これは、私が2002(平成14)年9月18日(水)〜9月22日(日)に研修で出かけた北方領土色丹島の訪問記と、ついでに回った、北海道東部の旅行記です。


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H セヨ ビロ ハラショー!!

 
 ○元島民・関係者

 北方領土についての、日本人元島民の気持ちは、はっきりしています。
 根室の事前研修会で、元島民のS氏は言いました。
「ソ連軍の占領と、その後に受けた処置は生きている限り忘れない。
 しかし、私たちの苦しみをまた同じようにロシア人に与えたくはない。
 返還後のロシア住民の処遇には、よほど配慮しなければならない。

 それらを含めて、広い視野で考えた上で、北方領土の早期返還を望む。
 領土返還なくして、この根室の、オホーツクの戦後は終わらない。
 


穴澗の子どもたち、どっちにしてもあなた達の将来が幸せであってほしい

 国境警備隊の若い兵士 もちろんオフの時間 握手して名前を聞いたが、覚えきれなかった


 ○交流会1 
 20日・21日の両日とも、夕食は、それぞれの町の教育関係者との交流会でした。場所は、斜古丹のカフェです。
 20日は穴澗の関係者との交流会です。
 テーブルの上には、ロシアの料理とアルコール類が、所狭しと並べられています。豪華な料理というわけではありませんが、心を尽くしたもてなしです。
 穴澗の村長、小中学校の校長の挨拶の後、もちろんウォッカで乾杯です。

 ウォッカは、乾杯の後はグラスにつがれた分をちゃんと飲み干すのが礼儀だそうです。
 事務局S氏「そうはいっても、ロシア人と対等に飲んだらつぶれてしまいますから、弱い人は、遠慮なくグラスの口を塞いで断ってください。」もちろん、酒に弱い私は、慎重に、自制です。味が分からないくらい強いお酒です。

 総勢、80人ほどの中に、通訳は6人。
 いろいろ話したいのですが、そう簡単にはいきません。通訳さんは料理を食べるヒマもなくて大変です。

 少し時間がたってから、事務局のSさんが呼びかけてきました。
「私の席の隣は、穴澗小中学校の英語の先生ですが、私は英語は苦手なので、誰か英語が話せる人、いませんか。」
「どのくらい通じるか分かりませんが」といって、出しゃばりの私は、席を移動しました。

 ○ナタリヤ1

「今日は、岐阜県から来たMです。」「ダネリヤ・ナタリヤです。」
 聞くと彼女は、穴澗小中学校の英語の先生でした。

「岐阜というのはどこにありますか」

M

「大阪と東京の中間より、すこし西、海に面していない県です。」

「趣味は何ですか」

M

「サッカーをすることと、インターネットでメールを送ったり、ホームページをつくることです。あなたは。」

「色丹島はインターネットに接続できないので、見られなくて残念です。メールアドレスは持っていますが、ここからは打てません。私の趣味は水泳です。」 

M

「えっ、この島で泳ぐことができるのですか。」 

「夏の暑いときは、穴澗や斜古丹とは違う水のきれいなところで、水泳します。」 

 なんか、寒そうな気がしますが、ここの住民にとっては、夏はやはり暑いのでしょう。そういえば、ニュージーランドの人たちも、夏とはいえ30度には達しない日に、今日は特別暑い暑いといって、海水浴していました。
 インターネット環境は、予想どおりです。燃料に事欠くような今の状況を見ると、簡単につながりそうもありません。

 彼女の英語は、英語母国民の英語より発音がきれいでゆっくりで、とてもわかりやすい英語でした。おかげで、いろいろなことを話すことができました。

「日本ではみんな英語を学習するのですか。」

M

「今も昔もそうです。中学から大学まで8年間です。今の子どもたちは、小学校からやる場合もあります。」

「ロシアでも年上の世代は英語はほとんど駄目ですが、今の子どもたちは、本土では幼稚園から英語教育を取り入れています。色丹島では、教師がいないので、中学校から週3時間です。」

 もっと難しい事柄も、思い切って聞きたいことも聞けました。

M

あなた方夫婦はどこからなぜこの色丹島へやってきたのか。」

私は、黒海とカスピ海の間のコーカサス出身です。高校生の時代から、自然や自分たちと異なる民族(民俗)に興味があって、特に日本語には興味があったのですが、自分の故郷では日本語を勉強することはできませんでした。語学系の大学を出て、調査研究所で通訳をしていました。その後、色丹島にやってきました。学校の英語の先生の就職口があったので、ここに住み着くことになりました。1983年のことです。」

M

あなたのご夫君は?」
ナ「彼はペテルブルク(旧レニングラード)の出身です。英語の先生の働き口を見つけて、ここへやってきました。夫とはこの島で知り合って結婚しました。9歳の娘がいます。」

「彼はペテルブルク(旧レニングラード)の出身です。英語の先生の働き口を見つけて、ここへやってきました。夫とはこの島で知り合って結婚しました。9歳の娘がいます。」

M

「ここへきたのは、あなたたちの自由な意志ですね。特別な政策ではないのですね。」 

 ナタリヤは不思議そうな顔で答えました。「もちろん、自分の意志でやってきました。誰かの命令ではありません。」
 
 ロシア人がどうしてこの北方領土へやってきたかという問いの答えは、様々であることが分かりました。俗に聞く、ソ連・ロシア政府の「植民政策」という政治臭の強い理解は、あまりあてはまりません。
 斜古丹小中学校の音楽の先生も、音楽教員の職を紹介されて、この島へ来たと聞きました。

あなたは明日は穴澗の小中学校へ行くグループですか?」

M

「僕は、斜古丹小中学校へ行くグループだ。残念ながら会えない。」

「もっと時間があれば、いろいろ聞くことができるのに。」

 彼女は実は、今年から中学生に日本語も教えていて、盛んに日本語の確認を求めました。もっとも、日本語での会話はまだできません。ほんの初歩の日本語です。
「日本語には文字が3種類もあって困るが、とくに漢字は多い。あなた方はいったい幾つの漢字を知っているのか?」と聞かれ、答えに窮してしまいました。

「ロシア語はいくつ覚えました?」

M

こんにちは、おはよう、ありがとう、さようなら、私の名前は○○です。ヒストーリャ(歴史)の6つです。ロシア文字は、英語と違って、見ても分からないから難しい。」

「よいロシア語を教えてあげます。セヨ ビロ ハラショー,意味は Every thing was good.です。あなたにとってこの旅がそうなるといいですね。」 

 少し酔っぱらって、楽しく話して、時間はあっという間に過ぎました。はしけに乗って、船に帰らねばなりません。      


 斜古丹カフェの交流会
1日目は穴澗の先生方と、2日目は斜古丹の先生方と

 こちらの教育関係者は1名を除いて男、向こうは、ほとんどが女性の先生。これが盛り上がった原因?
 酒には強いと自称する教員が数人、ウオッカでの乾杯を繰り返す。大丈夫かなと思っていたら、外務省から派遣の○○氏を始めとして、何人かが酩酊状態に。 
 事務局のS氏は、「だから注意したでしょ。調子にのると必ずこうなる。」と文句いいながらも、顔はにこやか。

 はしけで帰船の時のS氏の船長あて事務連絡
「船長、ただいまより帰船します。全員異常なし、但し、海に落っこちそうな酔っぱらい、約3名。」
 


 ○交流会2 
 21日夕方は、同じ斜古丹のカフェで、今度は斜古丹小中学校の関係者との交流会でした。
 斜古丹小中学校のタチアナ先生(音楽)のアコーディオンの演奏もあって、カチューシャを始めいろいろな歌の日露合唱となって、盛り上がりました。
 タチアナ先生は、美空ひばりの「川の流れのように」が大好きという、日本通です。

 ○ナタリヤ2 
 斜古丹の先生方との交流と聞いていたので、穴澗中学校の先生であるナタリヤは来ないかと思っていました。しかし彼女の夫がビザ無し交流実行委員会の副委員長ということから、彼について、彼女もやってきていました。私は、今日は躊躇なく、彼女の隣に座ります。

M

昨日と続けて、同じ人物と話すことになるがいいか?」

「いいわ、もう一度あなたと話したいと思って来た。」

M

「今日は、もっとシアリアスなことを話題にしていいかい。社会主義とか、この島の未来とか。」

「かまわないわ。」

 昨日の会話ではお互いまだ聞き足りないと思っている所があることが分かって、遠慮なく、話が進みます。

M

「桟橋の付け根のコンテナの上に、レーニンの像が置いてあったけど、あれはなぜ。」

(笑い)あれはね、誰かが冗談で置いたの。元はちゃんと広場にあった。」

M

「1991年のソ連の崩壊は、君たちの生活に大きな影響を与えたんだろうね。」

「すべてが、変わった。これは、簡単には説明できないわ。」 

M

ベルリンの壁の崩壊の以後、社会主義が否定されて、ひと言でいってしまえば、自由になったのだと思うが、それについてはどう思う?」  

確かにそうだわ。たとえば、ここの村長の選挙も、以前はもちろん任命制だったけど、1998年に初めて選挙が行われた。でもね、その村長がうまくいかなくて、今の村長はまた違うの。」  

M

「きみは、英語を学んだのだから、若いときに、アメリカや英語に興味があったのだろう。」

「今は、アメリカには二つのイメージを持っているわ。わくわくするような自由と、腐敗した自由と。子どもたちには教えているわ。自由というのは本来、精神の内面のもので、社会で生活するには規律を守ること、自律することが必要だと。」

M

「全く同感だ。」

あなたは社会主義についてどう思うの。」  

M

「全員がそうというわけではないが、僕らやもっと上の世代の人間には、日本というアメリカ陣営の国にいながら、社会主義を支持したり、それにシンパシーを感じる人が、多くいた。特にいわゆるインテリには多かったと思う。自分も大学で唯物史観を学んだ。反対にアメリカのやることには懐疑的な人も多かった。ベトナム戦争の時代に、アメリカを支持していた若者は少数派だったろう。サイゴン陥落の時、自分は大学生だったが、心から喝采を送ったものだ。」 

今の話は、初めて聞いた。社会主義はそういう受け止められ方をしてきた面もあったのね。」  

M

反面、国としてのソ連に対する反感もあった。同じ職場にチェコから来ている女性がいるが、プラハの春をはじめ、あなたの国の戦車を見ると、複雑な思いに駆られる。そういう意味では、ゴルバチョフは画期的な人物だった。」

「エリツィンは好きではなかったけど、ゴルバチョフは大好きだった。」


「女性に年齢の話をするのはどうかと思うが、昨日はきみはすごく若く見え、最初、35歳ぐらいだと思っていた。失礼だが、こうして話してみると、それではつじつまが合わない。もっと、年上なんだね。」「夫が年下なので、自分は若く見えるように努力している。」
「僕は実はこの年の生まれだ。」とメモ帳に書いた。

 ・26th Feb 1955
 彼女が、「本当に!」と驚きながら言って、こう書き加えた。
 ・3rd March 1955

 岐阜とコーカサス、同じ時期に何千キロも離れた所で生まれた人間が、そこからまた何千qも離れたところで巡り会う。人生とは面白いもんだ。(岐阜と色丹は直線距離にして1300q) 



M

この島の将来はどうなるのだろう。」

難しい問題ね。今はこうやって交流して、理解を深めていくしか方法はないと思うわ。後は時間の問題かな。」

M

質問を換えよう。きみのお嬢さんは、今は9歳だが、高等教育を受ける年齢に達したらどうする?」

「私は、モスクワの大学で勉強させたいと思っているわ。その後は、娘の意志次第だけど、大陸の方で活動させたいと思っているの。でも、夫は、サハリンの大学に行かせて、そのあとは、この島に戻ってくる方がいいといっていて、意見が違うの。」

 「先生、美人の女性とばかり話していないで、ちゃんと飲んでますか。」
 相当アルコールのまわった、某県の某先生がおじゃまむしです。
「はいはい、かんぱーい。」

 ウォッカは駄目でも、どこ製かはわかりませんがワインは美味です。食事も、魚料理・肉料理、辺境の島を感じさせない豊かさとおいしさです。
「先生、4種混合ですよ。効きますね。」(ウォッカ、ワイン、シャンパン、ビール。)
「さあ、飲め飲め、後は寝るだけだぞ。Drink much more,After this, your only job is sleeping.」
「今なんて言ったの。日本語で。」「ノメノメ、アトハネルダケ」(あのねナターリヤ、これは中学生相手に教える日本語じゃないよ。)

M

これは僕の名刺。電子メールアドレスが書いてある。」

「だめ、ちゃんと住所も書いて。色丹島では、当分インターネットはできないから。
 これは、私の名刺。分かるようにロシア文字ではなく英語アルファベットで書いてあるから。」

M

帰ったら、さっき撮影した写真と手紙を送る。」

「待っているわ。」

「これ私からのプレゼント」と言って、ナタリヤはいくつかの品物を差し出しました。
「色丹島の植物の絵はがきでしょ、この夏、夫と帰ったペテルブルクの観光案内図英語版、そして」
最後に彼女が差し出したのは、石ころ二つでした。

「これはね、宝石とか貴重な石とかそういうものではないわ、ただ、この夏に娘と二人で、海に潜って取ってきたものなの。色丹島の海中の石。これもプレゼント。」
「ありがとう」

 時には、何の変哲もないものが、最高の思い出、宝物になるときもある。

「ハーイ、みなさん。名残つきませんが、そろそろおひらきです。最後に、団長さんの挨拶・・・・」


 ○出港
  桟橋につくと、秋の太陽は海に沈んだばかり。真っ赤な夕映えがあたりを包みます。
 
 桟橋は、最後の別れを惜しむ人々で一杯、あちこちで記念撮影が。
 花をくれた少女、いかめしい顔でにらんでいた警備隊員、みんな笑顔でさようならです。
「ハーイ、乗船、乗船です。もたもたしてると、置いて行きますよ。」
 事務局S氏にせかされて、点呼を受けながら、酩酊した足ではしけに乗り込みます。

 はしけが桟橋を離れて、気が付きました。
 群衆の中で、ナタリヤがきょろきょろしています。はしけの中で、桟橋と反対側の遠いサイドに立った私の姿は、夕闇の中では彼女の目にとまりません。

 私は、思い切って大声で叫びました。
「ナターリヤ」、女性の名を公衆の面前でこんな大きな声で叫んだのは生まれて初めてです。

 気が付いた彼女と視線がつながりました。
「ナターリヤ、スバスィーバ、ダスビダーニャ、セヨ ビロ ハラショー」(ありがとう。さようなら。すべてがよかった。)
彼女の唇もまた、何かを言おうと動いたのが見えましたが、声は私の耳には届きませんでした。

 桟橋が遠くなり、夕闇が濃くなります。ふと見上げると、桟橋の上の東の空には、大きな満月がのぼっています。
 
 日本時間2002年9月21日午後6時ちょうど、コーラルホワイト号、色丹島穴澗湾出港。
 空に満月。 


 9月21日、穴澗湾を染める夕映え また見る機会はあるのだろうか


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