倉庫が建ち並んでいました。捕らえたくじらを引き揚げるスロープもありました。
 北方海域は、戦前はくじら漁もさかんでした。
 下は同じ斜古丹湾北岸のエリアの2006年8月の写真です。(撮影日06/08/06)
 


 上は斜古丹湾内で演習をするロシア警備艇。右手が湾の外です。(撮影日 02/09/20)

 下の2枚の写真は、2006年8月の「
海軍記念日」の演習の様子です。湾内の艦船と湾岸の警備兵との合同の訓練のようです。(撮影日06/08/05) 

 この写真を撮影したY先生のお話では、「テロ対策」の訓練で、湾岸の陸上からも軽機関銃を撃ちまくっていたそうです。どの国?どのテログループとの戦闘を想定しているのでしょうか?
 Y先生曰く、「演習が終わった後に、小学校に入学する前の子どもたちが、道に落ちた機関銃の薬莢の殻を拾っているのが印象的でした。私達も、レストランの前で拾いましたが、道にはごろごろと薬莢が落ちていて、交流でいったみなさんも拾って帰ってきました。帰りの飛行機で見つかるか心配しましたが、反応しませんでした。」  | 島全体の地図へ


 
 斜古丹湾の夕暮れ。(撮影日 02/09/20)
 この日は天気がよく、湾の外には、夕映えの向こうに
国後島の爺爺岳(ちゃちゃだけ)を見ることができました。
 すぐ向こうに島があるように見えますが、距離にして50km。連絡船で行けば、4時間以上です。


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A色丹島の戦後史 缶詰工場の盛衰 

 旧ソ連は、北方4島の島民が自活できるように、それぞれの島に軍事基地以外の就業先を建設しました。
 
 色丹島の場合はそれが、缶詰工場でした。
 ソ連最大の水産加工企業オストロブノイ缶詰工場が色丹島には4つ建設(工場の名前は、第24工場、第86工場、第96工場、第97工場。斜古丹と穴澗にそれぞれ二つずつ)され、さらには、関連の魚油・魚粉工場も建設されました。

 1980年代の最盛期には、これらの缶詰工場だけで2300名が就業し、その他軍人とその家族も含めて島には6700人が居住していました。これが色丹島史上最高の人口です。缶詰工場の繁忙期には、大陸から季節労働者が来島し、さらにたくさんの人で賑わいました。
 工場は、年間1億4000万個の缶詰を製品化して大陸へ送り、従業員の給与も十分に支払われ、また交換物資も潤沢でした。
 
 しかし、先に書いたように、2000年から現在にかけての人口は、3200人前後となっており、最盛期の半分におよびません。ソ連の解体以降、10数年で、色丹島の人口は激減してしまったのです。その原因は何でしょうか? ソ連の解体、そして自由主義経済化はこの島に何をもたらしたのでしょうか?
 
 人口減少の原因のひとつは、もちろん、缶詰工場の不振です。
 ソ連流のお役所的計画経済から自由主義経済への以降にともなって、経済の仕組み・流通の仕組みが大きく変動し、缶詰工場の打撃を与えたことはおよそ推察ができます。

 ソ連時代、色丹島の缶詰工場は、カツオ、イワシ、コンブ、メンタイなどを缶詰にして出荷していました。 しかし、計画経済から自由主義経済になると、モスクワなど市場から遠く離れた色丹島の缶詰への需要は激減し、島への物資の供給も滞りがちになりました。
 サハリンなどの企業が、大型の水産加工船を配下に置き、自前で収穫して自前で加工するという体制を取り始めたことも打撃となりました。

 このため、1992年には、生産額は最盛期の8分の1に落ち込み、給料の5ヶ月分が未払い(遅配)となる事態が生じました。
 ここで、疑問が生じます。
 交流記21・22で確認したように色丹島を含む北方水域では、当時からカニ・スケソウ・コンブ・ウニ等が豊富に獲れています。経済再生を図るなら、それを漁獲して、市場が近い日本なりに売ればいいのではないかということです。

 これについても、そうはうまくはいかないのです。
 ここにも計画経済のワナがあったのです。

 ソ連時代の色丹島の住民は、オストロブノイに雇われて缶詰をつくっていさえすれば生活が成り立っていたため、漁業に従事しようとする人はいませんでした。企業オストロブノイも、加工部門はあっても、水産部門はほとんどもっていませんでした。
 つまり、計画経済の中で、サハリンやウラジオストクの漁船が取った水産物をただ加工して缶詰にするというのだけが色丹島の役割であり、自前で漁業をするという役割をもっていなかったのです。

 そのため、島は良港を持ち、豊富な漁業資源に囲まれていても、漁業で賑わうことはできなかったのです。いや、現在もできないでいるのです。

 そして、この状況で、さらに決定的な災いが色丹島にふりかかりました。

 ひとつは、1994年の北海道東方沖地震です。この地震で特に色丹島は、穴澗(クラボザボツコエ)の学校をはじめ多くの施設が倒壊するなど、大きな被害を受けました。オストロブノイの缶詰工場も倒壊しました。(現在、斜古丹には、再建されたオストロブノイの工場がひとつあります。また、以下で説明するように、穴澗には、別の企業であるギドロストイの工場があります。)

 当時の新聞によれば、全島の90%の建物に倒壊などの被害が出たと報道されています。学校も壊れました。桟橋も被害を受けました。
 この地震災害が色丹の人口減少の決定的な要因となりました。

 1995年1月の時点で、人口はおよそ3746人になってしまいました。 

北海道庁「現在の北方領土の姿」 http://www.pref.hokkaido.lg.jp/sm/hrt/hp/genzai.htm

この項目の記述は以下の参考文献によりました。
井出孫六著石川文洋写真『北方四島紀行』(桐原書店 1993年)P235−242

 

 1994年の地震の時に倒壊した建物が、今もそのまま放置されている。
 穴澗郊外丘の上。

(撮影日 02/09/21)


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 こちらは、斜古丹湾の丘の下の廃墟。

 1994年地震当時建設途上だった斜古丹の中学校です。地震で甚大な被害を受けてそのまま放棄されてしまいした。

 背景は、上で説明した斜古丹湾西部です。
(撮影日 06/08/06)


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 倒壊した穴澗小学校の校舎。
 これは、地震直後の写真で、下に紹介したNOAAのサイトからコピーしました。


 穴澗の周囲の丘陵上で発見された地震によって生じた地割れ。
(同じくNOAAのサイトからコピーしました。)


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 地震についての写真は、日本語のサイトでは発見できませんでした。
 しかし、アメリカにはちゃんとあるんですね。立派です。しかも、写真のコピーが可能です。
 アメリカの 
NOAA(U.S.Department of Commerce の National Oceanic & Atomaspheric Administration) のNational Geophysical Data Center Shikotan, Kuril Islands Earthquake & Tsunami October 4, 1994 Set 1のページに建物の被害や地割れ等の写真があります。上の2枚はそこから引用しました。
 トップページはこちら。
http://www.noaa.gov/
 該当ページはこちら。http://www.ngdc.noaa.gov/seg/hazard/slideset/37/37_thumbs.shtml



   さらに、1990年代以降のロシア政府の北方4島のインフラ整備や生活物資の供給に対する不熱心・怠慢も、人口減少に拍車をかけました。

 ソ連解体直後の混乱期はともかく、地震後、1995年から10年間予定で「第一次クリル諸島発展計画」が立案されましたが、少なくとも色丹島へは、目に見えた有効な投資は多くはなされなかったのです。

 それどころか、本土からのディーゼル発電用の燃料さえ供給が滞り、停電が相次ぎ、暖房ままならないという時期が断続的に存在しました。不幸なことに、1998年10月には色丹島のディーゼル発電所に火災が起こり、設備の一部が被災してしまうという事件も起きてしまいました。
 結果的に、色丹島へは、1997年、1998年、1999年、2000年とたびたび人道援助による発電用燃料が供与されています。(1999年には人道支援による発電所が色丹島に完成)

 この結果、1997年1月の調査では、人口は地震直後よりさらに減少し、2338人となってしまいました。

『朝日新聞』1998年10月18日朝刊
独立行政法人北方問題対策協会のHPには、
2003年の色丹島の人口は、3251人となっています。1997年と比較すると6年間で900人ほど増加しています。この理由については、正確な分析はできていません。

 

 穴澗港の桟橋近くにある水産加工場(白い色の建物)。
 
オストロブノイの工場の倒壊の後、択捉島の企業であるギドロストイの工場が建てられました。

 港と工場の前までは舗装道路はあるが、そこから先は、写真のような砂利道。道ばたでのんびり草をはむのは放牧されている牛。牛は島のあちこちで見られます。(撮影日 02/09/21)
 穴澗(クラボザボツコエ)の衛星写真は、次ページに掲載します。


 穴澗のギドロストイ水産加工場の内部。と言っても缶詰工場ではなく、冷凍箱詰めを行う工場です。

 私が見学した2002年の時は、さんまの冷凍箱詰めをしていました。
 左下の写真では黄色い箱に箱詰め作業をしています。写真ではよく分かりませんが、箱の文字は、ロシア語と韓国語と英語と日本語で表記されていました。日本語ではただ「急速冷凍魚」とのみ書かれていましたが、英語では 
frozen saury(冷凍サンマ)でした。(撮影日02/09/20)   | 島全体の地図へ

今年の工場内部の写真です。1994年の地震の後、近代化され、装置は立派です。しかし、島全体として、往時のような生産量と雇用者数にはなっていません。むしろ、静かな工場内です。(撮影日06/08/06)
 他の方の情報によれば、操業では毎日ではなく、まとまってたくさんの魚が入荷すると操業するとのことでした。労働者は、ほとんど季節雇用だそうです。 


 2006年8月にスタートした「2015年までのクリル諸島社会経済発展計画」では、色丹島の水産業をどのようにしていくつもりなのでしょうか。
<2006年の色丹島写真>

 「草の根交流記22」から、2006年8月に撮影された写真を掲載しています。
 私が色丹島に渡ったのは、2002年9月です。2006年の写真は、私が撮影した写真ではなく、今年のビザ無し交流で岐阜県の教員として派遣された、岐阜市内のN中学校のY先生が撮影したものをお借りしているものです。
 勤務校の教頭先生が私の元同僚だったという理由だけでコンタクトをとったところ、快く貸していただけました。感謝。

 ビザ無し交流に全国の都道府県の先生が参加できるようになったのは、1999年からです。
 これまでに数人の先生が渡航されましたが、1年に1度国後・択捉・色丹の3島のどれかに行くという交流ですから、色丹島へ行く巡り合わせはそう多くはありません。
 実は、私が、岐阜県教員として色丹島へ渡った初代であり、この2006年のY先生が2代目となりました。

ビザ無し交流における各県教員団の渡航先

1999年国後島 2000年択捉島 2001年国後島 2002年色丹島 2003年択捉島 2004年国後島
2005年国後島 
2006年色丹島

 次の「草の根交流記23」と「24」では、2006年の写真をより多く使って、さらに色丹島の現状と未来を説明します。

 

 色丹島の波止場で国境警備隊の隊員と記念写真に収まったY先生です。

 私たちの2002年渡航は、9月20日と21日でした。
 その後で、教員が出席しやすいように夏休み中の渡航に変更になりました。

 2006年は8月5日(土)と6日(日)でした。
 真夏ですが、Y先生の服装も警備隊員の制服も、そんな風には見えません。特に天気が悪い時は、夏とはいえ非常に涼しいところです。

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