この項は、他の「目から鱗」に比べると重い事柄を扱います。目から鱗ぽろぽろ、というわけには行かないかもしれません。
2001年前半は、2002年度から採択する教科書をめぐっていろいろな問題・論争が発生しました。中学校の歴史や公民の教科書をめぐって、扶桑社から提案された「新しい歴史教科書」・「新しい公民教科書」が、大きな波紋を投げかけました。 私は一応、歴史を専門としていますので、ここでは、歴史に限って話を進めます。但し、この項目では、どの教科書が良いかを論じるわけではありません。 これまでの歴史の教科書が、自虐史観にのっとったものであったかどうか、反対に、扶桑社の「新しい・・」が、指導要領に忠実で、「日本国民に日本の歴史対する誇り」を植え付けるものであるかどうか、判断は微妙です。 これまで私は、普通の教科書にはない、「神話」に関する部分を、自家製のプリント等を使って、日本の「文化」として、教えてきました。もちろん、「古事記」・「日本書紀」の描く古い部分は、事実ではないと強調した上です。 それらを含めて教えないと、たとえば、「建国記念の日」は、どういういわれのある日で、せっかくの祝日なのに、何故反対意見があるのかは、生徒たちに理解させることはできません。
また、神話を持つということ自体、国の長い伝統と歴史・精神文化の豊かさを示しているとも思っています。 授業中にしゃべって生徒から素朴な賛同をえました、「日米経済交渉でアメリカに何か言われたら、首相は言い返せばいいんだ、『大統領、君の国には神話はあるか、ワシントンが桜の枝を折ったぐらいしかないだろう』と。」 神話を国の豊かな文化としてとらえることは、大いに賛成です。
しかし、明治以降の近代に於いて日本が進んだ道については、とりわけ20世紀の日本国の軌跡については、より現代に近い部分であるだけに、教科書の記述や授業の視点は、慎重でよりバランスのあるものでなければなりません。 そもそも、歴史の勉強は、先人の軌跡の栄光を楽しむことばかりが目的ではなく、これからの日本をどうしていくのかこそが主たるねらいであるべきなのです。したがって、日本の将来を担う若者は、この国に自信を持たなければなりませんが、同時に真実を学べるようにしなければ成りません。
最初に断ったように、教科書問題に結論を断じることは私の能力を超えます。 ただ、これに関連して、ひとつだけ、私が、教師をしている間中、ずっと考え続けていることがあります。それは、「太平洋戦争は果たして戦うべき戦争だったのか」ということ、換言すれば、「誰があのような狂気の戦争を進めてしまったのか」ということです。
これについて、私の歴史観に大きな影響を与えているのは、故司馬遼太郎氏です。少し長いですが、氏の書物から引用します。 ※司馬遼太郎著『「昭和」という国家』(1998年NHK出版)P3〜5
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