これは、私が2002(平成14)年9月18日(水)〜9月22日(日)に研修で出かけた北方領土色丹島の訪問記と、ついでに回った、北海道東部の旅行記です。


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E 色丹島上陸、すごいところですここは  

○色丹島 9月20日(金)正午、南東の方向に色丹島が見えてきました。いよいよ目的地です。

 これまで何度も来ているクルーやスタッフはともかく、私も含めて、団員には、緊張感が漂います。

 なにしろ、ロシアというあまりなじみのない国へ行くのです。しかも北方領土という政治的にデリケートなところへ行くのです。かてて加えて、今年は、鈴木宗男議員の問題で、うさんくさいところと言う評判も立っているところへ行くのです。
 
 各県の事務局から来た職員は異口同音に、「今度の渡航に参加してよいかどうか、教育長に説明するのに苦労した。」と言っていました。どこの県でも事情は同じです。
 観光旅行気分でないことは、十分理解いただけると思います。

 さらに、渡航直前には、小泉首相の北朝鮮訪問があり、私なんぞは、上役から「きみ、北朝鮮問題がこじれると、ひょっとするとロシアに拉致されてしまうぞ。」と脅かされてきました。(そんなことないってば)

 北の果て、荒海、言葉の通じないロシア人、国境警備隊、拿捕・・・・・・。
 心がどんどん重くなっていきます。

 コーラルホワイト号の投錨地は色丹島の北側の穴澗湾(あなまわん)。色丹島の人口は、2002年1月現在、およそ3200人。1994年には、6400人いましたから、8年で2分の1に減ってしまったことになります。
 この原因のひとつは、これからしばしば話に出てきますが、1994年に起こった、北海道東方沖地震の被害のためです。

 大きな集落は、投錨地の穴澗(あなま、ロシア名は、クラボザボツコエフ)と斜古丹(しゃこたん、マロクリリスコエ)の二つのみです。


 穴澗湾口から、奥の穴澗を臨む。色丹島に高い山はない。一番高い山で、標高413b。 

<衛星から見た色丹島全景> 2005年7月18日追加掲載
 NASAのWorld Wind から取得した写真です。上の地図とは違って、色丹島を北側から見た写真で、写真の上が南です。
 NASAのWorld Wind については、こちらへどうぞ。

 上の写真色丹島中央部をややズームアップし、tilt(傾き)46度と、斜めから見た写真。撮影高度は、9957mです。

 右手下の奥まで海が入っている部分が下で説明している穴澗湾です。

 一番左下の入り江は、斜古丹湾です。その右が、次のページで説明している、マタコタン湾です。

 


 ○穴澗湾
 船は、穴澗湾内に入りました。山に茂る木も本土の風景とはいささか違っていて、高地の森林限界のあたりを思わせます。驚いたのは、湾内の廃船です。錆びて赤茶けた廃船が、あちこちに放置されています。
 海岸を撮影していて気が付きました。捨ててあるのは船だけではありません。海辺には、何と戦車らしきものも捨ててあります。
 
 「あれは正確には、戦車じゃなくて、自走対空機関砲だと思う。」
 えらい大きな双眼鏡で見ていた団員が言いました。

 よくわかるもんだなと思っていると、その人、広島県のK先生は、教師になる前は、なんと自衛隊員だったという、異色の存在。双眼鏡も、出で立ちも、筋金入りです。(自衛隊のスパイってか、違う違う)道理でよく御存知のはずです。
 それにしても、戦車が野ざらしとは・・・。
 団員の緊張は、不安に変わっていきます。


 湾の中にはいると、赤茶けた廃船が何隻も、海辺には戦車も   廃「戦車」拡大 

 ○穴澗港
 事務局のS氏の説明。
「本船は、桟橋には接岸しません。上陸されると分かりますが、桟橋といっても木製の怪しげなものが一つしかありません。1994年地震の前は、もっとあったのですが、壊れてしまって以後修復されていません。
 今日は桟橋に漁船等も接岸していますので、本船は沖合で停泊し、迎えのはしけで上陸してもらいます。
 また、すでに説明してありますが、色丹島にはホテルや宿泊施設はありません。宗男ハウスは国後島だけです。夜には全員もれなくはしけで本船に戻ってもらいます。乗り遅れると、その辺で野宿です。」

 脅かしているつもりはないんだろうけど、この説明に、不安はますます高まります。




 迎えに来たはしけ、実は福井県の漁船で拿捕されもの   以前に穴澗の小中学校があった所、地震で崩壊した 

 穴澗港の桟橋、木製、右側は傾いた沈船   穴澗港の沈船・廃船、これでは港と言うより船捨て場 

 ○穴澗の町
 
「大師丸」という名前の福井県船籍のはしけで上陸です。S事務局員、「こりゃ拿捕した漁船を改良したやつだな。」 
 港の古ぼけたコンテナの上には、誰が置いたか、レーニンの胸像が。恐い顔して、どこを見つめているのでしょう。ロシアの行く末?

 私たちの緊張を一挙に解消してくれたのは、島のみなさんの歓迎です。
 はしけを下りて桟橋を進むと、民族衣装を着た若い女性と子どもたちが、出迎えをしてくれました。
 子どもたちからお花を頂いて、さらに、この地の風習とかで、女性の持つお盆の上に乗っているパンを、少しずつちぎって塩をつけてかじるのです。

 初めて食べるロシアのパン、初めて話すロシア語、「ズドラーストヴァイチェ(こんにちは)」「スバスィーバ(ありがとう)」、そして初めて見る、ロシア人の笑顔です。

 子どもたちの笑顔とあたたかい出迎えは、わたしたちの心の緊張と不安を一挙にぬぐい去ってくれるものでした。(もちろん、美しいお嬢さんの笑顔は、それに数倍するものです。いわずもがなですね。(^.^))

 私たち一行の受け入れは、色丹島側は、行政府ではなくて、ビザなし交流委員会という民間組織が担当します。
 その副委員長ダネリヤ・アンドレイ・ショートビッチ氏が、今回のロシア側の主役です。

 委員会側の手配で、桟橋横の道路には、私たちを輸送するボランティアの車が並んでいます。
 もちろん、バスなどはあるはずがありません。民間人のそれぞれの車をかり集めての輸送です。
 
 島内では、富山・福井・石川・岐阜の教職員が、一つのグループを作って行動することになっていました。
 私たちは、とても恰幅の言いお兄さんの車(トヨタの4ダブ、島の車はほとんど日本車)に乗って、最初の目的地斜古丹へ出発です。

 始めから聞いてはいましたが、島の道は、ごく一部を除いては、舗装道路はありません。
 今の日本では考えられないことですが、穴澗と斜古丹を結ぶ幹線道路も、未舗装です。
 二つの町は、直線距離では10qもなく、車で15分もあれば着きます。もちろん信号などは皆無です。
  色丹島の地図へもどる

 但し、未舗装道路のため、穴ぼこのがたがたです。
 私たちの4ダブの運転手(名前を聞いたが失念してしまいました)は、カーステレオはロシアの曲ではなくて英語の曲をかけてくれるほどサービス精神旺盛で、また、運転ももたもたせずに走る走る。

 未舗装でこぼこ峠道を、砂塵も上げながら、時速70キロ以上です。
 幸い船には酔わなかった私でしたが、この15分間は、酔いそうになりました。

 斜古丹について待っていたのは、歓迎のレセプション。

 とにかく、とてもとても歓迎されて、私たちの色丹島での「時間」が始まりました。  


 港には、色丹島でもっとも新しい設備が二つある。
  ひとつは、択捉島の資本によって立てられた水産加工場、もう一つは、日本の援助によって立てられた、ディーゼル発電所。写真は水産課工場、発電所はこの建物の向こうにあります。

 水産課工場は、フル操業すると従業員100人に加えてパートタイマー320人が働ける。人口2200人の島でこれだけの施設なのだから、その占める位置の大きさは想像が付きます。最盛期には、他の島からも働きに来るそうです。
 今は、この辺の海域はサンマ漁が最盛期。冷凍にして日本や韓国向けに「輸出」します。
 発電所は、鈴木宗男さんゆかりのもので、島民の誰に聞いても喜ばれているものでした。

 穴澗と斜古丹を結ぶ色丹島最大の幹線道路、未舗装だが砂塵を上げて70q以上で走る

 斜古丹の町の港に面した「目抜き通り」、カフェ前の道路、もちろん未舗装


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