太平洋戦争期1
<問題編>クイズは概ね年数の古い順に並んでいます。答えは各問題のをクリックしてください。
最終更新日 2013年03月18日 ※印はこの5週間に新規掲載 
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番号 掲載月日   問                     題
910

04/02/15

 右の?印をクリックしてください。なにやら、筏に乗った人間と小さな物体が現れますが、これは一体なんでしょう。  n10-1Pearl_harbor_shimulation_part.jpg',336,184,336,184

902

01/09/09

 アメリカ時間、1941年12月7日、ハワイのパールハーバーに対して、日本の海軍航空隊は奇襲攻撃を敢行しました。開始直後、アメリカ軍がラジオと無線を通して全艦艇に発信したのが次の文章です。何と訳せばいいでしょうか。また、こういう内容の発信がなされた背景からどんなことを読みとるべきでしょうか。
Air raid, Pearl Harbor. This is no drill. no drill.」

905

03/02/11

 ガダルカナル島クイズその1
 太平洋戦争における日本とアメリカの戦争遂行に関する考え方・行動が対照的に現れ、日本軍が惨敗した戦いにソロモン諸島ガダルカナル島(ガ島と略称)の攻防戦があります。2回シリーズでガ島クイズです。
 制空権を奪えなかったガ島の日本軍は、ご飯を炊くことにも苦労しました。盛大に火をたいてご飯を炊くと、煙が上がって、敵に居場所を発見され、敵機の攻撃や砲撃を受けるからです。
 さて、「密林の中でご飯を炊く日本兵」という写真が残っています。何をもやしてご飯を炊いているでしょうか。もちろん、煙はほとんどでないものです。本来、火を付けるものであることはまちがないんですが、・・・・。

906

03/02/15

 ガダルカナル島クイズその2。(はじめての人はその1からやってみてください)
 ガダルカナル島の戦いは、アメリカ軍にとっては初めての本格的な反抗戦でした。日本軍について情報入手を非常に重視した米軍は、特別に要請した日本語が分かる将校などをたくさん派遣し、いろいろな情報を集めました。
 日本軍将兵の「実像」をつかむ情報は、個々日本の将兵から獲得できました。さてその方法ですが、捕虜にした日本将兵からの尋問と、もう一つなんでしょうか。
 また、その情報とは、どのようなものだったでしょうか。(こちらはちょっと漠然として難しいですね。)

913 12/11/12 

 オーストラリアの高校の教科書の第二次世界大戦の章には、次のようなタイトルのページがあります。「Experiences at Kokoda and Milne Bay
 日本語訳すれば、「ココダとミルン湾の経験」ということになるでしょうか。日本軍との戦いの場所を示すこの「
Kokoda」という地名は、どこの島の地名でしょうか? 

904

02/06/08

 太平洋戦争が始まってから、帝国海軍は、本国と占領地域との間の海上輸送の防衛を担う海上護衛総司令部(本部)を創設しました。それは戦争開始からどのくらい経てからでしょうか。

911

04/06/05

 太平洋戦争が始まって3年目の1944年、すでにアメリカを中心とする連合軍の優勢は明らかとなっており、この年6月、高性能爆撃機B29による本土爆撃が始まりました。さて、最初の爆撃目標は次のうちどれだったでしょう。
 @製鉄所  A航空機工場   B住宅密集地  C航空基地  D港湾施設 

901

01/07/01

 1944年11月以来、マリアナ諸島を基地とするB29爆撃機の日本本土空襲が本格化します。当然日本上空で撃墜され、捕虜となる搭乗員も増えていきます。
 その一人、ハップ・ハローラン航法士は、1945年1月27日茨城県上空で乗機が撃墜され、それから日本の降伏まで捕虜として日本国内で過ごします。3月10日の東京大空襲のあと、彼はその報復として、
東京のある施設に連れて行かれ、ひどい屈辱的な仕打ちを受けます。数日間、ある場所に全裸で閉じこめらたのです。そのあるところとは、どこでしょうか。

912 12/08/27

 1944年12月13日、名古屋市東区大南町にある三菱重工業名古屋発動機製作所大幸工場はB29爆撃機90機による空襲を受けました。午後1時57分から2時間半に及ぶ昼間精密爆撃で、主要な工場建物のかなりの部分が破壊されました。
 アメリカ軍は、この工場だけに留まらず、名古屋市にある三菱重工業の航空機生産の各工場については、
工場の詳細な建物配置図等により、どの建物ででどの部品や飛行機が組み立てられているかなどについて詳細な情報を把握していました。つまり、あそこに工場があるから爆撃するといったアバウトなものではなく、どの工場のどの建物でどういう部品・機体が生産されているかを確実に把握して、まさしく精密に爆撃したのです。
 そこで問題です。アメリカ軍が精密な情報を最終的に作り上げることができたのは、どういう要因の働いたからでしょうか。次の、3つから選んで下さい。
 1 日本軍捕虜の証言
 2 日本にいたアメリカ人スパイの活躍
 3 日本軍の機密暗号の傍受・解読 
 

903

02/05/11

 東京音楽学校(現在の東京芸術大学の前身のひとつ)の優秀な生徒は、太平洋戦争期jに、ある特別な任務を帯びて、陸海軍に徴兵されました。その特殊任務とは何でしょうか。

907

03/05/03

 右の?印をクリックして写真を見てください。
 この松は、
石川県金沢にあるかの有名な兼六園の松の1本です。皮が剥がれているのは、太平洋戦争期に何かがあった痕跡です。さてそれはなんでしょう。 n10-1kenrokuenmatsu.jpg ',400,300,400,300

909

03/10/25

 右の?印をクリックして写真を見てください。
 
一輪挿しのような陶磁器製品が映っています。これは一体なんでしょう。 ../genbutu/teryudan_tousei.jpg',303,380,303,380

914 13/01/28
13/02/04
補足

 太平洋戦争末期の沖縄戦では、日本陸海軍の航空部隊による特別攻撃隊が、アメリカ軍機動部隊に大きな損害を与えました。戦局を左右することまではできませんでしたが、航空機ごと敵艦に体当たりするという捨て身の攻撃は、アメリカ軍艦船の将兵を恐怖させました。
 そのひとつに、1945年5月11日の
航空母艦バンカーヒルに対する攻撃があります。
 この日、空母バンカーヒルは、沖縄東南の海上で日本海軍特攻機2機の体当たり攻撃を受け、大きな損傷を受けました。
 問題は、アメリカ空母についてではなく、日本軍の体当たり機に関してのものです。
 通常、日本軍特攻機がアメリカ海軍艦船に大きな被害を与えてとしても、自らの命を犠牲にしてその武勲をたてて飛行機が誰によって操縦されていたものかは、わからないのが普通です。何故なら、日本軍側にそれを確かめるシステムがなかったからです。
 ところが、このバンカーヒルへの攻撃については、体当たりした2名の日本人搭乗員の名前が確認できています。それはどのような理由からでしょうか?次から選んでください。

@

 操縦員の被服が空母上に残っておりそれに名前が書かれていた。

A

 突入した飛行機のエンジン番号を示したプレートが残っていた。

B

 操縦員が突入から体当たりまで、奇跡的に状況を無線で基地に連絡でき、基地でそれが受信された。

C

 出撃した複数の特攻機の無線通信による基地への報告とアメリカ艦艇の戦闘記録(攻撃時間・機種)等を照合し割り出された。

908

03/05/17

 日中15年戦争では、多くの中国人が犠牲になったことは確かです、ではその人数は、一体何人ぐらいでしょうか。

915 

13/03/18
再構成

 太平洋における日本人将兵の戦没者は、およそ230万人といわれています。この人数は、戦場における戦傷死と戦病死の両方が含まれています。
 では、このうち、戦傷死の割合はどれぐらいでしょうか?


<解説編>

901 捕虜となったアメリカ軍兵士が受けた屈辱的な仕打ちとは何?           | 問題編のTOPへ |

 この問題の答えは、ヒントなしではなかなか出ないかもしれません。
 正解は、
上野動物園に連れて行かれ、全裸にされて、さるの檻に入れられてしまったでした。
 
 本土空襲について、説明します。B29爆撃機そのものは、現物教材ページに説明があります。
 サイパン島をはじめとするマリアナ諸島が陥落したのは、1944年7月です。その後、基地の整備とB29の移動が着々と行われ、44年11月には本土空襲の準備が整います。
 
11月24日サイパン島からの本土初空襲が行われます。出撃機数111機の大編隊です。

 この時の目標は、東京北西郊外の中島飛行機武蔵製作所の工場でした。しかし、日本軍の抵抗と上空を覆っていた雲によって、爆撃は不成功に終わります。これ以後、昼間に1万メートルほどの高い高度からおもに飛行機工場を爆撃する、いわゆる、
昼間高高度精密爆撃を展開します。これは、高高度で威力を発揮するB29爆撃機の特性を活かし、またこの段階では護衛戦闘機をつけることができなかったことから、きわめて合理的な選択でした。

 ところが、高高度では燃料消費量が多いため、搭載する爆弾の量が少なくなる(最大限の半分以下の2.5トン程しか搭載できない)こと、日本上空のジェット気流に乗ってしまうと速度が速くなりすぎて爆撃しずらいこと、天候の不順などのため爆撃精度が低いことなどと、さらに加えて、日本軍の迎撃戦闘機隊の決死の抵抗によって犠牲も大きかったことなどによって、爆撃の効果は予想したほどには上がらず、作戦の変更を迫られることになりました。

 1945年1月アメリカ軍の司令官の更迭が行われ、新しく着任したルメイ少将は、作戦を変更します。
 それが、
夜間都市低高度無差別爆撃です。
 高さ2000m前後の低高度で、夜間に都市に侵入し、無差別に焼夷弾を投下し、市街地を丸ごと焼き尽くす作戦です。夜間であるため、日本軍の迎撃機が出撃しづらいことを予想し、爆撃機の機銃や機銃手もみんなおろし、節約した燃料の分、目一杯焼夷弾を搭載しました。その量は、1機6トンにものぼりました。
  ※焼夷弾に関しては、現物教材ページ「焼夷弾」を参照

 3月9日の深夜から10日にかけての東京大空襲が、本格的な大規模夜間都市無差別絨毯爆撃の初出撃でした。
 この日東京上空で投弾したB29は合計279機。1665トンの焼夷弾によって、一夜にして東京全体の2割に当たる26万戸が全焼し、8万3千人以上の死者、11万4千人以上の負傷者が出ました。
 また、これは、日本の航空機生産に打撃を与えるもう一つの方法でもあったのです。
 米軍は日本の生産構造も見抜いていました。つまり、飛行機組み立て工場へ部品を供給する市街地にある町工場を根こそぎ破壊すれば、飛行機の生産も滞るということを。
  ※渡辺洋二著『本土防空戦』(1992年朝日ソノラマ)P328

 B29の被害は撃墜14機で、戦果に比べれば、小さなものでした。
 これ以後、大阪・名古屋・神戸などの大都市をはじめとして、終戦までに日本の主な都市はほとんど焼夷弾攻撃によって壊滅していきます。

 さるの檻に入れられてしまうことになるハップ・ハローラン航法士の乗機「ローバーボーイズ」は、1945年1月27日、中島飛行機武蔵製作所を目的とする爆撃隊に加わっていて、日本陸軍の双発戦闘機屠龍の37_機関砲の直撃を受け、茨城県の海岸線に墜落しました。11名の乗員は途中で脱出しましたが、結果的には、5名が生き残ります。

 ハップは、地上で捕虜となり、憲兵隊等で尋問を受けました。彼らには、墜落して捕虜になったら何をしゃべるかについて、サイパン島で命令が出されていました。これは、日本の常識では、重要秘密であるB29については何もしゃべるなという命令だと想像してしまいますが、実は違っています。

「今や戦争の主導権は確実にわが方の手中にあると考えているので、敵の尋問に進んで答え、協力して差し支えない。もしB29のことやその作戦について聞かれたら知っていることを話すべきである。そうすれば骨まで叩き折られるような殴打や、命を落とすような仕打ちを受けなくてすむかもしれない」という指示だったのです。
  ※チェスター・マーシャル著高木晃治訳『B29日本爆撃30回の実録』(2001年 ネコ・パブリッシング)P180

 爆撃から帰るB29が太平洋に不時着した場合に備えて、潜水艦や救難飛行艇を配備していたアメリカ軍ですから、「なんでもしゃべっていい」というのも、あり得ることとは思いますが、それにしても人命優先の思想は見事です。また、戦争の勝利に対する強い自信が感じられます。
 
 3月10日未明の東京大空襲のあと、捕虜は、皇居の近くの東京憲兵隊本部から大森俘虜収容所へ移されることになりましたが、その直前に、ハップは上野動物園に連れて行かれ、全裸で猿の檻に入れられ、2日間見せ物にされました。

 東京を焼かれ、20万近い死傷者が出ている日本軍としては、これぐらいでは気がおさまらなかっただろうと思いますが、軍の指揮系統は、組織的に捕虜を虐殺するほど狂ってはいなかったようです。
 ハップは、墜落前96sあった体重が、57sになってしまうほど衰弱しましたが、収容所で生き延び、日本の降伏により本国に帰りました。
  目から鱗「昭和時代前半の日本は何だったのか」へ

中国成都からのB29爆撃機の北九州空襲については、日本史クイズ905で解説しています。
また、岐阜・美濃・飛騨の話の「各務原・川崎航空機・飛燕」の中でも、航空機産業に対する空襲について詳しく説明しています。 
 


902 「Air raid, Pearl Harbor. This is no drill. no drill.」意味は?      | 問題編のTOPへ |

    ※ハワイの地図はこちらへ  映画「パールハーバー」の感想はこちらへ
 ここの説明は、ハワイ時間を使います。
 1941年12月7日、午前7時49分、日本海軍の真珠湾攻撃隊総指揮官の淵田中佐は、侵入したオアフ島上空から、麾下の全部隊に対して、「全軍突撃せよ」の命令を発します。ついで、7時52分には、ハワイ北方沖の機動部隊指令部(航空母艦赤城)及び日本へ向けて、「ワレ奇襲ニ成功セリ」の暗号電文を打電しました。これが有名な、「トラトラトラ」です。
 突撃命令を受けた、高橋少佐指揮の急降下爆撃隊は、7時55分にホイラー飛行場・ヒッカム飛行場に爆弾を投下。これが最初の投弾となりました。さらにその2分後、雷撃隊が停泊中の戦艦群に対して魚雷を発射しました。

 戦艦群の舷側に魚雷命中の水柱が立った直後、午前7時58分、
第2哨戒航空部隊司令官パトリック・ベリンジャー少将は、ラジオと無電をとおして全艦艇に報じました。
 「Air raid, Pearl Harbor. This is no drill. no drill.」(真珠湾空襲される。これは演習ではない。演習ではない。)

 現実に空襲が始まっている時に、いくらユーモアあるアメリカ人といえども、「演習」はないはずです。これは、ハワイ在住アメリカ軍が、日本海軍の攻撃に対して、全く警戒をしていなかったことを示す証拠といえましょう。
 事実、ワシントンの政府からも、ハワイに対しては、特別な警戒命令は出ていませんでした。
 それでは、ワシントンのルーズベルトは日本軍の奇襲を知っていたのでしょうか?

 アメリカ政府が、日本の外交暗号を解読していたことは事実です。また、アメリカ軍が、日本の航空母艦を中心とする機動部隊が、日本の港から消えていることを知っていたことも事実です。このことやそれ以外の細かな資料から、ずいぶん前から、ルーズベルト大統領は、日本の真珠湾攻撃を知っていて、先に攻撃をさせ、アメリカ国民が政府の第二次世界大戦参戦を容易に支持するように仕向けたという説・主張が、繰り替えし出されてきました。いわゆる、「大統領の陰謀」説です。
 ※最近では、ローバート・スティネット著『真珠湾の真実』(日本語訳は文藝春秋1999年)
 
 私は、不確かな証拠による推測より、常識的な説得力のある次の説を支持します。

  1. ルーズベルトを始めアメリカ政府首脳は、外交暗号の解読により、日本が12月7日頃に戦争を始めるであろうことは予測していた。

  2. しかし、この時点では海軍・陸軍の暗号までは解読していなかったアメリカは、たとえ日本の機動部隊が出撃していても、それは本来の目的である東南アジア地域へ向けてであると推測していた。

  3. ハワイが襲われる危険性は、ルーズベルトを始め全く考えていなかった。そこには、情報の読み違いを促した、日本人に対する差別意識があった。つまり、科学技術においても生産力においても、全てにアメリカより劣る日本・日本人が、太平洋を渡って、はるか遠くのハワイなどを攻撃に来ることができるはずがないという、差別意識・偏見を持っていた。

 当時のアメリカ人が日本人をどのように思っていたかを示す文章を引用します。

  ※半藤一利著『真珠湾の日』(文芸春秋社2001年7月)P234

「 ラスブリッジャー&ネイヴの著書は、「アメリカ人もイギリス人も日本人のことをチビで出っ歯で眼鏡をかけた滑稽な黄色んぼで、世界中で見たものは何でもメモを取ったり写真を撮ったりして、国へ帰って二流の類似品を作ろうとする連中と見下していた」と紹介している。そして、軍艦は基本設計が悪いので艦砲射撃をすると転覆するおそれがある、片目を閉じることができないので銃を正確に射撃できない、そんな軍事専門家の説をも引用している。  
 実を言えば、ルーズベルト大統領その人が、ひどい偏見の持ち主であったのである。日本のパイロットはすべて近眼で、常に敵に先に発見されてしまう。撃墜は容易である。操縦技量はきわめて拙劣で、とうていアメリカ軍パイロットと互角に戦える力はない、というデマのようなことを信じていたという。
 太平洋艦隊司令長官キンメル大将の無念さ混じりの告発も残されている。
「ルーズベルト大統領も、マーシャル参謀総長も、アメリカ人1人は、日本人5人に相当するし、たとえ奇襲攻撃が行われても、たいした損害を受けることなしに撃退するであろう、といつも語っていた」

 ※人種差別から見た太平洋戦争については、次の書物にも述べられています。 

ジョン・ダウアー著『人種偏見ーー太平洋戦争に見る日米摩擦の底流』(TBSブリタニカ1987年)
クリストファアー・ソーン『太平洋戦争における人種問題』(草思社1991年)

 開戦当時の日本は、経済的にも、アメリカとは比較にならない弱小国でした。GNPは、アメリカの8%程度しかありませんでした。これは、今に置き換えて言うなら、メキシコ・オランダ・オーストラリアという国が、日本に戦いを挑むようなものです。(GNPの比較値は1993年のもの)
 ははは、今にたとえるとまずいですね。日本の自衛隊では、どこがせめてきても苦労しそうです。

 目から鱗「昭和時代前半の日本は何だったのか」へ

903 戦時中、東京音楽学校の優秀な生徒が帯びた任務とは?            | 問題編のTOPへ |

 現在でいうIT技術、当時でいう電子技術において、日本は、ヨーロッパ・アメリカに決定的に遅れていました。
 具体的には、レーダー(発した電波の跳ね返りによって敵を補足)・音波探知機・無線通信などなど、およそ真空管を使った技術は、ほとんど三流以下でした。

 そこで何と日本軍は、連合軍の優れたレ−ダ−や音波探知機に、人間の聴力で対抗しようとしたのです。東京音楽学校というのは、今流に判断すると、専門学校のように思えますが、戦後、東京美術学校と合体して、今の東京芸術大学になる、音楽の名門校です。その名門校の生徒に、飛行機の爆音や艦船のスクリュ−音の録音を聞かせ、機種や潜水艦を識別させようとしたのです。なんと、飛行機などは、目隠しでテストさせ、向かう(飛んでいく)方向を当てさせることまでやらせました。

 
正解は、音波探知による機種・艦船の種別、進行方向の判定という特殊任務だったのです。

 的中率98%と抜群の耳の持ち主が当時ピアノ科2年生、現在、芸術院会員で第一線で演奏活動を続けている我が国のピアニストのなかで最長老といえる園田高弘氏(1928年東京生まれ)でした。
 氏は語っています。
 「8月15日に(戦争が)終わっていなければ、私は9月に、アメリカの潜水艦にたえずおびやかされていた東京湾岸の基地へ、徴用されていくことが決まっていたのです。」 
 
 ※『朝日新聞』(1995年8月15日夕刊)

 日本軍のIT技術について少し説明をします。
 無線電信が発明されたのは、1899年イタリアのマルコーニによってです。それまでは、有線の通信技術しか存在しませんでした。マルコーニは、1902年には英仏海峡を越えて短い電文の送付に成功し、世界を驚かせました。
 日本海軍は直ちにこの技術の導入を図り、その成果は、見事日露戦争の勝利につながりました。そういえば、御存知の方もおられましょうか。
 あの日本海海戦の前、ロシア艦隊がどのルートを通るかを知ることが日本海軍にとって重大事であった時、南西諸島北を朝鮮海峡に向けて進むロシア艦隊を発見した哨戒艦信濃丸は、敵艦隊の全貌を導入したばかりの無線電信で速報しました。この情報戦における勝利が、海戦の勝利の重大要因のひとつであったことはいうまでもありません。

 しかし、日露戦争から30数年後の日本陸海軍は、IT技術に関しては、極めて鈍い対応しかできていませんでした。
 すでに第二次世界大戦前、欧米では、レーダー技術が開発され、日本国内でも、一部の科学者によって、先端的な研究も成されていた。また、無線電話についても欧米では、広く実用の域に達していました。
 にもかかわらず、直接の戦闘技術そのものではないためか、日本陸海軍はその重要性を十分認識せず、その導入・技術開発について、極めて不熱心でした。
 ※三野正洋著『日本軍の小失敗の研究』(光人社1995年)P244

 今では当たり前となっているが、飛行機などに搭乗する場合は、無線電話が不可欠です。アメリカでは、すでに、パトロールカーやパトロールオートバイに搭載されていたというのに、日本では、戦争中を通じても飛行機に搭載する小型の信頼性のあるものはついに開発できませんでした。一応搭載はしていましたが、通話できないことがほとんどで、戦闘機のパイロットは、無用の機械として、出撃前に飛行機からはずしておろしてしまうというのが常であったといいます。
 また、雷撃機・爆撃機など、複座(二人乗り)・三座(三人乗り)の機には、後部座席の搭乗員が、編隊内での連絡用に小さな黒板を持っていたという、悲しい事実も記録されています。

 レーダー技術については、指向性の強い八木アンテナや、高出力磁電管(マグネトロン)を世界的にも最も早く開発していたにもかかわらず、防御兵器に関する陸海軍の関心は低く、欧米に先を越されていきます。
 イギリスは、1940年夏のドイツ空軍との死闘、「バトル・オブ・ブリテン」の際には、索敵用のレーダー網を駆使して、ドイツ軍機の侵入に対して有効な迎撃を行いました。

 また、アメリカは、1943年の初めに艦船のレーダー防御システム(敵飛行機・艦船発見用レーダー、射撃管制用レーダー)を完成させ、各艦船に順次搭載していきました。

 日本では、いちおう昭和17年内には、レーダーの技術は実用化されていきますが、生産の資材が十分割り当てられなかったり、せっかく完成したレーダーを軍艦に搭載する際に充分なスペースを与えられなかったり、せっかく搭載されても、艦や艦隊の発想には、レーダーを主要兵器として扱う発想がなかったりと、軍全体として、レーダーの技術をシステムとして使うことは、最後までできませんでした。
 この差が最も顕著に現れ、日本軍が大敗を決したのが、1944年のマリアナ沖海戦でした。

 海戦の結果等に言及するのは控えて、最後に、日本とアメリカの新しい技術に対する取り組みの違いを二つ紹介して終わりにします。

  1. アメリカ海軍は、完成したレーダーシステムをより完全なもに熟成させるため、科学者を実際に戦闘を行う艦船に乗船させました。実験室ではなく、戦闘の場で実際の運用見て、問題点を克服していくためでした。この結果、科学者の意見も採用され、兵器はより確実なものに、仕上がっていきました。
    日本では、科学者が軍人のすることに口出しをすることなどもってのほかという風潮があり、技術開発と実戦との結びつきが希薄でした。そのため、優れた技術が運用を誤ったおかげで十分効果を発揮せず、また、戦闘経験が技術の改良に結びつく機会があまり多くありませんでした。
    どこかの部局が過度の秘密主義と優越的発想で企画を進めても、組織全体の新兵器にならないということへの教訓となるでしょうか。

  2. 日本の軍隊は、戦闘思想の面、兵器開発の面などすべてにおいて、攻撃重視の思想に凝り固まっていました。そのため、守りに徹したり、戦局の推移を見守るという意見は消極的とされるか、ひどい場合は、卑怯者の烙印を押されて排除されました。実戦部隊の軍人の多くは、レーダー技術を「守りの兵器」としてあなどり、中にはあからさまに、「卑怯者が扱う兵器」と言い放つ人もいたそうです。
    ひとつの絶対的な価値観をすべてに押し付ける社会と、合理的で自由な発想をする社会と、その違いの差は大きいといわなければなりません。

   ※NHK取材班編『ドキュメント太平洋戦争3 エレクトロニクスが戦いを制す』(角川書店 1994年) 
     P108〜112


 太平洋戦争中のレーダーに関する日本の取り組みは、日本社会の在り方を象徴するものでした。今の社会や組織にとって、「教訓」でなければ幸いです。 
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904 太平洋戦争中の海上護衛総司令部の創設はいつ?               | 問題編のTOPへ |

 海軍の専門的な部分に関する話から、いつものように、「日本人の実像」に迫ります。おつきあいください。

 まず、ここでいう、「海上護衛」の定義ですが、これは、大きな軍艦を小さな軍艦が護衛するという意味の護衛ではありません。たとえば、日本海軍の戦艦大和はアメリカ海軍の戦艦と戦うために建造された軍艦ですが、反対に、アメリカの潜水艦に襲われた場合に対抗して攻撃するシステムは備えていません。潜水艦を攻撃するのは駆逐艦という軍艦の役目です。したがって、戦艦大和にも、「護衛」は必要です。
 
しかし、ここでいう「護衛」とは、通常の物資を輸送する船舶(貨物船・タンカーなど)を敵の飛行機や潜水艦から守る「護衛」の意味です。
 

 日本がアメリカやイギリスと戦争にふみきった理由は、アメリカやイギリスの経済圏に依存することなく、「独自の経済圏」を作り、対中国政策もその経済圏に依存して独自に行う。具体的に言えば、東南アジア地域を占領して資源を支配し、自給自足的な経済圏を作って自立し、対中国戦争もお思いのままに続ける、というものでした。

 したがって、アメリカ・イギリスとの個々の戦闘に勝つことは、当然重要ですが、それと同等に、占領した東南アジアの資源を日本に運んで、経済的に自立することも重要なことでした。後者が成り立ってこそ、初めて、戦争をする意味があるのです。

 ところが、問題がありました。
 クイズ903でも説明したように、当時の日本軍は海軍も陸軍も、実際の戦闘で相手をやっつけることが第一であり、「前線から遠く離れたところで、貨物船を護衛する」という任務については、当初は、誰もまともには取り組みませんでした。

 
正解。日本海軍が、貨物船の航行を護衛する海上護衛総司令部を設置したのは、昭和18年11月。太平洋戦争開戦から、1年11ヶ月後のことでした。

 しかも、この時に挨拶した海軍軍令部総長(海軍の命令を発令するトップの役職)永野修身大将の発言は、非常に暗く情けないものでした。
「今にいたって海上護衛総司令部ができるということは、病が危篤の状態に陥って医者を呼ぶようなものであるかもしれないが、国家危急存亡の秋(とき)、関係各官の渾身の努力を切望する次第である」
 ※NHK取材班著『ドキュメント太平洋戦争1 大日本帝国のアキレス腱 太平洋シーレーン作戦』(角川書店1993年)P193

 太平洋戦争の開戦直前、ここでいう「海上護衛」について見通しが立てられました。
推定保有量 予想喪失量 予想建造量 実際の喪失量
昭和16 630      
昭和17 585 90 45 96
昭和18 575 70 60 169
昭和19 585 70 80 392

※単位は万トン。
 大井篤著『海上護衛戦』
 (新装版戦記文庫 朝日ソノラマ1992年)P51などより


 戦争が始まれば、アメリカ等の攻撃によって、日本の船舶(軍艦を除く)がどの程度被害を受けるかということについて試算がなされ、右表のように推定されました。

 この時、予想喪失量は、70万トン〜90万トンとされました。
 第一次世界大戦の結果、潜水艦による攻撃が非常に問題になると懸念する声もありましたが、次のような甘い見通しがまかり通り、その懸念が重要視されることはありませんでした。
「アメリカ人のように贅沢に慣れた国民が、潜水艦のように狭くてつらい環境に我慢できるはずがない」
 ※NHK取材班前掲書P40

 ここで、日本商船を狙った敵として、潜水艦を主役とした話をします。

 予想に反して、アメリカ潜水艦は、特に戦争期間の半ばから後半にかけて、存分な働きをします。
 実はアメリカそのものは、日本との開戦によって、第二次世界大戦に参戦した直後から、ドイツ潜水艦に悩まされ続けました。元もと陸軍国で海軍力においては他国に遅れをとっていたドイツは、第一次世界大戦と同じように第二次世界大戦においても、潜水艦(Uボート)による通商破壊作戦を実施しました。Uボートは遠くアメリカ東海岸やカリブ海に進出し、1942年前半だけで、なんと300万トンのアメリカ船舶を撃沈しました。
 
 第一次世界大戦のUボートの跳梁による被害を教訓とすることを忘れていたアメリカ海軍は、率直に間違いを認めて対策に乗り出し、すでに1939年9月の第二次世界大戦開戦以来、ドイツUボート相手に死闘を演じていたイギリス海軍に使節を送って、その撃退方法を研究しました。この結果、1942年だけで最新鋭の護衛艦を200隻建造するなどの抜群の生産力と、ドイツ潜水艦が連絡に使用する暗号を解読するといった、ハード・ソフト両面の努力の結果、ドイツ潜水艦を撃退しました。

 ドイツに苦しめられた教訓は、今度は、日本を苦しめる有効な作戦へとつながっていきます。アメリカは、日本の輸送船団の壊滅こそが、日本の戦争経済を破壊し、日本の息の根を止める重要な要素になると認識していました。
 アメリカは、日本の輸送船団の暗号を解読し、また、建造や乗員の訓練が容易な同じタイプの潜水艦を大量に建造し、日本の「シーレーン」の破壊に乗り出しました。

 実はこの潜水艦の運用にも、日米の考え方の差が現れていました。
 こと潜水艦の建造に限っては、他のすべてがアメリカと桁違いであったのに対して、日本はいい勝負をしました。戦時中の潜水艦建造隻数は、日本126隻に対して、アメリカ200隻です。
 ところが、日本の潜水艦の半分以上は、大型で、運用の主目的は、アメリカの軍艦の攻撃でした。

 これに対し、アメリカは、すべてガトー級と呼ばれる中型の、同一タイプの潜水艦でした。最も作りやすい同じ規格品を大量に建造し、それによって、日本の船団を攻撃させたのです。
 ここでもアメリカならではの合理性が発揮され、その目的は明確でした。
  ※三野正洋著『日本軍の小失敗の研究』(光人社1993年)P124
 
 オハイオ州クルーブランド市のエリー湖沿岸には、第二次大戦中のアメリカ海軍潜水艦CODが「展示」されていて当時のままの状態で見学できるそうです。その中には、乗員の楽しみのために、当時の日本海軍では考えられないような装置がそのまま残してあるそうです。

 それは、なんと、「アイスクリーム製造器」。これについて、元乗員に言わせれば、「暑くて狭い部屋に長期間閉じこめられる職場では、最高の贈り物だった。」そうです。
 ※NHK取材班前掲書P178

 こうして、大戦の後半、常時50隻以上のアメリカ潜水艦が日本船団を狙っ
 東南アジアからの日本への資源の輸送
ボルネオ島原油(単位万バレル) ビンタン島ボーキサイト
  生産量 輸送量 輸送率(%) 輸送量(単位ton)
昭和17 2594 1051 40.5 298
昭和18 4963 1439 29.0 649000
昭和19 3693 499 13.5 275000
昭和20 655 0 0 2000
             ※NHK取材班前掲書P52  森本著前掲書P71 

て太平洋上を遊弋しました。大戦全期間を通じてアメリカ潜水艦は、486万トン日本商船(貨物船・タンカー)を撃沈しましたが、これは、日本の商船の全喪失量814万トンの約60%でした。また、戦艦金剛や空母大鳳など軍艦も57万トン沈めています。

 戦争全体を眺めれば、アメリカのB29爆撃機と潜水艦が、日本を敗北へ追い込んでいったのです。
 右表は、日本が占領した東南アジアから、どうして本土へ運ぶ必要があった、石油とボーキサイトの輸送量です。
 海上輸送ルートの消滅が、日本の命取りとなりました。

 一方、日本の潜水艦は、軍艦については、アメリカの5分の1、商船について20分の1しか沈めることができませんでした。
  ※森本忠夫著『魔性の歴史 マクロ経営学から見た太平洋戦争』(文藝春秋1985年)P98

 潜水艦の話が長くなりすぎました。

 相手の軍艦だけをやつけること、それだけが華々しく取り上げられ、守るという地味なことは目を向けない。こういう体質は今にも受けつがれています。
  目から鱗「昭和時代前半の日本は何だったのか」へ
 
 少年サッカーチームで、誰がゴールキーパーをやるかは、そう簡単には決まりません。まず本人がいやがります。次ぎに、、自分の息子を「ゴールキーパーにする」といわれたら、父親・母親の多くは、あまりいい顔をしません。
 これだけサッカーが理解されてきても、多分そうだと思います。

 サッカーの話は、別のところでしましょう。
 「なんだこりゃったら なんだこりゃ 趣味はサッカー2 民族の文化」
 


905 ガ島の日本兵がご飯を炊く時に使った燃料とは何か?              | 問題編のTOPへ |

 正解は、ローソクです。
 授業の時はコピーした写真を見せることができるのですが、Webサイトでは、著作権上不可能です。もとの写真は、次の本に掲載されています。
 ※木坂順一郎著『昭和の歴史7 太平洋戦争』(小学館1982年)P122

 もちろん、いつもいつもローソクでご飯を炊いたわ
青線部分の拡大図が下

けではなく、また、反対に、ローソクがあるというのは、まだ物資の比較的充分にあった状態を示しています。

 もちろん、このクイズは、ほんのエピソードで、ガ島に関する深刻な問題は、こんな話で片づけることができることではありません。

 ガ島は、日本の南約6000q、現在はソロモン諸島(これが正式名称の国)の首都、ホニアラがある島です。1978年に独立しました。大きさは四国の3分の一程度の島です。

 ソロモン諸島全体で人口は約37万人、魚(カツオ・マグロ)・木材・コプラ・パーム油などの輸出品があります。調べるまで私も知りませんでしたが、輸出相手国の第1位は日本で、50%近くを占めています。

 この島は、1893年にイギリス領となり、20世紀になってからは、オーストラリアの委任統治領でした。
 
 1942年日本軍が上陸しなければ、多分日本人には知られないままの島だったと思います。
 
 日本軍が何故この島に上陸したのから説明をはじめます。

 日本軍の太平洋における対米戦略は、潜水艦等補助兵力でアメリカ艦隊を漸減させたあと、内南洋の基地攻撃部隊と協力して、連合艦隊がアメリカ艦隊主力を殲滅するというものでした。

 この内南洋というのは、サイパン島・パラオ島・トラック島などの島々のことで、第一次世界大戦後ドイツから奪って植民地としたものです。(正式には国際連盟委任統治領)内南洋の最大の海軍基地がマーシャル群島のトラック島でした。この島は、ちょうどアメリカ海軍におけるハワイのような存在でした。
 そして、この基地を守るために、開戦初頭の作戦のひとつとして、ニューブリテン島ラバウルの攻略が実施され、前進基地が設営されました。

 さて、開戦初頭の奇襲でハワイの太平洋艦隊の戦艦群を壊滅させ、一方所期の目的どおり東南アジアの英米蘭の植民地を奪取に成功した日本海軍は、当初の予定にはない第2段階の新たな攻勢作戦を計画実行しました。

  1. ニューギニア東部のポートモレスビー攻略

  2. ミッドウエイ攻略

  3. ニューカレドニア攻略

  4. フィージー攻略

  5. サモア攻略

 1・3・4・5の目的は、アメリカとオーストラリアの分断です。
 これにもとづいて、1942年6月にミッドウェー島の攻略作戦が実施されますが、ミッドウェー海戦での空母部隊の大敗北によって頓挫してしまいす。この結果、作戦の3・4・5は、延期されます。

 ところが、今度は、オーストラリアから島づたいに来ると予想される敵の反抗を阻止するために、SN作戦が実行に移されました。ソロモン諸島及び東部ニューギニアにおける航空基地建設獲得作戦です。
 
 これは、内南洋の根拠地マーシャル群島トラック島を守るために、ニューブリテン島ラバウルに前進基地を建設し、次は、ラバウルの安全を確保するために、さらに遠方に航空基地を作るという発想のものでした。

 その適地として海軍が選んだのが、ラバウルからいきなり1020qも離れたソロモン諸島のガダルカナル島です。
 かくて、1942年7月1日には、日本海軍の基地設営隊の先遣隊が、ガダルカナル島に上陸しました。
 
 ところが、アメリカ軍は、日本軍の予想より早く、ソロモン諸島方面での反攻作戦、ウォッチ・タワー作戦を計画していました。
 ガ島への上陸に危機感を感じたアメリカ軍は、8月1日をもって反攻を開始したのです。
 8月7日にはアメリカ海兵隊第一師団が、ガ島に上陸し、基地設営隊がほぼ完成にまでこぎつけていた飛行場の滑走路を難なく占領します。
 作戦終了までにアメリカ軍は此島に海兵隊・陸軍合計6万人を投入。こ
の島こそが、太平洋戦争において、アメリカ軍が本格的に反抗を開始した最初の戦いの場となったのです。

 一方、8月18日、日本軍は、飛行場奪取のための部隊を再上陸させ、これ以後、合計3万名の将兵をガ島に送り込み、アメリカ軍海兵隊と熾烈な飛行場争奪戦が展開されます。

 根拠地からはるか離れた島での争奪戦は、実は、
補給戦を意味しました。 これがこの島での戦いの本質でした。
 軍全体として、
補給(兵站)を軽視し、何でもかんでも積極駅に進めばいいという、日本軍のいわゆる「いけいけどんどん主義」が、このはるか離れた島を戦いの場としました。当然、状況はすべて不利に展開します。
 
 アメリカ軍の本格的反抗はもう少し遅いだろうと考え、万事に楽観的だった日本軍の情勢判断は、戦いへの取組を誤らせました。投入兵力の量、装備している砲撃力、航空兵力などについて、しっかりとした敵情勢の判断を実施せずに、いずれも日本軍の「期待値」を持って敵の戦力と「想定」し、結果的に、敗北のした上、この島から
撤退をすることで終わりになるのです。 

 結果的に、この島をめぐる6か月あまりの攻防戦は、ミッドウェー海戦で受けた航空母艦4隻沈没以上の決定的なダメージを日本に与えました。

 いえ、そうはいっても、日本軍が負け続けたわけではありません。ガ島の奪取には失敗しましたから、陸軍の戦い上は、「1敗」かもしれませんが、海軍は、この間に生じた6度の大きな海戦で、公平に見積もって、3勝2敗1引き分けぐらいの成績を収めています。
 両軍の被害を比較すると以下のようになります。
日本 被害項目 アメリカ
24 海軍喪失艦艇隻数 24
130,483 同排水量トン 126,240
893 喪失航空機
2362 戦死搭乗員数
約19200 陸軍戦病死 1598

※児島襄著『太平洋戦争 上』(中公新書1965年)P329

 少なくとも海戦では、海軍はアメリカと互角の戦いをしました。

 しかし、問題は、そこではありません。
 ガ島攻防戦の根本的なダメージは、「補給戦」に敗れたことにありました。
 
 海軍の航空基地ラバウルより1020q彼方のガ島では、日本軍機が制空権を握るのは至難の業でした。防御力を犠牲にして戦闘能力と航続距離を限りなく追求した海軍の戦闘機ゼロ戦ですら、ラバウルからガ島上空までの往復は燃料の限界ぎりぎりで、上空での戦闘時間は僅か15分ほどしかついやせませんでした。
 したがって、ガ島奪取のため合計3万人もの陸海将兵を上陸させた日本軍でしたが、昼間における輸送船による大規模補給はほとんど失敗してしまいました。

 この結果、闇夜に紛れての駆逐艦による輸送等が行われましたが、補給量は当然目的には達しなかったのです。
 次は、ガ島攻防戦最後の3ヶ月(11/25〜1/31)の輸送実績です。
輸送計画量 輸送回数 中止・失敗 ガ島への揚陸量 達成率
3305トン 60 23 756トン 22.9%
※児島前掲書P315

 揚陸できた756トンのうち、食糧は686トンでした。一人1日1sが標準として、11月末時点の生存予想者23000人の、1ヶ月分です。もちろん、島のあちこちにいる将兵に公平に配布されたという仮定の下の数値です。実際にはそんなことはあり得ません。

 この結果、ガ島は、「餓島」となっていきました。
 2月上旬の撤退時に撤退できたのは1万人。ガ島で倒れた差し引き2万人近くの将兵の内、戦死者約8200人、戦病死者は1万1000人と推定されています。
 戦病死者のほとんどは、補給不足から来る栄養失調、病気によるものでした。
 
 ガ島戦について書かれた戦記・歴史書の中では必ず引用されるある少尉の陣中日誌をここでも引用します。書いた人物は、1942年8月末にガ島に上陸した混成第35旅団(部隊長の名を取って通称河口支隊)の歩兵第124連隊の連隊旗旗手小尾靖夫(こびやすお)少尉。
 衰弱していく兵士たちの残り寿命の判断を書き留めた、12月27日の箇所です。
立つことのできる人間 30日間
身体を起こして座れる人間 3週間
寝たきり起きられない人間 1週間
寝たまま小便する人間 3日間
ものを言わなくなった人間 2日間
またたきしなくなった人間 明日
※半藤一利著『遠い島ガダルカナル』(PHP研究所2003年)P339

 補給がままならず、多く将兵が犠牲になった話をしましたが、ガ島戦の根本が補給戦にあったことの重要性、日本軍が受けたダメージは、多くの将兵が飢餓で倒れた事実と、もうひとつ、この攻防戦で、日本軍は多くの飛行機・搭乗員・輸送船を失い、回復しがたい打撃を被ってしまったことにあります。

 政府は開戦当初、輸送船など船舶の喪失を1ヶ月7〜8万トンと予想していました。ところがこの予想は、ガ島攻防戦の開始とともに大きく崩れてしまいました。1943年後半期の総喪失量は、124隻60万2千トンにも及び、同じ時期の建造量、42隻15万2千トンを大きく上回ってしまったのです。
 これが、その後の戦争経済を破綻させていく大きな要因となりました。(「詳細はクイズ904へ
  
 太平洋戦争を区切って位置づけた場合、このガ島攻防戦は、その第2段階の「連合国軍の反攻と日本軍の戦略的持久」といわれます。
 この戦いで、結局は、
補給力に勝るアメリカ軍が日本の脆弱な補給力を圧倒しひとつの島の占領成功にとどまらず、日本軍の戦略的持久を破綻させた戦いとなったのです。

 今、50数年前日米両軍が血みどろの争奪戦を展開したガ島飛行場は、ホニアラ郊外のヘンダーソン国際空港となっています。

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906 ガ島の戦いでアメリカ軍が行った情報収集とは?                       | 問題編のTOPへ |

 このクイズでは、太平洋戦争中における日米両軍の情報収集に関する考え方の相違について考えます。もちろん、日本のそれは、わが国民性・社会性に根ざしたもので、結論は今の社会の「警句」としても転移できるものと思います。

 「ガ島クイズその1」で説明したように、ガ島攻防戦は、アメリカ軍にとって、初めての本格的な反攻戦となりました。
そのため、アメリカ軍は、まず、敵の事情を知るために、つまり、「これから自分たちが戦う日本軍というものはどんな軍隊か、日本人とはどんな人間なのか」を知るために、ずいぶんの労力をかけました。

 それというのも、ガ島戦の前の1942年前半までの段階では、アメリカ軍は、日本軍というものがどういうものかについて、極めて曖昧な迷信的な情報・イメージしか持っていなかったからです。 
 そうなってしまったのは、次の理由です。

  1. もともと戦前において、今と違って通信情報網が未発達なこともあって、アメリカは、日本についてほとんど知識を持っていなかった。その具体例が、ルーズベルト大統領その人が、「日本のパイロットはすべて近眼で、常に敵に先に発見されてしまう。撃墜は容易である」なんてことを信じていたという事実である。それが、薄々知りながら真珠湾の奇襲を許してしまう原因であった。(これについては、クイズ902参照

  2. ところが、真珠湾での手痛い敗北を始め、フィリピンなどで極東アメリカ軍(本国軍と植民地軍の混成)が敗れたため、緒戦の半年間に、今度は日本軍に対する「恐怖」のイメージができあがってしまった。

  3. その例は、「日本人はジャングルに生まれて猿みたいに木の上に住んでいるから、ジャングル戦に強い」とか(日本にジャングルなどないのに)、「日本兵は一握りの米と干し魚の屑で生き抜くことができる。また完全装備で20qの行軍をすることなど朝飯前だ。山間地やジャングルでは信じられないような戦闘技術を示し、多数の命の犠牲をものともしない」とかいうものであった。
     ※NHK取材班編『ドキュメント太平洋戦争2 敵を知らず己を知らず ガダルカナル』(NHK出版1994年)

 日本軍を、スーパーマンか、「鬼神」のように考えるイメージができあがっていたといえます。戦いでは、敵を過小評価してなめてかかることも、過大評価してあまりに恐れることも、どちらも勝利にはつながりません。

 かくて、アメリカ軍は、本格反攻戦に際して、情報収集にかなりの力を注いだのです。「戦うには、まずは敵を知れ。」古来からいわれつづけていた普遍的原理をアメリカは着実に実行したのです
  
 しかし、この情報収集作戦は、泥縄式に始まったのではありません。
 アメリカ海軍は、すでに、1941年6月、つまり開戦の約半年前から、陸軍は開戦直前の11月から、軍の中に学校を作って、日本語の分かる「白人の語学将校養成」を目指して、日本語教育が進められていました。
 全米各地から日本に住んだ経験のあるものや語学力のあるものが集められたのです。

 彼らは、たとえ、肉体的には貧弱で本来のアメリカ軍士官としての条件が備わっていなかったとしても、また士官学校を出ていなくても、ただ日本語が解読できるという特技だけで、語学将校として軍の中で一定の地位を築いていきました。

 ガダルカナル戦には、まだ少数でしたがその第1期生が部隊に配属され、日本語の情報収集に活躍できたのです。
 その手段の第一は、日本軍が遺棄した文書の翻訳です。第二は、少数ながら存在した捕虜となった日本軍将兵の尋問でした。

 さて、ここでクイズの正解です。
 日本軍将兵が遺棄した文書の中で、日本軍将兵の「実像」をつかむことができた情報源とは、実は、日本軍の将兵が手帳などに、書き残した膨大な数の日記でした。
 
 アメリカ軍将兵にはそういう習慣はあまりなかったため、日記がそれほどあるとは予想されていませんでした。しかし、今無昔も律儀な(?)日本人将兵は、ガ島のような過酷な戦場でも、実にたくさんの日記を書き残しており、それが、戦病死して遺棄された死体とともに残され、アメリカ軍の手に入り、翻訳されたのです。
 ※翻訳文書群は、今もワシントンのアメリカ海軍歴史センターに保存されています。
   戦争中、すべての日本軍情報を集めていた太平洋地域情報センター(略称ICPOA)の報告、
   『ICPOA報告』という文書群です。
   このページの引用部分は、NHK編の前掲書からの孫引きです。
 
 アメリカ軍は、日記などから収集した日本人将兵の生の声を、アメリカ兵を勇気づけるプロパガンダとして配布しました。 
   ※NHK前掲書P143

  • 「我が軍の中には日本兵というのは恐れを知らないとう印象をもっている者もいるようだ。しかし、人間なら誰しもそうであるように、日本兵も怖がっているし、逆境におちいれば士気が落ちるのだ。
    ・・・以下の抜粋は、日の昇る国の小男どもがいかに恐れ、失意しているかを示すために選ばれ再構成されたものである。」

  • 「昨夜は爆撃の轟音で一睡もできなかった」

  • 「今日も食事にありつけなかった」

  • 「我が軍の士気は落ちている。司令部から新しい情報は来ないし、俺たちは戦意を失ってしまった」

  • 「家のことを思い出して、眠られなかった」

  • 「部隊のほぼ全員が病気だが、どうしてやることもできない」etc

 苦境の中で飢えで病気で死んでいった日本軍将兵の最後の声が、ワシントンに眠っています。
 もちろん、日記以外、部隊の配置等を記した作戦文書が翻訳され、アメリカ軍の作戦に利用されたのはいうまでもありません。

 ところで、もう一つの情報入手の手段、捕虜尋問も効果を上げました。
 日本軍将兵は捕虜となることを潔しとしない教育を受けていたため、死を恐れず全滅覚悟で最後まで戦ったり、あるいは、動けなくなると自決したり、壮絶な最期を遂げた場合がほとんどでした。
 しかし、意識不明のまま助けられるとか、餓死寸前で動けないまま捕らわれるとか、いろいろな形で結構多くの将兵が捕虜となりました。ガ島だけで、100名以上の捕虜の尋問調書が残されています。

 捕虜を尋問した語学将校の記憶では、日本人将兵は、最初はかたくなでなかなか口を開かないが、一旦話し始めると、たいていの場合知っていることは何でも、たとえ軍事機密に当たることでも話してしまったということです。
 アメリカ軍は、捕虜となった場合のことも想定してどこまでしゃべっていいかを訓練していました。
 しかし、日本軍の場合、はなから捕虜となることは想定されていませんでしたから、どこまでしゃべるという訓練などなされているはずがありませんでした。

 ご承知のように、開戦と同時に日系人はアメリカ国内の収容時に入れられてしまいましたが、1943年からは、2世語学兵も続々と戦線へ投入され、語学将校のもとで、日本軍・将兵の遺棄した文書の翻訳や捕虜の尋問に当たりました。この成果は、加速度的に日本軍の正体を明らかにしていきました。

 いろいろなことを総合した結果、アメリカ軍は日本兵の正体を正確に掴みました。
 『ICPOA』の文書の中に、「日本兵の正体」という文書があり、次のようにするどい分析がなされています。

  • 戦前われわれは、日本兵を恐れながらも過小評価した。その後、ガダルカナル、ニューギニアの戦いでは逆にスーパーマンと呼ぶほど過大評価した。しかしここにいたって、われわれはついに日本兵の真の姿を捉えることができるようになった。
    まず、日本兵はスーパーマンではない。単に胴長短足のぶざまな小男にすぎない。賢いところもあるにはあるが、多くの点で極めて愚かである。確かに我慢強く一徹であるが、他の国の兵士と比べて想像力に欠け、決してことさら勇敢というわけではもない。

 われらの父祖達は、何故までにこのようなマイナス評価を受けなければならなかったのでしょうか。

 最大の問題点は、日本軍攻撃のパターンにありました。
 当時の兵隊にとって教科書的な存在であった『歩兵操典』は、その冒頭にこう記しています。

  • 「訓練精到にして必勝の信念堅く・・・・攻撃精神充溢(じゅういつ)せる軍隊は能(よ)く物質的威力を凌駕して戦捷(せんしょう)を完(まっと)うし得るものとす」(ふりがなは当サイト作成者)

  • 現代語訳(^.^)…「訓練をしっかりやれば必勝の信念は強くなり…攻撃精神があふれんばかりの軍隊は、物質的威力をうち破ることができ、戦いに勝つことができるものとする」(訳は当サイト作成者)

 日本陸軍では、あの日露戦争の旅順攻撃以来、大砲や飛行機などの火力の支援などを当てにせず、ただひたすら銃を持った歩兵の突撃による正面攻撃法が、その伝統になっていました。

 日本軍は、ガ島においても、1942年8月の最初の攻撃も、その後の9月と10月の総攻撃も、アメリカ軍の強力な砲撃力を確認しようともせず、さらには、敵歩兵の人数すら正確に確かめようともせず、自分の都合がいいように低く見積もって、攻撃を実施しました。
 夜陰に紛れて敵に肉薄し、大和魂によって突撃を敢行、最後は相手陣地に飛び込んで、歩兵銃の先に付けた銃剣で相手を刺すという攻撃方法です。これが日本軍が得意な、夜間白兵突撃です。
 
 そして、結果は3度とも、アメリカ軍の火力の前に惨敗を喫します。3度とも同じ結果でした。そして、10月以降の4ヶ月間は、クイズ905で説明のとおり、生き残った日本軍は飢えとの戦いを余儀なくされます。

 ガ島戦の最中に担当の陸軍第17軍司令部で書かれたと思われる、『対ガ島米軍戦闘参考』には、次のような一説があります。 

  • 「火力の支援なき米兵は脆弱にて戦闘間容易に手を挙げ、または負傷せば直ちに悲鳴を揚ぐる等、格闘力並びに精神力の認むべきものなきも、火力の支援下においては相当積極的に行動す」

 火力の支援がないことなど想定しても、単なる慰めにしかなりません。その火力にどう対応するかが問題なのです。
 日本軍歩兵の持つ銃は、三八式歩兵銃(1905(明治38)年に採用)もしくはそれを改良した九九式歩兵銃でした。この二つは、弾丸の発射能力については同じです。一度に弾丸を五発装填できるものでしたが、一度打つとレバーを操作して空薬莢(からやっきょう)を取り出さなければならないもので、連続発射はできません。

 これに対して、アメリカ海兵隊は、映画などでお馴染みの連続発射ができる自動小銃や歩兵銃を装備していました。
 日本軍でもこれを作る技術はあったのですが、もしこれを採用すると弾丸の消費量が莫大なものとなってしまうため、あえて、一発ずつしか発射できない三八式を持たせ、一発必中の訓練をさせる方式のままにしたという逸話があります。
 日本の工業生産力はそのくらいのものでした。

 折しもガダルカナル戦と同時期、1942(昭和17)年後半には、国内で英語を敵性語として排除する方向が明確となってきました。
 1943年3月には、日本野球連盟が審判用語を日本語化しました。かの有名な、ストライク=よし、ストラック・アウト=それまで等の奇妙な言葉が使われ始めました。
 まあ、一般社会では、敵愾心をあおるため、いたしかたないとしましょう。

 しかし、1943年5月、海軍の士官を養成する広島県江田島の海軍兵学校で、英語教育を廃止するかどうかの協議が行われ、英語教官以外は全員廃止すべきとなったことには驚きです。
 敵と戦う指揮官である将校が、敵を知るための相手の言語を学ばないというのは、いかにも視野の狭い発想です。
  しかし、この時は、42年11月から海軍兵学校の校長を務めていた海軍中将井上成美の判断によって、存続が決まりました。
   ※阿川弘之著『井上成美』(1986年)P335

 ガ島クイズ1で引用した半藤一利氏が、著書のあとがきでいっています。それを結びとしましょう。
「本書を書きながら、過去に学んだことを、また学び直しているように感じられてならなかったのは、ごく自然ということになる。戦前の日本人とはなぜか歴史に何も学ばなかった民族のようである。いや、今の日本人だって……とするのは、為にするということになるであろうか。」
  ※半藤一利著『遠い島ガダルカナル』(PHP研究所2003年)P374


 ただただ、南の島に屍をさらした父祖の悲劇に哀悼の意を表するのみです。

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