戦後期1
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最終更新日 2010年09月18日修正 ※印はこの5週間に新規掲載 
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番号 掲載月日   問                     題
1004

02/09/15
10/09/18修正

 太平洋戦争は、日本のポツダム宣言受諾によって、1945(昭和20)年8月15日に終わりました。
 ところが、この後新たに日本軍が戦いを始めなければならなかった島があります。どこの島でしょうか?

1001

01/04/29

 第二次世界大戦終了後(日本の降伏後)、旧満州国にいた多くの日本軍将兵がソ連軍の捕虜となり、最長10年以上及ぶ抑留生活を送りました。スターリンは当初満州の日本軍将兵をこのように扱うつもりはなかったのですが、ある他の計画が挫折したため、その代償として、この措置が取られました。その計画とは何ですか。

1006

02/11/03

 1945年9月2日、東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリの上では、連合国9カ国の代表と日本政府の代表による、降伏文書調印式が行われました。この時、甲板上には、特別な意味を込めて二つのアメリカ国旗が掲げられていました。その二つの国旗とは何でしょうか。

1002

01/11/25

右のはてな印をクリックしてください。昭和21年2月に発行された10円札のデザインです。この紙幣は、戦争に負けた直後の占領期に発行されたという理由から、そのデザインについていろいろいわれのない非難を受けました。どんな内容だったでしょうか。 10ensatu.jpg',424,242,424,242

1005

02/10/19

 太平洋戦争が終結(1945年)して2年目の冬、つまり、1946年末から47年初頭にかけて、日本経済は最悪の状況を続けていました。旧植民地からの帰還や戦地からの復員によって本土人口が急増する中、鉱工業生産は回復せず、人々は物資不足と飢えと寒さの中で、悲惨な状況にありました。
 この時、政府によって、復興のための政策が開始されます。政府は、人々に希望を与えようと、あるものの生産量の増加の度合いを、銀座に掲示させました。少しでも多くの人に安心感と希望を与えようという作戦でした。さて、その生産量とは、何の生産量でしょうか。

1003

02/03/10

 戦後日本のインフレは、いろいろな施策にもかかわらず、1948(昭和23)年中も一段と悪化しました。このため、GHQのマッカーサーは、この年末から、本格的なインフレ抑制にかかります。それが、1948年12月の経済安定9原則の指令であり、翌年、本国から呼ばれて来日した銀行家ドッジによる、ドッジラインの発表です。
 この荒療治の結果、インフレは、1949(昭和24)年中には急速に収まっていきます。
 この時、当時の吉田内閣の大蔵大臣池田勇人は、ある会議でドッジに報告をします。
「インフレの最悪の時期は終わりました。今朝、東京警視庁の総監から報告が入ったのです。」ドッジは怪訝な顔で聞き返しました。
「警視庁に何故そんなことがわかる。」当然です。警視庁は、経済の状況を調べる役所ではありません。池田は、得意げに次のように答えました。
「警視総監がいうには、東京では、この数年来では、久しぶりに、泥棒が○○・・・・○○なったからです。」さて、泥棒とインフレが収まった証拠と、どう関係があるのでしょうか。ほとんどギャグの世界です。

1007

04/10/31

 次の2つの?印をクリックしてください。それぞれ写真が登場します。この2枚の写真から語る、戦後史といったら何でしょうか?     その1n11-7fish_picture_quwstion_editon.jpg',512,384,512,384  その2n11-7bottle_of_ash.jpg',512,384,512,384


<解説編>

1001 シベリア抑留を促したある計画の挫折とは何か。                | 戦後期の問題TOPへ |

 正解は、ソ連軍による北海道占領計画です。
 スターリンは、第二次大戦が進む過程で英米から再三懇請があった「対日宣戦」を、対ドイツ戦争で手一杯であるという理由から拒否し続けてきました。
 1945年2月のヤルタ会談に臨む際においても、アメリカ大統領ルーズベルトは、対日戦争開始のためのスターリンと条件交渉を会談の重要な目的と考えていました。この時点では、アメリカの原爆開発はまだいつ完成というめどは立っておらず、このままでは少なくとも1947年までは続くと見られていた対日戦争をもっと早く終わらせるためには、ソ連の対日参戦は不可欠の要素であったからです。
 
 ヤルタ会談の場でスターリンは、「対日宣戦」の理由として、「帝政ロシア時代にロシアが持っていたものの復活」を掲げ、ルーズベルト・チャーチルに承認させます。つまり、対日参戦を行う代わりに、南樺太の返還、千島列島のソ連への引き渡し、中国本土における利権の復活を認めさせ、さらに軍事的な援助も約束させました。すべてスターリンの思惑通りです。
 スターリンにとって満点の交渉ができた背景として、小児麻痺が進んで弱気になっていたルーズベルトが、正常な判断をできなかったという説があります。事実、会談の2ヶ月後、彼は在職中に病死します。

 1945年5月にドイツは降伏しますが、この直後から、ヨーロッパ戦線の物資・兵員がシベリア鉄道によって大量に極東に運ばれます。当初、スターリンの命じた日本攻撃の日は、8月11日でした。
 
 1945年7月16日、アメリカはニューメキシコ州の砂漠で、原子爆弾の爆発実験に成功します。その知らせが、ポツダム宣言に臨む直前のスターリンのもとに届くと、彼は、極東ソ連軍の総司令官に無茶な電話をかけます。「対日参戦を10日早くしろ」と。
 彼は、トルーマン(ルーズベルトの副大統領。彼の死により大統領に就任。)新大統領が原爆投下を早く決断した場合、日本の降伏が早まり、ソ連が獲物を捕らえることができなくなってしまうことを危惧したのです。
 この時になって、急に10日の予定繰り上げはできませんでしたが、結果的には、予定より2日早い8月9日にソ連軍は満州国へなだれ込むことになります。

 対日戦争の開始に当たって、ソ連が望んだものは、単に「帝政ロシアの持っていたもの」だけではありませんでした。
 ソ連軍は、満州国から資源や工場などの設備、日本人の財産など根こそぎ奪い去ります。そしてもう一つ、ソ連の欲しかったものに労働力がありました。スターリンはそれを当初、北海道の占領によって獲得しようとしていたのです。

 ところが、ソ連の要求に対して、8月18日アメリカ大統領トルーマンからはこれを拒否する書簡が届きます。
スターリンは、8月22日北海道侵攻計画を断念。翌23日、それまで計画になかった「日本人将兵のシベリア連行」を命令します。
 ポツダム宣言第9条には、日本軍が武装解除された後には祖国に帰還させることが明記されており、スターリンのシベリア抑留命令は明らかに国際法違反でした。
 しかし、日本人抑留者たちは、1920年代に出現して膨張を続けているソ連国内の「収容所群島」のただ中に巻き込まれ、「ただ働きの囚人」として過酷な自然環境と強制労働のもと、ソ連の戦後復興へ、血と汗で貢献させられることになります。
 ※斉藤勉『スターリン秘録』(2001年産経新聞社)

 厚生省の調査では、シベリアへ送られた将兵は、56万2800人。さらに、官吏・技術者・警察官などが1万1730人。
 合計57万4530人のうち、無事帰還したものは47万2942人、つまり、10万人以上がシベリアの地に朽ち果てたことになります。

 ソ満国境を警備していた関東軍は、ソ連侵攻の時点では、将兵の熟練度・装備ともにソ連軍の敵ではなく、一部部隊の国境での奮戦以外は、満州各地に生活する日本人を見捨て、満州の大半を放棄して、南満州に退却しました。これはこの時点での関東軍の既定の作戦でした。
 
 この結果、ソ連開戦時満州にいた在留日本人約150万人は、将兵とは別の意味で、悲劇的な体験を味うことになります。逃避行の中での家族との離散、飢えと病気、侵攻してきたソ連軍将兵による略奪・暴行・・・。その結果、その1割以上の17万6千人余が故国に帰れぬまま、満州の荒野で亡くなりました。
  ※半藤一利『ソ連が満州に侵攻した夏』 (1999年文藝春秋)
  ※歴史学研究会編集『日本同時代史@敗戦と占領』 (1990年青木書店)
 
 京都府の日本海沿岸の港湾都市舞鶴は、戦後、大陸からの引き揚げ者の上陸港のひとつとなりました。大昔のヒット歌謡「岸壁の母」の舞台となったところです。

 現在は舞鶴市によって
舞鶴引揚記念館が設立されていて、抑留・引き揚げ関係の資料が展示されています。
  ※舞鶴引揚記念館ttp://sun1.maizuru-ct.ac.jp/civil/takatani/Hikiage.htm

  ※私の父の話が「My Diary学校・役所雑感」 にあります。   
  ※また舞鶴と引揚記念館については、「若狭・丹後・但馬旅行2 舞鶴」へ
 目から鱗「昭和時代前半の日本は何だったのか」へ

 ソ連の戦車T34型。ドイツとの「祖国防衛戦争」を勝ち抜いた第二次世界大戦中の主力戦車。主砲口径76.2mm。最大装甲70.0mm。
 ソ満国境を突破した極東ソ連軍の主力もこの戦車だった。
 田宮模型1/35スケール。
 歩兵付き組み立てセット2,600円(送料390円) 
http://www.tamiya.com/japan/j-home.htm

 太平洋戦争中の日本の主力戦車97式中戦車。
  ※田宮模型1/35スケール
 資源の乏しい日本では、対戦車戦用の本格的な重戦車を作る余裕はなく、この戦車も歩兵の戦闘支援用として生産された。主砲口径57mm、最大装甲25mmでは、アメリカやソ連の戦車とは戦うことはできず、「鉄の棺桶」でしかなかった。
 作家の故司馬遼太郎氏が小隊長を務めていた陸軍戦車第一連隊は、1945年の春まで満州東部の牡丹江に駐屯していた。虎の子の戦車を温存しようと言う陸軍の「戦略」で、部隊ごと本土移動を命じられ、対ソ戦で絶望的な戦闘を経験しなくとも済んだ。
 ※週刊朝日増刊『司馬遼太郎が語る日本』
   (1997年朝日新聞社) 


1002 新10円札のデザインに対する不当な非難とは?              | 戦後期の問題TOPへ |

 この10円札は、昭和21年2月に新円切り替えに伴って発行された新10円札です。

表面


表面の左側国会議事堂の前庭部分の拡大図

 凸版印刷が画家の相沢光朗氏に依頼したデザインをもとに作成されましたが、できた当時からいろいろな非難が巻き起こり、1952(昭和27)年には、国会でも問題となりました。その内容は次の6点です。

  1. 表の全体のデザインは、左側が「米」、右側が「国」と読めることから、これは「米国」(アメリカ)の二文字を図案化したものではないか。

  2. 表の左側の国会議事堂の前の部分には、戦艦大和が炎上しているようにみえる部分がある。

  3. 表の左側の国会議事堂の窓には13の十字架が描かれており、これは、絞首刑になった人物を暗示している。

  4. 表の右側の左下には、鉄棒をかぶったMP(アメリカ軍のミリタリーポリス)がいて、上の菊の紋章を監視しているように見える。

  5. 表の右側のデザインは、菊の御紋賞を鎖でつないでいるようにみえる。

  6. 裏には48の細かい絵が描かれているが、これはアメリカの48州を表しているのではないか。(アメリカは当時は48州)

 デザインした相沢氏はそんなつまりは全くないといっていますから、見る側がかってにそう思った言われない非難です。
 これも、アメリカに敗北し占領を受けているという屈辱感がなせる行為でした。
 
 それにしても、大和炎上やMPは、ほとんどオカルトの世界です。しかし、本当にそうも見えませんか?

 ところで、この新円切り替えというのは、戦後直後に発生したインフレーションに対応するものです。
 このインフレは、敗戦によって軍事物資の生産は終わったものの、旧日本軍将兵の復員のための臨時軍事費が増加したこと、妙なことに軍需工場への生産打ち切り補償金の支払が多額になったこと、そして決定的には、これまで戦争遂行協力のため、必死に銀行貯金や公債購入によって国に協力してきた国民が、預金の引き出し等を行ったため、一気に多くのお金が市場にでていってしまったために起こりました。
 日銀券の発行高は次のように推移しています。

  • 1945. 8  302億円

  • 1945.12  554億円

  • 1946.12 933億円

  • 1947.12 2191億円

 政府は、1946(昭和21)年金融緊急措置令を発表して、国民の預金を封鎖し、銀行等から引き出せる金額を制限するという荒療治を実施しました。この時は、日銀券発行高は、1946年2月の614億円から、4月末の281億円と、一次的には減少し、インフレは収束に向かうかと思われました。
 しかし、各種の例外措置が認められていたことや、封鎖預金をもとにする小切手の流通が活発化したことなどにより、再びインフレが始まりました。
 このインフレが収束するのは、教科書にあるように、1949(昭和24)年にアメリカの公使ドッジが発表したいわゆるドッジラインの断行待たなければなりませんでした。
 ※斉藤精一郎著『ゼミナール現代金融入門』(日本経済新聞社1988年)P303
 


1003 なぜ、警視総監がインフレの抑制の効果を報告できたのか。             | 戦後期の問題TOPへ |


正解は、「警視総監がいうには、東京では、この数年来では、久しぶりに、泥棒が金を盗むようになったから」です。
インフレが激しい時は、お金の価値がどんどん下がっていきますから、泥棒はお金は盗んでも、苦労の割りには、それが報われません。インフレの時は、貴金属・資材・食糧など、現物が盗難にあったのです。それが、インフレが収まったので、泥棒が金を盗むようになったというのです。
 これは、ほとんど冗談ぽい話で、実際にそういうことがあったのか、確証はありません。しかし、話としては面白いものです。    
  ※出典はデイビッド・ハルバースタム著高橋伯夫訳『覇者の驕り 自動車・男たちの産業史 上巻』
    (1987年日本放送出版協会)P182

 もともと、GHQのマッカーサー自身は、保守的な思想の持ち主でした。しかし、当初のGHQの経済政策担当者は、ニューディ^ラーと呼ばれる一群の革新的官僚が占めており、財閥の徹底的な解体、農地改革など、その改革は、非常にドラスチックなものでした。
そのため、日本の経済体制は極めて民主化の方向に進みつつあり、経済そのものは、インフレの中で、自立の見通しが立たない状況が続いていました。

 その政策を転換する立て役者がウィリアム・ドレーパーでした。
 彼は、占領下の西ドイツにおいて経済民主化の急激な改革に終止符を打って、新しいプログラムすなわち、ドイツ産業の強化自立のプランを始めた人物でした。 彼は、日本でも全く同じ役目を期待されていました。

 47年・48年に来日し、日本経済の動きを把握したドレーパーは、日本経済自立のための荒療治に着手します。
 1948年12月、ドレーパーの意を受けたワシントンからGHQのマッカーサーに対して、「経済安定9原則」を日本で実施するよう指令が飛びます。
総予算の均衡・徴税計画の促進強化・信用の拡張の厳重な制限・賃金の安定・物価の統制などを示したものでした。

 そして、この方針を着実に実行させる人物としてドレーパーが選んで日本へ送り込んだのが、
デトロイト銀行頭取ジョセフ・ドッジでした。
 
 ドッジは、デトロイトで自動車のディーラーの支配人として成功したあと、世界恐慌では失業の憂き目を見ましたが、再びデトロイト銀行に入行して出世し、頭取となったいう立志伝中の人でした。
  彼も戦後直ちに西ドイツに派遣されて通貨改革に着手し、西ドイツの「奇跡の復興」の土台を築くことに成功しています。

 1948年12月突然トルーマン大統領に呼ばれたドッジは、日本経済復興の特命を受けて、1949年2月日本へやってきます。
 1ヶ月の間日本の経済の現状を再確認したあと、1949年3月、日本政府に対する財政金融施策の全容を示し、その実施を迫ります。これがいわゆる、
ドッジ=ラインです。

  1. 一般会計のみならす特別会計も含めた総予算の均衡(これにより民間への資金流出を完全にとめる)

  2. あらゆる補助金の全廃

  3. インフレーションの源泉と目された復興金融公庫の新規貸し出しの全面的停止

 ドッジ来日の直前の49年1月、総選挙によって民主自由党が勝利し、吉田茂内閣が成立していました。この大蔵大臣が池田勇人です。吉田や池田や、選挙公約であった減税などの実現を懇請しますが、ドッジはこれらの要求を一切認めず、昭和24年度予算は、ドッジのねらい通り、超均衡予算をとなりました。

 ドッジ=ラインによってインフレは収束して物価は安定しました。しかし、不況は深刻化し中小企業の倒産は増大します。これに行政や企業の人員整理が重なって、街には失業者が溢れます。人員整理の強行には、共産党や社会党およびそれらに指導された労働者勢力の猛烈な反対が巻き起こります。そんな中で、下山事件・三鷹事件・松川事件など、左翼勢力に嫌疑がかかる事件が続発し、世情は騒然となります。

 それを経済的に救ったのが、1950年6月に始まった朝鮮戦争です。
  ※中村隆秀著『昭和史U』
 (東洋経済新報社1993年)P426−427
 


1004 1945年終戦後、新たな戦いが始まった島はどこか?             | 戦後期の問題TOPへ |

 正解、戦いが始まった場所は、千島列島、もちろんソ連軍との戦いでした。
 ソ連は、日ソ中立条約を破って、8月8日に宣戦布告し、翌9日にはソ連軍戦車部隊が、満州国国境を突破、満州での悲劇が始まります。
 クイズ「シベリア抑留を促したある計画の挫折とは」参照

 8月14日、日本のポツダム宣言受諾を聞いた
スターリンは、あまりにも早い戦争の終結を危惧して、8月15日、極東軍総司令官アレクサンドル・ワシレフスキー元帥に、クリル諸島(千島列島)占領を命じました。
 ソ連がせっかく170万もの大軍を持って対日戦争を開始したのに、予定の領土を占領してしまう前に、日本が降伏してしまうことを恐れたのです。
 これは、日本が8月15日正午に全軍に戦争終結を発表(いわゆる玉音放送)した、3時間後でした。



 スターリンは、自らの命令を正当化するため、8月16日付けソ連共産党機関誌プラウダに次のように発表させました。
「天皇が行った降伏の発表は単なる宣言に過ぎない。日本軍による軍事行動停止命令は出されていない。天皇が軍事行動停止を命じ、日本軍が武器を置いた時にのみ降伏と見なされる。したがって極東のソ連軍は対日攻撃作戦を続行する。」

 この命令は、満州や樺太では戦闘の「続行」でしたが、千島列島では、全く新しい軍事行動の開始を意味しました。

 8月17日カムチャッカ半島のペトロパブロフスク基地を出発した第2極東方面軍の千島列島上陸部隊は、8月18日、まず千
島列島最北端の占守(シュムシュ)島に上陸しました。
 日本軍守備隊との間で4日間にわたる熾烈な戦闘が行われ、死傷者は
日本軍1018名ソ連軍1567名のあわせて約2600人でした。この島と隣の幌筵島(ぱらむしる)には、訓練を重ねていた第91師団(本部は幌筵島)や第11戦車連隊など、総兵力23,000名の精鋭部隊がおり、戦車も持たず上陸してきたソ連軍はかえって大きな犠牲を強いられました。
 この後、得撫島が占領されるのが、8月28日です。

 スターリンは、これより先の8月16日に、アメリカのトルーマン大統領に対して、それまでには要求してこなかった参戦条件としてかねてから計画していた
北海道占領(釧路ー留萌を結ぶ北東側半分)を要求しました。
 ところが、8月18日、トルーマン大統領から反対の書簡を受け取ると、しばらく間を置いてこれを断念し、8月22日に北海道占領作戦の中止命令を出します。
 その代わりに日本固有の領土である北方4島への攻略を命令します。
 択捉(エトロフ)島へは8月28日に、国後(くなしり)島へは8月31日に、そして色丹島へは9月1日にソ連軍が上陸しました。
 そして、9月2日には東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で降服調印式が行われましたが、その翌翌日の9月4日に歯舞諸島にソ連軍が上陸しました。
 4島攻略は、千島列島攻略軍とは別の部隊で、サハリンを占領した第1極東軍第87軍によって行われました。
 こうして8月終わりから9月始めにかけて、択捉・国後を初めとする4島はソ連軍によって占領されたのです。
  ※斉藤勉著『スターリン秘録』(産経新聞社 2001年)P121〜130
  ※外務省広報課発行『われらの北方領土2001年版資料編』
 
 最近、占守島の戦いについて、数冊の本を読みました。
 1  浅田次郎著『終わらざる夏』上・下 (集英社 2010年)
 2  中山隆志著『一九四五年夏最後の日ソ線』(国書刊行会1995年)
 3  大野芳著『8月17日、ソ連軍上陸す 最果ての要衝・占守島攻防記』(新潮社 2008年)
 4  池上司著『八月十五日の開戦』(角川書店 2004年) 

 これらについては、日記・雑感「すごい小説です、浅田次郎著『終わらざる夏』」で紹介します。(→こちらです)
 また、北方領土探検記はこちら→です。


1005 1946年末から銀座に掲示されたのは、何の生産量?            | 戦後期の問題TOPへ |

 以下は、45年から46年へかけての日本経済の状況です。

  

食糧生産

鉱工業生産

1945年後半

夏の冷害、秋の風水害、戦時中の肥料投入不足から、この年の米の生産量は、1909(明治42)年以来の大凶作となる。
(平年作の約60%)
旧陸海軍の貯蔵食糧をはたいて食いつなぐ。

45年9月の鉱工業生産は1935年の僅か10分の1程度まで減少。

1946年前半

主食配給量は2合1勺(297グラム、但し米麦以外、イモ、大豆も含む)と決められていた。(これは、カロリーで計算すると、戦前の水準の半分)ところがこれさえも不十分で、遅配(配給遅れ)・欠配(配給の中止)が相次いだ。
コメよこせデモが各地で頻発。
アメリカ、日本への食糧緊急輸入援助を実施。

工業原材料の輸入は全くできなかったため、戦時中から国内に備蓄されていた原材料を消費財生産につぎ込む。この結果、工業生産は徐々に回復し、戦前の4分の1程度にまで回復。

1946年後半

46年産米の収穫により、最悪の状況はかろうじて脱出。


国内備蓄の原材料が枯渇し、また夏の小雨によって水力発電量も減少。生産量は次第に減少し、このままでは、再び縮小生産の泥沼にはまるという最悪の局面を迎える状況となる。


 この状況下で、吉田茂首相(第一次吉田内閣、46年5月〜47年5月)は、経済政策のブレーン東大教授有沢広巳らが提案した生産復興計画の実現化を図ります。
 それが、教科書に出てくる「傾斜生産方式」です。
 その概略を示すと、以下のようになります。
〔@〕の輸入 〔A〕産業へ投入して増産 生産物を〔B〕産業へ優先して投入して増産
〔A〕への優先的投入



 つまり、@の輸入が、AとBの増産のサイクルをつくり、日本の生産全体を復興させようということです。
 表のAは鉄鋼、Bは石炭です。
 そのための鍵は、GHQのマッカーサーが、@、すなわち重油の輸入を許可するかどうかでした。

 吉田首相のマッカーサー宛の書簡には、次のように書かれています。
「食糧の緊急輸入援助によって日本国民は餓死から免れることができたが、日本経済の大きな問題は、鉄鋼その他基礎資材の生産が最低線へと落ち込み、過去のストックを食いつぶす縮小再生産の過程に入っていいることである。例えば鉄道にしても一応運転はしているものの、レールその他資材は次第に枯渇し、設備の補修も十分に行えず、このため鉄道事故は頻発している。このままに放置すれば、やがて日本経済全体の活動も麻痺することになるであろう。このような事態を避けるためには、鉄鋼、石炭その他基礎資材の増産に努力しなければならない。しかしながら、現状は石炭の増産には鋼材(炭坑の落盤防止に鋼材は絶対不可欠)が必要であり、鋼材の増産には石炭を必要とするという悪循環におちいっている。このさい、とりあえず重油の輸入を司令部が可能としてくれるならば、これを鉄鋼の増産にもちいることによって、日本経済の縮小再生産への悪循環を断ちきることが可能である。」
  ※内野達郎著『日曜日の戦後日本経済読本』(日本経済新聞社 1983年)P31〜32

 この時代のエネルギーの元は、今の石油や原子力ではなく、石炭です。
 ところが、その石炭産業は、戦時中に年産5000万トンを超えていたにもかかわらず、戦後、強制労働させられていた朝鮮人や中国人が引き揚げたあと急速に落ち込み、2250万トン強にまでなってしまっていました。

 石炭の需要先として最優先されたのは、もちろん、占領軍の燃料用です。その次が鉄道用でしたが、その鉄道用炭までも時には不足する有様でした。産業用の優先度はその次であり、石炭不足のため製鉄所の溶鉱炉の火も、落とさなければない状況となっていました。
  ※中村隆秀著『昭和史U』(1993年東洋経済新報社)P424
 もちろん家庭用のコークス・石炭は優先度はさらに低く、冬の暖房の確保は、非常に難しい状況でした。

 傾斜生産方式は、重油の輸入を認めてもらうことによって、この悪循環を一挙に改善する起死回生の作戦でした。

 1946年12月、GHQから製鉄用重油2万トンの輸入が許可され、47年度の石炭生産目標3000万トンが掲げられました。

 クイズの正解を忘れていました。正解、銀座に示されたのは、石炭の生産量です。
 エネルギー資源ですから、庶民には、経済が根幹から良くなる、寒い冬が暖かくなると言う希望を与えるものでした。

 結果的に、47年度この目標はほぼ達成され、産業用石炭の供給は前年度比46%増となりました。これらは、優先して、鉄鋼と化学肥料の増産に向けられました。このため、その他の要素も働いて、銑鉄の生産量は100%増となり、鋼材は、また、石炭増産の資材として投入され、傾斜生産方式は、日本経済の再生を促しました。


 2002年日本最後の炭坑の閉山については、旅行記参照


1006 1945年9月2日戦艦ミズーリ艦上の二つのアメリカ国旗とは?           | 戦後期の問題TOPへ |

 1945年8月15日正午、天皇の玉音放送によって、日本政府は全国民にポツダム宣言の受諾と敗戦を知らせました。
 ※ポツダム宣言は、いくつかのサイトからダウンロードできます。そのひとつは、これです。
   但し、その著作権とかについては、責任は負えません。
   
 この時フィリピンのマニラにいたアメリカ太平洋方面陸軍(極東軍)総司令官ダグラス・マッカーサー元帥は、トルーマン大統領により、日本を占領支配するための連合国軍最高司令官に任命されました。
 翌8月16日、大本営は全陸海軍部隊に対して、戦闘行動の即時停止を命じました。しかし、実際には、各地で戦闘が続けられ、千島列島に様に、新しく始まった所もありました。(千島列島での戦闘は、クイズ1004参照
 
 一方、マッカーサー司令官は、同じく16日に特使をフィリピンに派遣するよう東京に命令しました。この結果、陸軍参謀次長河辺虎四郎中将らがマニラに向かいました。19日、マニラで、占領軍司令部サザーランド参謀長が日本側特使と会見し、首都東京に近い海軍の有力な航空基地、神奈川県厚木基地(現在は航空自衛隊基地)への進駐を強く求めました。

 この時点で、厚木基地の海軍基地司令官は、玉音放送が偽物であるとして、「徹底抗戦」を呼びかけている不穏な情勢でしたが、アメリカ側の強い要求で、日本側はこれを認めます。

 かくして、8月28日、150名のアメリカ陸軍先遣隊が厚木基地に到着。
 8月30日には、アメリカ軍本隊が進駐しました。朝から輸送機が3分ごとに着陸し、その最後に、愛機C54バターン号に乗った、マッカーサー司令官が到着しました。教科書にもあるあの有名な写真の格好、武器も持たず、右手にコーンパイプを持つという勝者の余裕を最大限見せつけるポーズでの到着でした。

 そして、9月2日、降伏文書調印式が行われます。
 マッカーサーは、調印式を当初皇居でやりたかったということでしたが、戦艦ミズーリ艦上に変更されました。その理由は次の3点と想像されます。
 ※神田文人著『昭和の歴史G占領地民主主義』(小学館1983年)P58

  1. 海上は日本の好戦分子の妨害から安全であること。

  2. 戦艦ミズーリがトルーマン大統領の出身地ミズーリ州に因んだ軍艦で、その命名者が大統領の娘であるということから、政治的なショーとしての意味を含ませることができること。

  3. あまり知られていない最も重要な要因として、太平洋戦線で日本軍撃退の主役であった「海軍」に「花を持たせる」ことが必要であったこと。

 ミズーリ艦上では、日本政府の代表として、重光葵外務大臣、梅津美治郎参謀総長が参加し、降伏文書には、両日本代表と、マッカーサー(連合国代表)、アメリカ・イギリス・中国・ソ連の4国他、オーストラリア・ニュージーランド・カナダ・オランダ・フランスの合計9カ国の代表が署名して、調印式を終わりました。

 その瞬間には、東京湾上をB29爆撃機400機、航空母艦積載の艦載機1500機が飛翔し、日本を敗戦へ追いやったアメリカ軍の威力が、これでもかと誇示されました。

 
正解。戦艦ミズーリ艦上には調印式を「盛り上げる」ために、二つのアメリカ国旗が飾られていました。

  1. 一つは、1854年ペリーが2度目に来日し、日米和親条約の締結に成功した時の旗艦ポーハタン号に翻っていた星が31個の星条旗です。その後、これは記念品として、メリーランド州アナポリス(首都ワシントンの50qほど東。チェサピーク湾に面する。)のアメリカ海軍士官学校(1845年開校)に展示されていましたが、この時、わざわざこの式典のために飛行機で急送されました。
    なお、ペリーは、1853年の初来航の時は、旗艦はサスケハナ号、54年の条約締結時は、ポーハタン号を旗艦としました。(星31個の星条旗については、こちらを参照

  2. もうひとつは、1941年12月7日、真珠湾が攻撃されたときホワイト・ハウスに翻っていた、星が48個の星条旗です。(この時代は、ハワイとアラスカはまだ州に昇格していない。)

 ペリー時代の星条旗が飾られたことについて、ピューリッツアー賞を受賞したジョン・ダワーは次のように、その意味を表現しています。
「1853年、石炭燃料で煙を出す「黒船」と帆船からなるペリーの小さな艦隊が現れた。これが、血で血を洗う西側列強との世界的規模の競争へと日本を駆り立てるきっかけとなった。そして今や百年の光陰を経て、ペリーがそう想像だにしなかったであろう科学技術と科学立国を象徴する巨大な海軍、陸軍、そして空軍をたずさえて、アメリカ人たちは帰ってきたのであった。ペリーの古めかしい旗を、日本人への叱責のようにはためかせながら。」
 ※ジョン・ダワー著『敗北を抱きしめて 上第二次大戦後の日本人』(2001年岩波書店)P32 

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