色丹島との草の根交流記25

 これは、私が2002(平成14)年9月18日(水)〜9月22日(日)に参加した北方領土色丹島訪問以来、友人となった色丹島のロシア人英語教師一家との間に続いている草の根の交流について記録したものです。


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025 2006年の色丹島状勢4 エピソード1 クリル人−明治〜昭和の色丹島−       

 「2006年の色丹島状勢シリーズ」のその4〜7では、今年の8月に色丹島を訪問した岐阜市立N中学校のY先生の写真を手がかりに、色丹島の話題のあれこれをエピソードとしてお届けします。

 このエピソード1では、先ずはじめに、色丹島の地名・地形の状況と地名の由来を解説します。
 次に、クリル人墓地を手がかりに、明治〜昭和前半期の色丹島がどんな様子であったかを紹介します。

<昭和前半の色丹島> 

 このページの地図は、今までのページとおもむきが変わって、日本人が住んでいた昭和前半の時代の色丹島です。

上の地図は、いつも使っている「NASAのWorld Wind」からの借用写真をもとに作成しました。
主な道路、集落等のデータは、
大野三編『南千島色丹島誌』の図版を参考に作成しました。現代の衛星写真にフリーハンドでトレースしましたので、正確さは厳密ではありません。おおむねの状況を描いた図と考えください。正確な地図は、参考文献をご覧ください。参考文献についての説明はこちらです。

また、「
NASAのWorld Wind」の説明はこちらです。


@色丹島の地形の状況と昭和初期の地図の解説

   このページでは、色丹島のクリル人について説明するのが本題ですが、この項目では、その前段1として、まず色丹島の地形と昭和初期の地図について説明します。

 まず、地形です。
 色丹島は、ほぼ長方形をしています。
 島には、高い山は存在せず、山といってもせいぜい300mから400mを少し越える程度です。一番高い山は、シャコタンの町の東、島の北東部にある斜古丹山(412.6m)です。
 
 島全体は、なだらかな丘陵地形で、地理や地学の分野で学習する、「地形の輪廻」の最後の部分、準平原の地形です。
 南北の分水嶺は、南に偏っています。南東部の海岸は、高いところでは50mを越える段丘となっています。さらに、北部の斜古丹湾、マタコタン湾、穴澗湾では、北流してきた川が溺れ谷となっています。

 これらから類推されることは、次のような変遷です。 

  • 火山活動(白亜紀および後白亜紀と推定されます)によって育成された基盤地質が、次第に浸食されて、準平原となる。

  • その後、次第に隆起し、再び浸食が行われる。南部海岸で海岸段丘の形成。
    この時、南部が隆起がより著しく、分水嶺は、南に偏る。

  • 洪積世にいたり、北西部は沈降し、河川の河口部は溺れ谷となる。

 次に、昭和初期の地図の解説です。
 当時は、北海道根室支庁千島国色丹郡斜古丹村となっており、一郡一島一村の行政区分でした。1933(昭和8)年には、色丹郡色丹村と改称されます。役場はずっと斜古丹に置かれています。

 現在のロシア人居住地が穴澗と斜古丹の港の周辺だけ(例外的にエイタンノット崎灯台にも数家族が居住)であるのに対して、昭和初期には、両村以外の北部の海岸線のマタコタン、ホロベツなどをはじめとして、南西部と南部海岸にも、多くの集落が形成されていました。

 小学校は、斜古丹と南西部のノトロにありました。

 上の地図には、島を横断・縦断する道路、海岸部を巡る道路を描きました。これらは多くは今も同じルートでロシア住民の生活道路となっています。

 しかし、実は、この陸上交通路の整備は遅れました。その理由は、この島の産業の中心が水産業であったため、島の海岸部の各集落と根室などの間に漁船が往来して水産物と生活物資を運んでいたためです。
 島に道路が整備されたのはずいぶん遅く、島の縦貫道路とも言うべき斜古丹−ノトロ線(23.8km)と、同じく横断道路とも言うべき斜古丹−イネモシリ線(8.8km)は、1927(昭和2)年の開通です。

 また、南部海岸の周遊道路の、斜古丹−イネモシリ−ノトロ線(49.6km)は、1930(昭和5)年にようやく開通しました。

前掲『南千島色丹島誌』に所収の田中薫・大野笑三著「色丹島概況」より。(参考文献説明はこちらへ。

色丹島の最高峰、斜古丹山(412.6m)| 島全体の地図へ| 斜古丹湾と町の衛星写真は「交流記26」です。
 上・下とも、斜古丹の村の日本人・クリル人墓地からの撮影。
 ただし、上は、2006年の8月に撮影されたもの。 (撮影日 06/08/06 Y先生撮影)
 下は、2002年9月に私が撮影したもの。(撮影日 02/09/20) 
 8月初旬と9月下旬とでは、緑の色合いが違います。9月下旬ともなれば、色丹島ではもう秋真っ盛りです。


A色丹島の地名・地形の状況と地名の由来

   前段その2は、色丹島の地名の由来について説明します。

 まず、「シコタン」という島名の由来です。
 「シコタン」以外にも、「シャコタン」・「マタコタン」など、この島には、「コタン」という名前が多く登場します。
 「コタン」(kotan)というのは、蝦夷アイヌ語・樺太アイヌ語では、集落のことを意味します。この島には、江戸時代の後半には、蝦夷アイヌが100名以上定住しており、その蝦夷アイヌの言葉が、この島の地名の由来となったものが多くあります。
 「シャコタン」は、「サクコタン」がなまったものとされます。「サクコタン」は、夏の集落という意味です。それに対して、「マタコタン」は、「冬の集落」です。
 アイヌ人においては、猟場の関係などから、夏冬で住居を変えることがよく見られることでした。
 
 そして、「シコタン」という島名は、この「シャコタン」という地名がなまりつつ、島全体の名前になったと考えられます。
 一部には、同じアイヌでも北千島に住む千島アイヌ語で、「シ」は「大」もしくは「善美」という意味の美称、「コタン」は「島・国土」を意味することから、「シコタン」は「大島」または「美島」という意味であろうとの説もありました。
 しかし、部分には蝦夷アイヌの言語、全体は千島アイヌの言語というのは不合理であると考えられています。

前掲『南千島色丹島誌』に所収の林欽吾著「色丹島のアイヌ語地名」より。以下の地名の由来の多くは林博士の解説によりました。(参考文献説明はこちらへ。

 これ以外、色丹島の地名でアイヌ語に由来するものをいくつか紹介します。地図の地名をご覧ください。

ホロベツ

ホロ・ベツ、「大きな川」。色丹島中央部に源を発し、北流してホロベツ集落で海に出るホロベツ川は、色丹島一の河川。 

ノトロ

ノツ・オロ、「岬の内側」。ノトロの町は岬に囲まれたノトロ湾内にあります。

ヨコネモシリ

ヤ・コネ・モシリ、「内陸が崩壊した島」。これはずいぶん難しい表現です。
ヨコネモシリの沖には、海岸にすぐ隣接して、「大島」があります。この島は色丹島の付属島嶼としては最大の島ですが、地質学上、本島の陸地が部分崩落して、先端の部分が島となったと考えられます。

サキムイ

サク・ムイ、「夏の湾」。シャコタンと同じ発想。夏期の漁場であったところ。

イネモシリ

インネ・モシリ、「多い島」。沖合にたくさんの島が浮かんでいることから。

エイタンノット

エターネ・ノツ、「先の細い岬」。島の東南に突き出た岬であることから。


B日本人墓地とクリル人墓地

   では本題です。
 北方4島には、元島民の墓があり、1949年に退去を余儀なくされて以来、墓参が島民の悲願でした。1964年(昭和39年、戦後19年目、東京オリンピック開催年)になってようやく墓参ができるようになり、1975(昭和50)年までの11年間に、8回実施されました。(各回に2島〜3島訪問、合計色丹島5回、国後島4回、歯舞諸島8回)

 しかし、ソ連がビザを要求するなど態度を硬化させたため、1976年〜1985年の間は中断しました。
 
1986年以降復活し、以後、現在まで毎年続いています。1990年には、択捉島にはじめて墓参が行われました。それまでは、軍事基地の存在等の理由でソ連が拒否していたのです。
内閣府北方対策本部発刊「北方四島の概況(平成14年)」より

 色丹島を訪問したビザ無し交流団(島民以外が参加)も、必ず日本人墓地を訪れます。

 これは、色丹島の南部、稲茂尻(イネモシリ)にある日本人墓地です。    (| 島全体の地図へ|)
 現在の色丹島では、ロシア人は北部の二つの村にしか住んでいませんが、以前には、南部にも日本人の集落がいくつかありました。
 右の墓石には「折戸家の永代の墓」と刻まれています。周囲に誰も住んでいないため、柵があるとかそういう管理された状態ではなく、野原にぽつんと石柱が立っています。 (2枚の写真とも 撮影日 06/08/06 Y先生撮影)

 下は、
イネモシリ海岸
 現在の呼称では、南東部一体の大きな湾を
ディミトロワ湾と呼びます。イネモシリイネモシリ湾はその南西部にあります。
 色丹島は島全体に豊かな自然に恵まれていますが、
ディミトロワ湾は北部のマタコタン湾と並ぶ美しさといわれています。「イネモシリ」とは、アイヌ語の「インネ・モシリ」が語源で、その意味は、「多い島」です。
  ※後述の参考文献 BP696   (参考文献説明はこちらへ。

 その名のとおり、湾の中央にはたくさんの小島があります。
 この衛星写真では、島の左側には、数隻の漁船とおぼしき船が映っています。もちろんロシアの漁船でしょう。

上の衛星写真は、グーグル・アースGoogle Earthhttp://earth.google.com/)の写真を借用しました。特に断らない限り、このページの衛星写真は、グーグル・アースから借りています。


イネモシリ海岸から見た、ジミトロワ湾内の小島群。
 霧が低くたれ込め、真夏なのになんとなく秘境モードです。
 海岸にjはコンブが打ち寄せられています。色丹島南部は昔からコンブ漁がさかんでした。
 島の南西端の岬は、コンブウス崎といいます。
 「ウス」とはアイヌ語で「湾」を意味します。

(撮影日 06/08/06 Y先生撮影)
島全体の地図へ

 


 上の写真で紹介したイネモシリには、日本人墓地しかありません。
 
 斜古丹の村には日本人・クリル人墓地があります。こちらは、村の中にあるだけに、ちゃんと柵で仕切られて墓地のようになっています。この中に10基以上の墓があります。

 ここから本題に入ります。
 日本人墓地は分かりますが、クリル人墓地とは何でしょうか?クリル人とは何でしょうか?色丹島に住んでいるロシア人のことでしょうか?

 斜古丹の日本人・クリル人墓地

 写真中央左の背の高い石柱には、「斜古丹墓地」と刻まれています。
 2002年に私が訪れた時は、手前のような白い木の柵で囲まれていました。2006年のこの写真では、木の柵が壊れたのでしょうか、周囲の4分の3ほどは、金属の柵となっています。
(上の2002年の斜古丹山を背景とした写真と比較)
(撮影日 06/08/06 Y先生撮影)


 上は、「クリル人墓地」を示す石柱。
 墓地の中には、右のような墓石があります。
 
 十字架のマークの下に、「ケラシム、ゲルキリヤ、ルキヤ、之墓」と刻まれています。
  ※後述の参考文献 CP220・230
    (参考文献説明はこちらへ。
 この十字架の意味、そして、日本人らしくない名前。
 この墓石は誰の墓石でしょうか?


 クリル人というのは、ロシア人のことではありません。

 「クリル」という言い方は、ロシアでは、ロシア語の「クーリイチ」がなまったものとされています。「クーリイチ」の意味は、「燻る」です。
 魚の薫製をつくるとか肉を燻るとかではありません。
 ロシア人がカムチャッカ半島から千島列島の北端を見た時、活火山の山頂から炎が見えたというわけで、それで「クーリイチ」(燻る)となったという言い伝えです。

 しかし、今日では、「クリル」はロシア語ではなく、千島列島の先住民の言語の「クル」=「人間」から来た言葉であるとの説が有力です。
 つまり、クリル人というのは、日本人やロシア人が来る前から千島列島に住んでいた先住民のことを意味します。彼らはクリル人と表現される場合もあり、また、大きな区分では、北海道のアイヌ人(ここでは蝦夷アイヌ人と表現)と同じアイヌ民族のグループであったということから、千島アイヌと表現される場合もあります。
 ただし、彼らは、蝦夷アイヌとは言語も異なり、居住地も占守(シュムシュ)島・幌筵(パラムシル)島・ラショワ島など千島列島北部を拠点とする民族でした。

 つまり、上の写真の墓石にあった、普通の日本人らしくない、「ケラシム、ゲルキヤ、ルキヤ」という名前は、実は、このクリル人千島アイヌの名前だったのです。

 すると、次の疑問が出てきます。
 なぜ、北千島を拠点するクリル人の墓が色丹島にあるのか?
 さらに、その墓に「+」の印、つまり、十字架があるのかということです。


上の地図は、「NASAのWorld Wind」からの借用写真から作成しました。
NASAのWorld Wind」の説明はこちらです。


 先ず十字架についてです。

 蝦夷アイヌ
千島アイヌは、もともとは同じ民族であったでしょう。

 遅くとも縄文時代晩期には、北海道から蝦夷アイヌが千島列島に移り住み、次第に北上して、独自の文化を築いていきます。彼らの食料は、海鳥や千島列島中部以北周辺に生息するトド・ラッコ・オットセイなどの海獣でした。それを捕獲し、肉は食べ、毛皮は衣料や住居その他に利用しました。ちなみに、これらの海獣は北海道には生息していません。

 やがて言語も蝦夷アイヌとは異なる別のものになっていき、別の種族、千島アイヌと認識されるようになります。
 彼らの居住地は、シュムシュ島、パラムシル島、ラショワ島など、千島列島の北部でした。

 彼らの生活が変わるのは、18世紀になってからです。
 ロシアは17世紀に入って次第にシベリア東部を勢力下に収め、17世紀中頃にはオホーツク海沿岸にまで版図を広げました。
 さらに、17世紀末にはカムチャッカ半島に進出し、18世紀初頭には、千島列島に進出したのです。
 
 18世紀前半は、ロシアの強圧的な支配(一人1年1枚ずつの毛皮税の納入の強制など)が行われ、千島アイヌはロシアへの抵抗を続けます。特にラッコの毛皮は上質で断熱性に優れ、価値のあるものでした。
 しかし、18世紀後半には、ロシアは毛皮税の強制徴収をやめ、千島アイヌとの交易を中心とした両者共存の体制をしき、これによって、千島アイヌもロシアの支配を受け入れていきます。
 ロシアとしては、毛皮よりも重要な問題が生じていました。日本との国境問題です。19世紀後半といえば、千島列島や樺太で北へ勢力を広げていた日本がロシアと対峙する時期です。ロシアにしてみれば、千島アイヌを強圧的に支配して反乱や逃亡などの反発を招くよりも、穏便な支配体制下で地歩を固め、日本との勢力争いを有利に進める方が、この時点では優先されると判断したわけです。
 ロシアは、国策会社露米会社を通して、千島アイヌとの毛皮取引を進めていきます。

 経済的・政治的な圧迫をゆるめ、彼らをロシア領内の「国民」として手なずける、いわゆる「ロシア化」政策の象徴が、ロシア(ギリシア)正教会の宣教師による千島アイヌのキリスト教への入信でした。
 宣教師は、ロシア政府の北千島進出の直後から布教を開始しました。

ギリシア(ロシア)正教については、交流記26で説明しています。

 この結果、19世紀初頭には、260人から280人ほどと推定される千島アイヌの全員がギリシア正教の信者となったという報告が、モスクワの総本山になされています。
 こうして、文化の面では、千島アイヌのスラブ化が進み、名前もスラブ風になっていったと推定されます。
 したがって、色丹島斜古丹のクリル人墓地の墓標に十字架が刻まれているのは、被葬者の祖先が早い段階で、北千島においてキリスト教徒になっていたことによるものです。
 
 次は、北千島にいた千島アイヌ(クリル人)の墓がなぜ色丹島にあるのかです。

 1855年にロシアと日本がはじめて結んだ日ロ通好条約では、ウルップ島以北の千島列島はロシア領とされましたが、次の、1875年に結んだ樺太千島交換条約では、日本が樺太における権利をロシアに譲ることとの引き換えに、全千島列島は日本の領土となりました。
 日本としては、江戸時代末期以来千島列島における進出限界は択捉島まででしたが、樺太における権利を全部放棄する代償に、全千島を領有したわけです。ある意味、全千島領有は交渉の中から経緯上導き出されたもので、その「必然性」は薄いものでした。

 しかし、この国境変更は、人数的には少数とはいえ、ひとつの民族の運命を変えることになりました。この国境線の変更で、千島アイヌの居住地北千島は、すべて日本領となったのです。
 これによって千島アイヌは、条約締結から3年の間にそのまま居住して日本人となるか、カムチャッカ半島等に移住してロシア人となるか、究極の選択を迫られました。
 当時、千島アイヌの総人口は100名を超える程度と推定されていました。結果的に、そのうち一部は列島外へ移住していきましたが、多くは島に残って日本人となりました。


千島アイヌの原住地、千島列島最北端の島々
 現在ロシア領のクリル諸島には、19300人のロシア人が暮らしています。そのうち、16800人は、国後・択捉・色丹の3島に暮らしています。3島以外の居住者は、2500人です。

 ロシア領クリル諸島(千島列島)は小さい島まで数えると全部で20数島の列島ですが、実は、南部の3島以外には人はあまり住んでいません。そして、3島以外の居住ロシア人2500人のほとんどが住む島が、下のパラムシル島なのです。
 

ラッコと毛皮
 千島列島周辺には、昔はラッコがたくさん住んでいました。
 ラッコの生息地は、千島列島、カムチャッカ半島先端部、アリューシャン列島、そしてアメリカ大陸のカリフォルニア沿岸です。
 寒い海に住んでいる割には、脂肪分が少なく、全身を覆っている厚い毛の中に空気を貯めて、体温の発散を防いでいます。つまり、
ラッコの毛皮は保温効果が抜群というわけです。
 また、気の毒なことにラッコは、他の海獣と違って、捕獲しやすい動物でした。
 銃で撃ってしとめると、他の海獣は海の中に沈んでしまいますが、ラッコはそのままぷかぷか浮いているのです。(--;)
 
 このため、ラッコは乱獲されて激減していきます。
 
 もちろん、千島アイヌもラッコを捕獲しましたが、その数は知れています。
 乱獲の犯人は、明治になって、この海域に侵入したアメリカ人やイギリス人の密漁船です。ラッコは、島に近い海域に生活しているため、それを捕獲すると言うことは、その国の領海に侵入すると言うことになります。つまり、密漁船です。
 下で紹介している、
イギリス人H・J・スノーもそうした密猟者の一人でした。


 そして、このあと数年して、彼らの移住計画がもちあがります。

 千島アイヌは、日本に帰属してからも、基本的に、近代国家の国境線の概念にとらわれることなく、カムチャッカ半島の人々と自由に交流し、また、千島に接近した外国の密漁船とも交易して、たくましく生活していました。これは、政府としては、国法違反として罰するべき行為でした。
 また、「国民」となった以上、彼らに生活物資給与・教育の提供などの援助をしなければなりません。しかし、実施しようにも、はるか離れた千島列島の北端では、運送費などその経費も莫大なものとなる恐れがありました。

 この状況を把握した日本政府は、北の国境線の確定と、少数民族の「撫育」(日本政府の感化によって日本化すること)を目的として、彼らの色丹島移住を計画します。
 シュムシュ島やパラムシル島に比べれば、色丹島は北海道に近く、また、良湾良港を持ち、気候も穏やかでした。

 かくて、1884(明治17)年、移住を渋る千島アイヌに直接政府高官らがおもむいて「説諭」し、北千島在住の千島アイヌ20戸97人の色丹島移住が決まりました。形式は「説諭」となっていますが、実態は、強制移住でした。7月11日、彼らは色丹島に第一歩を記します。

この時移住してきた千島アイヌの戸籍が残存していますが、その中には、上述の墓の、「ケラシム、ゲルキリヤ、ルキヤ」の3人の名前は確認できません。その後生まれた方と推定されます。戸籍は、鳥居龍蔵著『千島アイヌ』などに掲載されています。(参考文献説明はこちらへ。
ただし、小坂洋右著『流亡 日露に追われた北千島アイヌ』では、97人のうち、4人は択捉島で船から下りたとなっています。

新しく日本国民となった彼らには戸籍が与えられました。しかし、戸籍上の呼称は、「旧土人」という扱いを受けました。これまでもしばしば引用した大野笑三編『南千島色丹島誌』に所収されている各大学教授の論文にも、千島アイヌを「土人」と表現しています。蝦夷アイヌも同様の扱いでした。同じ日本国民としてすべての人を「平等」の存在と認識するということからは、ほど遠い人権感覚しかなかった時代でした。

 ところで、この時点で色丹島には、どのくらいの人が住んでいたのでしょうか?
 
 「草の根交流23」では、「1945年8月15日の人口は、206世帯1038人」と記述しています。

 しかし、明治初年には、人はほとんど住んでいなかったと想像されます。

 19世紀前半の江戸時代には、蝦夷アイヌの居住が確認されていましたが、獲物不足から北海道に引き揚げました。また、江戸末期には、1商人が猟場2カ所を設けていましたが、これも採算がとれずに撤退していました。これ以後しばらく無人の時代が続きます。

 1876(明治9)年に外国の密漁船を取り締まるために、開拓使(当時の北海道の行政・開拓を担当した役所)の役人が官舎を建て、それ以後、島に渡るものがふえていったとされています。

 しかし、樺太千島交換条約が発効し、千島アイヌが渡ってきた1884年の時点では、色丹島にはまだ多くの居住者はおらず、町や村と言えるものはありませんでした。

 このため、開拓使の役人は、千島アイヌが居住することになった斜古丹の村に、彼らのためにまず家屋を建設し、生活援助物資を送り、10年計画で農業・漁業・牧畜などを指導し、彼らがこの地でうまく定住できるように計らいました。
 また、子どものうち数人は、根室の小学校に入学させる手だても講じられました。

 政府の役人的発想では、北辺の北千島から、北海道により近い色丹島に居住させ、諸種の指導を行い、経済的な支援も行って、「撫育」の実を挙げることができる予定でした。

 しかし、この移住は、千島アイヌにとっては、「悲惨な生活」そのものとなりました。

 日本の和人が勝手に「千島の北の端にいるよりは幸せだろう」と想像した千島アイヌの色丹島の生活は、それまでの彼らのそれをまったく否定してしまうものでした。

 当時の千島アイヌの思いを記している唯一の資料として必ず引用されるものに、1870年代から80年代にかけて、千島列島海域で密漁を行っていたイギリス人船長、ヘンリー・ジェームス・スノーの記録があります。
 1889年に色丹島穴澗湾に碇泊した彼の船に、斜古丹に住む千島アイヌがやって来て話したこととして、次のように書き残しています。

 シコタンよくない。ウシシルよい。トドたくさん、ラッコたくさん、オットセイたくさん、鳥たくさん、シコタン何もない。

 ※H・J・スノー著『千島列島黎明記』P54 (参考文献説明はこちらへ。

 海獣や海鳥を追ってその肉を食べていた生活から比べると、色丹島の生活はあまりにも変わりすぎました。また、人間の常として、あまりにも手厚い保護は、一部の千島アイヌを怠惰にさせたかもしれません。
 それもこれも含めて、環境の変化は、千島アイヌの身心を弱らせ、急激に人口が減少していきます。


千島アイヌの人口
西暦 元号 人口
1884年 明治17 91
1885年 明治18 11 82
1886年 明治19 81
1887年 明治20 17 67
1888年 明治21 10 62
1889年 明治22 64
1890年 明治23 61
1991年 明治24 60
1892年 明治25 61
1893年 明治26 60
1894年 明治27 60
1895年 明治28 60
1896年 明治29 60
1897年 明治30 65
1898年 明治31 66
1899年 明治32 65
合計 31 63    −

※『鳥居龍蔵全集 第7巻』P54より (生まれてすぐに死亡したものは除く)


 千島アイヌ以外の日本人(和人)の、色丹島居住の状況はどうだったのでしょうか。

 始めは多くなかった和人の移住も、1890年代以降は、おもに水産業に従事する目的で増加し、明治末年から大正・昭和はじめにかけて、神社・学校・郵便局なども整備されていきます。
 水揚げは魚類ではタラ、他ではハナサキガニ、タラバガニ、昆布が中心でした。1914年には土佐捕鯨株式会社が、1916年には東洋捕鯨株式会社が斜古丹に進出しています。


色丹島の総人口(越年定住者のみ)
西暦 元号 世帯数 人口
1920年 (大正9) 177  543
1925年 (大正14) 148  857
1930年 (昭和5) 169  911
1935年 (昭和10) 189 1177

※大野笑三編『南千島色丹島誌』P718より


 1920年代になると、千島アイヌの人口は40人台に低下し、同族間での婚姻は不可能となりました。この結果、次第に純粋の千島アイヌの数は減少していきます。

 千島アイヌを研究した林欽吾博士は、昭和10年頃の様子を次のように著しています。

 「斯くて来島当時の人口97人は現時に於いては混血を加へ40余人減少し、そのうち純粋なる者は僅に半数に過ぎない。将に十字架の墓標は種族の上に建てられむとしてゐる。我々は移殖民政策上の沈思すべき小実験室をもったのである。」

 ※林欽吾著「色丹島のアイヌ族」『南七間色丹島誌』所収P525 (参考文献説明はこちらへ。


 僅かに残っていた千島アイヌの末裔も、ソ連占領後、他の日本人と同じように、色丹島からの退去を余儀なくされました。
 そして、最後の千島アイヌであった田中キヌさんという方が北海道でなくなったのは、1972(昭和47)年のことでした。


 このページを記述する際に参考にしたウエブサイト・文献をまとめて紹介します。  | 島全体の地図へ

@

H・J・スノー著馬場脩・大久保義昭訳『千島列島黎明記』(講談社学術文庫 1980年)
 千島列島海域でラッコやオットセイの密猟をしていた英国人スノーが、千島列島や千島アイヌのこと、密漁のことなどをつづった記録。その中に、1889年に英語と日本語をもちいて色丹島の千島アイヌから聞き取った記録が掲載されています。

A

鳥居龍蔵著『千島アイヌ』(『鳥居龍蔵全集 第7巻』(朝日新聞社 1976年)所収)
 東京帝国大学の民族学の教授鳥居龍蔵氏が1899(明治32)年に色丹島を訪問し、千島アイヌについて行った人類学的・民族学的な調査に基づく日本語論文の第1巻です。(第2巻は未完)

B

大野笑三編『南千島色丹島誌』(日本常民文化研究所編『日本常民生活資料叢書 第7巻』(三一書房 1973年)に所収)
 編者の大野笑三氏は、1921年〜1939年の間色丹島に在住。色丹尋常小学校の校長。色丹島を訪問した当時の大学の各分野の先生方に、それぞれ論文をかいてもらい、まとめたものです。1940(昭和15)年に刊行されています。

C

長見義三著『色丹島記』(新宿書房 1998年)
 長見義三は小説家。この書物は、著者が1942年に色丹島や歯舞諸島を訪れ、生き残っていた千島アイヌの状況を聞き取ったものです。

D

同前掲書の解説 川上淳著「北千島アイヌと色丹島の歴史

E

釧路ハリスト正教会編「釧路正教会百年の歩み
 同教会のHPはこちらです。http://www.orthodox-jp.com/kushiro/index.html
 「釧路正教会百年の歩み」はこちらです。http://www.orthodox-jp.com/kushiro/history.htm

F

小坂洋右著『流亡 日露に追われた北千島アイヌ』(北海道新聞社 1992年)
 著者は北海道新聞記者。千島列島の歴史とクリル人(千島アイヌ)について、大変分かりやすく書かれたルポルタージュです。

G

山本将文著『写真集 北方4島 択捉島+国後島+色丹島+歯舞群島』(第三書館 1991年)
 1991年に北方4島の島民の生活を撮影した写真集です。


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