色丹島との草の根交流記26

 これは、私が2002(平成14)年9月18日(水)〜9月22日(日)に参加した北方領土色丹島訪問以来、友人となった色丹島のロシア人英語教師一家との間に続いている草の根の交流について記録したものです。


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026 2006年の色丹島状勢5 エピソード2                              

 2006年の色丹島状勢シリーズその5は、その4に引き続いて、今年の8月に色丹島を訪問した岐阜市立N中学校のY先生の写真を中心に、色丹島のエピソード2をお届けします。

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上の地図は、いつも使っている「NASAのWorld Wind」からの借用写真をもとに作成しました。
NASAのWorld Wind」の説明はこちらです。


@斜古丹「湾岸通り」と丘の上                       島全体の地図へ

 2002年9月に私が訪問した時と、今年、2006年8月にY先生が訪問した時と、島の風景はずいぶん違ったのでしょうか?
 日本なら、4年もたてば、コンビニ、料理店、ラーメン屋、喫茶店、本屋などが、できたりつぶれたり、めまぐるしく変わりますが、色丹島はそんな大きな変化はありません。


 斜古丹湾の湾岸沿いの「目抜き通り」の写真です。
 通りの名前は、
ソヴィエツカヤ通りです。
 
上は、私が撮影した2002年9月の様子。下は、Y先生が撮影した、2006年8月の様子です。
 舗装されていない道路も、 建物も、大きな変化はないようです。

 しかし、よく見ると、2006年の方の、自動車が止まっている右手には、レストランのような新しい店舗が建っています。
 道沿いに駐車してある自動車は、交流団に参加した日本人を送迎してくれたロシア人の車です。


<斜古丹湾と斜古丹の町の衛星写真>              |島全体の地図へ|

 斜古丹(マロクリリスコエ)の中心部の衛星写真です。
 写真上方が
斜古丹山(交流記25で紹介)のある方角。
 写真左下がマタコタンを経て穴澗へ向かう道路です。

  @国境警備隊の桟橋
  Aロシア正教会のある小高い丘
  B湾岸沿いのメインストリート「ソヴィエツカヤ通り」
  Cロマーシカ(ラマーショカ)幼稚園、小中学校
  D斜古丹日本人墓地

  Eバレーコート、サッカーコート

上の衛星写真は、グーグル・アースよりGoogle Earth http://earth.google.com/)の写真を借用しました。特に断らない限り、このページの衛星写真は、グーグル・アースから借りています。


 斜古丹湾岸「目抜き通り」を上の写真とは反対に南側を撮影したもの。撮影者は私です。(撮影日 02/09/21)


 丘の上のバレーコートです。Y先生撮影。
 ネットが張ってありますが、板張りです。床が補修してあって、危なっかしい状態に見受けられます。フライングレシーブなどはしない方がよさそうです。
 このすぐ西にはサッカーグランドがあり、Y先生たちの交流団は、そこでサッカーの親善試合をしました。
 交流団の青年と色丹島の少年たちの試合です。
 最近の交流では、よく行われるプログラムだそうです。(撮影日 06/08/06)


A新しい教会                                    島全体の地図へ

   斜古丹の丘の上には、新しくできた建物があります。
 ロシア正教会の教会堂です。これは、私が訪れた2002年の時はありませんでした。その後、2003年8月に落成しました。 

 左斜古丹の丘の上に新しく建てられたロシア正教会の教会
 ナターシャの説明によれば、この教会は、匿名の人物の寄付によって建設されたそうです。
 下の写真は、教会の横から斜古丹湾口を眺めた写真。国境警備庁の警備艇の基地が遠望できます。昔なら撮影を禁止されそうなアングルです。
 湾を見下ろす一等地に立てられました。最近の交流団の訪問では必ず訪問する名所となっています。
 撮影はいずれもY先生です。
 

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 交流記25クリル人の所で説明したように、ロシアは、キリスト教の中では、ギリシア正教会の系譜を引くロシア正教の信者が多い国です。

 高校の教科書に出てくる話では、東西ローマ帝国の分裂によって、キリスト教会も東のコンスタンチノープル教会と西のローマ教会に分裂しますが、そのうちの、東のコンスタンチノープル教会を中心とするのが、ギリシア正教です。西ローマ帝国分裂後は、東はビザンツ帝国となり、教会もビザンツ教会とも呼ばれます。

 そのあと、コンスタンチノープルがイスラム勢力に占領されビザンツ帝国が滅亡すると、ギリシア正教の伝統は、モスクワを中心としたスラブ人の国家へ受け継がれていきます。最初は、モスクワ大公国、続いて、ロシア帝国です。ロシア民族をはじめ広大なロシア帝国の版図に入った諸民族の中に、ギリシア正教(ロシア正教)が広がっていったのです。

 しかし、共産主義国家ソ連の誕生後は、マルクス・レーニン主義の教義によって、「宗教は麻薬」とされていましたから、ロシア正教には受難の時代が続きました。
 しかし、現実にロシア人がキリスト教徒をどう受け止めていたかは、教科書だけでは分かりません。

 たとえば、こんな話が紹介されています。 

「 モスクワで旧市街の面影を残すグリボエードフ通り。「結婚宮殿」があるため、新郎新婦の仲むつまじいカップルが引きも切らぬが、5月14日(1983年)の盛況さは異様だった。朝から晩まで結婚行進曲が鳴り響き、レースのリボンをかけた乗用車「チャイカ」や「ボルガ」が列を成す。まるでモスクワ中の独身者が結婚式を挙げたかと思われるほどのにぎわいだった。

 理由は簡単である。ロシア正教によれば、復活祭明けの祝日「クラースナヤ・ゴルカ(″赤い小山々を意味する)」に婚礼を挙げた夫婦は末永く幸せを保証される。この年は5月14日がロシア正教の″大安吉日々だったというわけだ。

 この日、式を挙げたモスクワのある技術学校の同級生カーチヤとセリョージャの話によると、二人は最初は4月16日を予定していたという。しかし、田舎にいるカーチヤのおばあちゃんがこれを知ってかんかんに怒った。4月16日は斎戒期に当たるので、「こんな時に式を挙げるならもう縁切りですからね」。しかたなく、おばあちゃんのいう″大安吉日々に繰り延べしたが、カーチャは「大好きなおばあちゃんのために譲歩しただけで、私たちはいまも無神論者です」という。」

今井博著『暮らしてみたソ連 2000日』(朝日新聞社 1985年)P190−191
著者は朝日新聞特派員として、1978年から1984年までモスクワ在住。
 

 これによれば、昔を知っているおじいちゃんおばあちゃんの世代は、熱心な信者が多く、若者の中には、まったく信じていない人々も多いという感じでしょうか。もっとも、これは、何もソ連に限ったことではありませんが。

 ともかく、ソ連当局は、人々の心が共産主義ではなく宗教に向かうのを恐れ、いろいろな手をうちました。こんなこともやりました。

「 ソ連当局は、社会主義の担い手となる若者が復活祭のミサに行くのを何とか引きとめようと、あの手この手を使っている。ふだんは見られない西欧の映画や歌手をテレビ番組に加えたり、様々な催し物で若者の宗教への関心をそらすのに懸命。この年はポップ・グループ「アバ」がテレビに登場したが、なんといってもアイスホッケーの世界選手権が決め手だった、というのがもっぱらのうわさ。」

今井前掲書 P188

 これについては、ナターシャに本当かどうか確かめてみました。

「 復活祭やクリスマスの日にみんなが教会に行かないように、テレビ番組の工夫をしていたということは、本当ですか。」

「本当です。1917年の革命以来、1970年代までは特にそうでした。」

「色丹島にはここ以外に教会はありますか?」

「マロクリリスコエの教会は、色丹島唯一の教会です。」

「誰かが、『色丹島で会った英語教師のダネリア先生は、熱心なキリスト教徒で』と書いていたのを記憶していますが、あなたか、あなたの夫は熱心な信者ですか。」

「それは、間違って伝わったか、あなたの記憶違いです。時々は教会に行きますが、熱心な信者にはあてはまらないと思います。」

「色丹島のロシア人のうち、ロシア正教の信者はどのくらいの割合ですか。」

「正確には分かりませんが、島民の3分の1ぐらいは、信者といえるのではないでしょうか。不熱心な人も含めてですが。」

 確かに、ソ連時代の施策のため、旧ソ連諸国では他の西ヨーロッパ世界やアメリカに比べれば、信者は少なく、教会も多くはないようです。
 アメリカ・アイオワ州の友人スティーブの娘さんが、今、ウクライナ共和国に住んでいますが、彼女からのメールにも、「ウクライナはほとんど教会がない」と書いてありました。

 ソ連が崩壊して15年。
 今後信者は拡大していくのでしょうか?


 教会の内部です。右端にいらっしゃるのはドミトリー神父です。
 壁にたくさん掛かっている絵は、ロシア正教会では大切に扱われるイコン(聖像)です。
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  ロシア正教会ですから、教会堂の内部には、「イコン」がたくさん掲げられています。
 イコンというのは、崇拝の対象となる神や天使や聖人を模した絵や像のことです。一般に聖像と訳します。
 これについて、ついでに高校の教科書の不備な点と、それ故の授業の工夫について、本職の視点から追記します。

 高校の世界史の教科書には、このことに関連して、次のように書いてあります。

「 フランク王国と協同して西ヨーロッパ世界形成に貢献したのが,ローマ=カトリック教会である。ローマ帝政末期には、五本山とよばれるキリスト教会が重要だったが、中でも最有力なのがローマ教会とコンスタンティノープル教会であった。西ローマ帝国が滅亡すると,ローマ教会はしだいビザンツ皇帝が支配するコンスタンティノープル教会から分離する傾向を見せはじめ、独自の活動を展開するようになった。

 6世紀末の教皇グレゴリウス1世以来 ローマ教会はゲルマン人への布教を熱心におこなった。また6世紀からひろがる修道院運動は,民衆の教化に貢献した。こうして西方教会は西ヨーロッパに勢力を拡大し,とくに使徒殉教の地であるローマ教会の司教は,教皇(法王)として権威を高めるようになった。
 
 さらに
東西の教会の断絶を深めたのは,聖像をめぐる村立であった。キリスト教徒は以前からキリスト・聖母・聖人の聖像を礼拝していた。これが偶像崇拝を厳禁するキリスト教のほんらいの教理に反したこと,また偶像をきびしく否定するイスラーム教と対抗する必要にせまられたことから,726年ピザンツ皇帝レオン(レオ)3世は聖像禁止令を発布した。ゲルマン人への布教に聖像を必要としたローマ教会はこれに反発し,東西の両教会は村立と分裂をいっそう強めることになった。これ以後ローマ教会はビザンツ皇帝に対抗できる政治勢力を保護者として求めねばならなくなった。

 ちようどこのとき,カール=マルテルがイスラーム軍を破って西方キリスト教世界をまもった。そこでローマ教皇はフランクに接近をはかり(後略)

佐藤次高・木村靖二・岸本美緒著『詳説 世界史』(山川出版 2004年)P121   島全体の地図へ

   引用文の、「聖像禁止令」というのは、イコンなどの聖像の崇拝を禁止する命令です。ここには、ビザンツ皇帝がなぜそれを発令したかの理由や背景は説明されていますが、その後のことは、何も書かれていません。
 教科書P130には、ビザンツ帝国の文化の項目があり、「聖母子像などを描いたイコン美術が有名で」とだけ書かれています。
 
 この2カ所以外には、教科書のどこにも、ギリシア正教(ロシア正教)とイコンのことは書いてありません。

 ということは、授業をする教師が、次のようにうまくつなげなければなりません。

  1. 一度は、726年に聖像禁止令が発令された。

  2. 787年の会議(第ニケーア会議といいます)で聖像崇拝は認められた。

  3. したがって、それ以後、ビザンツ帝国、そして、ロシアで聖像崇拝は盛んに行われ、イコンは美術としても評価される。

  4. ソ連時代の教会の暗黒時代ものりこえて、ロシア人の心の中にキリスト教は生き続けた。

  5. その結果、現在のロシアではロシア正教信徒が多く存在し、ロシア正教会ではイコンが不可欠な存在となっている。

 1と3は教科書に書いてあります。ということは、大学受験には、1と3だけで十分です。
 しかし、ちゃんと、意味のあるものにするには、2・4・5を、説明に加えないと、話はつながりません。現代に生きる話にはなりません。

 ここが、学校知(もしくは受験知)、つまり、学校でだけ通用する知識(受験にだけ必要な知識)か、本当に意味のある知識かの分かれ目です。

 学校知(受験知)だけを教えている授業(教師)は、受験科目としない生徒からは、「必要なし」と言われてしまいます。

 ついでに言うと、イコンの語源は、古代ギリシア語の「形」を意味する「エイコーン」です。英語の icon (アイコン)も、この言葉が語源です。
 英語の icon も訳す時は、以前は「聖像」という意味だけでしたが、現在は、コンピュータ用語の「アイコン」の方が、有名になってしまいました。(^.^)

 ここまで話すと生徒も分かってくれますね、きっと。           島全体の地図へ


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