太平洋戦争期5
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<解説編>
911 B29による日本本土空襲の最初の爆撃目標は何?                 | 問題編へ |

 このクイズは、特に大きな問題というわけではない、いわゆる戦争小ネタです。次の項目で説明します。

1 正解
2 B29爆撃機による日本空襲
3 爆撃目標

4 その後

1 正解
 B29爆撃機による戦略爆撃については、日本史の先生なら誰しも知識があり、また、一般の方もかなり詳しくご存じです。
 しかし、このクイズには、「物知り故の錯覚」というのがあって、自信を持って間違えてしまわれる方もあると思い出題しました。
 
 選択肢の @製鉄所  A航空機工場   B住宅密集地  C航空基地  D港湾施設 のうち、
 正解は、@製鉄所です

 Bと答えられた方は、いわゆる、1945(昭和20)年3月以降の「本土空襲」のイメージを持っておられる方です。
 Aと答えられた方は、マリアナ諸島(サイパン島など)からの本土空襲について、正確な知識を持っておられます。

 ここで問題にしているのは、「B29爆撃機による本土空襲の最初の爆撃目標」ですから、上記の何れでもありません。

 実は、B29爆撃機は、サイパン島などのマリアナ諸島がまだアメリカ軍のにおちる前の
1944年6月16日、日本本土を初空襲しています。
 この時のB29の出撃基地は、中国四川省の成都で、そして目標は、北九州工業地帯の八幡製鉄所でした。

 これが、B29爆撃機による本土初空襲です。


 映画『パールハーバー』でもストーリーの中に組み入れましたが、アメリカの爆撃機による日本本土初空襲は、1942(昭和17)年4月18日です。その前年12月8日の開戦から僅か5ヶ月後のことです。この爆撃隊は、指揮官の名を取って、ドゥーリットル爆撃隊と呼ばれています。
 この時の作戦は、太平洋上のアメリカ海軍航空母艦ホーネットから陸軍のB25爆撃機を出撃させて日本の都市を爆撃し、中国大陸に逃げるというものでした。

 この時点では戦争自体は、まだ日本が圧倒的に優勢な状況にあり、この爆撃作戦は、アメリカ軍が日本の攻勢に一矢を報いる、たぶんに政略的な作戦でした。
 ※映画パールハーバーについてはこちらです。

 高校の日本史の教科書には、この中国成都からのB29の爆撃は、一般には触れられていません。
「1944年(昭和19)後半以降、サイパン島の基地から飛来する米軍機による本土空襲が激化した。空襲は当初軍需工場の破壊を目標としたが、国民の戦意喪失をねらって都市を焼夷弾で無差別爆撃するようになった。」
 ※石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦著『詳説日本史B』(山川出版 2004年)P343

東京都の中野区立歴史資料館の展示品のB29模型(プラモデル)

こちらは我が家の模型のフロント部分
※B29爆撃機の現物教材(プラモデル)はこちらです。


2 B29爆撃機による日本空襲  | このページの先頭に戻る |
 このB29爆撃機は、日本がアメリカと開戦する前から開発が進められてきた飛行機です。

 ヨーロッパでドイツ動きが活発化してきた1938(昭和13)年、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトは、ドイツが中南米諸国を侵略し、そこからアメリカ本土を脅かす場合を想定して、防御用の航空兵力の強化を指示しました。
 これを受け、当時新しい発想であった「戦略爆撃機」論を支持していた陸軍航空隊
司令官ヘンリー・H・アーノルド少将(当時)は、超長距離爆撃機の開発計画を進め、第2次世界大戦勃発後の1939年12月に、陸軍省から認可を受けました。
 これにより、アーノルド少将は、1940年1月各航空機メーカーに対し、新爆撃機の要求性能を示しました。この時の最大速度640km/時、航続距離8600kmと言う数字は、この時点で配備が始まったばかりの新鋭4発爆撃機ボーイングB17B型、C型をはるかに上回る並はずれたものでした。
 これに対して、ボーイング社以下4社が技術的データや価格を回答しました。1940年8月、陸軍航空隊は4社の中からボーイング社案を採用し、コードナンバーは、XB29となりました。Xは開発中を意味する記号です。
 XB29は、高高度でも優れた性能を発揮するターボ過給器付きの新型2200馬力エンジン、R3350を4発装備し、最高速度は570km以上、航続距離は5600kmというものでした。

 1941年5月、陸軍はボーイング社にいきなりXB29を250機発注し、開発と平行して本格的な生産への準備が開始されました。

 1942年の時点では、当初のアメリカ大陸の防衛という目的は変更され、イギリス本土または北アフリカからのドイツ爆撃、及び余力があれば、フィリピンからの日本本土爆撃と言う目的に変更されていました。この時でも、主たる爆撃対象は、ドイツ本土だったのです。
 1942年9月21日、XB29初飛行に成功。
 しかし、このあと、新型エンジンの不調などによって、開発は遅れました。
 1943年6月、
第20航空軍の麾下にXB29を運用する第58爆撃航空団が編制され、翌月には、実用試験機7機が引き渡されました。
 この時、カナダ・ケベックで行われた英米首脳会談で、アーノルド大将は、第58爆撃航空団を日本攻略に使う計画を発表しました。

 開発が遅れたため、ヨーロッパ戦線では、B17爆撃機、B24爆撃機が成果を上げており、戦局がこのまま推移すれば、B29爆撃機が大量配備する前にドイツを崩壊さえる可能性が大きくなったからです。
 1943年9月、待望の量産機が完成し、初めて正式に、B29爆撃機となりました。
 1943年12月、B29爆撃機を用いた対日戦略爆撃計画、「マッターホーン計画」が、最終決定されました。

 右図をご覧ください。
 これは、B29の最大航続距離と、積載爆弾トン数、及び敵地上空滞在時間などを考慮して算出された、作戦上のB29爆撃機の行動圏図です。
 B29爆撃機の爆撃エリアは、半径1600マイル(約2560km)とされていました。
 1943年末のこの時点では、フィリピンやサイパン島は、まだ日本軍の支配下にあり、有効な本土爆撃が可能な基地を設けることができる所は、唯一、中国大陸の四川省でした。
 蒋介石の中華民国政府があった四川省の重慶からさらに西北に奥地に入った都市、成都にB29爆撃機用の基地が整備され、カルカッタからヒマラヤ越えで、B29爆撃機本体や燃料・機材・人員が運ばれました。

 かくして、成都からB29爆撃機による本土初空襲の日が近づいたのです。
 ※渡辺洋二著『本土防空戦』(朝日ソノラマ新版戦記文庫 1992年)P119-125
   児島襄著『太平洋戦争(下)』(中公新書1966年)P174-179


3 爆撃目標
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 ワシントンの第20航空軍では、対日戦略爆撃の攻撃目標として、@商船、A鉄鋼業、B都市工業地域、C航空機工場、Dベアリング工場、E電子工業、の6つを考ていました。
 上図で明らかなように、成都からは日本本土のうち、九州のみが爆撃エリアとなっています。マッターホーン計画による最初の爆撃目標としては、必然的に、北九州の八幡製鉄所が選ばれました。

 アメリカでは、当時の日本の製鉄業と爆撃目標 について、次のように分析していました。
「『日本の鉄鋼の3分の2は、壊れやすくまた九州・満州・朝鮮に集中しているコークス炉から供給されるコークスによって生産されている』ことを理由として、『コークス炉が最良の経済目標である』と強調していた。」
 ※長野暹著『八幡製鐵所史の研究』(日本経済評論社2003年10月)P245

 現在の八幡製鐵発祥の地の東田高炉。今は高炉を生かした資料館・公園となっている。右の先が丸い白い塔は、コークスを燃焼させて高炉に熱風を送り込む熱風炉。(2004年1月撮影)

 19世紀以来、高炉(溶鉱炉)で鉄鉱石から銑鉄をつくるには、鉄鉱石とコークスを熱風により燃焼させるという方法が使われています。
 アメリカは、この石炭からコークスを生産するコークス炉(普通は製鉄所内にある)に注目し、それを破壊することによって、日本の鉄鋼業に打撃を与えようとしたのです。
 当時、日本の主な銑鉄の生産施設は、国内では、日本製鉄の八幡・輪西・釜石・広畑、日本鋼管川崎であり、国外では、満州の鞍山でした。
 現在のように多くの製鉄所があったわけではありません。
 成都の基地からは、そのうちの2つ、八幡と鞍山が爆撃エリアに入っていました。
 かくて、八幡製鉄所は、マリアナ諸島からの爆撃が始まる前に、成都からのB29爆撃機によって2度の本格的な爆撃をうけました。  

八幡製鉄所爆撃の結果

爆撃日

1944年6月15−16日 1944年8月20−21日

出撃機数

75 88

日本到達機数

62 83

投弾機数

47 73

投弾量

500ポンド爆弾×370発 500ポンド爆弾×446発

B29被害(未帰還)機数

12

日本機によるB29撃墜機数

製鉄所被害

軽微 命中弾108発 死者46名

 1944年8月の2度目の空襲では、いくつかの施設が破壊され、中には東田コークス炉のように、一部は復旧できないほどの被害となったものもありましたが、それでも、多くの施設は数日中に、遅いものでも1ヶ月以内に普及しました。

 一方米軍の被害は、予想外に大きく、
出撃機数に対する損失比率(上表の12/88、つまり、13.64%)は、第2次世界大戦中のすべてのB29爆撃機の出撃(総計380回)のうち、最悪の記録であったとされています。
 ※渡辺洋二「極東を震撼させた超空の要塞の足跡−B29の戦闘記録」
         『世界の傑作機No.52 ボーイングB29』(文林堂 1995年)P47
 ※ちなみに、B29爆撃機の平均損失率は、1.38%とされています。
   渡辺前掲書『本土防空戦』P426

4 その後                             | このページの先頭に戻る |
 さて、成都からのB29爆撃機の日本本土空襲は、マリアナ諸島からの空襲が本格化(初出撃は1944年11月24日、その時の攻撃項目表は、中島飛行機武蔵工場)することによって、役目を終えました。
 1945年1月6日に長崎県の大村海軍工廠(5回目)の爆撃を最後に、
第58爆撃航空団の日本本土空襲は終わり、以後、45年3月までの間に行われた爆撃は、台湾、タイ、シンガポール、上海など日本軍の占領地域の基地・港湾・石油貯蔵基地を目標とするものでした。
 ※長野暹前掲書、『八幡製鐵所史の研究』P234

 それでは、逆にマリアナ諸島からのB29爆撃機が、八幡製鉄所を爆撃目標に選んだかというと、そうではありません。
 ここが少々不思議なところです。
 八幡製鉄所空襲は、44年8月の次には、45年8月8日の八幡市街も含めた大空襲となります。この時は、八幡市街地の30%が焼失し、製鉄所も大きな被害を受けました。
 ※中村直人著『高炉物語』(アグネ技術センター 1999年)P46

 44年8月以降、なぜアメリカ軍が八幡製鉄所を爆撃目標に選ばなかったかについては、アメリカ軍の戦略爆撃調査団の報告書などでは、生産施設に対する直接的な航空攻撃の効果よりも
@輸送船攻撃(潜水艦によるものも含む)の結果としての原料不足による生産減退を、またA市街地爆撃による労働者の生活難や戦意喪失をより高く評価したとのことです。
 ※長野暹前掲書、『八幡製鐵所史の研究』P298

 中島飛行機などの工場爆撃もそうでしたが、特定の施設への昼間精密爆撃は、被害(損失率)の割には、命中率が悪く、1945年1月頃から、アメリカ軍は夜間市街地絨毯爆撃へと重点を移していきます。

 また、報告書がいうように、現に八幡製鉄所は、1945年にはいると、原料不足(特に石炭不足)が深刻となり、爆撃をうけるまでもなく、銑鉄の生産は、次第に減少していきました。

マリアナ諸島(サイパン島など)からの本土空襲については、日本史クイズ901で解説しています。
また、岐阜・美濃・飛騨の話の「各務原・川崎航空機・飛燕」の中でも、航空機産業に対する空襲について詳しく説明しています。