色丹島との草の根交流記21

 これは、私が2002(平成14)年9月18日(水)〜9月22日(日)に参加した北方領土色丹島訪問以来、友人となった色丹島のロシア人英語教師一家との間に続いている草の根の交流について記録したものです。


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021 悲しい事件、中間ラインと「安全操業」                               
@悲しい事件

 2006年8月20日、ナターシャからメールをもらいました。
I am very sorry for the accident near Kunashir.

 もちろん、8月16日の未明に起こった根室の漁船第31吉進丸(きっしんまる 坂下登船長以下4名乗り組み 4.9トン)の拿捕事件のことです。

 まず事件の概要です。
 この漁船は、2006年8月16日の午前0時頃、根室の花咲港を出港し、納沙布岬と北方領土の最西端の間の水域(下に写真があります)でハナサキガニを漁獲中に、ロシア国境警備艇に拿捕されました。その時、警備艇の銃撃をうけ、乗組員の盛田光広さん(35歳)が亡くなられました。

 日本とロシアが定めている中間点(ライン)を越えて、ロシアの主張する「領海内」に入ったため、銃撃をうけ拿捕されたのです。日本とロシアの取り決めで、タコやスケソウダラは中間点(ライン)を越えて「ロシア領海」に入って漁獲してもいいことになっていますが、カニ漁は許されておらず、警備艇に拿捕されてしまたわけです。

 日本政府は北方領土は日本の領土としていますが、現時点では、いうまでもなく4島はロシア政府が実効支配しています。したがって、この海域では、事実上の「領海」が存在しています。ただし、日本側は正式に「領海」とはいいません。領土、領海、国境というものは、二つの国の正式の境です。ここはあくまで日本領ですから、日本側は「中間点」という妙な言い方をします。
 私は、2002年に色丹島に行きましたが、もちろん、パスポートなどはもっていきません。自国内ですから当然です。
 そして、
この地域の外務省の扱いはというと、「見なし外国」となっています。「本来は日本の領土だが今は外国と見なされている地域」という意味です。

 漁業をしていて外国警備艇の銃撃で尊い命が失われてしまうということは我慢のならないことです。しかし、いろいろな報道を検索して読んでみると、どうも、今回の事件において「ロシア側がやり方が一方的にひどい」というわけにはいかないようです。

 9月6日付の毎日新聞モスクワ支局の杉尾直哉記者のレポート(「まいまいくらぶ 記者の目・読者の目」https://my-mai.mainichi.co.jp/mymai/modules/eye3/index.php?p=224)には、次の点が指摘されています。

  1. プーチン政権は近年、漁業資源の確保と国境警備を強化していた。この2年間では、停戦を求めて発砲した例は18件にもなる。発砲相手は日本漁船のみならず、自国船にもおよんでいる。
  2. 2005年3月には、北千島で警備艇がロシア船籍のトロール船に発砲、炎上させました。密輸の疑いにより停戦命令を出したものの無視したからとのことです。
  3. ロシア側は、最近の度重なる日本漁船の「領海侵犯」に警戒を強めていた。

 つまり、ロシアの国境警備隊というのは、日本の海上保安庁の巡視船とは違って、平気で発砲する部隊なのです。無謀な発砲を非難するとともに、 「中間ラインの存在」という現実がある以上、「疑われる行動」をしないことが、生命尊重の根本策と思われます。
 
 亡くなられた船員のご冥福を祈りつつ、事件の再発防止には、とりあえず、日本側の中間ライン遵守の厳格な姿勢が必要と感じました。


 事件の舞台となった北方領土をあらためて解説します。

 根室市が位置している納沙布岬の先端から僅か1800mの所に、北方領土で一番近い島、歯舞諸島の貝殻島があります。

 この国境の海域で、根室周辺の漁船は、カニ、スケソウダラ、タコ、コンブ、サンマ、ウニなどを捕っています。

 北方領土全体の解説は、「北海道・北方領土訪問記」をご覧ください。こちらです。
 


写真1  北海道最東端納沙布岬にある、「返せ北方領土 納沙布岬」の標識。標識の右後ろの海には日本の漁船が航行中。写真でははっきり見えませんが、標識の後には、水平線上に水晶島(すいしょうじま)、勇留島(ゆりじま)が横たわっています。(撮影日 02/09/19)


写真2 納沙布岬(のっさっぷみさき)と歯舞諸島の衛星写真です。

上の写真は、いつも使っている「NASAのWorld Wind」からの借用写真から作成しました。
「NASAのWorld Wind」の説明はこちらです。


写真3 納沙布岬から見た歯舞諸島。肉眼で見るとこんな感じです。左(北)より水晶島・貝殻島灯台、勇留島、萌茂尻島、秋勇留島。貝殻島灯台は、勇留島の手前にあります。萌茂尻島は秋勇留島の手前にあります。(撮影日 02/09/19)


写真4 納沙布岬灯台。水平線上の島は、右秋勇留島、左水晶島。秋勇留島の左半分には、萌茂尻島が重なっています。(撮影日 02/09/19)


写真5 貝殻島灯台(中央の棒のように見えるもの)と納沙布岬との間を航行する漁船。水平線上の島は、左水晶島、右勇留島。灯台と水晶島の間には、はるか離れた志発島があります。この写真ではほとんど識別できません。(撮影日 02/09/19)


写真6 貝殻島灯台をアップで撮影した写真。背景の島は、勇留島。(撮影日 02/09/19)
 この時もっていたデジカメは僅か3倍ズームで、写真4のアップが限界でした。この写真は納沙布岬の突端にある北方館(北方領土に関する資料館)の2階から、どこにでもある100円玉をいくつか入れて30秒ぐらい見ることができる望遠鏡を使って撮影しました。
 できるとは思いませんでしたが、ただ普通に、目で覗くところにレンズをあててシャッターを切ったら、うまい具合に映りました。何でもやってみるもんです。

 ところで、
貝殻島ですが、納沙布岬から僅か3.7kmと一番近いことで有名ですが、実は、島と呼べるようなものではありません。
 
広さ10平方メートル(つまり半径1.8m程の円の広さ)程のただの岩礁にしかすぎません。そこに、1937年に日本が建設した高さ17mの灯台が建っているだけです。
 したがって、上の写真2の衛星写真では識別できません。 


写真7 写真6同様にして撮影した水晶島のロシア沿岸警備隊の監視薔。(撮影日 02/09/19)


写真8 午後遅く根室港を出航した交流船コーラルホワイト号は、納沙布岬に沿って東へ航行。日没後、納沙布岬灯台を右手に見て、中間点(上の地図参照)に近づきました。納沙布岬の上には、十三夜の月がきれいに昇っていました。(撮影日 02/09/19)


 現在、納沙布岬先端の北方領土資料館である北方館には、ライブカメラが付いていて、常時、インターネットで上の風景を見ることができます。貴重なライブ映像です。
 こちらです。http://www.hoppou.go.jp/webcamera.html

 下の写真は、2006年10月14日午後1時10分頃の貝殻島灯台の映像です。
 「出典 北方領土問題対策協会」
   ※北方領土問題対策協会のサイトはこちらです。http://www.hoppou.go.jp/
 

このライブカメラは、北方館に設定してありますが、もともとの著作権等は、東京にある、「独立行政法人北方領土対策問題協会」に帰属しています。同協会のサイトのサイトポリシーについては、以下のように記載されており、通常の引用の範囲ならOKと判断しまた。

2.

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 納沙布岬で昆布漁をする漁船。
 沖合にも出漁して行く漁船が見えます。
 ソ連が北方4島を支配してから以降、この海域の漁民は、「安全操業」を悲願としてきました。
 普通、安全な操業といえば、海難事故等のない安全な操業という意味でしょうが、この海域の場合は違います。

 ずばり、ソ連船の臨検や拿捕、さらには銃撃をうけずに安全に操業することを意味しました。苦難の歴史です。


A北方領土水域の漁業−安全操業への願い

 北方領土海域での、「安全操業」について、ちょっと付け加えて説明します。

以下の記述は、次の論文やサイトを参考にしました。

岩下明裕(北海道大学スラブ研究センター)・本田良一(北海道新聞小樽支社)著「日ロ関係の新しいアプローチを求めて」(スラブ研究センター 研究報告集No15 2006年7月)
Topページhttp://src-h.slav.hokudai.ac.jp/ 
論文http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/coe21/publish/no15/contents.html

Yoshida shujiさんのHP「記憶のあるままに」の「シベリア抑留物語」(色丹島での抑留体験記)
http://www.octv.ne.jp/~sy/index.html

 もともと、日本領であった北方領土をソ連が実効支配して以来、この地域の漁業は、ソ連の警備艇との命がけの操業を余儀なくされました。

 戦後まもなくは、ソ連は、3海里(約5.8km)を領海としていましたが、それでも、貝殻島と納沙布岬との間につくられた中間ラインより歯舞諸島側や、国後島などの沿岸に近づいて、操業する漁船が多く、拿捕される船が相次ぎました。
 日本漁船が無理して入域するほど、漁場として魅力があったのです。

 日本とソ連が国交回復してのち、安全操業の確立を求めて、漁業交渉が行われました。しかし、そもそも領有権を主張する側と認めない側とでは、漁業交渉も難航しました。
 また、日本内部でもあくまで外交上の理想を貫こうとする外務省と、実利をとろうとする農林水産省と業業者の意見も対立しました。

 ソ連外務省と日本政府との交渉では妥協点は見いだせず、結局ソ連と民間唯一の漁業団体大日本水産会(会長高碕達之助)との間で、ようやく、貝殻島コンブ協定が成立したのは、1963年のことでした。

貝殻島周辺の東西5km、南北4.5kmの地域でのコンブ漁が認められる。
但し、隻数は300隻。1隻あたり12000円の採取権料を支払う。

 
 しかし、それ以降も、1977年ソ連が200海里問題で強硬姿勢にでて協定の再締結を余儀なくされたり、ソ連に情報を提供する見返りに密漁を許されるレポ船(レポート船)が出現したり、ロシアの警備艇の速度を上回る速度の漁船が現れて堂々とカニ・ウニを密漁したり(特攻船)、それに対して、ロシア国境警備隊が完全と撲滅を図ったりと、いろいろなことが起こりました。

 こうしたことを経て、1998年2月には、ロシアが側からの提案によって、画期的な協定が結ばれました。  
 ホッケ・スケソウダラ・タコ・マダラなど(カニは含まれていない)などについて、日本からロシアに資源保護協力金などを支払うことにより、制限された隻数の漁船が一定量の漁獲高まで、中間ラインを越えて「ロシア領内」にはいって操業することが認められたのです。

 この年以後、2005年11月の第78栄幸丸拿捕事件まで、7年間、「安全操業」が実現されました。

 実は、第78栄幸丸事件は協定には含まれておらず漁獲できない魚、キンキを大量に捕獲していました。この事件は、プーチン大統領訪日直前に起きており、船員が大統領離日後釈放されたことからも、ロシア側の密漁に対する断固たる姿勢の現れと考えられます。

 そして、今回の2006年8月の拿捕・銃撃事件です。
 
 領土問題であくまで筋を通すことももちろん重要ですが、協定を守るということも、また重要です。

1946年4月30日に、北方海域で初めて漁船が拿捕されて以来、2005年12月末までに拿捕された漁船の合計は、1331隻に上っています。9446人が拿捕されました。23隻の事故沈没を含む531隻がそのまま抑留されています。死亡者は30名に上っています。



 2006年8月6日、色丹島を訪問したビザ無し交流団に、マタコタンの屋外パーティーで振る舞われた、ハナサキガニ。(撮影日 06/08/06)
 カニは、ソ連・ロシアと日本の漁船が争っている主要な漁業資源のひとつです。

 ナターシャに聞いてみました。
「色丹島のロシア人は、このカニはよく食べるのかい?」
「色丹島の人はハナサキガニはあまり食べません。もう少し大きな、私たちが
カムチャッカガニと呼んでいるのを食べます。」
 
タラバガニのことでしょうか。

 札幌市場では、大きなハナサキガニのゆでたものが3500〜4000円前後ですから、これだけのハナサキガニなら、何十万ですね。お宝です。

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