自分が児童生徒だったころに、学校の行事として見た映画というのを、それから何十年もたっても覚えています。
小学校・中学校のころは、私が通っていた学校が、岐阜市の中心部柳ヶ瀬にある映画館に近かったこともあって、学校の行事として全校とか全学年の生徒とかが歩いて映画館まで行って、全体で鑑賞するという機会が年に一回ほどありました。
小学校では、4年生の時の、あの名作「東京オリンピック」もそうでしたし、全国的に有名だったかどうか分かりませんが、6年生の時には、「母ちゃんと11人子ども」という映画を見ました。
中学校では、1年生の時に、かの大作、「十戒」(主演チャールトン・ヘストン)を見ました。ユダヤ教のことはほとんど分かりませんでしたが、その壮大なスケールに感動したのを記憶しています。
こんな小中学校時代に見た映画を今でも覚えている理由は、ひとつには、それらが多分「文部省推薦」かなんかで、一応は名作だったことにあるでしょう。
もうひとつは、当時は、小中学生が映画を見るという機会そのものが少なかったことにあるでしょう。今はどうか知りませんが、その時代は、中学生同士で映画にいけば、それは即「補導」の対象で、そして私だけでなく、事実それをみんなが守っていたと思われます。
ちょっと脱線しますが、教員になって6年目ぐらいのころ、彼女と映画を見に行った時、大垣の映画館に入ろうとしたら、中学生のグループが補導員に詰問されて、学校名とかを聞かれていました。その映画が、「E・T」でしたので、教員であるよりは、一市民として、「E・Tなんて映画を見に来る生徒を補導しなくても」と彼女とこっそり話し合ったことを覚えています。(ついでに、この彼女は、その後今に至るまで我が家に棲み着いていて、この話は平気でホームページで公開できます。)
脱線回復。
教員になってからは、文化祭の全体鑑賞として、どんな映画を生徒に見せたらいいのかを考えなければならなかったこともありました。趣味も興味も感受性も異なる千数百名の生徒に、「強制的」にしろ、映画を見せて、それで学校全体がと生徒個人が何かを得なければならないのですから、どんな映画にするかは、いつも悩みの種です。
ひとつ大成功した映画があります。
その時は、高校ではよくあるパターンで、学校祭(1日目文化祭・2日目文化祭・3日目体育祭)の2日目の映画上演でした。上演された映画は、「炎のランナー」。
1981年の英国映画で、監督はヒュー・ハドソン、主演はベン・クロス、イアン・チャールソン。アカデミー賞の作品賞・作曲賞などをもらった名作映画です。とりわけ音楽は名作で、今でも、テレビCMのBGMに登場します。
(BGMを聞きたい人はこちらへ)
イギリスで、二人のアスリートが1924年開催のパリオリンピックを目指して練習を重ね、見事栄冠を勝ち取るという内容です。一人はユダヤ人、もう一人は、スコットランドの宣教師という設定も、面白いものでした。
これが、何故文化祭の上演映画としてよかったかというと、答えは簡単です。
次の日の体育祭が盛り上がったのです。
よく、映画を見終わって映画館から出てくる人は、その映画の主人公になりきっているという話があります。高校生1450人がみんな感動して、自分は栄冠を勝ち取るアスリートだと思って望んだ次の日の体育祭が、どんなに盛り上がったかは、容易に想像していただけるかと思います。
さて、現在の話です。
炎のランナーもまた、当然ながら、時代の産物です。今の高校生に、20年前のストイックな雰囲気が受けるとは思いません。
今月初めに見た、「タイタンズを忘れない」は、違った角度で、学校での上演に適する映画と思います。
宣伝用のキャッチコピーは、「アメリカが最も愛した友情が、ここにある。アメリカがひとつになろうとした1971年、バージニア州アレキサンドリアの町で一握りの若者たちの絆が、歴史を動かした。」です。
ほかのページで説明しましたが、1960年代のアメリカは、黒人等のマイノリティーの差別を撤廃する法律、公民権法が、粘り強い運動の結果やっと制定された段階でした。各地で差別の実態が残っていた、そんなころの実話をもとにした映画です。(公民権運動については、)
バージニア州アレキサンドリア(ワシントンDCのすぐ南です。昔ワシントンから地下鉄で行った経験があります。)では、公民権法の制定を受けて、黒人の高校と白人の高校を統合することになりました。もちろん、フットボールチーム「タイタンズ」も統合されます。しかし、親も高校生たちも、それまでの感情が急に改まるはずもありません。
そんなところは、ヘッドコーチとしてやってきたのが、黒人コーチハーマン・ブーンです。彼の指導するタイタンズが、白人コーチとの対立や、チーム内の白人・黒人生徒の摩擦を克服し、チームのキャプテンの交通事故をも乗り越えて、バージニア州チャンピオンさらには、全米2位にまで勝ち進む話です。
※詳しくはディズニー映画の公式サイトへ
黒人コーチ役は、デンゼル・ワシントン、高校生役には、Kip・Pardue(キップ・パルデュー、甘いマスクで、いかにも次代のハリウッドを担う若手スターという感じです。)などがいます。
最近のハリウッド映画のカッコイイ黒人の役回りは、デンゼル・ワシントンが独占している観がありますが、この映画でもまた、見せてくれます。
タイタンズは、夏の合宿を、アレキサンドリアから100qほど離れた、ペンシルバニア州のゲティスバーグ大学の寮を借りて行います。チームの不和やブーン黒人コーチの猛練習に、チームは崩壊寸前です。
そんな時、コーチはさらに過酷な、早朝ランニングを命じます。夜明け前から大学の回りの森の中を何時間も走れというのです。
まだ暗いうちから、言われるままに疑問を感じつつ走るタイタンズのメンバーの心の中には、次第に不満が高まります。夜が明けて朝靄の中、走り終えた生徒たちは、ブーン黒人コーチに詰め寄ります。こんな厳しい練習にはついていけないと。
その時、朝靄が晴れて、森の中に、100年前に立てられた、たくさんの墓標が現れます。
ここまで、話をすれば、コーチ、デンゼル・ワシントンが次にどんなセリフをいうのか、分かる方も多いと思います。
差別、黒人と白人の不和、ペンシルバニア州ゲティスバーグ、100年前の墓標・・・・・。
そうです、この森こそ、あのリンカン大統領に時代におこった南北戦争の最大の激戦地ゲティスバーグの戦いの場所だったのです。(戦いは1863年7月)勝利した大統領は、5ヶ月後この地で、かの有名な演説を行います。
- Fourscore and seven years ago our fathers
brought forth on this continent a new nation,
conceived in liberty and dedicated to the
proposition that all men are created equal.
Now we are engaged in a great civil war,
testing whether that nation or any nation
so conceived and so dedicated can long endure.
We are met on a great battlefield of that
war. We have come to dedicate a portion of
that field as a final resting-place for those
who here gave their lives that that nation
might live. It is altogether fitting and
proper that we should do this. But in a larger
sense, we cannot
dedicate, we cannot consecrate, we cannot
hallow this ground. The brave men, living
and dead who struggled here have consecrated
it far above our poor power to add or detract.
The world will little note nor long remember
what we say here, but it can never forget
what they did here.
It is for us the living, rather, to be
dedicated here to the unfinished work which
they who fought here have thus far so nobly
advanced. It is rather for us to be here
dedicated to the great task remaining before
us -- that from these honored dead we take
increased devotion to that cause for which
they gave the last full measure of devotion--that
we here highly resolve that these dead shall
not have died in vain--that this nation,
under God, shall have a new birth of freedom--and
that government of the people, by the people,
for the people, shall not perish from the
earth.
-
87年前、我らの祖先はこの大陸に新しい国家を築き上げた。それは自由という理念により打ち立てられ、全ての人間は平等に造られているという前提を信奉しようとする新しい国家であった。今、我らは大いなる市民戦争に携わっているが、それは同時に、かかる理念に打ち立てられ、かかる前提を信奉する国家が、果たして永続的なものであるかどうかを試される機会でもある。我らはその戦いの大いなる戦場に出迎えを受けた。我らはその戦場の一部を、かかる国家の永続を願いつつその人生を捧げた者たちのための最後の安息の場所として、捧げ奉らんがためにこの地に来たのである。我らが行為は極めて適切かつ妥当なことである。しかるに、より広い意味においては、我らはこの地を捧げることも、崇めることも、神聖視することもできない。というのも、生きる者も死せる者も、この地で闘った勇気ある者たちはすべて、我らの脆弱なる毀誉褒貶をはるかに超越した大いなる力によりてこの地に献身したのであるから。世間は、我らが語ることなどほとんど注目しないし長らく記憶に留めることもないであろうが、彼らがいかに戦ったかは決して忘れることはないであろう。だから、ここで戦った者たちがかくも気高く推し進めてきた未完の所業を奉るのは、まさに生きている我らなのである。我らこそ眼前に残る偉大なる所業へと献身的であらん。すなわち、これら名誉ある戦死者から、彼らが渾身の力を振り絞って捧げんとした大儀へと、我らがますます身を捧げんとするものであるが、それはすなわち、これらの死者を決して犬死させてはならないという、我らの高き決意であり、またすなわち、この神の下の国家に、新しき自由の誕生を現出せしめることであり、人民の人民による人民のための政府が、地上から決して滅んではならぬということなのである。(この日本語訳は、我が親友YKito氏によるものです。)
リンカンの演説にも表現されている内容に、ブーン黒人コーチも触れます。「この犠牲者の死を無駄にしないために、君たちがやらなけらばならないことは何か。」と。
コーチの示唆と、チームの高校生一人一人の気持ちの変化やアイデアが、チームを勝利へと突き進ませます。
映画「タイタンズを忘れない」、いろいろな意味で、学校で上演したら意味のある映画だと思います。 |