先ず十字架についてです。
蝦夷アイヌと千島アイヌは、もともとは同じ民族であったでしょう。
遅くとも縄文時代晩期には、北海道から蝦夷アイヌが千島列島に移り住み、次第に北上して、独自の文化を築いていきます。彼らの食料は、海鳥や千島列島中部以北周辺に生息するトド・ラッコ・オットセイなどの海獣でした。それを捕獲し、肉は食べ、毛皮は衣料や住居その他に利用しました。ちなみに、これらの海獣は北海道には生息していません。
やがて言語も蝦夷アイヌとは異なる別のものになっていき、別の種族、千島アイヌと認識されるようになります。
彼らの居住地は、シュムシュ島、パラムシル島、ラショワ島など、千島列島の北部でした。
彼らの生活が変わるのは、18世紀になってからです。
ロシアは17世紀に入って次第にシベリア東部を勢力下に収め、17世紀中頃にはオホーツク海沿岸にまで版図を広げました。
さらに、17世紀末にはカムチャッカ半島に進出し、18世紀初頭には、千島列島に進出したのです。
18世紀前半は、ロシアの強圧的な支配(一人1年1枚ずつの毛皮税の納入の強制など)が行われ、千島アイヌはロシアへの抵抗を続けます。特にラッコの毛皮は上質で断熱性に優れ、価値のあるものでした。
しかし、18世紀後半には、ロシアは毛皮税の強制徴収をやめ、千島アイヌとの交易を中心とした両者共存の体制をしき、これによって、千島アイヌもロシアの支配を受け入れていきます。
ロシアとしては、毛皮よりも重要な問題が生じていました。日本との国境問題です。19世紀後半といえば、千島列島や樺太で北へ勢力を広げていた日本がロシアと対峙する時期です。ロシアにしてみれば、千島アイヌを強圧的に支配して反乱や逃亡などの反発を招くよりも、穏便な支配体制下で地歩を固め、日本との勢力争いを有利に進める方が、この時点では優先されると判断したわけです。
ロシアは、国策会社露米会社を通して、千島アイヌとの毛皮取引を進めていきます。
経済的・政治的な圧迫をゆるめ、彼らをロシア領内の「国民」として手なずける、いわゆる「ロシア化」政策の象徴が、ロシア(ギリシア)正教会の宣教師による千島アイヌのキリスト教への入信でした。
宣教師は、ロシア政府の北千島進出の直後から布教を開始しました。
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ギリシア(ロシア)正教については、交流記26で説明しています。
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この結果、19世紀初頭には、260人から280人ほどと推定される千島アイヌの全員がギリシア正教の信者となったという報告が、モスクワの総本山になされています。
こうして、文化の面では、千島アイヌのスラブ化が進み、名前もスラブ風になっていったと推定されます。
したがって、色丹島斜古丹のクリル人墓地の墓標に十字架が刻まれているのは、被葬者の祖先が早い段階で、北千島においてキリスト教徒になっていたことによるものです。
次は、北千島にいた千島アイヌ(クリル人)の墓がなぜ色丹島にあるのかです。
1855年にロシアと日本がはじめて結んだ日ロ通好条約では、ウルップ島以北の千島列島はロシア領とされましたが、次の、1875年に結んだ樺太千島交換条約では、日本が樺太における権利をロシアに譲ることとの引き換えに、全千島列島は日本の領土となりました。
日本としては、江戸時代末期以来千島列島における進出限界は択捉島まででしたが、樺太における権利を全部放棄する代償に、全千島を領有したわけです。ある意味、全千島領有は交渉の中から経緯上導き出されたもので、その「必然性」は薄いものでした。
しかし、この国境変更は、人数的には少数とはいえ、ひとつの民族の運命を変えることになりました。この国境線の変更で、千島アイヌの居住地北千島は、すべて日本領となったのです。
これによって千島アイヌは、条約締結から3年の間にそのまま居住して日本人となるか、カムチャッカ半島等に移住してロシア人となるか、究極の選択を迫られました。
当時、千島アイヌの総人口は100名を超える程度と推定されていました。結果的に、そのうち一部は列島外へ移住していきましたが、多くは島に残って日本人となりました。
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