これは、私が2002(平成14)年9月18日(水)〜9月22日(日)に研修で出かけた北方領土色丹島の訪問記と、ついでに回った、北海道東部の旅行記です。


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L 石炭が取れたところ 北海道          02/10/16記載 05/08/27追加

 
○最後の炭坑

 2001年12月8日、中日新聞紙上に、私にとっては意外な記事が載りました。
 日本で唯一残っていた炭坑(石炭を掘る炭坑です)の閉山が決まり、2002年1月30日を最後に、日本からは炭坑が消え去ってしまうという記事です。
 
 何が意外だったのかというと、私は、地歴公民科の教員ながら、まだ日本で石炭を掘っているところが残っていたことを知らなかったからです。
 そして、その最後の炭坑が、北海道の釧路にある、太平洋炭坑であったことに2度目の驚きを感じました。
 「えっ、釧路。夕張とかではなく、釧路?」

 その後、早速電話をかけました。太平洋炭坑株式会社に。閉山の日、1月30日の少し前でした。

「すみません。岐阜の高校の社会科の教員ですが、日本で最後に掘られた石炭を少しでいいから買いたいのですが、無理なお願いでしょうか。」
「何トンぐらい。」
「いえ、何トンとか、そんなに買ったら火力発電所も作らなければなりませんから、1キロとか2キロ程度、そちらで購入できる最低単位でいいのですが。」
「えっ、1キロか2キロ?」
「はい、閉山の間際にややこしいお願いとは思いますが、その石炭は、これ以後岐阜の高校の授業で、『みんな、よく見るんだぞ。これがな、日本で掘られた最後の石炭だ。』てな具合で紹介される、由緒ある石炭になるのですが。いかがでしょうか。」
「私の一存では無理です。もし可能な場合は、連絡しますから、電話番号を教えて・・・・。」

 閉山の間際の大変な時ですから、私の冗談も、授業の意義の力説も、無駄に終わりました。それ以後太平洋炭坑株式会社からは、何の連絡もありませんでした。

 こうなったら、いかねばなりません。釧路へ。太平洋炭坑へ。

元太平洋炭坑株式会社選炭施設

ズリ山(九州ではボタ山、不純物の廃棄所)


 ○太平洋炭坑   
 1月で閉山した炭坑を、9月に行って見ることができるか?
 るるぶ北海道の釧路市のページをめくっていたら、ちゃんとあったのです。「太平洋炭坑展示館」

 説明にはこうあります。
「02年1月に閉山した太平洋炭坑、最先端の技術を駆使し、年間215万トンもの石炭を海底深くから彫り上げていた82年間の炭坑に終止符が打たれた。展示館では、実際に採掘が行われた当時の様子を、長さ80メートルの模擬坑道や機械類から知ることができる。」

 今回の旅行計画では、釧路市内は、23日の昼を中心に3時間の滞在です。
 釧路フィシャーマンズワーフ(ショッッピングとグルメ)、海産物市場など、釧路にはいろいろ見所があります。3時間では、1カ所しか行けないかもしれません。どこを優先していくか?
 こういうときは迷いません。
 釧路に行った誰もが、「よかったよ」という所に私が行く必要はありません。この私にしか、レポートできない所、そこに行くべきです。
 地歴公民科教員としての血が騒ぎます。目指すは、炭坑資料館。

 わがヴィッツ・オートマは、それとおぼしき方角・一体をぐるぐる回りました。
 ズリ山と選炭工場はすぐに分かったのですが、肝心の炭坑展示館は見つかりません。道行く人に聞いても、「さあ?」
最後の手で、客待ちしているタクシーの列の最後尾に車を止めて、運転手に聞きました。3台目の運転手がやっと教えてくれました。
「岡の上の体育館の側の、小さい建物だ。」

 体育館は、たった今、そばを通ってきたばかりです。見過ごしていました。

 ありました。ありました。岡の上の体育館の側に。写真を見てもらうと分かりますが、小さな公民館と言う感じです。
 岡の上の小さな展示館、それにはちょっとした、秘密があったのです。 

岡の上の小さな炭坑展示館

採掘された石炭の塊としては日本一の大炭塊


 ○炭坑展示館 Hさん
 地元の人もタクシー運転手もあまり知らないくらいですから、入館者が少ないのは予想されました。200円の入場券を払って入ってみると、予想以上の人のなさ。なんと、祭日の昼間というのに、入館者は私一人。1時間半いましたが、ずっと一人でした。
 おかげで、係員のHさんは、私の専属説明員と化してしまいました。Hさん、あの有名野球マンガ「重いコンダラ」じゃなくて、「思いこんだ〜ら試練の道を」の主人公と同じ名字のHさんです。

「昔の炭坑は、事故が多くて、大変でした。人が何人も死ぬ新聞沙汰になるような事故はそう頻繁ではなかったですが、機械に手足が挟まれる、落盤でちょっと生き埋めになる、そんなことは、日常茶飯事でした。一緒に働いた仲間にも、指を落とした、足の骨が折れたなんて奴は随分います。
 私は、昭和31年から引退するまで、36年間、五体満足で、幸せでした。その理由の一つは、うちの炭坑が昭和42年、世界にさきがけて確立したSD採炭方式が、画期的に安全な作業を実現してくれたからです。」
 
 その昔、石炭は、切り羽を発破(ダイナマイトの爆破)によって崩し、木や金属の支柱を人力で立てて落盤を防ぎつつ、崩した石炭をトロッコなどで、外へ運び出していました。

 地中深くで発破をかけるのですから、危険は相当なものです。また、あの有名な、1963(昭和38)年の九州の三井三池炭坑の三川鉱業所で起こった炭塵爆発のように、空気中の石炭の細かい粉末(炭塵)が爆発するという事故もありました。三井三池炭坑では、一酸化炭素中毒などで、458人もの犠牲者がでました。
  ※池上彰著『そうだったのか!日本現代史』(集英社2001年)P96
 その後、北海道の夕張炭坑でも大規模な事故が起こっています。

 SD採炭は、シールドアンドドラムカッター方式の略です。大きな鉄の構造物で採炭空間を確保し、その中で、シールドカッターが石炭を削っていくという採炭方式です。これによって、採炭量は日本一を記録します。

ドラムカッター

ドラムカッターの模型

シールド部分の模型(左)と解説写真(右) 鉄の屋根の下をカッターが削り進む


 ○合理化の限界
 「SD採炭が始まったときは、本当にこんな職場で働かせてもらっていいものかと思うくらい、安全で能率も画期的だった。しかし、日本の炭坑は、外国の炭坑に比べて、採炭コストが問題になりません。よくここまで続いたと思います。」

 太平洋炭坑は、非常に「良質」の石炭を産出していました。良質というと、昔社会が得意だった人や社会の先生は、「石炭の種類でいうと、無煙炭かな。」と想像するはずです。ところが、違います。
 ここの石炭は、無煙炭に比べると、2ランク熱カロリーが低い、亜瀝青炭です。(無煙炭、瀝青炭、亜瀝青炭の順)熱カロリーが低くて、なぜ「良質」なのかというと、理由は二つあります。
 
 無煙炭が一番いい石炭であるという印象は、実は、無煙炭が八幡製鉄所などの製鉄用には、歴史的に、必要不可欠な上質な石炭であったということから生まれています。鉄鉱石をとかすような高熱を得るには、無煙炭は不可欠です。
 ところが、昭和40年代以降、、日本国内の石炭の需要は、火力発電所のボイラー用炭としてのものでした。このボイラーには高カロリー石炭は必要ありません。高カロリー石炭はかえってボイラーを破壊してしまいます。そこで、太平洋炭坑の亜瀝青炭がちょうど良かったのです。

 もう一つの理由は、ここの石炭は硫黄分が非常に少なく、反対に、オーストラリアや中国からの輸入炭は、硫黄分が多いのです。昭和40年代になって、大気汚染防止のための規制が強化されると、太平洋炭坑産は、外国石炭に混ぜて排煙の中の硫黄分を下げるものとして重宝がられました。

 しかし、各工場が排煙から硫黄分を取る脱硫装置を完備するにつれ、太平洋炭坑産石炭の魅力も減少していきました。そして、いくら生産効率を高めても、高賃金から来るコスト高は、外国産との競争を絶望的なものにしました。

亜瀝青炭、もらってきました

青は出炭量、緑は従業員数、赤は生産効率

 ○海の下
 「オーストラリアや中国は露天掘りが多いです。大きな機械も使えるし、ディーゼルエンジンが使えます。ここは、一番深い所で、坑口から7000メートルもの所に切り羽がありました。排気ガスが出てはいけませんから、機械はすべて電動です。坑道や機械そのものの維持費、さらに保守のための人件費は、いくら合理化しても絶望的です。」
「坑道はどこにあったのですか。」
「ここからご覧なされ。この真南、海の下に、入り口から7000メートルですじゃ。」
 
 炭坑展示館のたつ小さな岡からは、真南に海岸線が広がります。坑口はその海岸線にあり、切り羽は、海の下だったのです。
 この炭坑展示館は、かつての坑道を、陸の上からすべて見渡せる位置に作られているのでした。

 「今年1月、炭坑は閉山し、1500人の従業員は全員解雇されました。但し、現在も、石炭を掘っています。」
 「えっ、閉山して会社なくなったのに??」
 「政府の方針で、外国の技術者を教育するために、研修用炭坑として、500人の規模で、海底の浅い所のみを利用して掘っています。そのための会社、釧路コールマインが設立されました。中国やベトナムやインドネシアの若者がやってきて、採炭技術を学んでいきます。
 但し、研修実施のための政府の援助も、2006年までとなっています。そのあとは、本当に誰も石炭を掘らなくなるかもしれません。」

 「じゃ、あと4年で終わりなんですね。」
 「しょうがありませんね。時代ですから。」
 そう言ったHさんの顔は、やはり寂しげだった。
 
 まもなく、日本から、炭坑が本当になくなる。 

炭坑展示館の南、丘の下に、太平洋炭坑の坑道が広がっていた。左のアパート風4階建ての建物は、炭鉱労働者の宿舎。右は、ズリ山。 

 

 【追記】 05/08/27 

釧路コールマインの従業員の方の活躍が新聞に掲載されました。
  ※『朝日新聞』2005年8月10日夕刊をを参考に、他の統計資料等も合わせて作成。
  ※NEDO(新エネルギー・産業技術開発機構石炭開発部)の「炭鉱技術海外移転事業」
    の説明はこちらです。(PDFファイルです。)
  ※以下の記事とは別に、釧路で採炭された石炭の販売の案内は、現物教材「大きな石炭」
    で紹介しています。 こちらです。   
 
 上述の文章に、釧路コールマインにベトナムの若者がやってきて、採炭技術を学んでいると書きました。
 その具体的な様子が新聞で紹介されました。

 ベトナム北部のクアンニ省マオケー炭鉱では、日本で技術を学んだ若者が働く一方、釧路コールマインから技術指導にでかけている炭鉱マンが活躍しているとのことです。
 このマオケー炭鉱は、採炭開始から50年の歴史がありますが、長く露天掘りのみで採炭しており、日本のように坑道を掘って採炭する方法は、やっと10年前にはじめたのだそうです。

 そういえば、中国でもオーストラリアでも、露天掘りの炭鉱が多く、反対に、日本の様な坑道を掘って採炭する技術は、どこにでもあるものではない貴重な技術となるのです。  


太平洋炭鉱及び釧路コールマインとベトナムの関係

時   期

事          項

1990年代

 釧路の太平洋炭鉱、ベトナムなどからの研修生の受け入れ開始。

2002年

 政府による「炭鉱技術海外移転事業」開始。(〜06年まで)
 この事業は、日本の技術を海外に普及して、海外石炭の採掘量を増やし、日本への安定供給を図ろうとするもの。
 釧路及び長崎県(池島炭鉱、2001年11月閉山)で、ベトナム・インドネシア・中国から年間230名以上の研修生が来て技術を学ぶ。

 また反対に、釧路からは、合計約30人がベトナムに技術指導にでかける。(日本全体としては、02・03・04年に、ベトナムとインドネシアへ、350人・回(延べ人数)が派遣される。

2004年

 この年のベトナム全体の出炭量、2730万トンに。2000年の1220万トンから大幅増加。この間に日本への輸出は3倍に増加。


<参考>
 2004年の我が国の石炭輸入量は、1億7982万トンです。輸入相手国別にでは、次のようになっています。

  1. オーストラリア  1億241万トン 57.0%

  2. 中国         2894万トン 16.1%

  3. インドネシア     2498万トン 13.9%

  4. ロシア         930万トン  5.2%

  5. カナダ         626万トン  3.5%

 ベトナムからは、主に無煙炭が輸入され、輸入量は、252万トン(1.4%)です。

 
 ベトナムへでかけている技術者は、坑道の掘り方から強度の維持、出水への対応、通気技術、電気関係と様々なことを教えています。
 その中で、最も力点が置かれているのは、「安全管理教育」だそうです。
 
 日本の現場と同じく「指差し確認」を教え、ガス検知を徹底するとともに、坑道内には場所や道順を示す標識を設け、事故防止と、万一の自然出火事故等の場合には、救護隊が迅速に対応できるようにしているそうです。


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