太平洋戦争期5 |
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<解説編> |
911 B29による日本本土空襲の最初の爆撃目標は何? | 問題編へ | | |||||||||||||||||||||||||||||||||
このクイズは、特に大きな問題というわけではない、いわゆる戦争小ネタです。次の項目で説明します。
2 B29爆撃機による日本空襲 | このページの先頭に戻る | このB29爆撃機は、日本がアメリカと開戦する前から開発が進められてきた飛行機です。 ヨーロッパでドイツ動きが活発化してきた1938(昭和13)年、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトは、ドイツが中南米諸国を侵略し、そこからアメリカ本土を脅かす場合を想定して、防御用の航空兵力の強化を指示しました。 これを受け、当時新しい発想であった「戦略爆撃機」論を支持していた陸軍航空隊司令官ヘンリー・H・アーノルド少将(当時)は、超長距離爆撃機の開発計画を進め、第2次世界大戦勃発後の1939年12月に、陸軍省から認可を受けました。 これにより、アーノルド少将は、1940年1月各航空機メーカーに対し、新爆撃機の要求性能を示しました。この時の最大速度640km/時、航続距離8600kmと言う数字は、この時点で配備が始まったばかりの新鋭4発爆撃機ボーイングB17B型、C型をはるかに上回る並はずれたものでした。 これに対して、ボーイング社以下4社が技術的データや価格を回答しました。1940年8月、陸軍航空隊は4社の中からボーイング社案を採用し、コードナンバーは、XB29となりました。Xは開発中を意味する記号です。 XB29は、高高度でも優れた性能を発揮するターボ過給器付きの新型2200馬力エンジン、R3350を4発装備し、最高速度は570km以上、航続距離は5600kmというものでした。 1941年5月、陸軍はボーイング社にいきなりXB29を250機発注し、開発と平行して本格的な生産への準備が開始されました。 1942年の時点では、当初のアメリカ大陸の防衛という目的は変更され、イギリス本土または北アフリカからのドイツ爆撃、及び余力があれば、フィリピンからの日本本土爆撃と言う目的に変更されていました。この時でも、主たる爆撃対象は、ドイツ本土だったのです。 1942年9月21日、XB29初飛行に成功。 しかし、このあと、新型エンジンの不調などによって、開発は遅れました。 1943年6月、第20航空軍の麾下にXB29を運用する第58爆撃航空団が編制され、翌月には、実用試験機7機が引き渡されました。 この時、カナダ・ケベックで行われた英米首脳会談で、アーノルド大将は、第58爆撃航空団を日本攻略に使う計画を発表しました。 開発が遅れたため、ヨーロッパ戦線では、B17爆撃機、B24爆撃機が成果を上げており、戦局がこのまま推移すれば、B29爆撃機が大量配備する前にドイツを崩壊さえる可能性が大きくなったからです。 1943年9月、待望の量産機が完成し、初めて正式に、B29爆撃機となりました。 1943年12月、B29爆撃機を用いた対日戦略爆撃計画、「マッターホーン計画」が、最終決定されました。 右図をご覧ください。 これは、B29の最大航続距離と、積載爆弾トン数、及び敵地上空滞在時間などを考慮して算出された、作戦上のB29爆撃機の行動圏図です。 B29爆撃機の爆撃エリアは、半径1600マイル(約2560km)とされていました。 1943年末のこの時点では、フィリピンやサイパン島は、まだ日本軍の支配下にあり、有効な本土爆撃が可能な基地を設けることができる所は、唯一、中国大陸の四川省でした。 蒋介石の中華民国政府があった四川省の重慶からさらに西北に奥地に入った都市、成都にB29爆撃機用の基地が整備され、カルカッタからヒマラヤ越えで、B29爆撃機本体や燃料・機材・人員が運ばれました。 かくして、成都からB29爆撃機による本土初空襲の日が近づいたのです。 ※渡辺洋二著『本土防空戦』(朝日ソノラマ新版戦記文庫 1992年)P119-125 児島襄著『太平洋戦争(下)』(中公新書1966年)P174-179 3 爆撃目標 | このページの先頭に戻る | ワシントンの第20航空軍では、対日戦略爆撃の攻撃目標として、@商船、A鉄鋼業、B都市工業地域、C航空機工場、Dベアリング工場、E電子工業、の6つを考ていました。 上図で明らかなように、成都からは日本本土のうち、九州のみが爆撃エリアとなっています。マッターホーン計画による最初の爆撃目標としては、必然的に、北九州の八幡製鉄所が選ばれました。 アメリカでは、当時の日本の製鉄業と爆撃目標 について、次のように分析していました。 「『日本の鉄鋼の3分の2は、壊れやすくまた九州・満州・朝鮮に集中しているコークス炉から供給されるコークスによって生産されている』ことを理由として、『コークス炉が最良の経済目標である』と強調していた。」 ※長野暹著『八幡製鐵所史の研究』(日本経済評論社2003年10月)P245
19世紀以来、高炉(溶鉱炉)で鉄鉱石から銑鉄をつくるには、鉄鉱石とコークスを熱風により燃焼させるという方法が使われています。
一方米軍の被害は、予想外に大きく、出撃機数に対する損失比率(上表の12/88、つまり、13.64%)は、第2次世界大戦中のすべてのB29爆撃機の出撃(総計380回)のうち、最悪の記録であったとされています。 ※渡辺洋二「極東を震撼させた超空の要塞の足跡−B29の戦闘記録」 『世界の傑作機No.52 ボーイングB29』(文林堂 1995年)P47 ※ちなみに、B29爆撃機の平均損失率は、1.38%とされています。 渡辺前掲書『本土防空戦』P426 4 その後 | このページの先頭に戻る | さて、成都からのB29爆撃機の日本本土空襲は、マリアナ諸島からの空襲が本格化(初出撃は1944年11月24日、その時の攻撃項目表は、中島飛行機武蔵工場)することによって、役目を終えました。 1945年1月6日に長崎県の大村海軍工廠(5回目)の爆撃を最後に、第58爆撃航空団の日本本土空襲は終わり、以後、45年3月までの間に行われた爆撃は、台湾、タイ、シンガポール、上海など日本軍の占領地域の基地・港湾・石油貯蔵基地を目標とするものでした。 ※長野暹前掲書、『八幡製鐵所史の研究』P234 それでは、逆にマリアナ諸島からのB29爆撃機が、八幡製鉄所を爆撃目標に選んだかというと、そうではありません。 ここが少々不思議なところです。 八幡製鉄所空襲は、44年8月の次には、45年8月8日の八幡市街も含めた大空襲となります。この時は、八幡市街地の30%が焼失し、製鉄所も大きな被害を受けました。 ※中村直人著『高炉物語』(アグネ技術センター 1999年)P46 44年8月以降、なぜアメリカ軍が八幡製鉄所を爆撃目標に選ばなかったかについては、アメリカ軍の戦略爆撃調査団の報告書などでは、生産施設に対する直接的な航空攻撃の効果よりも@輸送船攻撃(潜水艦によるものも含む)の結果としての原料不足による生産減退を、またA市街地爆撃による労働者の生活難や戦意喪失をより高く評価したとのことです。 ※長野暹前掲書、『八幡製鐵所史の研究』P298 中島飛行機などの工場爆撃もそうでしたが、特定の施設への昼間精密爆撃は、被害(損失率)の割には、命中率が悪く、1945年1月頃から、アメリカ軍は夜間市街地絨毯爆撃へと重点を移していきます。 また、報告書がいうように、現に八幡製鉄所は、1945年にはいると、原料不足(特に石炭不足)が深刻となり、爆撃をうけるまでもなく、銑鉄の生産は、次第に減少していきました。
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