太平洋戦争期3
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<解説編>
909 一輪挿しのような陶磁器製品の何でしょうか。?                  |問題編へ

 もちろんこれは一輪挿しの器ではありません。
 
正解、 太平洋戦争末期に作られた、陶磁器製の手榴弾です。(本物です。)

 ※この陶磁器製手榴弾の詳しい説明、入手の方法等は、現物
    教材日本史のページに掲載してあります。 

 太平洋戦争末期に日本の戦時経済が行き詰まってしまっていたことは、このクイズコーナーのあちこちでお話ししています。

 904 太平洋戦争中の海上護衛総司令部の創設はいつ
 
 ここでは、陶磁器製手榴弾に関連して、戦時経済下での物資の統制について、説明します。

 まず、確認しなければならないかんじんなことがあります。日本が強力な経済統制を始めたのは、いや、始めなければならなかったのは、アメリカ・イギリスとの戦争すなわち太平洋戦争を開始してからではなく、すでに、
1937年、日中戦争の開始直後からであったと言うことです。

 日中戦争が勃発した前年、1936年には、2・26事件が起こりました。そのあとに成立した広田弘毅内閣は文官による内閣でしたが、陸軍の統制派が強い影響力を持っていて、大幅な軍備拡大を進めました。

 そのため、すでに日中戦争開始前から、日本の経済はゆとりのない状況となっていました。

 したがって、1937年7月日中戦争が勃発するとすぐに、政府は経済統制を進めていきます。


経済統制法令・制度

説明

1937 臨時資金調整法制定

金融統制法。軍需・輸出関係産業資金の供給のため金融機関の設立・増資等を許可制にし、公債の消化のため日本興業銀行の債権の優遇をはかることなどを意図した。

輸出入品等臨時措置法

軍需物資調達のための資金を確保するため、政府が輸出入の制限・禁止の措置を行えるようにした。

10 企画院の設置

内閣直属の機関で、戦時統制下の物資動員・生産の計画を立案した。

1938 国家総動員法の制定

議会の承認なしに、政府に戦争遂行のために必要な物資や労働力を動員する権限を与えた。
このあと、この法律にもとづき、○○令という形の政令で、統制が進められていく。

電力国家管理法の制定

全国の発電所と主要送電設備が国策会社日本発送電株式会社に統合される。

1939 国民徴用令発令

政府に成年男女を軍需産業の工場等の指定工場に徴用する権限を認めた。

10 価格統制令発令

価格・運賃等の値上げ禁止。公定価格制の導入。

1940 ぜいたく品の製造・販売禁止

通称、七・七禁令。

10 米の供出制実施

農家から米の供出を強制。

11 切符制実施

砂糖・マッチ・木炭などが切符による販売となる。

1941 米の配給制実施

当初は一人一日2合3勺の配給であったが、翌年から、麦・イモ・大豆かすなどが混ぜられる。配給量は次第に減少。

金属回収令発令

当初は、縮小された民需生産設備、特に紡績機械などの設備の回収から始まる。
42.5寺の鐘、銅像等の強制供出開始。
43.3金属回収本部設置、家庭の鍋・釜等まで強制供出の対象となった。

1943 11 軍需省の設置

企画院と商工省を廃止して、航空機の生産を飛躍的に増やす目的で設置。民間企業を飛行機生産工場に指定。


  このようにして、資源のない国が、軍需生産を拡大・維持するための「総力戦」体制が作られていきました。
 しかし、米軍潜水艦・飛行機による日本の輸送船団攻撃によって、南方占領地からの資源輸送が思い通り行かなかったなどの理由から、生産は計画通り実現しませんでした。
 下の図は、鉄鉱石と銑鉄の、第1次4カ年計画(昭和13年〜16年)・第2次4カ年計画(平成17年〜20年)と実際の生産量です。(もちろん、生産量には、大東亜共栄圏(中国や東南アジア占領地)の分も含まれています。)


※『週間朝日百科 日本の歴史116 近代U−6 中国との戦争』P11-188より作成


 これを見ると、実際の銑鉄生産量は、昭和18年ピークで、鉄鉱石の生産量の下降にともなって、急激に低下していきます。
 家庭の鍋・釜までが供出の対象となっていく理由が理解できます。

 こうした中で、金属の代用品も数多く作られます。その代用品として活躍したのが、陶磁器です。
  ※陶磁器の代用品の詳しい紹介は、現物教材日本史のページに掲載してあります。 

 陶磁器による兵器の代用品も考案されました。
 その代表例が、手榴弾と地雷です。

 本やウエブサイトを調べたところ、少なくとも、瀬戸(愛知県)・有田(佐賀県)・波佐見(佐賀県)・備前(岡山県)・信楽(滋賀)では、陶製手榴弾が多数製造されています。
 名古屋の瀬栄陶器という会社は、大日本防空食料株式会社が発明した防衛食器(磁器製で金属の缶詰容器匹敵する機能を持つ)を生産していましたが、陶製手榴弾をも開発し、海軍から受注を受けて生産を開始したということです。
 ※有田での生産については、有田町歴史民俗資料館・館報「皿山」No50をどうぞ。
   直接説明している部分はこちらです。
 ※信楽での生産については、大谷陶器のサイトに解説があります。

 ところが、生産量が思うように増やせなかったので、他の陶磁器生産地域にも生産を拡大したようです。



 この写真の陶製手榴弾には、上部の穴のところに挿入されていた、起爆装置(信管)の部分はありません。(もちろん、内部の火薬もありません。(-.-))
 爆薬と起爆装置は、海軍の別工場で製造されました。

 これが実践に配備されたことは、沖縄県の資料館に展示されていたり、硫黄島にも戦後まで残留していたという記録があることから明らかです。
 しかし、鉄ではなく、陶器による手榴弾がどのくらい、威力があったのかは、詳しい記録は残っていません。