正解は、太平洋戦争中に、航空機の原料とするために松ヤニを採取したあとということです。
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表皮が削られ、幹には無数の傷がある。 |
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松の側には、説明の立て札がある。 |
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説明書き |
日本3名園の一つ、金沢の兼六園は、加賀百万石の藩主、前田家の5代目綱紀(つなのり)が、1676(延宝4)年にこの地に瓢池と命名された池を掘削したのが始まりとされています。
この綱紀は日本史の教科書に登場するあの文治派大名です。朱子学者木下順庵を招いて朱子学の振興をはかりました。
1822年、12代藩主前田斉広(なりなが)は、藩財政逼迫の状況ながら、庭園の拡張工事を行い、大庭園が完成しました。
この時、この庭園が”宏大(こうだい)、幽邃(ゆうすい)、人力(じんりょく)、蒼古(そうこ)、水泉(すいせん)、眺望(ちょうぼう)の六つの景勝を兼備しているところから、兼六園と名付けられました。
このネーミングはちょっと難しいですね。宏大ぐらいはともかく、幽邃とはどんな状況でしょうか?すみません、ガイドブックの受け売りで、よくわかりません。
ひとつ、確かな話です。
12代藩主斉広という名前は、これだけで、19世紀前半の大名であることは推定できます。
当時の大名の子供たちは、元服すると、将軍の一文字をもらって正式な名前にしました。身分の高い人の2文字以上の名前の1文字を、偏諱(へんき)といいます。
その文字をもらうことを、「偏諱を賜る」といいます。
斉広の「斉」の字は、言うまでもなく、第11代将軍家斉の偏諱です。
島津斉彬・徳川斉昭なども、同じ原理のネーミングです。
余談でした。本題に返ります。
兼六園には、松・梅・桜などたくさんの木がありますが、そのうちの一つが、このような無惨な姿になって残っているのです。
ところで、この、航空機の燃料にするために松ヤニを採取は、ちょっと不正確な表現もしくは、事実誤認がある気がします。
普通、太平洋戦争中に、松から航空機用の燃料を生産したというのは、松根油のことです。
松根油は、読んで字の如く、松の根っこから生産します。
右の写真では、まるで、ゴムの木から生ゴムを搾り取るように、松ヤニをたらりたらりと器に集めた様な感じに見えます。
これは松根油とは違っています。
兼六園や石川県教育委員会に確かめなければいけませんが、ここでは、そのことはちょっとそのままにしておいて、松根油の話をします。
太平洋戦争をはじめる時点でも、石油の自給という点においては、今と同じく、日本は海外に依存する国でした。 1939年における統計では、原油の総消費量のうちの90%を、アメリカからの輸入に依存していました。
太平洋戦争は、この依存体制を脱却し、東南アジアの産油地帯を占領して大東亜共栄圏とし、自給自足経済圏を実現するというのが大きな目的でした。
ところが、クイズ904「太平洋戦争中の海上護衛総司令部の創設はいつ?」で説明したように、海上護衛(今流ならシーレーン防衛)に失敗した日本は、せっかく手に入れた東南アジアからの原油の輸入ができなくなってしまいます。
これにかわって、注目を集めたのが、松などの針葉樹の根から採取する松根油です。
松根油は、1934(昭和9)年頃からテレピン油やクレオソート油の原料として生産が始まりました。最初は採算面で見合いませんでしたが、上述の理由で、採算を度外視して生産が検討され、1944(昭和19)年からは特に積極的に生産が行われました。
松根油を2回蒸留して得られる精製1号テレピン油はオクタン価が高く、高高度を飛行する航空機の燃料としても利用できたのです。
全国に生産量が割り当てられ、陸軍と海軍で地域を分担しました。ちなみに、関東七都県は海軍の担当地域だったそうです。
その生産量は、次のようになっています。(単位 バレル)
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陸軍 |
海軍 |
民間 |
合計 |
蒸留釜数 |
労働者数 |
ボルネオからの輸入量 |
1940 |
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38,000 |
38,000 |
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1941 |
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38,000 |
38,000 |
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1942 |
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38,000 |
38,000 |
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10,510,000 |
1943 |
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50,900 |
50,900 |
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14,390,000 |
1944 |
29.970 |
32,020 |
27,650 |
89,640 |
8,165 |
261,800 |
4,990,000 |
1945(4〜8月) |
64,980 |
191,960 |
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256,940 |
37,007 |
434,000 |
0 |
この表は、国立公文書館にあるアメリカ戦略爆撃調査団の膨大な報告書の中にある、調査団の石油化学部が作成した「日本における戦時の石油」の中に残されているものです。
直接には、山口県徳山市の工藤さんが運営しておられる「須々万共和国」の「空襲・原爆」のサイトから、許可を得て引用させていただきました。
※「須々万共和国」はこちら
工藤さんは、戦争をいろいろ考える市民運動の中で、松根油の作製体験までやられました。以下はそのレポートからの抜粋です。
松根油は、文字通り、松の根からつくるもので、その工程は次のとおりです。
松の根を掘りだす。
乾燥したものを斧やなたなどで細かく切り、松の根チップにする。
松の根チップを釜に入れ蒸し焼きにする。
気化したガスを鍋の蓋に取り付けてある竹筒などで集め、冷却して、松根粗油ができる。
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これは埼玉県東松山市の埼玉県平和資料館にある当時の松根油生成装置です。 |
日本の軍部は真剣に松根油の生産に取組、「200本の松で航空機が1時間飛ぶことができる」というスローガンのもと、大量の人員を動員しました。
しかし、戦後の米軍の計算では,松根油をたった1.5リットル生産するのに1人が、1日働かなくてはなりませんでした。
日本軍は、必要量を満たすために、1日約2000キロリットルの粗油を生産しようとしていましたから、そうなると、1日当たり約125万人の労働力を必要となってしまいします。
また、当時の標準的な蒸留釜である百貫窯は、一度に約300sの松根を処理できましたが、計画通りの約37000個の釜をフル稼働させれば、1日1万トンもの松の根が必要となります。
当時の日本の松の根の埋蔵量(?)は750万トンと見積もられていましたから、2年ほどで日本から松がなくなってしまうはずでした。
なんにしても、夢のような壮大な計画でした。
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