これは、私が2002(平成14)年9月18日(水)〜9月22日(日)に研修で出かけた北方領土色丹島の訪問記と、ついでに回った、北海道東部の旅行記です。


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G ロシア人家庭ヴィジット ロシア語だぜ

 
○色丹島の生活

 色丹島からロシア本土への交通路は、定期船で国後島まで行き、国後島のメンデレーエフ空港からサハリンのユジノサハリンスクに飛び、さらにそこから飛行機で本土へ飛ぶと言う順序となります。モスクワなんぞに行こうものなら、本当に大旅行となるでしょう。

 ロシア西部とは、およそ10000q離れています。
 色丹島の生活は北方領土3島(歯舞諸島には国境警備隊がいるのみで、一般住民はいない)の中でももっとも厳しいものです。

 島には天然の良港がいくつもあるのですが、桟橋がないため大きな船は接近できません。
 そのため、とくに天候が悪い冬は、物資の輸送が滞りがちになり、悲惨な結果となります。

 1998年には、日本の援助でディーゼル発電所がつくられたものの、翌99年には、せっかくの発電施設が燃料不足となり、停電してしまいました。日本政府は人道援助としてディーゼル燃料を送りました。
 色丹島の電力は今も不安定な状況にあります。

 ロシアの通貨ルーブルの為替レートは、この時は、1ルーブル=5円でした。
 色丹島には、スーパーマーケットなどありません。小さな食料品店兼雑貨屋があるだけです。
 21日に、そこで買い物をしましたが、事前の両替では、事務局から「多くて2000円(つまり400ルーブル)ぐらいにしてください。みなさんがあまりハデに買い物をすると、島の物資がなくなってしまいます。」

 それでも、団員の先生方が自分のクラス児童生徒たちへのお土産とかで、チョコレートやキャンディなどを買うと、棚の商品は見る見るなくなっていってしまいました。みんながお土産に求めたウオッカやワインは、完全に底をつきました。

 価格はそこそこで、それほど安いというわけではありません。給料は日本円にして、月何千円から1万何千円のレベルと予想できますから、たばこもチョコレートも超高級な嗜好品となります。

 お店の雑貨部門。大工道具から衣服まで小さな店に山盛りです。女性下着も売っていましたが、サイズがでかくて、我が家へのお土産にはなりませんでした。(^o^)

 たばこ。Marbolowは45ルーブル(225円)、CAMEL35ルーブル(175円)
  

 ポケモンキャンディ?は5ルーブル(25円)、ポケモンは世界中を席巻しています。

 右下のハリーポッターチョコは、24ルーブル(120円)、写真にはありませんが、ペプシコーラは、14ルーブル(70円)です。

 ○ホームヴィジット
 21日(土)午後は、グループ別にホームヴィジットです。団員の中には、このヴィジットをすごく緊張して迎える人もいました。というのは、4人一グループでヴィジットするのですが、1時間半のうち、通訳が来るのは15分ぐらいだけ、後の時間は、日本語の分からないロシア人とロシア語の分からない日本人の、「交流」と「対話」となるからです。
 私は、それほど緊張はしていません。
 簡単な辞書とあとは「アクション」さえあれば、何とかなるものです。

 私は、石川・福井・富山の先生と第8グループをつくって、穴澗の港の側の丘の中腹にある、ドルマートフ・スタニスラスさん宅を訪問しました。
 50歳の彼は、我々が事前にもらった経歴には、通信技師となっていました。家族欄には何も書いてなくて、隣人のグルチャノワ・エレーナ(50歳)さんが同席することになっていました。
 
 訪問は、「ズドラーストヴァィチェ」(こんにちは)ではじまりました。「Can you speak English?」「Niet」「Do you know some English word?」「Yes」、少しは分かるみたいでしたが、会話にはなりません。ぎこちなく過ごしていると、ラッキーなことに、順番にまわる通訳は、1番目に私たちのグループにやってきました。

 その結果、スタニスラスさんは、妻と子と孫もいるが、みんな休暇で大陸に行っていること、エレーナさんは、穴澗の小中学校の数学の教師で、この集合住宅に住んでいることが分かりました。
 エレーナさんがしきりに、日本では学校へ行きたがらない子どもをどうするのかと聞いて、最初は、不登校や怠学の話になりました。
 
 彼女は、斜古丹の小中学校の校長先生が言っていたように、子どもは厳しくしつける、学校は行かせなくちゃいけない、と主張しました。日本の学校の様子が少し分かっていて、ロシアはそうじゃないんだと言う主張を繰り返したいようでした。時代に流されていきつつあるとも思える日本の教育への警鐘であり、それは多分、やがてこの島にも起こる葛藤の前触れなのでしょう。

 15分後、通訳がいなくなりました。
 私たちは、まず、お土産を披露しました。
 私は、郷土岐阜の、鵜飼いの写真やら、柿羊羹やらいろいろ見せました。日頃、鵜飼いはつまらないと言っていながら、こういうときは鵜飼いです。
 岐阜城の写真を見せると、「Buddism」(仏教)かと聞かれ、つまり寺院かと言う意味なのでしょう。「いや。これは城」と日本語で言いながら、日露会話集から城を探すのですが、ありません。こういう時は、いろいろな知識が総動員です。英語で「castle」というとこれが通じず、結局クレムリンが最初そうだったと言う回りくどい表現で、納得させました。つまり、砦と言うことです。

 それやあれや、会話は成り立つのですが、私個人としては、ここへ世間話をしに来たのではありません。

 この島に来て、ロシア人に聞きたい究極の質問があります。
 1 この島へどこからどうやって来たのか。
 2 この島がロシアから日本へ返還されることはどう思うか。
 3 返還されたらこの島に残るか。
 
 通訳なしでこれを質問するのは大変ですが、幸い、露日辞典とかんたんな日露会話集があります。単語を指さす方法で、何とか会話できました。
 スタニスラスさんは、国後島出身、返還には反対でした。エレーナさんは、チェンチェン共和国出身。返還には反対で、大陸へ帰りたいと言っていました。
 辞書を指で指し示しての会話ですから、議論にはなりません。それはそれでよかったのかもしれません。何の飾りもなく、弁解もなく、本心が聞けたのですから。

 いくら経済的に苦しいからと言って、そう簡単に「いいよ、島はもともと日本のものさ。返還されたら、日本人として住むから」などと安易に言う人はいません。
 しかし、他のヴィジット家庭ではそういう意見のロシア人もいましたから、一概には結論できませんが・・・。

 1時間半はあっと言うまでした。スタニスラスさんの家族、エレーナさんの家族、いろいろ聞きました。

 集合地点まで我々を送る途中、彼は、小山の上の、アンテナを指さしました。彼はこのアンテナの管理責任者(技師)で、同じアンテナセットが、サハリンにあって、合計10名の部下がいることが分かりました。島の通信網の基幹部分を担っているわけです。自信たっぷりの話しぶりに、彼の仕事への誇りが感じられます。

 ことばとは不思議なものです。
 1時間半過ごすだけで、あまり通じない状況でも、相手の言うことは、少しずつ分かって来るのです。交流と言うことの素朴な意義は、それぞれの目線を感じて話すことにある、ということをあらためて感じた時間でした。

 でももうすこし、心が通じたい、ロシア語ができないことがじれったい。そんな正直な思いも残ってしまいました。

 ドルマートフ・スタニスラスさんのアパート、色丹島の住民の多くはこういう形の集合住宅に住んでいる。

 スタニスラスさん左端後ろ、エレーナさん左端前、そして訪問団。部屋はいくつもあって、結構広い。


 スタニスラスさんの管理するアンテナ

 穴澗の町のサッカー場 サッカーは全世界共通 


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