自由民権・日露戦争1
<解説編>

701 機関銃製造会社と同名の事務機器(文具)のメーカー名は何ですか。          問題編へ

 正解は、ホチキス

 アメリカコネチカット州生まれのベンジャミン・バークレイ・ホチキス(Benjyamin Barkley Hotchikiss 1826-1885)は、最初大砲の弾丸を改良するなどの仕事をしていましたが、1872年に5本の銃身を共通軸の周りで回転させて弾薬の供給と発射を連続的に行うことができる機関銃を発明し、会社を興しました。彼の死後もホチキス社はガス圧を利用した空冷式の機関銃を作成するメーカーとして発展します。日露戦争中に日本軍が装備した「保式機関銃」も同社のものでした。(「保式」はホチキス社製の意味)
 
一方事務機のホチキスは、いつ発明されたかは正確にはわかりませんが、機関銃の弾送りがヒントとなってホチキス社が作成したというのが通説です。直接の発明者はベンジャミン本人とも、弟のエーライ・H・ホチキスとも言われています。1994年のフジテレビの番組「なるほど・ザ・ワールド」では、後者の説を紹介しています。
 
 事務機のホチキスは、1903年に大阪の伊藤喜商店(現在の有名な事務機器メーカー、株式会社イトーキ)によって日本への輸入が始められます。したがって、日露戦争(1904年・05年)当時には、機関銃のホチキスと事務機のホチキスと両方があったことになります。事務機については、 http://www.itoki.co.jp/company/shiryo_frame.html 参照。
 ※大江志乃夫『日露戦争と日本軍隊』(1987年立風書房P217)


702 世界的兵器メーカーが次の戦争のために生産を考えた製品は何ですか。       問題編へ

 正解は、有刺鉄線。(鉄条網)

 日露戦争が世界史の軍事史上画期的な戦争となった最大の理由は、兵器の驚くべき発達にあります。
 陸軍に関してだけ言えば、機関銃・速射野砲・迫撃砲・手榴弾などです。
 
 特に機関銃の出現は歩兵の戦闘を根本的に変えてしまいました。堅固な陣地に潜んだ機関銃は、歩兵の前進を阻むことができるようになりました。それまでの戦争は、城を攻める場合(攻城戦)は別として、どんな大軍が戦う場合でも、1日以上続く戦闘はまれでした。ナポレオン時代の戦闘もしかり、プロシアのヴィルヘルム1世の普仏戦争もしかり。
 ところが、日露戦争は、すべての陸戦が何週間単位の戦闘となりました。お互いが機関銃を配置した堅固な陣地を作って、幅何キロにもわたって長期間対峙するという形が一般的になったのです。いわゆる陣地戦です。第一次世界大戦では、その規模は遙かに拡大し、西部戦線ではスイス国境からドーバー海峡にまで及びました。こういう形の戦争では、大量の人員・武器・弾薬が消費され、予備部隊の投入・弾薬等の補給が勝利への重要な要素となります。
 
 日露戦争時点では、そのような「戦争の形態の変化」を正確に分析していた国や軍人は多くはありませんでした。日本軍自体、大量の予備部隊と確固とした補給が重要であるという「20世紀の戦争」を認識することは不十分でした。話が先に行きますが、太平洋戦争の時代になっても、日本陸軍は、補給を軽視した「勇猛な突撃による一撃撃破」を夢見て、アメリカ軍の物量作戦(これは巨大な補給力が前提です)の前にやたら犠牲を増やすことになります。
 ドイツのクルップ社は、例外的に、新しい戦争の到来を確信的に認識しました。つまり、将来の戦争の主流となる陣地戦に備えて、針金工場を買収したのです。もちろん、陣地戦の必需品である陣地を守る有刺鉄線(鉄条網)を大量に生産するためです。

 今の生徒諸君には、鉄条網は、簡単に発想できるものではありません。戦争映画やパソコン等のゲームの戦争物を見ている生徒は少ないからです。「兵器会社」という言葉につられて、手榴弾・地雷など物騒なものを考えがちです。そこで、授業では、現物の鉄条網を箱などに入れて持っていきます。出題の時に、「今ここに現物を持っている」という形にすると、生徒は鋭く推察するグループとますます困惑グループに分かれます。そこがまた楽しい所です。
 ※大江志乃夫『日露戦争と日本軍隊』(1987年立風書房P216)
 


703 「あゝ野麦峠」の「野麦」とは、峠に群生する植物のことです。何でしょう。        問題編へ

 山本茂実の『あゝ野麦峠』の初版が朝日新聞社から出されたのは、昭和43年(1963年)のことです。48年には新版が出され、現在では角川文庫版も出されています。山本氏は、平成10年(1998年)3月28日に81歳で他界されましたが、それまでの30年余の間に、この本は250万部も売れるベストセラーとなりました。社会科の教師なら必読の本のひとつです。
 
 1979年には監督山本薩夫、主演大竹しのぶで同名の映画となり(東宝映画)、腹膜炎を患った主人公政井みねが野麦峠の頂上で「ああ飛騨が見える」といって息を引き取るシーンは、観客の涙を誘いました。(この作品は今の生徒には、当然ながらまったく知られていません。ビデオを見せるのもひとつの手ですが、「話」だけで授業を盛り上げることができる素材だと思います。)
 
 飛騨の娘たちが工女になるべく通った道、野麦街道は、高山から美女峠通って高根村から野麦峠を越え長野県奈川村を経て松本にいたります。工女たちはさらに塩尻から塩尻峠を越えて、当時の製糸の中心地岡谷・諏訪まで行ったのです。その昔は、富山湾で採れたぶりを信州に運ぶ道筋であり、鰤(ぶり)街道と呼ばれました。
 
 野麦峠は標高1672メートル、今は全線舗装されていますが、豪雪地帯のため、雪が降り始める11月10日前後から、5月1日まで、およそ半年間閉鎖されます。岐阜県は、すでに完成した安房トンネル(国道158号線)についで、この峠の下にも「野麦トンネル」を掘る計画を持っていて、平成12年度から調査費が計上されています。

 野麦峠には、野麦峠の資料館、峠の茶や、そして、兄に背負われた政井みねの石像もあります。そして、その峠に群生する
野麦とは、クマザサのことです。
 
 「十年に一度ぐらい平地が大凶作と騒がれるような年には、このササの根元から、か細い稲穂のようなものが現れて、貧弱な実を結ぶ。これを飛騨では<野麦>といい、里人はこの実をとって粉にし、ダンゴを作って、かろうじて飢えをしのいできたという。」(『あゝ野麦峠』P9)
 峠の様子は、私の旅行記「滑川・野麦峠旅行」で確認ください。こちらです。
 
 また、ハンドルネーム「KAZZ」さんサイトをご覧ください。写真が一杯です。
 http://www.ne.jp/asahi/kazzbon/iminonaihp/index1.html
 
生糸と繭の現物の写真は、「現物教材」のページへ。


704 生糸と日露戦争の日本海海戦の大勝利の関係は何でしょう。                問題編へ

 野麦峠と工女の話を授業にするとしたら、前問のクイズは、峠の高さを植生で説明するほんの導入の部分です。
 クイズには、そういう性格のものもあれば、授業で理解しなければならない根幹に関わるものもあります。この問題は後者の方です。

 一般に授業の順序は、明治時代の政治史を一通り学んで、次に経済史・社会史と進みます。野麦峠と工女を学ぶときは、生徒は日本海海戦も生糸の輸出のことも知っているはずです。本当にうまく定着していると、次のような素晴らしい答えがたくさん返ってきます。
 「
工女の紡いだ生糸は日本の最重要の輸出品→その輸出でかせいだ外貨で軍艦などの武器の輸入→その軍艦のおかげで日本海海戦で大勝利
 授業者としては、ノーヒントでほとんどの生徒が正解を出してくれれば、嬉しさこの上なしです。

 日本は日清戦争後に、対ロシア戦争を想定して大軍備拡大政策を採ります。日露戦争開戦当時、連合艦隊司令長官東郷平八郎の麾下にあったのは、三笠以下の戦艦を含めて総合計152隻、26万5000トンの大艦隊でした。これは10年前の日清戦争時の海軍の4倍に当たる戦力です。すなわちこの10年間で、トン数にして20万トンに及ぶ軍艦を建造しました。とりわけ重要なことは、もっと後の時代にはあの名戦艦大和に代表されるように、日本の軍艦建造技術は世界最高の水準となりますが、この時代では、軍艦の最大の艦種である戦艦を作る技術は日本にはなかったことです。つまり、それはすべて輸入品であったのです。それらの輸入を現実に可能としたのが、生糸による外貨獲得でした。
 工女が「男軍人女は工女 糸をひくのも国のため」と歌う時は、日本の経済を底辺で支える彼女らの誇りがあったはずです。


705 工女に「どうしてこんなにつらいところで働くの」と質問したときの答えは?       問題編へ

 これは、野麦峠と工女の学習のハイライトとなる、最も大事な部分のクイズです。
 もちろんこの時代の日本の平均的労働者が現代と比較すれば、権利も認められずに劣悪な条件で働いていたことは間違いありません。工女たちも大正の末期から昭和かけて、労働条件の改善を求めて争議を起こしますが、ほとんどは敗北します。
 しかし、山本茂実は書きます。

「青くさい文学青年的発想のセンチメンタルはかえって有害である。筆者が長年かかって数百人の元工女と話し、考え続けた問題はそこにあるが、知り得た範囲では、従来いわれて来た画一的な<哀史>とはよほど違ったものだった。」(『あゝ野麦峠』P336)
 山本氏が聞き取った結果をまとめた右の表は、彼のこの著書の最も重要な部分です。彼女らの生活が「かわいそう」と思うのは、現代人の感覚が勝手にそう思いこませるのであって、実はそうではないのです。彼女らは、飛騨の村で暮らしているよりは、結果的に良かったといっているのです。

 飛騨には、いやそのころの日本の農村には、朝暗いうちから夜遅くまで長時間働いても、なおかつ米の飯にはありつけず、麦飯・ヒエ飯しか食べることができなかった現実がありました。
 
 この問題の正解、工女はこう答えます。「
え?つらいですって?そんなことありません。村にいるよりはましですよ。
 この問題は、生徒諸君から正解がでることは滅多にありません。
 だからこそ、「目から鱗」の話として、必ず語らねばなりません。 


706 岐阜で暴漢に襲われた時の板垣退助の名セリフは何。                    問題編へ

 1881年の国会開設の詔によって、国会の開設を目指して政党が結成され、板垣退助を党首とする自由党が誕生しました。

 板垣は、1882年3月末に岐阜に入り、4月6日現在の岐阜公園内にあたる富茂登の神道中教院で大懇親会が開かれました。板垣は濃飛自由党員ほかの参加者100余名の前で1時間半以上に及ぶ演説を行います。彼は以前から喉を痛めていたこともあり,演説後の酒宴の半ばで退座し一人で玄関に出ました。その時,愛知県知多郡の教員相原が,短刀を持って板垣を襲ったのです。 
 
 犯人相原はその場で取り押さえられ,岐阜警察署で取り調べられましたが,犯行は「民権運動は天皇制をあやうくする」と考えた彼の個人的意志によるもので,政治関係はありませんでした。しかし,事件直後,多くの自由党員は犯行は政府の刺客によるものと誤解し,自由党副総理中島信行,植木枝盛らが岐阜に駆けつけるなど,岐阜は一時多数の自由党員であふれました。

 「板垣死すとも」の名セリフは,事件5日後の朝日新聞に初見され,1910(明治43)年に板垣自身の監修で発刊された『自由党史』にも,刺された直後板垣が犯人に叫んだと記述されています。
 但しあまりにも名セリフのため異説もあります。
 犯人を取り押さえの現場にいた自由党の幹部内藤魯一が言ったという説もあれば,また,運ばれた病院で土佐弁で言ったという説もあります。

 但し,すぐに現場に駆けつけた警官が事件五日後に提出したこの資料には,「吾死スルトモ自由ハ死セントノ言ヲ吐露スル中」とあり,有力な客観的証拠といえましょう。

 さて、その土佐弁とは、
「おらが死んだっち、自由が死ぬるかねや」です。
 事件から36年後の1918年、岐阜公園内に事件を記念した銅像が建設されました。板垣は銅像完成式に出席し演説しました,名セリフの真偽については全く触れませんでした。最初の銅像は、
戦時中の金属供出で撤去され,戦後再建されています。

 岐阜での自由民権運動は、予想外の事件によって一時の高揚を見ました。しかし,その反動として,事件後の岐阜県令小崎利準の苛烈を極めた弾圧政策や,自由党と改進党の対立などによって,むしろ、大きく飛躍することなく,退潮期に入ってしまいます。
 ※鈴木健二『歴史への招待8 板垣死すとも』(1980年日本放送出版協会)


707 日本の歴史上を初めて来訪した外国の国家元首はどこの国の人。           問題編へ

 二つのヒントは、いろいろ考えさせられように、ヒントらしくないヒントになっています。
 1のヒント、「今はない」というのは、国の名前が変わったのか、それともどこかの国の一部になってしまったのか。
 2のヒント、「隣国」というのは、日本は島国なのですから、厳密には隣国はないはずですから、、海を隔ててそう遠くないという意味です。
 これは少々難問で、生徒諸君の正答率はそれほど高くありません。

 正解は、1881年に来日した、
ハワイ国王カラカウア1世です。
 まず、ハワイが独立の王国だったことから説明します。
 
 ハワイ諸島には、紀元前にすでに、他のポリネシアの島々から人が渡ってきたとされていますが、詳しいことは分かっていません。
 ヨーロッパ人として最初にこの地に行き着いたのは、イギリス人ジェームズ・クックです。クックは、1778年3度目の太平洋探検の歳に、オアフ島に到達しています。彼は、翌年再び訪れますが、この時島民に殺されています。
 
 その時期はちょうどハワイ諸島の統一が進んでいた時期でした。 
 統一の立て役者者は、1758年にハワイ島で生まれたカメハメハ大王です。
 彼は、1794年にはマウイ、モロカイ、ラナイの島々を、1795年にはオアフ島を制圧し、1810年にはカウアイ島の盟約の形で迎えて、ハワイ全島の統一に成功しました。この時の首都は、マウイ島のラハイナにありました。

 カメハメハ2世の時代には、アメリカのボストンからキリスト教の宣教師団が訪れ、ハワイはその後20年でキリスト教国となります。
 一方でアメリカ人をはじめとする白人の移住も増加し、太平洋の商業の拠点・捕鯨基地として発展していきます。
 1842年には、新憲法を発布し、立憲君主国として世界から承認されました。翌年、首都は、オアフ島のホノルルに移されます。

 ところが、次第に、国内に白人資本家の勢力が台頭していきます。
 日本にやってきたカラカウア国王が1874年に王国議会選挙によって即位した時は、議会の有力者も白人に占められていました。

 1881年カラカウア国王が来日した目的は、日本との友好関係を樹立して、ハワイ人による政権を確保する支えとするためでした。
 具体的には、明治天皇との会談等を通して、国王は日本に対して次の提案をしました。
  @ 国王の姪と日本の皇族との婚姻
  A 日本とハワイとの連邦の
  B ハワイへの日本人移民の要請
 
 維新後まもない日本政府はアジア政策に奔走中で、@・Aの政治的な動きには同調できませんでした。
 このあと、カラカウア国の死後、1891年に妹のリリウオカラニ女王が即位しますが、2年後に白人による王制打倒クーデターが起こり、1893年ハワイ王国は消滅しました。(リリウオカラニ女王は、「アロハ・オエ」の作曲者でもあります。)
 この後成立したハワイ共和国は、アメリカ系白人の独裁政権でした。このもとで、予定通り、ハワイはアメリカに併合されていきます。
1898年、「ハワイという国」は消滅しました。
 その後、ハワイは太平洋の重要な軍事拠点となり、オアフ島を中心に、アメリカ陸海軍の基地がおかれます。そして、1941年12月7日(アメリカ時間)には、太平洋戦争の劈頭の戦いとなる、真珠湾奇襲攻撃が行われるのです。その時のハワイの人口はおよそ40万人、日系人はその40%を占めていました。
   ※映画「パールハーバー」の説明はこちらへ。

 第二次世界大戦後、1959年時の大統領アイゼンハワーによって、ハワイはアメリカの50番目の州となりました。
 1993年には、王朝転覆100周年記念行事が開催され、クリントン大統領は、ハワイ王朝を滅亡させたことへの謝罪決議案に署名しました。

 最後に
日本人移民の話です。
 ハワイへの日本人移民は、1868(明治元)年に非公式ながら153名が渡ったのが最初と記録されています。
 カラカウア国王の要請を受けて、1885年には神奈川県の港から、944人からなる正式なハワイ移民団第1船が出発しています。多くの人が白人資本のサトウキビ農園で働きましたが、過酷な労働の割には賃金は安く、苦闘の連続でした。
 
 移民当初の日本人のエピソードを紹介します。
 毎日長時間働いていた彼らは、農園主にある要求を出します。
 「ある施設を建設してほしい。そうすれば、もっとがっばって働くから。」

 これも独立したクイズにできます。
 正解は、公衆浴場(銭湯)です。やはり、一生懸命に働いたあとの風呂は日本人には格別です。シャワーでは、明日へ向けてのエネルギーはわき起こっては来ません。

 最後の最後につまらない話かもしれませんが、右の写真は、岐阜市内のある公衆浴場の看板です。
 「ダンダ」って知ってます?方言で、銭湯の意味ですよ。


708 衆議院総選挙の最高投票率は何%?                             問題編へ

 第1回衆議院議員総選挙は、1890年7月1日に実施されました。選挙人の資格に、直接国税15円以上の納入者という納税資格がありましたから、有権者は総数で450,365人、全人口の僅か1.14%でした。
 
 この場合の直接国税とは、所得税と地租でしたが、有権者の97%は地租を多く納める地主でした。
 投票者は、投票用紙に自分の住所・氏名を明記し、実印までも押さなければなりませんでした。投票の秘密は守られるはずもなく、脅迫や買収は公然と行われました。この時の
投票率は、93.9%で、それ以後の総選挙では、これを上回る記録は出ていません。

 この選挙では、他にもクイズネタになる、いろいろな話があります。
 不思議なことに、被選挙人には居住地制限がなく、また、立候補制度もなかったので、複数の選挙区で同時に当選すると言う珍現象も起きました。
 また、投票総数が少ないため、最高得票の人が2人いる選挙区、つまり、同点の選挙区が出てしまいました。秋田1区の二田是儀さんと大久保鉄作さんは、得票数430票で同点となりました。この場合は、選挙法の規定で誕生日が早いほうが当選となっていましたが、この二人は、ともに嘉永3年11月生まれで、これでも決着が付きませんでした。その場合は、籤引きで当選を決めなさいと言う規定があったため、籤の結果、二田さんの当選と決まりました。

 選挙制度を作る時、人口12万人に議員1一人という基準で区割りがなされました。この時の選挙制度は、基本的には1選挙区1人の議員を選ぶ小選挙区制度で一部例外的に2人区がありました。ところが、都市部と地方とでは、有権者の数が違っていました。東京都全体の有権者の割合は、全国を大幅に下回る、0.37%です。つまり、地主が比較的多くいる地方の方が、1選挙区あたりの有権者は多かったのです。
 
この結果、最高得票数の当選者は佐賀1区の松田正久さんで、得票総数4548票でした。滋賀3区では、3085票も獲得しながら落選した候補者がいました。京都1区は27票、東京3区は56票、大阪1区は128票でそれぞれ当選しています。今でいう一票の格差は、農村部>都市部となっていて、基本的に今とは逆でした。

 但し、全国で一番少ない得票で当選したのは、島根6区の吉岡倭文麿さんで、その数はなんと、
たったの23票でした。この選挙区の有権者は、全部でたったの51人でした。
 しかし、この最低得票当選の記録は、次の第2回総選挙で破られます。
 この時、対馬を選挙区とする長崎6区の当選者は、
得票数僅か11票でした。
  ※笠原一男・児玉幸多編『日本史こぼれ話 近世・近代』(1993年山川出版社)
  ※高坂正堯「代議士誕生譚」鈴木健二著『NHK歴史への招待8 』(1980年日本放送出版協会)

 ところで、 最近は、長期的に若者の政治的無関心の度合いが増加し、前々回1996年の総選挙では、ついに60%を割ってしまい、
59.65%を記録しました。前回2000年7月の選挙では、投票時間の2時間延長という策も当たって、62,49%と少し上昇しました。
 
 地歴・公民を教えている教師として、生徒たちが成人すると普通に投票にいってくれるような教育を行うことが究極の目標です。これまでも衆参両議員の選挙がある時は、「投票率の予想クイズ」などをやって、関心を高めてきましたが、根本的な策にはなっていません。これからも悩みは続きます。

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