太平洋戦争期8
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<解説編>
 
914 空母バンカーヒルに突入した特攻機の日本人操縦員の氏名が判明した理由は? 13/02/04補足 13/02/10再補足

 全体のボリュームが大きくなりますから、次の順序で説明します。
まず補足説明 特攻機の体当たりの状況
クイズの正解
体当たりした操縦員の「その後」
空母エンタープライズと特攻機 
駆逐艦キッドと特攻機
意外な数字 沖縄戦の米軍死傷者数

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まず補足説明 特攻機の体当たりの状況          | このページの先頭へ |

 まずは補足説明です。
 アメリカ軍の沖縄諸島上陸作戦は、1945年3月下旬に始まり、4月1日には本島中央部にアメリカ陸軍と海兵隊の6万人の大部隊が上陸しました。日本陸海軍は、連合艦隊が大和などの残存水上部隊を水上特攻として差し向けるとともに、アメリカ軍機動部隊の殲滅を目指して、フィリピン戦以来「常道」と化した、「一機一艦」の撃滅を目指す航空特攻攻撃を総力をあげて展開しました。
 アメリカの戦略爆撃調査報告書には、1945年4月6日から6月22日の沖縄戦の期間に、日本軍の航空特攻攻撃によって、アメリカ海軍艦船26隻が沈没し、164隻が損傷したと記録されています。

参考文献1 M・T・ケネディ著中村有以訳『特攻 空母バンカーヒルと二人のカミカゼ』P579
このページの解説は、この参考文献から多くの引用・参照等をしています。感謝。
著者の
マックスウェル・テイラー・ケネディは、暗殺された司法長官ロバート・ケネディの子息、すなわち、ケネディ大統領の甥です。現在はアメリカ・ブラウン大学図書館の研究員です。

 ただ、戦闘機等に爆弾を搭載して体当たりする特攻攻撃は、攻撃の威力という点からは雷撃や急降下爆撃よりも効果は少なく、装甲の厚い大型艦を一撃で沈めることは事実上できませんでした。したがって、沈没したアメリカ海軍艦船には、戦艦・正規空母(大型空母)・巡洋艦などの大型艦は含まれていませんでした。

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  歴史書・戦史書に掲載される写真として有名な、1945年4月11日の戦艦ミズーリへの体当たりの場合、ゼロ戦が右舷後方から斜めに突入したこともあって、人員の被害はなく、船体に小さな損傷を与えたにとどまりました。
 戦艦ミズーリは、現在記念館としてハワイ・オアフ島の真珠湾に係留されており、特攻機体当たりによる「へこみ」は、今も確認することができるそうです。
 ※参考文献2 可知晃著『戦艦ミズーリに突入した零戦』(光人社 2005年)P40-41

 写真914-01戦艦ミズーリに突入するゼロ戦 
  ※参考文献3 R・シャーロット編中野五郎訳『記録写真太平洋戦争史 下』(光人社 1952年)P101より複写

 このゼロ戦の場合、突入の瞬間には爆弾を吊下しておらず、より大きな被害にはなりませんでした。爆弾は、突入前にすでに捨て去ってしまっていたか、突入直前に投下したが、はずれて海上で爆発したかのどちらかと考えられます。
 突入直前に投下というのは、上述のように、機体もろとも突入すると爆弾の効果が減殺されるため、部隊の指揮官によっては操縦員に敵艦体当たり直前に爆弾を投下するよう指導していた場合が多かったからです。
  ※参考文献4 平義克己著『我 敵艦ニ突入ス』(扶桑社 2002年)P130

 また、このゼロ戦の操縦員については、岐阜県出身の可知晃氏が、その人物の特定について詳細に検討しています。可知氏は、突入部隊の交信記録・部隊所属機の索敵線(米艦を捜索する進路)・米軍側の記録などから、海軍第五建武隊の第四区隊の三番機石井兼吉二飛曹か、四番機石野節雄二飛曹であろうと絞り込んでいます。
 可知氏の調査の経過・結果は、最終的には下記の本として出版されていますが、それとは別に2001年8月には、NHK番組「神風特攻隊 ミズーリ突入の軌跡」が放送されました。
 ※参考文献2 可知晃前掲著『戦艦ミズーリに突入した零戦』P238-248、P268
 ※ミズーリの現在の状況は、アメリカとの草の根交流「戦艦ミズーリ」へ  

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 写真914-02 サイパン沖で日本海軍の攻撃を受けたアメリカ・エセックス級空母 (戦時中の写真はがきから)
  ※写真はがきの解説によれば、アメリカ軍が撮影したものをベルリン経由で入手したものとのこと

 アメリカは1943年からエセックス級空母を大量に就航させ始め、大規模な機動部隊を編成して日本海軍を圧倒しました。(全24隻、戦争中には17隻が就役)このページの主役の空母バンカーヒルはその7番艦で、 ペンシルバニア州のベツレヘム・スティールで建造され、1943年11月の第二次ラバウル襲撃作戦から戦闘に参加しました。
 沖縄戦には、エセックス級空母は10隻が参加し、空母バンカーヒルは、硫黄島作戦から引き続いて、マーク・ミッチャー中将の第58任務部隊(機動部隊)の旗艦となっていました。 

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 だからといって、特攻隊機の攻撃が、アメリカ空母機動部隊にとって小さなダメージだったというわけではありません。
 たとえば、開戦以来数々の武勲をたててきた
空母エンタープライズは、1945年4月11日と5月14日の2回、特攻機によるダメージを受けました。4月11日は艦舷の至近海面への突入(艦体への突入は免れた)であったため大きな被害は受けませんでしたが、5月14日にはゼロ戦が甲板に体当たりし、大きな損害が生じました。
 この時は、爆弾を搭載したゼロ戦がほぼ垂直に突入し、前部の第1エレベーターに激突して、エレベーターを上空まで跳ね上げました。吊り下げていた爆弾は、さらに艦の下層まで突き進んで爆発しました。
 ただし、艦の中心部奥深くでの爆弾の破裂という深刻な状況にもかかわらず、歴戦の艦でありこれまでも何度も被害を受けてきた
空母エンタープライズのダメージコントロール(損害復旧)は的確に発動され、大きな火災や人的被害を出さずにすみました。しかし、修理のため本国へ戻り、太平洋戦争終了時まで、ドックにいることを余儀なくされました。
  ※参考文献5 エドワード・P・スタッフォード著『空母エンタープライズ ビッグE 下』P343、P358-360

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   そして、空母バンカーヒルは、1945年5月11日の午前中に、神雷部隊の第七昭和隊の2機の航空機の体当たりを立て続けに受け、大損害を受けました。

 5月11日の午前10時過ぎ、最初の特攻機、ゼロ戦が右舷後方から近づき、飛行甲板(最上部の甲板)に機銃掃射を加えつつ緩降下し、第3エレベーター(一番後部)のやや後方で甲板に衝突しました。操縦員は、激突の少し前に500kg爆弾を投下し、その爆弾は同じく第3エレベーターの後方に命中しました。爆弾はそこで爆発したのではなく、飛行甲板を突き抜けてその下の格納庫(飛行機を格納しておくスペース、その床を格納甲板といいます)の左側壁を破って艦外に飛び出し、左舷から少し離れた空中で爆発しました。爆弾の信管はもともと、物体に当たってからほんの少し遅れて作動する遅発信管でしたので、その分だけ作動が遅れ艦外へ出てから爆発したのです。
 飛行甲板に当たったゼロ戦の方は、そこで四散するのではなく、甲板上のアメリカ軍機をなぎ倒して炎上させました。甲板上から火災が発生します。
 それから数十秒後、甲板上の火災の煙を隠れ蓑に、
2機目の特攻機、別のゼロ戦が突入してきました。
 この機は、最初の突入機と編隊を組んでいた僚機(仲間の飛行機)で、飛行甲板右中央にある艦橋(アイランド、高さ24m余り)の中央部基部の飛行甲板との境にほぼ垂直に激突しました。この機も激突の少し前に絶妙のタイミングで500kg爆弾を投下し、その爆弾は、飛行甲板中央からわずかに左、サイドエレベーター(第2エレベーター)の近くに命中し、飛行甲板を貫いて格納庫へ入り、その甲板(格納甲板)で爆発しました。 
  

 写真914-03 炎上する空母バンカーヒル      ※参考文献2(光人社 1952年) P103より複写

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 2機の特攻機零戦の体当たりによって生じた4度の爆発(機体×2 爆弾×2)によって、甲板上の航空機、格納庫の航空機が炎上し、燃料・爆弾・砲弾等が誘発して、艦の中央部から後部にかけて大火災が発生しました。
 その様子が、右上の写真914-03によく現れています。
 この被害で、空母バンカーヒルの乗員・操縦員・任務部隊の司令部要員等、合計3400余人の乗組員のうち、最終的に396人が死亡し、250名以上が負傷しました。
 しかし、
空母バンカーヒルは懸命の消火作業で沈没を免れ、補給基地のウルシー環礁、ハワイの真珠湾を経て、母港のワシントン州ブレマートンへ帰港することができました。ただし、同艦はそこへ入渠したまま終戦を迎え、上述の空母エンタープライズと同じく、二度と戦場へ戻ることはできませんでした。

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正解です            | このページの先頭へ |

 空母バンカーヒルへの日本軍ゼロ戦の体当たりの状況は、ご理解いただけたと思います。
 それではもう一度、問題を示します。クリックしていただくと、正解が出てきます。


 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。

 選択肢2は、機種・部隊等の確認には効果を発揮しますが、いちいちそのエンジン番号の機体に誰が乗っているかを記録しているわけではありませんから、現代からでは搭乗者の特定は無理です。
 選択肢のうち、日本軍の技術的限界を示す項目が、
選択肢3です。
 映画などでは、戦闘機の操縦員が無線電話で僚機や基地と会話しています。アメリカ軍はかなり性能のいい無線機を積んでいましたからそれは可能だったということですが、日本軍機は無線電話の性能が悪く、特にエンジンの出力をあげて高速で飛んでいる時は、隣を飛んでいる僚機との会話もできない状況でした。
 選択肢4は、上述のように、戦艦ミズーリに突入した操縦員を二人にまで絞り込むことに大きな手がかりとなりました。しかし、突入時に飛行機を送受しながら、無線電信(モールス信号)のキーをたたくことは至難の業です。送信時間、送信内容など記録に残っていても不正確な場合もあり、決定的な決め手にはなりません。

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 正解は、選択肢1です。
 普通の方は、「カミカゼ特攻」に対して、おそらく次のようなイメージを持っていると思います。
 「特攻機」は爆弾を抱えてアメリカ軍艦船に突入し、見事体当たりをした場合は、大爆発が起こって、自らの肉体を四散させ、それと同時に敵艦に大きなダメージを与える。

 しかし、実際には、そのようなアニメチックな状況とは異なる現実がありました。いくつかの記録に、突入した日本軍操縦員の遺体が、体当たりし艦船の甲板上等に残っていると記されています。遺体は、爆発で「四散」とはならないのです。

 
空母バンカーヒルの甲板上には、体当たりした日本人操縦員の死体が次のように残されていました。
「シュカカン(引用者注:空母乗組員の名前)らは、小川(引用者注:日本人操縦員の名前)の爆弾があけた大穴にたどり着いた。穴からは、炎と煙が噴出している。数十人の乗員が消火ホースを使って、格納庫の火を消そうとしていた。白い蒸気と、どす黒い煙が混ざり合い、大きくうねって押し寄せる。シュカカンらは50口径弾を避けながら、
アイランドに近づいた。すると、艦橋から1~2メートル、穴のすぐ近くの濡れた甲板に、小川清の遺体が横たわっていた。
 小川は、飛行用ジャケットを着ていた。首には、真っ白なスカーフを巻いている。下半身は、切断されてしまったか、背中の後ろまで折れ曲がっているようだった。損壊した零戦から飛び出したのだろう。まだ誰も、彼に触れようとする者はいなかった。「上半身だけ見ると、生きているようでもあった」シュカカンは言う。」
  ※参考文献1 M・T・ケネディ前掲著P427

 これは、
アイランド(空母右舷中央にある艦橋)での様子ですから、この目撃談は突入した2機目のゼロ戦の操縦者の遺体に関する記述です。もちろん、シュカカンなる空母乗組員が日本人操縦者の遺体を見たときは、その名前を知っていた訳ではありません。
 この人物が、小川清少尉(戦死後2階級特進して大尉)であることが判明したのは、この遺体の飛行服の切れ端と思われる布に、「□川少尉」と名前が書かれていたからでした。この日、5月11日の出撃者の中で、「□川少尉」に該当するのは、「小川少尉」しかいなかったのです。
  ※参考文献1 M・T・ケネディ前掲著P618

 と言ってしまえばことは簡単ですが、それが判明したのは、なんと西暦2000年、つまり、体当たり攻撃から55年も過ぎた後のことでした。
「なぜ55年後?」
 この物語には、もう少し続きが必要です。

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体当たりした操縦員の「その後」            | このページの先頭へ |

 空母バンカーヒルのアイランド(艦橋)の基部に体当たりした特攻機の操縦者の日本人が、小川清少尉であることがわかった源は、甲板上にあった遺体の飛行服の切れ端の名前の文字でした。しかし、ただそれだけでは、直ちには操縦者の名前の判明にはつながりません。体当たりを受けたアメリカ海軍には、憎きパイロットの名前を特定するというような職務は存在しないからです。
 では、そこからどういうことがきっかけとなって、操縦員の特定がなされたのでしょうか?また、なぜ、55年後だったのでしょうか?

 実は、特攻機の機体や操縦者の遺体がアメリカ艦船上に残ることは、ごく普通に見られることであり、そこから、乗組員が「記念品」として何かを「収集」していくことも、これまたよくあることでした。
 それはあたかも、陸上の戦いにおいて、アメリカ軍将兵が寄せ書きが書かれた日章旗など日本軍将兵の遺品を持ち帰ることと同じです。そして、その遺品が何十年か経て、寄せ書きの文字などが手がかりとなって、遺族の元に返却されたという事例は、これまで幾度となく新聞報道されてきました。
 
空母バンカーヒルと特攻機の操縦員に関しても、これと同じことが起こったのです。
 元乗組員ロバート・ショック氏は、体当たりのあった日の午後、
空母バンカーヒルの艦橋の下にあった小川少尉の遺体周辺から、「□川少尉」と書かれた飛行服の布片、小川少尉宛の手紙、写真、破損した時計(操縦者が携帯する飛行時計)などを持ち去りました。飛行時計は激突時の衝撃で小川少尉の肋骨の中にめり込んでいましたが、ショック氏はそれを取りだしたのです。

 彼は勤務中ずっとその品々を保有し、そのままそれを持って復員し、箱に収めてカンザス州の自宅ガレージにしまっておきました。ここでその遺品はしばらく眠りにつきます。
 ところが、ショック氏は2000年11月に72歳でなくなり、それが遺品の「再発見」につながりました。その葬儀の前後、祖父から
空母バンカーヒルからの遺品持ち帰りの話を聞いていた孫のダックス・バーグ氏が、ガレージからその遺品を再発見したのです。
 珍しい遺品ですからオークションに出す等の案もありましたが、最終的には、日本語の文字を頼りに、持ち主を探して、日本へ返却することになりました。ちょうどうまい具合に、勤務先の上司の奥さんに日本人の美幸・グレースさんがおり、さらにもっと幸運なことに、この女性の仕事が通訳で、しかもその仕事関係者に防衛庁の土井茂二等陸佐がいたという幸運が重なりました。さらに何人かの方が尽力された結果、ガレージでの「再発見」から、2か月も経ない、2000年12月末には、身元が判明した小川中尉の遺族、現在は高崎市に住む小川家に、グレースさんから手紙が届きました。そして話はトントン拍子に進み、翌2001年3月27日には、アメリカ・サンフランシスコの日本料理店でバーグ氏から小川さんに遺品が返還されたのです。  
  ※参考文献1 M・T・ケネディ前掲著 P395
  ※参考文献7 深井正昭著「上州の快男児 小川清大尉」『会報 特攻 平成18年11月』P25
  ※参考文献8 『上毛新聞』2001年4月1日
 
 この2機目の特攻機が小川機であることが特定されたことから、寸前に体当たりした1機目の操縦員は、同じ第7昭和隊第3小隊の僚機、安則盛三(やすのりせいぞう)中尉と推定されました。
 二人の壮挙については、大きな被害を受けたアメリカ側から、高い評価を受けています。
「当時、バンカーヒルは世界でも最も頑丈な艦船の一つだった。それでも、この空母と3400名の乗員たちは、日本軍のたった2機の飛行機によってーーしかも、重い爆弾を積んだために飛ぶだけで精一杯となった非力な戦闘機によってーーあやうく沈められるところだった。ナチスが降伏した三日後に、安則盛三と小川清は、今大戦で最も痛烈な神風攻撃を成し遂げたのだ。彼らの攻撃により、バンカーヒルでは400名近くが死亡し、250名以上が負傷した。
 バンカーヒルは沈みはしなかった。しかし、二度と戦場に戻ることもなかった。」
  ※参考文献1 M・T・ケネディ前掲著 P559

 二人へのこの賛辞に比べると、空母バンカーヒルの艦内における、操縦員の遺体への対応は、眉をしかめるものでした。M・T・ケネディの前掲著では、安則中尉の遺体に関しては何の記述もありませんが、小川少尉の遺体に関しては、数カ所に記述があります。彼の遺体は艦橋の基部にあったため人目につき、多くの人の記憶に残ったからと想像できます。
 それによれば、何人かが遺体の周りにとりつき、指輪やスカーフやその他遺物を持ち去っていってしまったととのことです。孫が遺品を返却することになったロバート・ショックも、残念ながらそうした一人だったのかもしれません。
 なお、小川少尉の遺体のその後については、次のように書かれています。
「小川が国際協定で取り決められているような軍葬の礼を受けたかどうかは、バンカーヒルの航海日誌にも戦闘記録にも記録されていない。小川の遺体がどうなったかは不明である。」
  ※参考文献1 M・T・ケネディ前掲著 P542

 彼らアメリカ将兵をことさら悪くいうつもりはありません。何事も戦争の中での出来事です。逆の立場だったらどうだったかと考えれば、理解できます。

 その点、先に取り上げた、
戦艦ミズーリに対する体当たり攻撃に関しては、同艦艦長の対応は、特筆すべきでした。ゼロ戦の操縦員の遺体の上半身は甲板上に投げ出されていました。乗組員の中にはこの死体を見てホースで海中に洗い落としてしまおうとするものもいました。しかし、艦長キャラハン大佐は、その遺体の保護と水葬を命じたのです。
「この日本のパイロットは、われわれと同じ軍人である。生きているときは敵であっても、今は違う。激しい対空砲火や直衛戦闘機の執拗な攻撃をかい潜って、ここまで接近してきたこのパイロットの勇気と技量は、同じ武人として賞賛に値する。よって、このパイロットに敬意を表し、明朝水葬に付したい。」
 乗組員は反対しましたが、艦長命令によって断行されました。
「遺体は乗組員の報復が加えられないように医務室に運ばれ、衣類、絹のマフラー等の身の回り品が回収されそして、遺体はおもりをつけた帆布の袋に収められた。不寝番を命じられた若い二人の水兵が、白いシーツに赤く日の丸を描いて、遺体を覆った。おそらく艦長の指示だっただろう。」
 遺体は、体当たりの翌日、1945年4月12日に、艦長以下多くの乗組員が参列して水葬が行われました。その時の様子を撮影したフィルムも残っているそうです。
   ※参考文献2 可知晃前掲著『戦艦ミズーリに突入した零戦』P44、P250-251 

 何事もなければ運命が交錯することはなかった、日本の飛行機の操縦員とアメリカ艦船の乗組員。しかし、特攻は、いろいろな形で彼らの運命を変え、大きく交わることを余儀なくさせました。 

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空母エンタープライズと特攻機            | このページの先頭へ |

 アメリカ艦船上に残された日本人操縦員を示す氏名の断片からその人物が判明した例は、この空母バンカーヒルだけの特殊な例ではありません。
 第1節で説明した
空母エンタープライズの場合にも同じようなことが起きています。
 
空母バンカーヒルが体当たりを受けた3日後の1945年5月14日、空母エンタープライズも特攻機ゼロ戦の体当たり攻撃を受けます。この時の操縦員の遺体は、ゼロ戦のエンジンとともに、第一エレベーターの縦穴の底から発見され、中尉の階級章とその衣服のポケットから複数の名刺が発見されました。その名前の判読によって、この特攻機の操縦員は、第6筑波隊に属する富安俊助中尉(戦死後2階級特進して少佐)と判明したのです。
 この操縦員の名前は、当初は、乗組員の2世士官の判読とその後の誤記によって、「トミザイ」という名で記録されていました。
 しかし、海軍兵学校出身で航空会社を退職していた菅原完氏がひょんなことからアメリカ側の指摘を調査した結果、当日の出撃者名簿から、「トミザイ」ではなく、富安俊助中尉であることが判明したのでした。
 富安中尉の遺体も、翌日午後、簡素でしたが敬意を払ったセレモニーの後、艦尾から水葬に付されました。
 また、空母エンタープライズの元乗員の戦友会で活動するノーマン・ゾフトが、当時第1エレベーターの底から探して持ち帰っていたゼロ戦の胴体の破片は、2003年に日本に返され、現在は、鹿児島県の航空自衛隊鹿屋海軍航空隊基地博物館の展示されています。
  ※参考文献9 菅原完「Who Knocked the Enterprise Out of the War 」(英文)
                『Naval History Magazine April 2008 volume 22, November 2』
 
 操縦者富安中尉にも、アメリカ側から最大級の賛辞が送られています。歴史書には、次のように書かれています。
「(富安は)帝国海軍の先輩達が3年半努力して出来なかったことを成し遂げた。エンタープライズを戦闘不能にしたのだった。」
  ※参考文献5 エドワード・P・スタッフォード前掲著『空母エンタープライズ ビッグE 下』P360

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駆逐艦キッドと特攻機            | このページの先頭へ |

 もう一つ、特攻機とアメリカ軍駆逐艦の物語を紹介します。この物語は、平義克己前掲著、『我 敵艦ニ突入ス 駆逐艦キッドとある特攻、57年目の真実』(扶桑社 2002年)に、多く依拠しています。

 右の衛星写真をご覧ください。
 これはグーグルの写真ですが、場所は、
アメリカ合衆国ルイジアナ州バトンルージュ市の西を流れるミシシッピ川の堤防内です。そこにある軍艦は、第二次世界大戦当時のアメリカ海軍のフレッチャー級の駆逐艦キッド(Kidd)です。
 第二次世界大戦のメモリアルは、アメリカ国内にいくつもあります。
 ※
アイオワ級戦艦の博物館についてはこちら
    →アメリカとの草の根交流
      「戦艦アイオワ博物館となる」
 
 これもそのうちの一つで、退役した駆逐艦を博物館にしたものです。正式名称を「
USS KIDD Veterans Memorial」(このページではキッド博物館と表現します)といいます。住所は、305 South River Road Baton Rouge, LA 70802-6220 です。
 
 バトンルージュは、ルイジアナ州の大都市ニューオーリンズの北西にあり、ミシシッピ川の河口から200kmほど遡った小都市です。アメリカで活躍する弁護士の平義克己氏がこのキッド博物館の存在に気づいたのは、別の件でバトンルージュに赴いたことからでした。バトンルージュというと、多くの人の記憶からだんだん薄れつつありますが、1992年の10月の事件で、日本にも広く報道された都市です。日本人の留学生、愛知県立旭ヶ丘高校から現地の学校に通っていた服部剛丈君が銃で殺された事件が起こったところです。
 実は、平義氏は弁護士としてこの事件にかかわり、別に『フリーズ FREEZE ピアーズはなぜ服部君を撃ったのか』(集英社 1993年)を著しておられます。
 平義氏は、その事件の裁判がきっかけでバトンルージュを訪れ、そこで偶然博物館キッドの存在を知り、 さらには、この駆逐艦に体当たりした特攻機の特定という「捜査」にかかわっていったのです。
 
 
駆逐艦キッドは、空母バンカーヒルの体当たりの1ケ月前、1945年4月11日に体当たり攻撃を受けました。戦艦ミズーリが体当たり攻撃を受けたのと同日です。
 この日駆逐艦キッドは、僚艦と一緒に空母機動部隊の本隊から離れて北方海域(奄美大島より)に進出し、機動部隊の前衛として、日本軍特攻隊の襲撃の早期発見と引きつけ役を命じられていました。 

上の地図は、Google から正式にAPIキーを取得して挿入した、アメリカ合衆国ルイジアナ州バトンルージュ市のミシシッピ川周辺の衛星写真です。

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 日本軍機の襲来をいち早く発見して連絡し、機動部隊本隊が迎撃の準備ができるように時間稼ぎする重要な任務です。この偵察任務はアメリカ機動部隊では、レーダーピケット任務と呼ばれていました。この任務部隊の上空にはアメリカ軍戦闘機が護衛についていましたが、基本的には、機動部隊本隊の被害を少しでも少なくするためのおとり役、生け贄役という性格を持った部隊であり、沖縄戦ではアメリカ軍は130隻の駆逐艦を投入しましたが、その3分の2が被害を受けました。
 駆逐艦キッドもその洗礼を受けたのです。

 この日、14時10分過ぎ、駆逐艦キッドに爆弾を積んだゼロ戦が体当たりしました。ゼロ戦は、キッドの右舷から艦橋後方の舷側に体当たりし、機体の大部分は駆逐艦の薄い装甲を破って艦内部の第一ボイラー室に入りました。吊り下げていた爆弾は、これまでの説明と同じく遅発信管が装着されていたため、ボイラー室を突き抜け、艦の左舷に出て。海上で爆発しました。
 駆逐艦キッドはこの体当たりで大損害を受け艦内の誘爆と火災で一時航行不能に陥り、最終的に乗組員38人が死亡し50人以上が負傷しました。しかし、沈没はまぬがれ、ウルシー泊地を経て本国へ戻り、完全修理がなされました。戦後はまた現役に復帰し、朝鮮戦争にも参加して、1964年に退役しました。その後、博物館となりました。
  ※
USS KIDD Veterans MemorialのHP http://www.usskidd.com/

 平賀氏は、博物館キッドにある特攻機の機体の一部(エンジン製造番号、無線機製造番号のタグなど)や、日本側・アメリカ側双方の戦闘記録・交信記録などを手がかりに地道に「捜査」を続け、ついに体当たりした日本人操縦員の氏名を絞り込みに成功しました。第五建武隊の第一区隊の矢口重久中尉がその人です。
 矢口中尉の遺体については、ボイラー室内でバラバラの状態で回収され、その多くはウルシー泊地で陸上に葬られました。
 頭蓋骨が飾り物にされ、戦後大学に寄付されたというとんでもない噂がありますが、平義氏は「未確認」としています。

 平義氏はあとがきで書いています。
「私が(引用者注:操縦員の特定に)本腰を入れるようになったのは、バーンハウス元海軍中尉の言葉によるところが大きい。本件に着手した当時、彼は私にこういったのである。
「私は、このパイロットは英雄だと思う。自分の国のため、そして家族のために生命を投げ出したヒーローが、名前もわからずに忘れ去られていくことは悲しいことだと思う」」
  ※参考文献4 平義克己前掲書 P283


 写真914-04 このページの体当たり機が使用したゼロ戦(52型) 靖国神社遊就館 (撮影日 03/11/28)

 機体中央部下面に、250kgまたは500kgの爆弾を吊り下げて、体当たり攻撃を行いました。  

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意外な数字 沖縄戦の米軍死傷者数       | このページの先頭へ |

 日本軍の航空隊の捨て身の攻撃は、アメリカ軍に予想外の損害を与えました。沖縄海域で戦ったのは、上陸したアメリカ陸軍と海兵隊、そしてアメリカ海軍です。その3軍の人的損害(死者+負傷者)数は次のようになりました。
 黒板クイズにしましたから、〔   〕の中に、陸軍・海兵隊・海軍のどれかを当てはめてください。


 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。

 沖縄本島へ上陸した陸軍と海兵隊が、多くの犠牲者を出したのはいうまでもありません。しかし、死者・行方不明者だけの数では、陸軍よりも海兵隊よりも、海軍が多くなっています。もちろん、日本軍特攻隊の「戦果」です。
 陸上の戦いでは、一人で数百人の敵を倒すことはできません。しかし、
空母バンカーヒルに突入した安則中尉と小川少尉は、たった二人で、600人以上の敵艦の乗組員を死傷させました。


 K・T・ケネディは、しばしば引用した『特攻 空母バンカーヒルと二人のカミカゼ 米軍兵士が見た沖縄特攻の真実』の最後に、次のように結んでいます。
「太平洋戦争が私たちに示したのは、単に空母の存在がアメリカの対外政策を世界規模にまで拡張させた、というようなことではなく、何かの大儀に身を捧げる意志を持つ決然とした者が数名いれば、そうした政策が完遂されるのを阻止することもできる、ということなのかもしれない。」
  ※参考文献1 K・T・ケネディ前掲書 P627  

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 同じく何度も引用した平義克己氏の前掲書の本文の最後の部分です。
「特攻隊員たちは、我々に何かを託し、切望し、後世の存続のために自分たちの命を代償として払った。我々後世の日本人は彼らに託された夢を実現する義務があると私は考える。
 敗戦後60年近くを経過した今、我々は日本を本当の意味で豊かな、そして偉大な国にする事ができたのであろうか。彼らが喜び、誇りに思ってくれるような国に築き上げることができただろうか。」
  ※参考文献4 平義克己前掲書『我 敵艦ニ突入ス 駆逐艦キッドとある特攻、57年目の真実』P281

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 日本軍特攻機と体当たりされたアメリカ軍艦船という、戦争によって運命が交錯した両者を取り上げ、ちょっと重々しい文章を連ねました。長いクイズの解説を終わります。

 特攻隊については、次のページでも触れています。
  ※→日記:2007年06 月03 日(日)  映画「俺は、きみのためにこそ死にに行く」 
  ※→教育:愛国心をどのように教えるか -特攻隊と靖国神社-
  ※→旅行記:「九州両端旅行3 戦績を訪ねて 知覧特攻基地」 

 

 【クイズ914 空母バンカーヒルに体当たりしたゼロ戦の操縦者が判明した決め手は? 参考文献一覧】
  このページの記述には、主に次の書物・論文を参考にしました。

M・T・ケネディ著中村有以訳『特攻 空母バンカーヒルと二人のカミカゼ 米軍兵士が見た沖縄特攻の真実』(ハート出版 2010年)

 

可知晃著『戦艦ミズーリに突入した零戦』(光人社 2005年)

ロバート・シャーロット編中野五郎訳『記録写真太平洋戦争史 下』(光人社 1952年)

平義克己著『我 敵艦ニ突入ス 駆逐艦キッドとある特攻、57年目の真実』(扶桑社 2002年)

  エドワード・P・スタッフォード著『空母エンタープライズ ビッグE 下』(元就出版社 2007年) 
  阿部安雄・戸田一成編『福井静夫著作集第3巻 世界空母物語』(光人社 2008年)
 

深井正昭著「上州の快男児 小川清大尉」『会報 特攻 平成18年11月 第69号』(財団法人 特攻隊戦没者慰霊平和記念協会編 2006年)所収  HP http://www.tokkotai.or.jp/ から全文閲覧可   

  『上毛新聞』2001年4月1日(群馬県立図書館の遠隔地郵送複写サービスにより入手) 
 

菅原完著「Who Knocked the Enterprise Out of the War 」『Naval History Magazine April 2008 volume 22, November 2』所収 HP http://www.usni.org/magazines/navalhistory/2008-04/who-knocked-enterprise-out-war  から全文閲覧