2001-1
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001 2000年12月23日(土) 政治家・映画・エクソダス・家族    メニューへ 

 週末に、子どもと映画に行きました。
 私は、典型的なアメリカ映画のファンの一人です。アメリカ映画ファンといっても好きなジャンルは人それぞれですが、私の場合は、「政治」・「裁判」ものです。このへんは社会科の教師らしいといえばそのとおりです。
 冒険・ファンタジーなどいずれをとっても、アメリカ映画は日本映画にない魅力を持っていることは確かですが、「政治」・「裁判」ものに関しては、日本の映画の魅力と違うどころか、日本映画には存在しないジャンルだと思います。

 両方の話をするとややこしいので、「政治」に限ります。
 今日見たのは、ケビン・コスナー主演の「13 days」です。題材は、1962年に起こったかの有名な「キューバ危機」です。カリブ海に出現した社会主義政権キューバにソ連が中距離核ミサイルの配備を実施。偵察機からの映像でその事実を知ったアメリカ政府、ケネディー政権が交渉によってそれを阻止するまでのドラマです。
 主役のコスナーは、大統領ジョン・F・ケネディー、司法長官ロバート・F・ケネディー兄弟と同郷のアイルランド出身で、大統領の片腕として奮闘するケネス・オドネル大統領補佐官役です。ここで詳細を述べるつもりはありませんが、最後は、彼らの粘りと正義が、強硬派の軍部の意見を退けて、ソ連首相フルシチョフとの妥協の成功=核戦争回避を成し遂げます。
 映画の見所は、彼ら3人が見せる苦悩と迷い、言い換えれば人間としての弱さ、それを克服していく勇気にあります。一言で行ってしまえば、政治家としての「勇気と決断」に感動する映画です。もっと簡単に言えば、「う〜んカッコイイ」と私のような中年のおじさんがつぶやいてしまう映画です。

 日本の映画にこういう作品がない理由は至極簡単です。日本の政治家があまり「カッコヨクナイ」からでしょう。今年話題となった小説に村上龍の『希望の国のエクソダス』(文藝春秋)があります。その中でも、このことがでてきます。「反乱」を起こした中学生がインターネットを通して国会で「演説」をするシーンです。

 「この国では何でもある。ほんとうにいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」(P309)と有名なセリフがでてきたあとで、「まあ、子どもの場合ですが、とりあえず大人のやり方を真似るっていうか、参考にしていく以外に生き方を考えることはできないわけで、要するに、誰を真似すればいいのか、みたいなことがまったくわからなくなってしまっているわけです。政治家とかどうなんでしょう。いいからおれを真似て生きればいいんだ、みたいなことを言う政治家の人っているんですかね?どうですか?みなさん」と国会議員に向かって呼びかけます。
 「
今の政治家の生き方を真似ろ、今の政治家のように生きればいいんだと、なぜ僕らに向かって大きな声で言えないんですか?(略)」(P310〜P311)
 これは今の政治家だけに限らず、いつの時代においても日本の政治家に共通して言えることなのかもしれません。 

 大統領ものには、必ずといっていいほどでてくるのが、大統領のカッコイイ発言(演説)です。たとえば、1997年の名作「インディペンデンス・デイ」には、侵略する異星人の円盤の撃墜に、大統領自らが出撃する時に、定番のカッコイイ演説をします。
 ところが、この映画では、そういうシーンはなかなか出てこなくて、ファンの私としては少々期待はずれ、不満鬱積のまま最終シーンとなってしまいました。

 ソ連との交渉がすべて済んで、ほっとした雰囲気の中で、ちょっと別の形でそれが登場しました。演説ではなくて、手紙の草稿を口述筆記させるという形で。
 
 ミサイル配備阻止の行動の過程で、アメリカは偵察機を何回も飛ばしますが、そのうちの1機が未帰還となります。オドネル大統領補佐官はそのパイロット、ヘンダーソン少佐と事前に連絡をとり、無事帰還を促すのですが、彼はキューバ上空でミサイルにより撃墜されてしまうのです。
 
 普通の映画なら何ら無視してもかまわない端役です。それがラストシーンにつながるのです。
 大統領が彼の両親へ手紙を書きます。暗唱できていませんが、「あなた方の息子さんは、合衆国のために尊い命を落とし・・・」みたいな弔意を示す文章です。ここにも、アメリカ映画が大切にする「家族とヒューマニティ」がしっかりと貫かれていて、細かい配慮に涙する映画でした。
 
 ちょっと視点が違いすぎますが、これまでの数々の日本のゴジラ映画で、ゴジラの火炎に焼かれた自衛隊の戦車・戦闘機・護衛艦の乗員は、どうなってしまったんでしょう。あれはプラモデルだからいいのでしょうか?ちょっと極端な比較ですが、日本の映画の物足りなさの原因の一つひとつになっている気がします。

 最後にまた『希望の国のエクソダス』からの引用。(P205)
「移民の国であるアメリカはいつもどこか寂しそうだ。
彼らの理想は昔も今も幸福な家庭と人間関係だ。だが日本には、それが幻想に過ぎないとしても、幸福な家庭と人間関係だけは最初からあった。(中略)集団に属することができさえすれば、この国では幸福な家庭や人間関係は自明のものだった。

 いまでも、本当に「自明」なのでしょうか? 


002 2001年1月27日(土) 選挙・場当たりリアリティー・社会科の授業  メニューへ

 明日、1月28日(日)は岐阜県知事選挙です。現職の知事が4選を目指して立候補しており、もう一人候補がおられますが、知名度は今ひとつで、結果はほとんど目に見えています。明日の開票速報は、始まったとたんに「現職当選確実」がでるでしょう。
 気になるのは、投票率です。
 現職知事のこれまでの選挙の投票率は以下のように推移してきました。
  1989年 54.87% 
  1993年 51.86% 過去最低記録更新
  1997年 45.44% 過去最低記録更新(前回より約10万票減少)
 新聞各紙は、「当選は確実。しかし、投票率の低下に歯止めがかかるかどうかが、選挙の焦点」といっています。
 ところが、県民の反応は、芳しくありません。 
 97年選挙の時の世代別の投票率の調査では、20歳から24歳の投票率は約21%(『岐阜新聞』01/01/12朝刊)でした。成人式の時にNHK岐阜放送局が行った新成人へのインタビューでは、現職知事の名前を知らない人は10人中4人、知事選そのものをしらいない人は、7割を越えるという状況でした。

  •  アンケートは県内13町村の成人式会場で実施。940人が回答しまた。質問項目は@投票に行くことに抵抗があるかA不在者投票を知っているかB知事選があることをしているか、の三つです。
     若者の関心の低さがはっきり現れたのはAとB。Aの質問には約3人に一人が「知らない」と答え、Bでは、71.4%が「知らない」と回答しまた。全般的に、男性の方が関心が低いという状況でした。(01/01/22朝日新聞) 

 県選挙管理委員会は、投票日前の最後の日曜日となった21日、ショッピングセンターを行脚し、若者層をねらったPR活動を展開し、風船を配ったり、景品つき選挙クイズをしたりして子どもの関心を引き、その親に投票に行くように訴えました。
 私たち県職員には、「1月28日は投票日」という三角柱が配布され、車のリアウインドウに置くように指示されています。
 どれにしてもも、姑息な場当たりの対応です。(あ、この前僕が新語を開発しました。長期的計画を持たず、その場その場の状況に合わせて何とか切り抜けようとする、態度・やり方を「場当たりリアリティー」といいます。もちろん、virtual reality もじったものです。)
  
 私が社会科の授業をやってた時は、現代社会だろうと日本史だろうと、衆議院・参議院選挙がある時は、事前に説明して、どの党派が増えるか減るか、投票率はどうなるかを授業中のクイズにしてきました。しかし、知事選までは、手が回りませんでした。私だけでしょうか、意外なことに、国政の動きは知っていても、身近なはずの県政については、ほとんど知っていなかったからです。恥ずかしい限りです。
 地歴・公民科の教師としては、場当たりリアリティーではないもっと地道な方法で、政治への関心の喚起を進めていかなければなりません。何かいい方法を実践の方はお教えください。  


003 2001年1月28日(日) 真ん中岐阜県                 メニューへ

 現職知事が見事当選されました。おめでとうございます。投票率も46%以上を記録し、まずまずというところです。
 ITや福祉、さらには首都機能移転とは別に、「夢おこし」県政実現のために、私なりの新しい提案をします。

 岐阜県は日本の真ん中であることは、地理的にはわかることですが、実は、文化的にも東西の境界線もしくは緩衝地帯となっています。それはすでに縄文時代の石器の分布から見ても言えるのです。岐阜県やそのまた真ん中の郡上郡美並村は、「日本の真ん真ん中」という言い方でアピールはしてきましたが、「東西文化の融合点・接点岐阜」という言い方は、あまりしてこなかったような気がします。

 2000年に開催された「関ヶ原大垣博覧会」は、1600年の関ヶ原の戦いから400年を記念してのものでした。NHKの大河ドラマ「葵徳川三代」とマッチして人気を博しましたが、所詮戦いをテーマにしたものです。
 この戦い勝利によって、江戸幕府が開かれていったことは当然ですが、徳川家康的地方分権的自給自足経済体制派(東国方)が、石田三成的中央集権的商業経済推進派(大坂方)をやぶった結果、その後の日本の経済・社会は、商業・貨幣経済の進展という点からは、一歩後退します。つまり、東国の土着的武士文化が、日本の中心となったまさしく天下分け目の戦いでした。関ヶ原・大垣博のコンセプトに、、「東西の争い」についてそこまでの意識がなされていたでしょうか。
 
 話を簡単にします。
 東西の真ん中にある岐阜県が隣の滋賀県をと手を組んで、「日本の東西文化の出会う場所 岐阜・滋賀」とやりましょう。東西文化歴史館、言語・方言の違い博物館、東西味文化の違い確かめ館、関西芸人と東京芸人による劇場、そしてもちろん関ヶ原の戦いテーマパーク・・・・。歴史あり、民俗あり、食べ物あり、芸人ありの何でもありです。
 滋賀県最東部と西濃地方をドッキングさせて、一大テーマリゾートの建設というのは面白くありませんか、新幹線の駅も作ります。名付けて、「真ん中日本駅」。いや、まじめです。南飛騨何とかかんとかよりは面白いですよきっと。 


004 2001年2月04日(日) 夢を実現する行政              メニューへ

 行政について私の悩みを書きます。
 県民が望むいろいろな施設・設備・品物やサービスを上手に提供し、県民が快適に暮らすことができることが行政の理想だと思います。しかし、何事もお金あってのことです。岐阜県はここ数年間いろいろな施設(箱もの)を作りすぎて、財政は火の車です。したがって、職員も増やすことはできません。人件費の削減に躍起です。

 その状況で、どうやって新しい仕事をしなさいというのでしょう。
 たとえば、岐阜県はIT戦略を定め県をあげてIT化を進めています。教育委員会関係も今年度の後半から再来年度にかけて、高校には続々と新しいコンピュータが入り、校内LAN・学校間ネットワークが整備されて行くと聞いています。
 でも、たとえば、岐阜県の教育委員会のHPですが、他県と比べて、とても「IT先進県」とはいえない状況です。こういう全体的なものをどの部局が担当して進めていくか。これはなかなか難しい問題です。なぜかといえば、その分だけどこかの部局に新しい仕事が増え、具体的には、誰かの仕事量が増えて行くからです。人員を増やしてもらえない状況では、必然の結果です。「スクラップ アンド ビルド」という原則がありますが、教育の場合そう簡単にスクラップできない場合が多く、結局は仕事は増えていきます。

  県議の中には「新しいものに手を出すより、総決算のつもりでこれまでの施策の中身を充実するべきだ。」とか、「県民はかなり保守的。後ろを振り向いたら、県民は疲れ果てているのではないか」と言う意見もあります。(いずれも2月4日『朝日新聞』)
 誰もが疲れないようにしかも「夢が実現する」行政というのは、夢幻ですか。


006 2001年2月18日(日) 映画「ペイ フォワード」と教育       メニューへ

 映画「ペイ フォワード 可能の王国」を見てきました。ミミ・レダー監督、ケビン・スペイシー(社会科の先生役)、ハーレイ・ジョエル・オスメント(中学1年生役)、ヘレン・ハント(母親役)出演の映画です。

 物語は、中学1年のクラスで社会科の先生が「もしきみ たちが世界を変えたいと思ったら、何をするか」と問いかけるところから始まります。ト レバー(ハーレイ・ジョエル・オスメント)が考えついたのは、シンプルだがユニー クなひとつのアイデアでした。人がしてほしいよい行いを三つ実行して、またそれをしてもらった人が三つ実行していきます。つまり、よい行いの無限連鎖です。人間の「性善性」に依拠する頼りない提案ですが、そのアイデアはやがて、ほんとうに世界を変える可能性を持ち始める・・・。という映画です。

 「可能の王国」なんてくさいタイトルを付けて陳腐化せずに、原題名「pay it forward」(先へ贈る)のままで充分です。ストーリーをこれ以上話すと面白くないのでやめますが、見終わってさわやかな感動と勇気をもらえるいい映画です。先週見た「アンブレイカブル」とは大違いです。

 ここで取り上げたのは、いい映画であることもさることながら、やはり、社会科の授業と先生がこの映画のストーリーの重要な部分になっているからです。
 1年の授業のはじめに、その年のメインテーマ、その年1年間生徒に考えて欲しいことがらなどを、生徒に提示して1年間意識させ続けるという授業は、ひとつの理想であると思います。

 私のつたない経験では、世界史や日本史では、「ソ連崩壊」・「日本の政治改革」・「日本経済の行方」・「世界の民族紛争」などを、わかりやすい形で提示して、1年間のテーマにしたことがあります。たとえば、「民族紛争」では、「今世界の国の数は、15年前と比べて増えているか減っているか」で、世界史の最初の授業を始めました。
 映画の中では、早速、次の時間に先生が生徒のプランを一人一人発表させます。トレバー君のような注目を浴びる意見もありますが、多くはがらくたです。しかし、先生はいいます。「結果はともかく、努力することに意味がある。」

 他のページでも言い続けていることですが、やはり、生徒一人一人に自然に「意見を発表させ、それを聞く」能力を向上させようとすれば、中学校・高等学校、特に高校段階で、「座って聞いているだけの授業」から脱却しなければなりません。
 あらためてその重要性を感じさせてくれた映画でした。


007 2001年3月4日(日)  教育を考える場合の錯覚 その1    メニューへ

 先週、2月26日が私の誕生日でしたので、46歳になりました。「自己主張するおじさん」を目指して、今年もゴーイングマイウェイの人生を続けます。
 この一年、次の政策をどうしたらいいかを考えるポストにいた結果、いろいろな方から意見を聞くことも重要な仕事のひとつになりました。行政にしろ、ビジネスにしろ、受益者のニーズを聞くことは重要な要素です。
 しかし、多数の方が述べた意見であったとしても、それが真実であり、実現しなければならないことであるかどうかは、充分な吟味が必要です。さも正しそうな意見でも、実はこれはだめだというようなものもあるからです。
 次は、この1年で見聞きした、「教育を考える実践する場合に、人が陥りやすい錯覚」集です。

  1. かなりの有識者でも自分の受けた教育、自分の近親者の受けた教育の事例のみから「普遍的意見」を導き出す。
    • ある委員会の委員で、発言の最初に、「うちの孫が」と必ず言ってからしゃべりはじめられる方がいます。大先輩が「わしの若いころは」と言うよりは、まだましですが、専門的に調査・研究をしている人でなければ、教育問題は、ほとんど個別事例に基づく意見です。

    • 昨年7月に、日本の若者(大学生から30歳ぐらいまで)と教育問題について議論する機会がありましたが、彼らも、「今の教育は」といって、自分の受けた教育を題材に話をします。確かに、20歳代といえば社会の組織の中では「若手」ですが、それでも、今の小学生・中学生とはもう10年かそれ以上の差があります。具体的には、彼らでも、現行の学習指導要領のひとつ前のもので学んだ人たちも多いわけです。したがって、彼らですら、「自分の受けた教育=今の教育」という思いこみがあると、発言する内容は、私からすれば、いちいち、「いや、それは一昔前のことで、今の学校では・・」と訂正が必要な意見か、またはそれにも値しないガラクタの場合が多くなります。

  2. 今の社会に適した教育は子どもたちの将来には適していないかもしれない。

    • 「自分の若い時代は・・」はという教育論は、多くの場合子どものたちにとっては受け入れがたいものであることが多いのは言うまでもありません。だからといって、「今の時代に合わせた教育」というのが正しいとは限りません。何故かというと、たとえば小学校の低学年の子どもであれば、将来社会にでるのは、10年以上も先のことになるからです。子どもは「未来からの預かりもの」というフレーズが意味を持つゆえんです。

    • そう考えると、本当に子どもたちに教えなければならないのことは、「過去・現在・未来とつなげてみて、本当に重要なもの」といった発想をする方が重要です。そうしないと、やたら流行を追いかけてしまうことになりかねません。

  3. 今と昔とでは、子どもにとって学校の意味が違う。
    • これに関しては、年輩の方はなかなか理解ができず、「何故昔の学校はよかったのか」が正確に分析できない場合もあります。

    • 昔、学校は、家にはないいろいろな品物、代表例はピアノ・オルガンなどがあって、家にいるよりは遙かに魅力的な場所でした。ところが、今では、パソコンにしても家の方が進んでいるわけですから、学校には「陳腐」なものしかありません。「ハード」的には学校にはあまり魅力はありません。

    • 教師の話を聞く感覚も違います。我々の世代では、TVを見るときですら、部屋を暗くして一心不乱に見たものです。今は、TVにしろ、何にしろたくさんのメニューがありますから、TVを付けていてもメニューの選択ができますし、どれも面白くなければゲームをするか、本を読むか、勝手に自分で選択できるのです。教壇でしゃべっている教師に対しても、そういう感覚が身に付いていますから、一心不乱に聞けというのは無理です。「学級崩壊」現象が起きる要因のひとつではないでしょうか。そういう意味では、教師は、ソフト面で「エンターテナー」としての要素を強く持たなければならなくなりました。

  4.  IT機器を使ってプレゼンすればいいと言うものではない。
    • この一年ITを使ったいろいろな新しい教材・教育方法・プレゼンを見せてもらいましたが、どれも今ひとつです。本人たちは「自分たちのはすごい」といっていますが、それほどとは思えないどころか、錯覚に陥っています。

    • いい例がパワーポイントによるプレゼンです。そもそも、3年ぐらい前なら見ただけで、「オー、すごい」と思いましたが、今では、「またか」という程度です。そして、プレゼンテーターは、「自分がすごい装置とソフトを扱っていれば、みんなが感心し、理解が深まる」と誤解しています。

    • パワーポイントのプレゼンは、僕はあれは個人的には、自分が中学校時代に盛んに先生たちの間で流行った、オーバーヘッドプロジェクターとスライドを使った説明と基本的に同じと思っています。うまくやらないと、致命的な欠点があります。プレゼンのテンポが速いため、その時は、なるほどとは思いますが、終わるとほとんど何も残りません。

    • ただ、パワーポイントを使えばいいというのではないのです。あれは、黒板にチョークで書くことの代わりなんですから、その他の要素、説明の構成・説明のしゃべり方・聞く側とのやりとりなどを忘れては、結局、元の木阿弥です。

    • 昔、ワープロ機やパソコンのワープロソフトが出始めたとき、それまで、ガリ版や鉛筆書きで作業していた我々教員は、「これで画期的なプリントが作れる」と喜びました。しかし、結局はパソコンで優れたプリントを作った人は、手書きで優れたプリントを作っていた人でした。道具の進歩は、「革命的」な変化にはつながりませんでした。その時と同じような「錯覚」が生じてはいないでしょうか。 


008 2001年4月1日(日)  教職員への勧誘                     メニューへ

 教職員をやっていると、時々「勧誘」の電話がかかってきます。土地や株などの購入の勧誘です。

 最近では、どこかの不動産会社から、「大阪駅の近くの分譲マンションのオーナー」にならないかという電話があり、今日3回目の「勧誘」がありました。3回とも同じ会社かどうかわかりませんが。普通なら、「興味がない」といって電話を切るところですが、今日は少しヒマがあったので、社会の先生の「好奇心」が首をもたげて、次のような会話となりました。
 ※○は私、●は不動産屋の電話勧誘社員です。

  • 「先生(気易く呼ばれる覚えはないが、まあ、しょうがない)、節税対策のいい方法がありますが、お話を聞いていただけませんか。」

  • 「そういう話は興味ありません。電話切りたいんですが。」

  • 「先生、老後の不安、ありません。年金大丈夫ですか。」

  • 「あまり大丈夫とは思っていません。」

  • 「大阪の駅前にいい分譲マンションがありまして、それが節税対策と年金問題の克服になります。」

  • 「そういううまい話は、あまり信用しない方ですが、一体どのくらいのマンションを扱っているの。」

  • 「今回は、前部で60戸です。」

  • 「それをわざわざ岐阜の教員に電話をかけるわけ?」

  • 「各担当がいまして、それぞれの県の先生方にかけています。」

  • 「そんなに電話しても、理解する人がいないほどのあぶない物件なの?」
  • 「いや、そんなことはありません。かならず、節税対策や少なくなる年金の対策になる話です。」

  • 「少なくなるって、どのくらい少なくなるの?こういう電話は何回もかかってくるけど、そういう会社やマンションはいくつもあるもの?」

  • 「え〜と年金は10万ぐらい。今回の話は、大阪駅のすぐそばの絶対間違いないマンションです。」

  • 「マンションの需給関係は、どうなっているの?そんなに需要はあるの?」

  • 「全体に大阪では売れています。」

  • 「細かい数字は言えないの?」
  • 「詳細はわかりませんが、我が社のこれは、唯一の安い競売物件ですから、大丈夫です。」

  • 「何故、それが唯一なの?」

  • 「銀行の不良債権処理ででてきた更地に作ったものですから。」

  • 「そんなのこれからもいくつもあると思うけど、まあ、その点についてはそこまでにしときましょう。ところで、多分教職員の名簿かなんかみている思うけど、なぜ、教員に電話をかけるの?」

  • 「今は非常に厳しい時代で、教員や医者(すごい並べ方)の先生方しか、お金は借りれませんので。」

  • 「お金を借りる?つまり、お金を銀行から借りて、それでマンションを所有して、そのお金で老後の対策にって話?そんなおいしい話は、どうして、ご自分でやらないの?」

  • 「今銀行が厳しくて、普通の会社員とりわけ、不動産会社の社員なんて身分の不安定なものには、銀行は金を貸してくれません。」

  • 「マンション持てば、儲かるって話だけど、危険もあるでしょう。うまく分譲できないとか、変な職業の入居してトラブルが起こるとか、地震で壊れるとか。」

  • 「そういう問題は、当社が責任を持って処理します。」

  • 「責任持ってといったって、今あなたは自分で、不動産会社なんて不安定なものはないといったでしょう。あなたの会社がいつまで続くかわからないでしょうが。」

  • 「あなたは、この件には乗り気ではないんですね。」

  • 「そうですよ、最初にそうちゃんといっています。電話を切ろうとしたけど、あなたがしゃべるからつきあっているんですよ。」

  • 「そうですか。」

  • 「電話切っていいですか。」

  • 「はい」  

 

今度時間があったら、もっと、いろいろ聞き出して、授業のネタにしてやろうと思います。


この件で、こういう物件の「真実」を知っている人がいたら、教えてください。


009 2001年4月15日(日)  『チーズはどこへ消えた』と信長・秀吉・家康        メニューへ

 昨年あたりから話題になっている『チーズはどこへ消えた』を読みました。絵がふんだんに入った94ページの本ですから、30分もあれば充分読めてしまいます。
  ※スペンサー・ジョンソン著門田美鈴訳『チーズはどこへ消えた』(2000年扶桑社)
 まだ読んでない人に話がわかるように、ちょっとだけ解説します。

 物語は、そう複雑ではありません。高校の同窓会に集まった数人の中年の男女が、そのうちの一人が話す「ネズミと小人がチーズを探す話」を聞いて、自分たちの過去を振り返りつつ、将来への希望を見いだすというものです。
 物語の本体の部分は、スニッフ(本来の英語の意味でにおいを嗅ぐ)とスカリ(同、素早く動く)の2匹とネズミと、ヘム(閉じこめる)とホー(口ごもる)の二人の小人が、迷路の中でチーズを探す物語です。
 一度見つけたチーズが次第に小さくなって消滅してしまった時、二人と二匹がどんな行動を示すかがポイントぺす。つまり、状況の変化をどう受け止めるかとおして、人の真理や行動についていろいろ考えさせるという趣向の本です。

 話題になっているというので読んでみましたが、はっきりいって、私には、さわやかな感動も新しい「教訓」もあまりもたらしませんでした。
 「ひとつの満足に安住していないで、時代の変化を見極めつつ、つねに新しいものを求めていく」という生き方を学ぶのに、こんな本から教えられるというのは、いかにも寂しい気がします。そんな話は、自分の職場にも、家族の中にも、ごろごろ転がっていそうです。
 すくなくとも、私の愛読マンガ雑誌『ビッグコミック』や『ビッグコミック オリオジナル』の中には、毎週ありそうな話題です。(脱線しますが、両雑誌の「黄昏流星群」と「ビッグウィング」は毎回いい話です。)
 
 いい大人に対しては、今ひとつでも、授業というならまた話は別です。
 ネズミと小人という設定といい、これは、HR活動などでは使える本です。それぞれの立場を掘り下げて考えさせてみたり、また、自分はどのタイプかとか考えさせてみたり、いろいろ活動はあります。
 もし、私個人の性格・生き様・人生はどんなものかといえば、二人と二匹のどれもあてはまりません。私はチーズを探すタイプではなく、作ってしまうタイプです。

 日本史の授業の中でも、生徒に自分の人生を考えさせることができる面白い遊びがあります。
 織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の3人がどういう人物かという話は、色々ありますが、3人が、鳴かないホトトギスを前に詠んだ俳句という、後世の人の作り話があります。

  ・鳴かぬなら 殺してしまえ     ホトトギス(信長)
  ・鳴かぬなら 鳴かせて見せよう  ホトトギス(秀吉)
  ・鳴かぬなら 鳴くまでまとう     ホトトギス(家康)

 この有名な句を紹介した後で、生徒諸君に投げかけをします。自分なりの句を作ってみなさいと。
 これまで十数年間毎年試みた中で、生徒はいろいろなバリエーションを示してくれました。印象に残るものをいくつかあげます。
  ・鳴かぬなら 鞭と蝋燭 ホトトギス (京都大学文学部に進学した女生徒の作品です。見事です。)
  ・鳴かぬなら ほかのにしよう  ホトトギス (現代っ子らしいです)
  ・鳴かぬなら それもまたよし  ホトトギス (これこそ個性を大事にする教育です)
 
 さて、私ですが、もし自分の性格をそのまま詠めば、
  ・
鳴かぬなら 代わりに鳴こう  ホトトギス

となります。まあ、しょうがないです、性分ですから。
 
 あなたはいかが? 


010 2001年4月21日(土)  映画「スターリングラード」とソ連・ロシア           メニューへ

 映画「スターリングラード」を見てきました。
 戦争映画ですから、暖かな感動はもちろんありません。

  「プライベート・ライアン」を越える迫真の戦争シーン。総制作費8500万$(約100億円弱)。
 宣伝文句に恥じないいい映画でしたが、いわゆる「スペクタクル戦争映画」というものとは少し違います。
 日本配給にあたって、日本ヘラルドが「スターリングラード」という、耳目を集める有名な戦いの名前を使いましたが、原題は「Enemy at the Gate」(門の敵)です。

 ジャン=ジャック・アノー監督の意図も、戦争全体を描くのではなく、あくまで、実在したソ連軍狙撃兵ヴァシリ・ザイツェフ(俳優はジュード・ロウ)とドイツ軍の狙撃兵との孤独な戦いと、そして、ヴァシリとレジスタンスの娘ターニャ(俳優はレイチェル・ワイズ)との戦場という極限の中での恋を描くことにあったと思います。
 特に、狙撃兵対狙撃兵の、息詰まる対決は、狙撃銃スコープの映像という装置の効果もあって、非常に緊迫したものと描かれていて、それがまた、終わった後のむなしさを大きくさせます。
 主人公が死なない場合、戦争映画といえば、このむなしさを観客にどう伝えるかが大きなテーマになると思います。その点では、この作品は、成功であると思います。
 ※スターリングラードについてのクイズは
クイズ世界史二つの世界大戦へ

 さて、ソ連・ロシアです。
 平均的日本人は、ソ連やロシアに対しては、アメリカとは違って、親しみやあこがれは持っていません。その点では、私も同じですが、私の場合は、少し他の人と違った部分があります。
 私事で恐縮ですが、私の父は、昭和20年の夏に、かの有名な関東軍の一兵士として、満州国の関東軍部隊の中にいました。いずれ国境を越えてやってくるソ連戦車に、たこつぼ陣地(自分がやっと入れる穴)の中から、攻撃する訓練を繰り返していました。
 一兵士が戦車をやつける方法は、自分の穴の上を通る戦車のキャタピラに向かって、自分の持っている対戦者用爆雷を体ごとぶつけるというものです。

 1945年8月9日未明、ソ連軍は3方向から満州国になだれ込みました。関東軍は一部の防御陣地での抗戦と父親の部隊のような対戦車肉弾攻撃によって抵抗しましたが、各所で打ち破られて、国境の防衛戦を突破されます。
 その結果、満州国はソ連軍によって蹂躙され、二つの悲劇が起こります。ひとつは、満州にいた一般日本人の悲劇です。これはいまでも、中国残留日本人孤児の肉親探しという形で、話題に上ります。
 もうひとつは、降伏した関東軍兵士の、それから数年に及ぶ捕虜としてのシベリアでの収容所生活です。

 父は、司令部からの「退却」命令によって、戦車への体当たりによる散華という運命から救われました。しかし、直後に捕虜となり、それから4年間、バイカル湖の西方の収容所で捕虜生活を送ります。
 昭和24年に帰国するまでの苦労話は、幼い時から私の耳に入り、私のソ連に対するイメージを決めました。

 妻の父(義父)もまた、同様に、シベリア捕虜生活経験者です。彼は、材木伐採中に足を負傷し、その後現在に至るまで、身障者手帳を受けることになります。しかし、彼は、収容所の外で触れたロシアの庶民の素朴さや親切を、生涯忘れないものとして、私に語りました。
 ※シベリア抑留についてはクイズ日本史戦後編へ
 ※また舞鶴と引揚記念館については、
「若狭・丹後・但馬旅行2 舞鶴」へ

 どこの国のこともそうですが、特にロシアを理解することは、簡単ではありません。 


011 2001年5月27日(日)  映画「タイタンズを忘れない」と学校で見た映画        メニューへ

 自分が児童生徒だったころに、学校の行事として見た映画というのを、それから何十年もたっても覚えています。
 
 小学校・中学校のころは、私が通っていた学校が、岐阜市の中心部柳ヶ瀬にある映画館に近かったこともあって、学校の行事として全校とか全学年の生徒とかが歩いて映画館まで行って、全体で鑑賞するという機会が年に一回ほどありました。
 小学校では、4年生の時の、あの名作「東京オリンピック」もそうでしたし、全国的に有名だったかどうか分かりませんが、6年生の時には、「母ちゃんと11人子ども」という映画を見ました。
 中学校では、1年生の時に、かの大作、「十戒」(主演チャールトン・ヘストン)を見ました。ユダヤ教のことはほとんど分かりませんでしたが、その壮大なスケールに感動したのを記憶しています。
 
 こんな小中学校時代に見た映画を今でも覚えている理由は、ひとつには、それらが多分「文部省推薦」かなんかで、一応は名作だったことにあるでしょう。
 もうひとつは、当時は、小中学生が映画を見るという機会そのものが少なかったことにあるでしょう。今はどうか知りませんが、その時代は、中学生同士で映画にいけば、それは即「補導」の対象で、そして私だけでなく、事実それをみんなが守っていたと思われます。
 ちょっと脱線しますが、教員になって6年目ぐらいのころ、彼女と映画を見に行った時、大垣の映画館に入ろうとしたら、中学生のグループが補導員に詰問されて、学校名とかを聞かれていました。その映画が、「E・T」でしたので、教員であるよりは、一市民として、「E・Tなんて映画を見に来る生徒を補導しなくても」と彼女とこっそり話し合ったことを覚えています。(ついでに、この彼女は、その後今に至るまで我が家に棲み着いていて、この話は平気でホームページで公開できます。)

 脱線回復。

 教員になってからは、文化祭の全体鑑賞として、どんな映画を生徒に見せたらいいのかを考えなければならなかったこともありました。趣味も興味も感受性も異なる千数百名の生徒に、「強制的」にしろ、映画を見せて、それで学校全体がと生徒個人が何かを得なければならないのですから、どんな映画にするかは、いつも悩みの種です。
 
 ひとつ大成功した映画があります。
 その時は、高校ではよくあるパターンで、学校祭(1日目文化祭・2日目文化祭・3日目体育祭)の2日目の映画上演でした。上演された映画は、「炎のランナー」。
 1981年の英国映画で、監督はヒュー・ハドソン、主演はベン・クロス、イアン・チャールソン。アカデミー賞の作品賞・作曲賞などをもらった名作映画です。とりわけ音楽は名作で、今でも、テレビCMのBGMに登場します。

(BGMを聞きたい人はこちらへ
 イギリスで、二人のアスリートが1924年開催のパリオリンピックを目指して練習を重ね、見事栄冠を勝ち取るという内容です。一人はユダヤ人、もう一人は、スコットランドの宣教師という設定も、面白いものでした。
 これが、何故文化祭の上演映画としてよかったかというと、答えは簡単です。
 次の日の体育祭が盛り上がったのです。

 よく、映画を見終わって映画館から出てくる人は、その映画の主人公になりきっているという話があります。高校生1450人がみんな感動して、自分は栄冠を勝ち取るアスリートだと思って望んだ次の日の体育祭が、どんなに盛り上がったかは、容易に想像していただけるかと思います。

 さて、現在の話です。
 炎のランナーもまた、当然ながら、時代の産物です。今の高校生に、20年前のストイックな雰囲気が受けるとは思いません。
 今月初めに見た、「タイタンズを忘れない」は、違った角度で、学校での上演に適する映画と思います。

 宣伝用のキャッチコピーは、「アメリカが最も愛した友情が、ここにある。アメリカがひとつになろうとした1971年、バージニア州アレキサンドリアの町で一握りの若者たちの絆が、歴史を動かした。」です。
 ほかのページで説明しましたが、1960年代のアメリカは、黒人等のマイノリティーの差別を撤廃する法律、公民権法が、粘り強い運動の結果やっと制定された段階でした。各地で差別の実態が残っていた、そんなころの実話をもとにした映画です。(公民権運動については、
 
 バージニア州アレキサンドリア(ワシントンDCのすぐ南です。昔ワシントンから地下鉄で行った経験があります。)では、公民権法の制定を受けて、黒人の高校と白人の高校を統合することになりました。もちろん、フットボールチーム「タイタンズ」も統合されます。しかし、親も高校生たちも、それまでの感情が急に改まるはずもありません。
 そんなところは、ヘッドコーチとしてやってきたのが、黒人コーチハーマン・ブーンです。彼の指導するタイタンズが、白人コーチとの対立や、チーム内の白人・黒人生徒の摩擦を克服し、チームのキャプテンの交通事故をも乗り越えて、バージニア州チャンピオンさらには、全米2位にまで勝ち進む話です。
 ※詳しくはディズニー映画の公式サイトへ 
 
 黒人コーチ役は、デンゼル・ワシントン、高校生役には、Kip・Pardue(キップ・パルデュー、甘いマスクで、いかにも次代のハリウッドを担う若手スターという感じです。)などがいます。
 最近のハリウッド映画のカッコイイ黒人の役回りは、デンゼル・ワシントンが独占している観がありますが、この映画でもまた、見せてくれます。

 タイタンズは、夏の合宿を、アレキサンドリアから100qほど離れた、ペンシルバニア州のゲティスバーグ大学の寮を借りて行います。チームの不和やブーン黒人コーチの猛練習に、チームは崩壊寸前です。
 そんな時、コーチはさらに過酷な、早朝ランニングを命じます。夜明け前から大学の回りの森の中を何時間も走れというのです。
 まだ暗いうちから、言われるままに疑問を感じつつ走るタイタンズのメンバーの心の中には、次第に不満が高まります。夜が明けて朝靄の中、走り終えた生徒たちは、ブーン黒人コーチに詰め寄ります。こんな厳しい練習にはついていけないと。

 その時、朝靄が晴れて、森の中に、100年前に立てられた、たくさんの墓標が現れます。
 ここまで、話をすれば、コーチ、デンゼル・ワシントンが次にどんなセリフをいうのか、分かる方も多いと思います。
 差別、黒人と白人の不和、ペンシルバニア州ゲティスバーグ、100年前の墓標・・・・・。

 そうです、この森こそ、あのリンカン大統領に時代におこった南北戦争の最大の激戦地ゲティスバーグの戦いの場所だったのです。(戦いは1863年7月)勝利した大統領は、5ヶ月後この地で、かの有名な演説を行います。 

  •  Fourscore and seven years ago our fathers brought forth on this continent a new nation, conceived in liberty and dedicated to the proposition that all men are created equal. Now we are engaged in a great civil war, testing whether that nation or any nation so conceived and so dedicated can long endure. We are met on a great battlefield of that war. We have come to dedicate a portion of that field as a final resting-place for those who here gave their lives that that nation might live. It is altogether fitting and proper that we should do this. But in a larger sense, we cannot
    dedicate, we cannot consecrate, we cannot hallow this ground. The brave men, living and dead who struggled here have consecrated it far above our poor power to add or detract. The world will little note nor long remember what we say here, but it can never forget what they did here.
     It is for us the living, rather, to be dedicated here to the unfinished work which they who fought here have thus far so nobly advanced. It is rather for us to be here dedicated to the great task remaining before us -- that from these honored dead we take increased devotion to that cause for which they gave the last full measure of devotion--that we here highly resolve that these dead shall not have died in vain--that this nation, under God, shall have a new birth of freedom--and that
    government of the people, by the people, for the people, shall not perish from the earth.
  • 87年前、我らの祖先はこの大陸に新しい国家を築き上げた。それは自由という理念により打ち立てられ、全ての人間は平等に造られているという前提を信奉しようとする新しい国家であった。今、我らは大いなる市民戦争に携わっているが、それは同時に、かかる理念に打ち立てられ、かかる前提を信奉する国家が、果たして永続的なものであるかどうかを試される機会でもある。我らはその戦いの大いなる戦場に出迎えを受けた。我らはその戦場の一部を、かかる国家の永続を願いつつその人生を捧げた者たちのための最後の安息の場所として、捧げ奉らんがためにこの地に来たのである。我らが行為は極めて適切かつ妥当なことである。しかるに、より広い意味においては、我らはこの地を捧げることも、崇めることも、神聖視することもできない。というのも、生きる者も死せる者も、この地で闘った勇気ある者たちはすべて、我らの脆弱なる毀誉褒貶をはるかに超越した大いなる力によりてこの地に献身したのであるから。世間は、我らが語ることなどほとんど注目しないし長らく記憶に留めることもないであろうが、彼らがいかに戦ったかは決して忘れることはないであろう。だから、ここで戦った者たちがかくも気高く推し進めてきた未完の所業を奉るのは、まさに生きている我らなのである。我らこそ眼前に残る偉大なる所業へと献身的であらん。すなわち、これら名誉ある戦死者から、彼らが渾身の力を振り絞って捧げんとした大儀へと、我らがますます身を捧げんとするものであるが、それはすなわち、これらの死者を決して犬死させてはならないという、我らの高き決意であり、またすなわち、この神の下の国家に、新しき自由の誕生を現出せしめることであり、人民の人民による人民のための政府が、地上から決して滅んではならぬということなのである。(この日本語訳は、我が親友YKito氏によるものです。)

 リンカンの演説にも表現されている内容に、ブーン黒人コーチも触れます。「この犠牲者の死を無駄にしないために、君たちがやらなけらばならないことは何か。」と。
 コーチの示唆と、チームの高校生一人一人の気持ちの変化やアイデアが、チームを勝利へと突き進ませます。
 
 映画「タイタンズを忘れない」、いろいろな意味で、学校で上演したら意味のある映画だと思います。 


013 2001年6月09日(土) 修学旅行は韓国?                      |日記のメニューへ 

 4年前、以前にいた学校で、新しくできた総合学科高校としてふさわしい特色ある修学旅行とはどんなものか、という議論がありました。
 
 それ以前の1980年代後半には、岐阜市・大垣市等の高校では、それまでの中国四国地方への修学旅行から、長野県でのスキー研修へと、修学旅行の形態の変化が流行のように進んだことがあっりました。
 その時私は、社会科の教員として、「スキーは大学生になったら誰でも楽しめる。そんなことを高校生全員を連れて行ってさせてもなんの意味がある。」と反対をしましたが、少数派でしかなく、その学校は昨年まで、スキー研修が続きました。

 その時も4年前もそして今も、高校が行う修学旅行とは、ただその時の楽しみやあとでいつでもできる経験ではなく、やはり、高校時代に「目から鱗」的な経験をさせることができるようなものでありたいと思っています。

 特に地歴・公民科と教師という自分の立場から、やはり、それに関する「学習」ができる旅行が良いと思っています。
 総合学科の1期生の修学旅行も、阿蘇での自然体験、長崎での歴史学習を中心とし、行程に生徒の班別選択が可能なオプションを取り混ぜて、一応「総合学科」らしくしました。

 2期生に対して、新しく赴任した校長が、「韓国旅行」を提案しました。
 個人的には、去年作った自分のプランが即座に否定されたという思いがあったのと、沖縄にしろ、韓国にしろ、学習させることが多すぎて、意味あるものにするには、よほど本格的な準備が必要であり、総合学科の運営にてんてこ舞いの当時の状況としては時期尚早であるとの思いから、提案に反対しました。

 結論は、生徒と保護者の投票に決まりました。
 いくつかの選択肢を与えてのアンケートの結果、生徒・保護者の中で、韓国旅行を支持する数は非常に少なかったのです。つまり、たくさんの費用をかけてする旅行として、韓国への海外修学旅行は支持を受けなかったのです。

 生徒・保護者のアンケートには、韓国に行きたくない理由を書くようにはしてありませんでしたので、細かい状況は推測するしかありません。多分、アメリカへ、ニュージーランドへというのであれば、もっと支持があったの思いますが、少なくとも高校生には韓国はそれほどの魅力のある国ではなかったのでしょう。

 韓国は、旅行の事前準備として時間をかけることができるなら、十分に意味のある修学旅行先でしょう。
 南北対立の歴史と現状そのもの、本年の教科書問題に代表されるこれまでの日本との関係等、在日韓国朝鮮人問題などなど。一番近くにあってあまり親しみのわかない隣国を理解するということは、アメリカやヨーロッパへのあこがれを満たすよりは、よほど修学旅行としてふさわしいと思います。
 取り組むには、生徒にも保護者にも教員にも、韓国に対する興味の盛り上がりが必要です。

 先週、生まれて初めて韓国映画を見ました。もちろん、今話題の「JSA(Joint Security Area)」です。
 韓国映画の本格的な日本上陸は、2年前の「シュリ」でしたが、残念ながら私は見のがしてしまいました。忙しさもありましたが、今まであまり耳にしたことがない韓国語の映画が、自分の心にすっと入ってくるかどうか、懸念があったからです。
  映画が始まると、そんな心配は全くありませんでした。

 まだ上演中ですから、ストーリーは少しだけにとどめます。
 38度線の、小さな川1本隔てた国境線の北朝鮮側の監視所の中で、撃ち合いが起こり、北朝鮮将兵2名が死亡。北朝鮮士官1名、韓国兵士1名が負傷します。この真相追求がこの映画のストーリーです。

 負傷した韓国軍兵士スヒョク兵長を演じるのは、イ・ビョンボン。今売り出し中の韓国若手スターです。彼の顔があのニューヨークメッツの新庄選手にとても似ていて、これが、私個人的には、この映画を違和感なく見ることができた要因となりました。
 負傷した北朝鮮ギョンピル士官を演じるのは、ソン・ガンポ。1967年生まれの、韓国映画の演技派です。
 
 そして、事件を調査する中立国監視団のスイス軍女性将校ソフィー・チャンを演じるのは、31歳の知性的な美人俳優イ・ヨンエです。父は亡命した元北朝鮮将校で、スイス人の母との間に生まれて、スイス国籍を持つという複雑な立場です。
 再び私個人的には、この知性美溢れるしかも30歳という程々の年頃の超魅力あるスター、ヨンエが、初めて見た韓国映画にヒロインとして出演してくれていたは、最高に幸せでした。
 韓国スヒョクと北朝鮮ギョンピルの最初の供述は、スヒョクが北の監視所へ拉致されていって、撃ち合いになったというもの。
 真実がそんなはずはありません。ソフィーの調査によって、「北と南の兵士の交流」という意外な真実が明らかになります。

 「友情を裏切らないために」スヒョクが敢えてした行為とは・・・・。

 これ以上は、映画を、そして忙しい方はあとでビデオをご覧になってください。

 アメリカには描くべきアメリカンドリームがありますが、韓国にも、日本人も共感できる、儒教的律儀さと、戦争と民族分断という重たいテーマがあります。その緊張感の中で、全体に凛としたとても秀逸な映画を作ってくれました。
 ラストシーンも、意外性があって、また泣かせます。

 いつものとおり、この映画も次男(中学3年)と一緒に見に行きました。
 無口な彼は、通常はこちらから感想を尋ねないかぎり、何も言いません。
 映画館でると、外は雨。
 傘はなく、駐車場の車まで小走りでいかねばなりません。

 「とーちゃん」、走りながら、急に彼が声をかけます。
 「なんや」、(雨の中でこいつ何をしゃべっとるんや、はよ走らんか、と思う父です。)
 「とーちゃん、今の映画やけど、あれはアメリカ人には絶対作れんね」
 思わず、走るのをやめて、我が息子を振り返りました。
 「お前、それわかった?」
 「うん」。無口な彼には、理由を事細かに聞くのは野暮ってもんです。

 映画とか、サッカーとかそんなのにうまく乗っかって、私たちも、意味のある、目から鱗の韓国修学旅行をつくってみたい。


014 2001年7月14日(土) 映画「パールハーバー」に見る日本像      日記のメニューへ 

 マイケル・ベイ監督の話題の作品「パールハーバー」が日本でも公開されました。子どもたちと一緒に早速見てきました。
 200億円近い大金を使っただけの迫力は十分感じさせる映画でしたが、いろいろ問題はありました。
 日本人として気になる最大の問題点は、あちこちですでに映画評論家やレポーターが指摘していることですが、「
野原で行われる作戦会議」のシーンです。
 日本海軍がパールハーバーを攻撃するかどうかを決断する重要な作戦会議が、なんと、堤防をのような土手を背景とした野原で行われているのです。まわりには、「尊皇」だとか「皇国」だとかの幟が何本も立っているという異様さです。まるで、戦国時代の合戦を前にした軍議のようです。思わず、「葵の御紋」とか「風林火山」とかの文字の幟があるのではないかと、探してしましました。(ありませんでしたが・・・。)
 その場で、連合艦隊司令長官山本五十六とおぼしき人物が、パールハーバーの奇襲を決定するのですが、その直後には、カメラは、背後の土手で
たこ揚げをしている子どもとたこをアップで写します。
 これはいったいどういう意図なんでしょう。
 ベイ監督の心には、日本を象徴する光景として、正月のたこ揚げがあったとしか思えません。それにどうしてもうまくつなげたいため、野原での作戦会議にしたのではないでしょうか。
 
 その他にも、大きなプールに軍艦を浮かべて戦法を練るシーンも二度あって、浮かんだ軍艦を動かす役の下っ端の兵隊は、ふんどし一丁の裸の姿です。2秒か3秒の細切れのシーンですが、何故か、
ふんどしが印象に残ってしまいます。

 日本での配給元「ブエナビスタ インターナショナル ジャパン」によれば、「時代考証で日本側の指導を受けるべきだったが製作費が不足し、予算が足らなかった」(宣伝部長の弁)だそうです。(『中日新聞』平成13年7月7日紙面)
 100何十億円の映画にしてはお寒い話です。そういえばこの映画は、戦闘シーンなどに金を使いすぎて、、俳優にもあまり金を使っていませんから、ひょっとしたらそうかもしれませんが、やはり、そうさせた、ベイ監督の「本音」があるのでしょう。
 アメリカ版にはあったけど、日本版になってカットされてしまったシーンに、アメリカ軍の本土初空襲の直前の町を、花魁が散歩しているというのがあるそうですが、やはり、まだ、アメリカ人にとっての日本とは、「
フジヤマ、サムライ、スシ、ゲイシャ」なのでしょう。

 上述の中日新聞の記事は、サイモンフレイザー大学の助教授の話を引用して、「ハリウッド映画では黒人や女性などの描き方は改善されたが、
大衆受けする劇画化された日本像が未だに再生産されている典型的な例だ」と結んでいます。

 これは、このサイトのあちこちで紹介しているように、「アメリカ人の日本へのごく普通の無理解」が現れたに過ぎないと思います。ちょうど、私たち日本人がイヌイット民族(エスキモー)といったら、全ての人が年がら年中氷の家に住んでいると刷り込まれてしまっているのと同じなのでしょう。
  アメリカとの草の根交流(Dアメリカに対する誤解・片思いの日米関係)へ
 
 さて、今回は、珍しく、キャストとストーリーを紹介し、その他のいろいろ問題点も紹介しましょう。あとで見る予定の人は、ここでやめといた方がいいと思います。

 陸軍航空隊の士官レイフ・マコーレー(ベン・アフレック)とダニー・ウォーカー(ジョシュ・ハートネット)はテネシー州の農村出身の幼なじみ。積極的で兄貴分のレイフ、消極的で繊細な弟分ダニーという設定です。
 1941年1月に時点で、彼らは、陸軍少尉として、航空隊に勤務しています。この時点では、ドイツの隣国侵略(1939年9月)によってヨーロッパでの戦争は起こっていましたが、日米開戦前であり、アメリカはヨーロッパの戦争にも介入していませんでした。
 そんな時レイフは、陸軍病院の看護婦、イヴリン・ジョンソン(ケイト・ベッキンセール)と知り合い、恋に落ちます。ところが、おり悪く、レイフは、イギリスに派遣されていたアメリカの義勇軍イーグル中隊(正式な部隊の派遣ではなく、志願による義勇隊という形となっていた)に派遣されることになり、イギリスへと旅立ちます。
 1940年夏、イギリスは、ドイツ軍のイギリス上陸作戦の前哨戦としての
航空戦(のちにバトル・オブ・ブリテンと呼ばれる。ビデオ屋さんにいくと1970年代前半製作の同名の映画を借りることができます。)の真っ最中にありました。
 レイフは、イギリス製の戦闘機スピットファイアーに乗って何度か出撃し、ドイツ機撃墜の手柄を立てますが、ついに撃墜され、英仏海峡に不時着してしまいます。

 映画の中でレイフが搭乗してドイツ空軍機と戦ったイギリス戦闘機スピットファイアーの同型機。1940年夏、多くのパイロットの生命と引き替えに、イギリスの空を守り抜きました。
 イギリスの誇りとなっている飛行機です。ロンドンの帝国戦争博物館にて、2001年8月10日撮影。

 ※リチャード・ハウ&デニス・リチャーズ著河合裕訳 『バトル・オブ・ブリテン』(1994年新潮文庫)
 ※戦争博物館については、ロンドン・パリ旅行記参照


 ハワイのパールハーバーに転勤していた、イヴリンとダニーのもとへは、「レイフ戦死」の知らせが届きます。
 友と恋人を失った二人は、お互いの傷心を慰め合ううちに、自然と恋に落ちます。

 しかし、神はいたずら好きです。イヴリンが妊娠したと知ったその日、なんと二人の前に、死んだはずのレイフが現れてしまうのです。
 英仏海峡に不時着水したレイフは、イヴリンに会いたさに、懸命に泳ぎ、フランスの漁船に救助され

ていたのでした。すでにドイツに降伏しその占領下にあったフランスからでは、連絡ができずに、さらに帰還が遅れるのはやむを得ないことでした。

 こうして、3人の心の葛藤が始まります。
 その直後、現地時間、1941年12月7日(日)、日本海軍の航空母艦から発進した、350機以上の航空機による、いわゆる「
真珠湾奇襲攻撃」が行われます。
 試写会でのベイ監督は、「あの出来事を忘れないためうそ偽りのない戦争を描きたかった」といっていますが、確かに、リアルさを追求するため、ゼロ戦を本物通りに複製して空を飛ばせて撮影するなどの点には、監督のこだわりが見られます。

 戦艦アリゾナの撃沈の場面など、実写とCGを組み合わせた戦闘シーンは、迫力満点で、延々と45分ほど続きます。レイフとダニーもカーチスP40戦闘機を飛ばして、ゼロ戦を何機か撃墜します。
 但し、「プライベート・ライアン」や「スターリングラード」ほどの凄惨さはありません。

 しかし、最大の疑問点は、この映画のストーリー構成そのものにあります。新聞の宣伝等には、
「ヒーローになるのが夢だった。その日が来るまでは・・」「無二の親友だった二人。その日が来るまでは・・。」「永遠の愛を誓った二人。その日が来るまでは・・。」とあります。
 
 これを読んだら、「その日」とはいつのことだと思います?
 当然、「パールハーバー攻撃の日」と思いますでしょう。
 しかし、12月7日には、たくさんアメリカ兵と彼ら3人の友人の一人こそ死にますが、彼らは全員生き延び、彼らの三角関係は、何ら変わりません。

 このあと、アメリカ軍は、国民の士気を挙げるための報復作戦として、大統領命令で日本本土爆撃を計画します。これも史実です。
 航空母艦に陸軍のB25爆撃機を積んで日本沿岸まで接近し、爆撃機は離陸後日本を空襲し、そのまま西へ飛んで、中郷大陸の中国政府の支配地へ着陸するという計画でした。

 指揮官はドゥーリトル中佐(アレック・ボールドウィン)で、レイフとダニーはその爆撃隊に加わるように命令を受けます。
 4月18日空母ホーネットを飛び立ったB25爆撃機16機は、東京・名古屋・神戸を爆撃し、そのうち15機は中国大陸にたどり着きます。(1機はソ連領ウラジオストックに着陸)
 悪天候だったため、4機は強行着陸、11機は飛行機を捨てて落下傘降下しました。映画では、レイフ機もダニー機も強行着陸し、日本兵との戦闘で、ダニーが死にます。
 その時、ダニーがレイフに、「イヴリンの子どもを育ててほしい」と遺言するのです。

 映画の最後のシーンは、(たぶん)テネシーの農村で、レイフとイヴリンと子ども(名前はダニー)が暮らすところで終わります。
 ラブストーリーといってしまえばそれまでですが、パールハーバー攻撃はこのラブストーリーにとって何だったのか?と思うのは私だけでしょうか?「二兎を追うものは・・・」ということわざがあてはまりそうな映画です。
 少なくとも「タイタニックを越えた」という宣伝には、同意できません。

 たまにしか映画を見ない長男Tは、「面白かった」といっています。
 我が家の無口な映画評論家次男Yは、やっぱり、何とも言いませんでした。

 タイタニックほどは当たらないと思います。

 おっと、イヴリン役のケイト・ベッキンセールは、びびび、美人です。これは文句なし。
  ハワイの歴史については、こちらを参照。


015 2001年8月5日(日) 自然と神と愛情がテーマですね、映画「千と千尋の神隠し」日記のメニューへ 

 この8月2日に、わが職場はおそらく史上はじめての画期的な試みを実施しました。さる中学校の生徒の職場体験実習を受け入れたのです。
 進行しつつある教育改革の重要な課題のひとつに、中学校・高等学校の生徒の体験的な学習活動を充実することがあります。生徒にとって、職場での体験活動は、進路選択等に大きなプラスになるに違いありません。そうであるなら、県庁も教育委員会も、反対に体験実習の場として、生徒を受け入れなければなりません。

 市内の某中学校の生徒5人が、勇敢にも職場体験を申し出て、そのうちの一人Y君が、教育委員会での職場体験第一号となりました。
 もっとも、たった1日の体験ですから、できる内容は限られています。Y君は午前中の2時間は、私の「会議資料の作成準備」の作業を経験しました。会議資料のチェックと一人分ずつの資料のバインダー留めです。彼にとっては、これは、それほど難しい仕事ではありませんでした。
 次ぎに、資料を会議関係者へ配布する仕事を命じました。
 「結局は、仕事というのは、いかにうまくコミュニケーションをつくるかどうかに、その成否がかかっている」と講釈したあと、「セリフのひな形」を教えて、次長・課長以下、彼が会ったこともない上役への資料配布に挑戦させました。
 ノック、「失礼します。○○ですが、○○の指示で、○○会議の資料お届けしました。・・・・・」

 彼は、はじめは、たどたどしく、そして回をこなすごとに順調に、自分の力でコミュニケーションを実践していきました。(私は見ていませんが、あとで首尾よく行ったかどうかを確認した結果、そう判断できました。)
 つまらない実習だったでしょうか、それとも、意味ある実習だったでしょうか。

 さて、「千と千尋の神隠し」です。
 宮崎監督の映画をすべて見たわけではありません。しかし、「風の谷のナウシカ」・「もののけ姫」とこの作品を比較すると、監督の一貫した思いと、それぞれの映画に置かれた重点の推移が分かります。
 自然を愛すること、そこに神を意識すること、自然への畏怖の中で人間の傲慢を自戒すること、そして、差別や偏見のない純粋な愛情。

 「ナウシカ」や「もののけ」は、環境問題映画とも言うべく、主人公を包む環境に力点が強く置かれていたように思います。
 「千と千尋」は、わけのわからないままに、神々の世界に迷い込んでしまった少女千尋が、豚になりはててしまった両親を助けたいとという思いを軸に、成長をしていく物語です。
 どこにでもいる、どちらかというと、「毎日、毎日、つまんない」と思っていそうな、少し、冷めた10歳の少女千尋が、魔女「湯婆婆」の支配する湯屋で、まずは自分の存在価値を示すために、懸命に働きます。この湯屋とは、八百万の神々が疲れを癒しに来るという、得たいのしれない場所です。

 「分かったら、返事をしなさい。」「ちゃんとお礼を言いなさい。」
 そんなコミュニケーションの初歩を教えられつつ、千尋は、「生きる力」を学習していきます。
 彼女を支えるもう一つの要素は、彼女を助けてくれる「ハク」という少年です。実は彼は、その昔、おぼれかかった千尋を助けた「川の神」だったという設定です。湯婆婆の手先となってその呪縛から逃れられないハクを、千尋は、ひたむきな愛情で必死で助けます。

 ハクと両親に対する愛情が、全ての呪縛を解いて、物語をハッピーエンドへ導きます。
 一人の人間のひたむきな心が、何かさわやかな風を吹き込んでくれる、またもや、宮崎駿ワールドのヒット作の誕生です。自然への畏怖と環境と神々と愛情の絶妙のブレンドです。また、こてこてした背景は、前の世紀に失われたよき日本の日常風景の凝縮です。
 但し、小学生にはあまりわかる映画ではありません。
 もう少し、歳がいっている、人生をこれから考えるあなた、考え直すあなたに、おすすめ映画です。
 


016 2001年10月 7日(日)排除の論理からは夢は生まれない     日記のメニューへ 

人間が生まれてから400万年以上、文明が生まれてから5000年以上、人間は、次第に知恵を高めて時を過ごしてきました。どんな方向へ「進歩」してきたのでしょうか。

 生産力が高まるように、生活が豊かになるようにといろいろ答えがあるかもしれませんが、答えのひとつには、「より多くの人が自分の将来に「夢」を感じることができるような社会を築いてきた」、というのがあると思っています。
 夢を感じることができると言うことは、政治的な面とか経済的な面とか様々な面があるでしょうが、自分では、もっと素朴な内容が重要であると思っています。それは、自分が大切にされるかどうか、自分が認められるかどうかということです。
 
 大げさな話を始めてしまいましたが、 話題は、野球の話です。
 自分が小さかった頃、プロ野球のパ・リーグに東映フライヤーズ(今の日本ハムファイターズの前身)というチームがあって、そこに張本勲という名選手がいました。彼はのちには巨人に移籍し、日本のプロ野球で初めて3000本安打を記録し、1990年には、野球殿堂入りを果たした日本のプロ野球を代表する名選手です。
 
 その張本選手が、昭和42年、2度目の首位打者を取った時のことです。
 実は巨人ファンだった私はそれまで彼のことはあまり知りませんでした。TVのニュースで彼の打撃を見ながら、王・長島などとは違った素晴らしい才能に感心して、「張本はすごいね。」とつぶやきました。すると、するとそばにいた父親が、「でもな、あいつは朝鮮人なんだぞ」と答えたのです。
 中学1年生だった私には、この表現の意味、父親がこういう考えを持っている事実、いろいろなことに思いがめぐらせず、ひたすら「????」だったことを覚えています。
 民族を理由にした「排除の論理」を、普通のこととする戦前の教育を受けてきた父親。その絶望的な乖離を埋めることは、これ以後ずっと私の課題になりました。

 10月1日(月)の朝刊に、またいやな「排除の論理」の考えが掲載されていました。
 この日、トップニュースは高橋尚子選手のベルリンマラソン新記録樹立。
 プロ野球パ・リーグでは、この時点で55本の本塁打を打ってあの偉大な王貞治(ダイエー監督)と並んでいた近鉄のローズが、ダイエーと対戦し、いわゆる勝負をしてもらえず、本塁打を打てなかったと言う記事が報じられました。ダイエーの投手陣がローズに対して投じた全18球のうち、ストライクは僅かに2球。コーチから勝負を避けるように指示されたというダイエーの田之上投手の談話が載っていました。「ローズもつらいけど、投げる方もつらかった。むちゃくちゃ嫌な気持ち。」(朝日新聞10月1日(月)朝刊13版15面)

 これは、その後大きな問題に発展し、プロ野球のコミッショナーまでが、「正々堂々と勝負」するように談話を発表しました。
 テレビや新聞で大きく取り上げられたので、ご存じの方も多いでしょう。「勝負しないことはプロ野球のおもしろさを殺いでしまい人気の凋落につながる」という考えはもっともなことです。
 私は、それらの報道の大筋に同意しつつ、勝負するしないの視点の陰に隠れてしまったもう一つの大きな問題点に注目していました。
 それは、若菜ダイエーバッテリーコーチが、何故勝負を避けたのか説明している理由の部分です。
 彼の談話が掲載されています。「松井(巨)や小久保(ダ)なら後につながるが、彼は外国人。いずれアメリカに帰るんだから、俺たちが配慮してやらないと」。(朝日新聞同)
 この発言によれば若菜コーチの真意は、「
ローズが外国人だったから王選手の記録を破らせたくはなかった」と言うことになります。
 勝負事ですから、打たれたくないのは誰しも同じです。アメリカのメジャーリーグでも、バリー・ボンズは、なかなかストライクを投げてもらえず、新記録達成まで何試合も苦しみました。

 私が注目したいのは、あくまで、ストライクを投げさせなかった理由です。
 ローズが外国人だったからストライクを投げさせなかったというのは、いかにも悲しい話ではありませんか。
 この日、同じ新聞には、対照的な嬉しい記事が載りました。
 マリナーズのイチロー選手が29日のアスレチックス戦で中前安打を放ち、シーズン通算安打を234本として、大リーグの新人シーズン最多安打記録(1900年以降)を90年ぶりに更新したのです。少し長いですが、新聞記事を引用します。

  • その瞬間、セーフコフィールドは祝祭空間となった。4回、イチローの第3打席。わざと詰まらせるような感覚で中前に運んだ。電光掲示板に、「新人安打記録」の表示が出ると、スタンディングオベーションが始まった。地鳴りのような拍手に、イチローは右手でヘルメットを振ってこたえた。

 このシーンをテレビで見ていましたが、スタンドの観客の賞賛に、イチロー選手が反応するまでには、上の記事で感じる以上に少し時間がかかりました。見ていた私は、「いくらクールなイチロー選手でも、早く手かなんか挙げて観客にこたえたら、早く早く」とじれるくらいの時間が数秒過ぎたのです。

  • 「あんことが起こるとは思わなかった。どうしていいかわからなかった。1本のヒットであれほど喜んでもらえるとは」(以上いずれも引用は、朝日新聞同17面)

 イチロー選手の偽らざる心境でしょう。
 スタヂアムの観客は、最多安打を打った彼の偉業と、それを生み出した彼そのものを愛し、その偉大さを素直に称えたのです。それ以外の要素は、何もありません。 
 
 宗教が違うからと言って人が人を殺し合う。家柄が違うからと言って、社会で認められない。よその国の人だからと言って、その才能を認めない。
 人間が「排除の論理」を使えば使うほど、了見の狭い極端な「イデオロギー」や制度がはびこり、差別や独善のもとで、夢がしぼんでいきます。
 政治家でもない企業経営者でもない、普通の庶民の感覚として、素朴に夢を育んでいきたい。
 「人が素晴らしいことをしたら、素直に感動して、拍手を送る」、ただそれだけのことをしながら。  


017 2001年10月13日(土) 家族を大事にするということ 1           |日記のメニューへ 

 教育改革に関して議論をしたり、意見を聞いたりしていると、行き着く結論のひとつは、「家庭での教育が原点」、ひいては「家族の絆が重要」です。
 当然といえば、当然でしょう。
 しかし、その当然のことがうまくいっていないことが、現代の家庭教育の大きな問題点です。人ごとではありません。これは自分も含めた問題です。
 教育委員会では、教育改革を進めるに当たって、数々の組織や会合をとおして、県民の皆さんの意見を聞いています。そのひとつに、「教育のつどい」がありますが、そこで、興味深い意見が発表されました。
 ※岐阜県教育委員会が主催する教育のつどいの本年分の開催記録

 飛騨地区のあるPTAの役員の母親が、子どもを連れてアメリカに研修に出かけ、ホームステイをした時の感想を語ってくれました。
 全体の結論としてはアメリカの父親・母親がとても家族を大切にしているということを感じたという内容でしたが、彼女は、それを次の三つ話をとおして語りました。

  1. 日本の子どもとアメリカの子どもを比較すると、スポーツの団体戦では結構いい勝負をするのだが、個人戦、ひとりで切り開いていくという点についてはとても弱いものを感じる。「みんははどうする」「先生はどうする」「おかあさんはどうする」という質問が先に立ち、自分はどうするという発想、自分で切り開くことができないということを感じた。これは、自分の子育てを振り返ってみても、「自己判断」・「自己決定」ということに力を入れてこなかった結果ではないだろうか。
     ホームステイ中にも、ひとつの原因が見つかった。ホームステイ先の母親は、「今日は寒いよ」とだけいう。すると子どもは、学校へ行く際の服装とかいろいろ自分の責任で考える。 
     日本なら、「今日は雨が降っているから長靴を履いていきなさい。」とすべて指示を出してしまう。

 これは興味深い指摘でした。我が家では、早速、取り入れました。今までは、中学3年生の次男が朝学校へ出かける時に、「お母さん、今日は傘を持っていった方がいい?」という質問をし、妻はちゃんと答えていましたが、私の指導で変わりました。「ちゃんと天気予報を見て自分で判断しなさい。」

  1.  突き放す部分があるのかと思うと、すごく抱きしめる部分もあった。私の子どもが夜の10時半に子どものホームステイ先から私の寄宿先へ、「お腹が痛い」と電話をかけてきました。
     他の子どもの母親は来ていないこともあって自分の子どもだけ甘やかしてはいけないと思い、「朝までがまんしなさい」と言った。ところが、その様子を見ていたホームステイ家庭の母親は、「あなたの子どもがあなたを頼って電話してきたのだから、あなたは顔だけでも見に行くべきだ」といって、深夜自動車で30分かけて連れて行ってくれた。
  2.  アメリカの家庭には明るい笑顔と大きな笑い声があった。いいことがあるから笑うのではなく、笑っているからいいことがあるという生き方だった。その中に私も10日間いると元気が出てきて、前に進もうかなという活力がわいてきた。
     私もこういう家庭づくりをしているかと問いかけた。子どもを育てるその原点は笑顔だなということを感じた。目をつぶるとホストファミリーの笑顔が思い出されてきて胸が熱くなる。私の子どもが目を閉じた時に、いったい私のどんな顔を思い浮かべるのだろうかと想像してしまう。
      

 3番目については、我が家ははっきりしています。子どもたち、とりわけ小学校6年生という「叱られ盛りの三男D」の場合、まぶたに浮かぶのは、「怒髪天をついて怒りまくっている母」の顔でしょう。

 この発言内容は、その会場にいた多くの人の胸を打ち、記憶に残りました。それ自体さわやかな感動でした。
 しかし、同時に強い疑問が起こってきました。
 我々は、こんなこともアメリカに行ってホームステイしなければ、学ぶことができないものなのかと。日本人は、アメリカから家族の在り方さえも学ばなければならないのかと。

 日本人の家庭の在り方について、もっと考えなければいけません。 
  ※アメリカの友人の家庭については、アメリカとの草の根交流「アメリカ情報 B家族・教育・学校へ
 


018 2001年10月14日(日) 家族を大事にするということ 2             |日記のメニューへ 

 日本人が家族を考える上で、いろいろな新しい視点を提供してくれる本があります。
 オースン・スコット・カード著小尾芙佐訳『消えた少年たち LOST BOYS』(1997年早川書房)です。
 この本は、ジャンル的には、ちょっとオカルト的な要素を持ったミステリー小説といったものです。映画化したら、「Six Senth」と同じような印象の映画となるかもしれません。
 しかし、帯のキャッチコピー、「家族の愛とは何なのか、信じるとはどういうことかを教えてくれる、魂を揺さぶる感動的な作品だ。」という説明は、決して誇張ではありません。
 クライマックスの少年が消えてしまう事件に至る前段の部分に、家族とはいかにあるべきなのかについて、いささか長すぎるとも思えるほどに、作者の思いが描かれています。

 物語は、ステップとディアンヌの夫婦が、ステップの転職によって以前の住所から遠く離れた見知らぬ場所を転居し、様々な困難に遭遇することから始まります。
 いくつかの具体的な場面を紹介します。

  • 転校初日につらい目にあった長男スティーブは、その内容を決して父親には話そうとしません。その日の朝、不安だったスティーブは父に学校への同行を頼みました。しかし、父ステップは彼自身も転職した会社への初めての出勤日に当たっていたため、息子の頼みをかなえることができませんでした。それが、スティーブの心を閉ざしていました。
     「じゃあ、だれなら話してもいいんだい?」「ママ」ディアンヌは耳を疑った。(中略)
     「わかった、ママの部屋へ行きましょう。ステップ、お夕食待てなかったら、何か自分でこしらえて、・・・」
      ステップはうなずいて、本棚によりかかった。ディアンヌはスティーブのあとから部屋を出ていく時思った。ステップと知り合ってこの方、彼がこれほどうちのめされ、これほどしょげかえっているのと見たことがないと。そばに行って抱きしめ慰めてやりたいと思った・・・・でも、ステップは、今の彼女はスティーブそばにいる方が大事だと言うことを理解もし、同意もするだろう。大人よりも子供の要求に応える方が大切なのだ。子供を持てばそうならざるを得ない。天にいる子供の魂をこの世に呼び寄せることをきめたとき、子供と交わした契約がそれなのだ。子供たちが幼く、親を必要とする限り、何をさしおいても、誰をさしおいても、子供たちの要求に応えるように最善をつくさなくてはいけない。(P78)

  • ステップは、転職した会社の上司に裏切られて、怒り狂います。迎えにきた妻ディアンヌに車の中でそれを説明する場面です。
    「このくそったれの仕事を辞める」
    「えっ?」
    「家に帰ったら弁護士見つけて、やつらのケツをぶっ飛ばす訴訟を起こしてやる」
    ディアンヌは仰天した。「ステップ、子供たちはいずれはそういう言葉を覚えるでしょうけど、あなたから教えるのはやめてほしいわ」(中略)
    「失礼。くそったれ野郎め、じゃないぞ、子供たち、畜生どもだ」
    彼女は憤怒の形相をした。「いいかげんいしてよ、ステップ」(中略)
    「八つ当たりなんかしていない」
    「どなっているじゃない、子供たちに説明したくないないような言葉を使いたい放題で」(P97〜98)

  • 息子スティーブの様子がおかしいので、精神治療の専門家のところへ連れて行くかどうか、夫婦の意見が食い違った場面です。
    スティーブを精神科医のところに連れて行くという問題は、・・・・そこで宙に浮いたままだった。それは彼ら夫婦の暗黙の憲法第1章第1節である。もしあることについてふたりの合意が得られないなら、それは引き分けとする。引き分けを覆す権利は両者ともにないが、相手の意見について再考するという約束をしなければならない。(P238)

  • 長男スティーブの心配や新しい会社でのトラブルから会社を辞めることを臨んでいる夫スティーブと、第4子の出産費用のことから、仕事を続けてほしいと願っている妻ディアンヌが口論をしたあとで。
    「今だって幸せ。あたしの生活は幸せ、だってあなたがいてくれるんだもの。あたしの人生でいいことといったら、みんなあなたがもたらしてくれるものだもの」
     ステップはかぶりをふった。ディアンヌが本気でそういっているのはわかる。でも実際それが事実ではないことも彼は知っていた。ディアンヌが彼の中に見いだしたよいこととというのは、彼女自身が彼のうちに育んできたものなのだ。自分の中にあるよい部分とは、彼女が自分と結婚する気になるようにステップ自身がまとった仮装のようなものだ。よいところがはっきり表に出るようなそんな夫といられることが、彼女の幸せなのだということを、彼は知っていたのである。(中略)
     ステップは教会に再び行くようになったが、彼女はそれが自分に対する愛情のため、自分の一部になるため、彼が払っている犠牲だということに全く気づかなかった。ステップ自身がそう臨んでいるからだと彼女は思っていた、そんな彼をディアンヌは愛していた。だが彼女が本当に愛しているのは自分自身、自分自身への愛の反映なのだ。そしていまだって、彼女がひしとしがみついているのは、史学研究者のステップでもなく、プログラマーのステップでもない。信仰心厚いモルモン教徒のステップだ、彼女がそんな役まわりを彼に与えたのである。子供たちの父親であるステップ、そういう役割もまた彼女がくれた贈り物だった。(P271〜272)

 長い引用をしてしまいました。
 簡単に結論を話します。
 家族を大事にするということは、子供たちを愛するということはもちろんですが、それは第一のことではありません。家族の中心たる夫と妻が単なる書類上のことではなく、いろいろな約束と現実の役割とに支えられてちゃんと太い絆で結びついているかどうかが、その第一に考えなければならないことであることを、この小説は教えてくれます。
  
 自分のことにひるがえって考えれば、これは、よい教訓どころではありません。事態はもっと深刻です。
 平日の平均帰宅時間が夜9時・10時、という現実の中で、それぞれが、おざなりのことをしていては、家族の絆はやせ細り、家庭の教育力は失われていきます。 


019 2001年10月28日(日) 長良川の鵜飼いを考える               メニューへ

 今年も、5月11日から開催されていた岐阜市の長良川の鵜飼いが、10月15日をもって閉幕しました。
 今年の7月21日に、私自身通算3回目の鵜飼い見物をしました。もし、予想される結果に終わるなら、終わった時点で意見を書いてみようと思っていました。
 そしてその通りとなりました。

 予想される結果とは、鵜飼い見学の乗船客の現象です。
 今年は、バリアフリー船3艘の新造、観覧船での「鵜前結婚式」などの取り組みをしましたが、長引く不況によるホテルの宿泊客の減少を補いきれず、乗船客は昨年より約750人減って106,762人となりました。そういえば、昨年の10月には、長良川ホテルの本館の休業という厳しい現実もありました。

 これまでに記録した最高の乗船客数は、1973(昭和48)年の337,337人ですから、その約3分の1にまで減少しました。もっとも、1973年は、平幹二郎さんが斎藤道三役を演じたNHKの大河ドラマ「国盗り物語」が大ヒットし、1年だけの大当たりの年でしたから、例外的です。その年も含めて、70年代から80年代は乗船客数は年間25万人前後でした。ところが乗船客数は、90年代に入って急速に減少し始め、1993年の207,334人を最後に10万人台となり、現在では、10万人割れは目前というところにまできてしまいました。

 ここ数年、地元新聞等には、毎年のように、「じり貧鵜飼い、克服へ正念場」といった見出しが登場し、開幕前には、岐阜市や関係者の今年こそは意気込みも感じられるのですが、結果は毎年のように、「寂しい鵜飼いじまい」となります。
 ※『朝日新聞』(2001年10月16日朝刊)

 理由は簡単です。はっきりいって、高いお金を払って宿泊してまでして見ても、面白くない。接待で来るのならともかく、自分のお金ででは、2度と来ようとは思わない。ということです。
 これは、自分だけの意見ではありません。
 今年久しぶりに見物したのは、全国各地から友人を集めてある会合を持ち、その幹事を務めたからなのですが、その会の参加者の偽らざる感想なのです。

 宿泊と乗船と料理の費用は、税別で一人18700円でした。それに見合うだけの、楽しさ・おもしろさ・感動があったのかというと、残念ながら、まったく「No]です。
 友人たちの不平不満を並べてみます。

  1. 待ち時間が長い。

  2. いつどうやって始まるのかは、きみの(つまり私が)解説がなければ何もわからない。

  3. 遠くて何も見えない。

  4. いつ終わるのかもわからない。説明もアナウンスも何もない。

  5. 全体として何が見所で面白いのかわからない。

  6. その場で、捕れた鮎を食べることができるのかと思っていた。

  7. 特殊なものをありがたく見せてもらっているという感じで、観光客用のイベントではない。 

 すべて、弁解の余地のない、事実です。
 
 乗船客20万人台を切る目前の1994年の開幕前、有識者が二つの意見を述べています。
  ※『朝日新聞』(1994年5月11日朝刊)

映画・演劇・音楽プロデューサー富田幸一さん

「鵜飼いは幻想的な感じがするけど地味。おじさんやおばさんが見るものというイメージがある。若い子が参加できるイベントがほしい。女の子が動けば、男の子はついてきますよ。花見のように河原に集まる場所もほしいですね。」

 

映画監督篠田正浩さん 

   

「少年時代に見た、闇に浮かび上がる光は美しかった。今は運動施設の夜間照明や車の光で台無し。鵜飼いの本質的な雅やあわれがなくなったんじゃないかな。」 

 せっかくの岐阜の文化を・観光資源を、蘇らせることはできないでしょうか。できたら、「これだけのお金払っても満足」、「また誰かと来よう」とリピーターにつながってほしいものです。
 もちろん、6人の鵜匠さんは、伝統的な漁法を守っていかなければならないことも事実です。しかし、鵜匠代表の杉山秀夫さんはこうもいっています。「鵜飼いのやり方は変えられないが、いいことは徐々に採り入れたい」

 そこで、まず、鵜飼いの魅力から再確認です。

  1. 本来、しきたりと形式美にのっとった、「幽玄の美」が原点。

  2. 鵜飼いの漁法としてのおもしろさもある。「鵜呑み」という言葉があるが、鵜が本当に鮎をがぶがぶと何十匹も飲み込む様は、驚きものである。

  3. 川船での食事という風情もよい。

 上記のことを確認した上で、具体的な改善策です。

  1. できるだけ多くの人に、本番の鵜飼い前に、明るいうちに、鵜による漁法の解説を行う。鵜飼いとは何かを単にパンフレットだけでなく、実物で事前に見せる。物理的に無理なら、せめてTVモニターを置いて、VTRを見せる。

  2. 観覧船毎に、バスガイドのような説明者を置く。それができなければ、格船にスピーカーを置いて、どこかから説明を流す。

 これだけでも、上記の不満な点のいくつかは解消され、本質は見失わないで立派な「ショー」となるはずです。なんなら、私どもが、「市民ボランティア鵜飼い解説者」となって乗船してもかまいません。

「みなさま、今日は長良川の鵜飼いにようこそいらっしゃいました。本日この○○丸から鵜飼いをご説明申し上げます、市民ボランティア鵜飼い解説の○○○○です。灯船の竿を持ちます船頭の○○○○です。よろしくお願いします。
 さて、今日の御乗船の皆様のうち、遠方からお越しの方はいらっしゃいますか?実は、鵜飼いは、この長良川だけではなく、東は茨城県十王町から西は大分県日田市まで、全国14の地域で開催されております。
 しかし、人口40万人以上の県都で、しかもご覧のように川遊びができるような清流で、1300年以上もの歴史を持つ鵜飼いは、この長良川の鵜飼いだけでございます。」
「現在鵜匠は、6人おりますが、明治23年宮内庁の職員となり、現在では宮内庁式部職鵜匠という職名で、代々世襲制で匠の技を引き継いでおります。本番の鵜飼いの前に、鵜による漁法についてご説明申し上げます。」

「皆様お食事はお済みになりましたでしょうか。陽もすっかり西の山の向こうに落ち、あたりは宵闇に包まれてまいりました。
 さてこれから、いよいよ、1300年の伝統を誇ります長良川鵜飼いの始まりです。上流から、6人の鵜匠が操る鵜飼い船がくだってまいりました。12本の手縄を操る鵜匠の熟練された技をとくとご覧くださいませ。」

「皆様これより、鵜飼いのクライマックス、6艘の鵜船による「総がらみ」が始まります。6艘が浅瀬に鮎を追い込んでまいりますので、とくとご覧ください。」

「皆様、夜の長良川に繰り広げられました鵜飼いをお楽しみいただけましたでしょうか。伝統にのっとった幽玄の美は、必ずや皆様の心によき思い出を刻んだことと思います。江戸時代の俳人松尾芭蕉が、この地に遊んだ際に詠んだと伝えられます句を最後に、お別れといたします。
 『おもしろうてやがて悲しき鵜船かな』
 みなさま、本日はありがとうございました。」

 岐阜市の観光課のみなさん、いかがでしょうか。
 ※岐阜市の鵜飼いの解説サイト 「長良川の鵜飼い」 
 ※岐阜市観光協会サイト

<追記>2004年1月20日記述
 上述のように、
2001年の乗船客数は、10万6762人でした。

 翌、
2002年は、11万5174人に回復しました。11万人台回復は、1998年以来4年ぶりです。
 この理由は、鵜飼い発祥1300年の節目ということで、弁当をセットにしたパックや料金値下げした結果と考えられています。
 
 2003年は、シーズン前に土日の予約窓口を拡大し、禁煙船の新規導入・バリアフリー船の増加などを行った結果、出足は好調でした。
 ところが、増水による中止が6日、長雨や冷夏によるキャンセルの増加、長良川ハイツなど河畔のホテル3館の閉鎖、などによって伸び悩み、結果は、2001年と同じ10万6000人台となる模様です。
 ※『岐阜新聞』(2003年10月6日朝刊)参考


020 2001年12月16日(日) ホームページについて考える                メニューへ

 この未来航路を開設したのは、2000年12月16日、今日で、満1年となりました。
 この間に、このサイトを訪問してくれた方は延べ2386人にも昇りました。掲示板の意見はもちろん、メールでもたくさんの意見をいただき、数人の方とはホームページを通してのコミュニケーションも続いており、まったく、新しい世界が広がりつつあります。
 皆さん本当に感謝しております。(無理矢理特派員にしてしまった、もと教え子今は立派な社会人の皆さん、感謝、感謝)

 こんな所でインターネットの意義をくだくだ言っても、誰も注目してくれませんが、敢えて言います。
 インターネットの効用について、同僚と次のような話をしたことがあります。
 少し前、肥満した会社の人員を減らすいわゆるリストラの方法として、社員を窓際(資料室・倉庫番etc)に転勤させて、労働意欲を殺いだ上に自主的にやめさせる、という方法が話題になりました。(今もか・・。)
 
 今の私なら、たとえそうなっても、大丈夫です。パソコンさえあれば、忙しい仕事から解放され、日長パソコンを操ってしかもホームページという手段を使って情報を発信できるのなら、倉庫の隅でも校庭の端?でも、大歓迎?です。(そんなうまいこといく分けないか。)

 ずっと昔から、教員として一生懸命学習したり、修行した内容は、いつか「出版」という形でけじめを付けることが私の夢でした。しかし、出版というのは、そう誰にでもできるわけではなく、また、リスクも伴い、本気でいつからやろうか、悩んでいました。
 ところが、その夢はホームページという形で、いとも簡単に実現できてしまいました。
 出版であれ、ホームページであれ、自分が世界に向かって情報を発信できるということは、自分の存在を主張できるという点で、、素晴らしい満足感を与えてくれることです。
 私のこのホームページの内容では、それほどたくさんの人のためになるというものではありませんが、幾人かの人から褒めてもらい、幾人かの人が、「毎週見ていますよ」といってくだされば、もう、「人間冥利」に尽きるというものです。

 これからも、クイズをつくり、目から鱗を語り、現物教材をお見せし、教育について提案し、日記を書き何だこりゃと言ってみながら、自分の世界を語っていきます。
 よろしくお願いします。


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