太平洋戦争期7
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<解説編>
913 オーストラリアの高校の教科書に記載されている「ココダ」とは、どこの島の地名でしょうか? 12/11/12記述

 全体のボリュームが大きくなりますから、次の順序で説明します。
このクイズの意義、オーストラリアと日本との認識の違い
正解とココダトレイル 
日本軍はなぜニューギニア戦を戦うことになったのか
日本軍のポートモレスビー攻略作戦と敗北
オーストラリアにとって太平洋戦争とは何だったのか
オーストラリアにとってニューギニア戦とは何だったのか 
ニューギニア戦の再評価の必要性

地図1 ニューギニア全体図へ||地図2 ココダ道詳細図へ||地図3 太平洋戦争要図へ||攻略作戦年表へ

このクイズの意義、オーストラリアと日本との認識の違い      | このページの先頭へ |

 最初に、私がこのクイズ(と同時に目から鱗の話)を発想できた理由を説明します。
 前の職場にいた、オーストラリアから来ていたALTのN氏との会話がその発端です。

「Mさんは、歴史の先生ですが、第二次世界大戦におけるオーストラリアと日本との戦いについては興味ありますか?」

 

「はい、いろいろ知っていますよ。シドニー湾への特殊潜航艇の攻撃とか、珊瑚海海戦とか、ポートモレスビー攻略作戦とか、オーストラリア海軍も参加したソロモン海の海戦とか。いろいろ。」 

 

「さすが、そんなに詳しい日本人の先生に会うのは初めてです。普通の方はあまり知らないですよね。ところで、それを生徒に教えますか?」 

 

「う~ん、実は、私がオーストラリアとの戦いに詳しいのは、日本史の教師としてというよりも、太平洋戦争に関心があって、特によく知っているというのが本音だ。残念ながら、日本の高校の歴史の授業では、日本史でも世界史でも、さっきいった細かい戦いの様子はあまり教えない。それどころか、太平洋戦争で、アメリカやイギリスやオランダや中国が相手だったことは教えるが、連合軍側にオーストラリアがいて敵国のひとつだったことは、普通は教えていないと思う。少なくとも、教科書の記述にはオーストラリアは出てこない。」 

「え~え、私の国と戦ったことは、日本では教えていないのですか。生徒に尋ねても、オーストラリアと日本が戦ったことも知らないのですね。」 

「残念ながらそうです。「東経135度の隣人」などといって、現在は経済的には深い結びつきがある日本とオーストラリアですが、こと太平洋戦争については、その事実や思いを若い世代への伝えるという点においては、大きな差があるようですね。」 

「驚きました。実はいうと、オーストラリアでは、年上の世代は、日本に対しては、もっとこだわりを持っています。私が日本へALTとしていくと決めたとき、私の祖母は、「なぜ昔戦争をした日本なんかに行くんだ」といって、こだわりました。オーストラリア人の日本に対する感情には、そういう部分があるのも事実です。
 それならMさんは、
ココダって地名を知っていますか。」 

「確か、ポートモレスビーに向かう途中のオーエン・スタンレー山脈の中の地名かなんかだったかな。」 

 

「そうです。日本陸軍とオーストラリア陸軍の将兵が激戦を展開した場所です。正確には、村の名前でもあり、オーエン・スタンレー山脈を越える道路の名前になっています。オーストラリアの高校の教科書に大きく掲載してあります。この地名は、オーストラリアの高校生なら普通にしっています。最近では、この道が整備されて、Kokoda trail ココダ・トレイル と呼ばれ、トレッキングの場所として人気を集めています。」 

 これがこのページをつくるきっかけとなりました。
 オーストラリアの高校ではちゃんと教えていることも、N氏のおばあちゃんがこだわってるということも、ちょっとショックでした。

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正解とココダトレイル           | このページの先頭へ |

 正解は、ニューギニア島です。ニューギニア島は、先の大戦時にはオーストラリアの委任統治領(実質的には植民地)であり、現在は独立して東半分はパプアニューギニア、西半分はインドネシア領となっている島です。
 以下の地図01をご覧ください。
 
ココダは、そのニューギニア島東部のブナポートモレスビーを結ぶ山間道の途中、オーエン・スタンレー山脈の北東側にある小さな村です。また、この山間道全体の名前が、ココダ道Kokoda trail)となっています。
 地図2は
ココダ道部分の拡大です。


地図3 太平洋戦争要図へ||攻略作戦年表へ


  地図2をご覧になればわかりますが、道といっても、平地は深い森林や沼地のある熱帯のジャングルを通過し、オーエン・スタンレー山脈に入ると1000m以上の峰をいくつも超え、標高の一番高いところは2000mを越える地点を通過するというくルートです。道というよりは、その半分以上は登山道というべきです。
 日本軍は
ブナへ陸軍部隊を上陸させ、この道を通って最終目的地ポートモレスビー(現在はパプアニューギニアの首都)の攻略を目指す作戦を実施しました。
 この結果、この道とその出発地点の
ブナ周辺で、1942年の7月から翌1943年の1月にかけて、日本軍とオーストラリア軍・アメリカ軍との間で、激し戦いが展開されました。結果的にこの戦いでも、その後1943年中を通して展開されたニューギニア全体の戦いでも日本軍は敗れ、太平洋戦争全体の帰趨を決定することになりました。
 また、
ココダと並んでオーストラリアの教科書に記述されているミルン湾は、ニューギニア東端の湾の名前です。
 日本海軍は、ポートモレスビー攻略を支援するために、ミルン湾地域に飛行場の建設を計画し、1942年8月25日にミルン湾上陸作戦を行いました。しかし、敵の部隊の配置を過小に評価して少数の部隊しか動員しなかったためと米豪軍航空部隊の攻撃に大きな被害を受けたために惨敗を喫し、10日で撤退しました。この戦いをオーストラリアの教科書は、「
太平洋戦域における日本軍の陸上での初めての敗北であり、日本軍はジャングル戦では負けないという信仰を打ち破るものでした。」と記述しています。
 これらのことが、オーストラリアの高校の教科書には書かれ、日本の高校の教科書には書かれていないわけです。

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日本軍はなぜニューギニア戦を戦うことになったのか    | このページの先頭へ |

 日本軍はなぜニューギニア戦を戦うことになったのでしょうか?
 下の地図3をご覧ください。


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 東京からニューギニアポートモレスビーまでは、直線距離で5000km程あります。
 そもそも日本がアメリカ・イギリス等の連合国との戦争に踏み切ったのは、アメリカの石油輸出禁止などの対日経済施策によるジリ貧を打破するため、東南アジア、特に、スマトラ・ボルネオ等にある石油等の資源地帯の占領を目指したためでした。イギリスにとって東南アジアの防衛の要の町が当時のイギリス領
シンガポールです。ポートモレスビーはそのシンガポールとも5000km程離れています。日本軍陸軍部隊はなぜこのような本来の目的とは遠くかけ離れた町の占領を目指したのでしょうか?

 この作戦は、アメリカとの戦争の主役を担っていた日本海軍の構想に基づいて決定されました。
 日本海軍はアメリカ海軍との戦いを考える場合、日露戦争におけるロシアのバルチック艦隊の撃破というような「艦隊決戦」において勝利することを目指していました。
 しかし、アメリカの海軍力は、ワシントン条約・ロンドン条約によって日本より優勢(主力艦は、日:米=6:10)となっており、まともに戦っては勝利は難しい状況でした。このため、来航するアメリカ艦隊を日本から遠く離れた場所で迎撃し、その勢力をしだいに削いで、ある程度弱体化した段階で日本軍主力部隊との決戦に持ち込むという作戦を考えていました。これならうまくいけば五分と五分の戦いになるはずで、そうなれば日頃から猛訓練を積んでいる日本海軍が勝利するという筋書きでした。
 こんな手前勝手な都合のいい作戦がうまくいくかどうかは疑わしいところですが、日本海軍としてはそれ以外に道はなかったわけです。このため次のような具体的な対応がなされていました。

潜水艦部隊は、ドイツのような補給線の崩壊を主たる目的とせず、あくまでアメリカ艦隊撃滅用に編成されていた。 

  太平洋上には日本艦隊の根拠地となる基地が設営されいた。
  その基地からアメリカ艦隊を遠距離攻撃できる陸上攻撃機が開発され、配置されていた。  

 この基地のうち最大のものがこそが、カロリン諸島のトラック諸島でした。トラック諸島は、第一次世界大戦時の旧ドイツ領で、戦後国際連盟の委任統治領として、実質的に日本が植民地支配を続けていた島です。現在は、ミクロネシア連邦チューク州となっています。
 日米戦争となった場合、アメリカ艦隊は太平洋艦隊の基地のあるハワイから、東南アジアのアメリカの拠点フィリピンを目指して太平洋を西進すると想定し、その手前の
トラック諸島でそれを迎撃しようという構想でした。
 この作戦の構想の基本は、あくまで来航するアメリカ艦隊を迎え撃つというもので、決して先制攻撃や積極的攻勢をはかるものではありませんでした。
 
 ここまでは、太平洋戦争が始まるまでの話です。
 しかし、実際に対米開戦を行う段になると、先の基本構想を盤石にするためという新しい発想から、
真珠湾奇襲攻撃に代表される積極的な攻勢が計画されます。
 
トラック諸島に関しては、敵の空襲から基地を守るため、南に1000kmほど離れた場所にあったオーストラリア軍の基地の占領が命令されます。これがニューブリテンラバウルです。1942年1月23日に南海支隊(支隊長堀井富太郎、歩兵第144連隊を主力とする戦闘兵力約5,000名)がラバウル近くの海岸線に上陸し、数少ないオーストラリア軍守備隊を駆逐し、数日でラバウル占領に成功しました。飛行場は速やかに整備され、やがてここには「ラバウル航空隊」で有名な海軍の航空隊や艦隊の基地が置かれ、日本海軍の南方地域最大の拠点となっていきます。

 この段階で、日本海軍は、初期の戦勝と拡大した占領地を防衛するために、さらなる作戦を構想します。第2段階作戦です。この段階になって日本軍、特に南方域の主担当であった海軍は、次のような危険な発想にとりつかれます。
 「ある場所を占領しそこに飛行場が整備され、航空部隊が進出して立派な基地が完成すると、今度はその基地を敵の脅威から守るためにさらに遠方の敵基地を攻撃する」
 海軍は、守勢に回ると不利になることをおそれ、開戦以来の攻勢を休まずに続け、オーストラリアだろうがどこであろうがどんどん進むべきという考えにとりつかれていました。これは、「
連続攻勢主義」と呼ばれましたが、遠隔地での戦闘や占領地への補給を考えた場合、やがて破滅へとつながる「消耗戦の泥沼」にはまりこむ危険な発想でした。
 戦争では、戦場への「
兵站」(へいたん)、つまり人員、食糧、兵器・弾薬の補給を考えた場合、本国からどこまで離れたところまでなら戦えるという地域の設定が重要であり、これを攻勢終末点と名付けています。この攻勢終末点を超えて戦線を拡大していけば、兵站が破綻し、やがて敗勢におちいるのは明らかです。
 
攻勢終末点を明確に意識できなかった大本営では、すでに1942年1月29日の時点において、アメリカとオーストラリア本土との連絡を遮断するとともにオーストラリア東部方面海域を制圧するために、ニューギニア東部やソロモン群島の要地を攻略するという内容の陸海軍協定が結ばれています。その後、これに基づく具体的な命令が検討され、実施されていきます。
 海軍全体としては、1942年3月の段階で、第2段階作戦として、
アリューシャン列島攻略、ミッドウエイ攻略、アメリカ・オーストラリア遮断のためのフィージーサモアニューカレドニア攻略作戦(FS作戦)が立案されました。
  ※参考文献2 田中宏巳著『マッカーサーと戦った日本軍 ニューギニア戦の記録』P23-52
  ※参考文献3 防衛庁防衛研修所戦史室編『戦史叢書 南太平洋陸軍作戦1 ポートモレスビー・ガ島初期作戦』
           P123

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日本軍のポートモレスビー攻略作戦と敗北     | このページの先頭へ |

 日本軍のポートモレスビー攻略作戦の経過と、撤退後のブナ地区の戦闘の経過は、次の年表のとおりです。



 ニューギニアの制圧においては、東部の米豪軍の戦略的拠点であり、大規模な航空基地のあるポートモレスビーの攻略こそが第一の目標となりました。
 これについては、海軍が中心となって、海路攻略(上陸)が計画され、攻略部隊がポートモレスビーに向かいました。しかし、米海軍はこれを阻止しようと空母機動部隊を派遣し、日本軍機動部隊との間に、1942年5月7日、
珊瑚海海戦が起こりました。この海戦では、日本海軍航空隊がアメリカ正規空母レキシントンを沈没させるなど、戦術的には日本の勝利でした。しかし、上陸部隊の護衛小型空母祥鳳が撃沈されたため、上陸作戦は中止となりました。
 これに変わって実行されたのが、ニューギニア東部のブナ地区から
陸路によるポートモレスビー攻略です。
 しかし、これについては、大きな問題がありました。ポートモレスビーまでの距離と地形と自然条件です。

 ブナ-ココダ間の図上距離は約100km、実距離は約160km。ココダ-ポートモレスビー間の頭上距離は約120km、実距離は約200km。つまり、合計ブナ-ポートモレスビー間約360kmを移動しなければならない。一帯は、ジャングル・沼沢地・山岳地であり、全線に渡って道らしい道はほとんどないため自動車での輸送が全く期待されず、武器・弾薬・食糧等の輸送はほとんど人力に頼らなければならない。

 

 食糧輸送のみに限って詳細を検討してみる。
 第一線の戦闘人員を約
5,000人として、主食の量を少なく見積もって1日米4合(600g)としても、5,000×0.6kg=3トン(3,000kg)となる。
 兵員一人が背負って運ぶことができる主食の量は米25kg、1日の平均輸送距離は山道を考えると20kmが限度である。仮に前線部隊が、山脈の最頂部にいるとして、ブナからは200km。輸送部隊がその往復に費やす日数は、200km×2÷20km(1日)=20日となる。輸送量25kgからその間に輸送する本人が消費する量を差し引くと(0.6kg×20=12kg)、前線に届く米の量は、13kgとなる。
 これで必要な日量3トンを確保するためには、毎日3,000kg÷13kg≒230人が食糧を輸送する必要がある。これを滞りなく続けるためには、常時230人×20日=4,600人の輸送人員が必要となる。
 つまり、前線の戦闘部隊5,000人に対して、輸送部隊4,600人と、ほぼ同数の兵站部隊を必要とするわけである。このような輸送業務をシステマチックに運営できるか。
 ※参考文献4 三根生久大前掲書 P42

 

 太平洋戦争では海軍の作戦でも陸軍の作戦でも、航空機による制圧が作戦成功の必要条件である。ラバウルから片道500km以上離れたニューギニア東部への迅速かつ効果的な航空支援ができるか。現実的に、1942年3月8日のラエ、サラモア上陸直後には、米軍航空機の空襲を受け、護衛艦・輸送船等に開戦以来最大の被害を出している。  

 

 熱帯のジャングル地帯であり、豪雨・洪水、さらにはマラリア・アメーバ赤痢などの熱帯の病気による損耗も予想しなければならない。 

  結果的に、この心配が現実のものになりました。
 攻略部隊であった堀井富太郎少将指揮下の
南海支隊は、先遣隊の上陸以来3ヶ月かけて到達したイオリバイワから、1942年9月24日に撤退を開始します。ラバウルにあった上部組織、第17軍からの撤退命令でした。
 
イオリバイワは、オーエン・スタンレー山脈の最頂部を越えて25kmほど南へ進出したところであり、ポートモレスビーまで直線距離で残り僅か48km、夜にはその灯りを眺めることができるところでした。
 そのポートモレスビーと目と鼻の先まで来て引き返すということになったのは、そこで南海支隊が決定的な敗北をしたわけではありません。戦いは、ずっと勝ち戦です。しかし、退却をせざるをえませんでした。
 この決断が指令された背景には、南海支隊とラバウルの上部組織第17軍との連絡の不備や、第17軍がニューギニアよりソロモン諸島ガダルカナル島に主力を注ぐ必要が生じていたこと等がありましたが、現地部隊としては、
補給困難による食糧不足米豪航空機の跳梁による被害の増加が、断腸の思いでその命令を受け入れる決め手となりました。
  ※参考文献1 コリー・丸谷前掲書P230-244、参考文献4 三根生前掲著P149-160

 この結果、日本軍とは逆に戦力を充実させていた米豪軍は、退却する南海支隊を追って、ココダ道をブナへ向けて追撃を開始し、また、それとは別に、1942年11月16日にはブナ南東の海岸への上陸を敢行しました。米軍と豪軍を指揮下に治めて日本軍への巻き返し意図するアメリカ陸軍の
ダグラス・マッカーサー将軍(南西太平洋司令官)の本格的な反撃がはじまったのです。 

 このため、ココダ道の北の入り口に当たるゴナ、バサブア、サナナンダ、ギルワ、ブナ地区の日本軍は、1943年1月下旬までに全滅もしくは撤退し、ココダ道とその周辺における戦いは、米豪軍の勝利に終わりました。
 日本軍の被害は,下表の通りでした。

 
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オーストラリアにとって太平洋戦争とは何だったのか     | このページの先頭へ |

 ポートモレスビー攻略戦は、上記のように、日本軍からみれば、より有名なガダルカナル島の戦いと同じく、攻勢終末点を超えて進軍をしたために補給線に破綻をきたし、消耗戦の結果敗北に至った戦いでした。
 では、この戦いをオーストラリア軍からみれば、どうだったのでしょうか?
 日本の教科書には載っていないニューギニア戦ですが、オーストラリアの教科書には載っているのは何故でしょうか?ただ単に自国が勝利した戦いだからでしょうか?

 では、まず最初に、現在のオーストラリアの教科書の記述を見てみましょう。
 下の写真は、現在オーストラリアのニューサウス・ウェールズ州で多く使われている第7学年から第10学年向け(日本なら中学から高校)の歴史の教科書、『
Retroactive 2』(Maureen・Anderson、Anne・Low、Ian・Keese、Jeffrey・Conroy著 Jacaranda 出版 2009年)です。(オーストラリアでは日本のような教科書検定制度は存在せず、教科書の供給は自由市場に任されています。)日本ではなかなか現物は手に入らないので、このページの一番上で紹介したALTのN氏が高校生時代に使っていたものをコピーして送ってもらいました。ありがとうございました。
 下の写真は、本文は見えないようにして、一番上のタイトルだけは読める画質にしてあります。
 太平洋戦争に関する記述のうち、最初の2ページ(教科書のP134-135の節のタイトルは、「
At War With Japan」(日本との戦い)です。

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資料913-01 
 オーストラリアの教科書『Retroactive 2』P134・135
 太平洋戦争についての記述がなされている最初の2ページ、「
At War With Japan」(日本との戦い)です。
 次の2ページ、P136・137の「Experiences At Kokoda and Milne Bay」(ココダとミルン湾の体験)については、次節、「6 オーストラリアにとってニューギニア戦とは何だったのか」で説明します。

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 P134の主な記述です。(赤字は引用者が施しました。)
「日本の真珠湾攻撃により、第二次世界大戦は新しい局面に入り、オーストラリアを直接脅かすようになった。」
「日本のイギリス連邦への宣戦布告のあと、オーストラリアのジョン・カーティン首相(1941年9月に首相就任、労働党内閣)は、日本への宣戦布告をした。」
「多くのオーストラリア国民は今や自国が危険な状況にあることを悟り、日本の侵略に対しては、ブリスベーンとアデレードを結んだラインより南を防御すべきだという意見すら提案された。(オーストラリア北部は日本の占領に任せる)
P135の主な記述です。
「シンガポールは東南アジアにおける連合軍最大の拠点であった。しかし、日本軍はこの島を海側から攻撃せず、マレー半島を南下し、ジョホール水道を渡るという方法で攻撃し、
1942年2月15日、シンガポールは陥落した。」
「オーストラリア陸軍第8師団の15,000名をはじめ、合計85,000名の兵士が捕虜となり、オーストラリア軍将兵も多くのものが、飢餓や病気のため収容所で死亡した。」
 このあたりに、現在のオーストラリア人の年配者の方がもっている反日感情の原因の一つがありそうです。そういえば、先に説明した1942年1月23日の日本軍によるラバウル占領直後にも、降服したオーストラリア軍捕虜に対する虐殺事件が発生しています。(トル農園の虐殺事件)
  ※参考文献1 クレイグ・コリー、丸谷元人著前掲書 P68-71
 教科書のまとめを続けます。
シンガポール陥落は、重大事件であった。初めて、オーストラリアは孤立し、無防備の状況となった。カーティン首相は、国民に呼びかけた。「戦争に全力を傾けなければならない。戦争は我々の玄関先のステップまで来ている。」」 

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 オーストラリアの人口は、現在では2200万人を越えていますが、1941年当時は、移民制限をして白豪主義(白人中心政策)を掲げており、人口も700万人程の小国でした。
 もちろんイギリス連邦に属していましたので、第二次世界大戦がはじまると、イギリスの世界戦略にしたがって、シンガポールをはじめ中近東や北アフリカにも陸軍や空軍を派遣していました。

 その一方で、自国への北からの侵略を守るのは、東南アジアのイギリスの拠点、シンガポールのはずでした。東南アジアでは、アメリカ・イギリス・オランダ・オーストラリアが連合し、ABDA(America,Britain,Dutch,Australia)の連合軍を結成して、日本軍の進撃を阻止する努力を続けました。
 しかし、その拠点の
シンガポールは開戦2か月余りであえなく陥落してしまいました。日本軍は、同時進行でボルネオ、スマトラなど現インドネシアに属する石油などの資源地帯の占領を進めており、石油精製施設の占領を目指した、スマトラ島のパレンバンへの日本陸軍最初の落下傘部隊の降下は、シンガポール陥落の前日、1942年2月14日のことでした。
 このあと、日本軍はジャワ島に上陸し、3月9日には、この地域の連合軍は降服し、オランダ領インドの資源地帯は、日本軍の手に落ちます。
 もはや、戦争はオーストラリアの玄関口に迫っていたわけです。
 
 日本の日本史や世界史の教科書には、日本軍の東南アジア占領については記述されていますが、それがオーストラリアも巻き込んでいたこと、及びオーストラリアにおいては大きな危機感をもってとらえられていたことについては、もちろん何ら記載されていません。
 オーストラリアの教科書には、上記の教科書以外においても、日本との戦争については同様の詳しい記述がなされています。

参考文献6 越田稜編『アメリカの教科書に書かれた日本の戦争 教科書に書かれなかった戦争part40(梨の木社 206年)所収のオーストラリアの教科書

シーナ・クープ、メアリー・アンドルーズ著『昨日だけのこと? 20世紀の世界におけるオーストラリア』(ロングマン社 1992年) 

 

ロバート・ダーリング、ジョン・ホスボダリック著『オーストラリアの歴史への理解』(ハイネマン教育社 1994年)  

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 そのように警戒している矢先、シンガポール陥落から4日後の2月19日に、オーストラリア北部のダーウィンが日本軍海軍機の大空襲を受けます。
 
ダーウィンは、オーストラリア北海岸に面した港湾都市で、その港と空軍基地は東南アジア方面への補給基地となっていた重要な都市でした。
 そこへ
日本軍機動部隊の艦載機と、基地航空隊の陸上攻撃機が襲いかかりました。
 第一波は、ダーウィン北西350kmのチモール海にまで進出していた南雲司令官が率いる日本軍の4隻の空母(真珠湾を空襲した6隻のうちの4隻、赤城・加賀・蒼龍・飛龍)を飛び立った艦載機188機(ゼロ戦36機、99式急降下爆撃機71機、97式水平爆撃機81機)でした。9時38分頃から、空軍基地・港湾・軍事施設等に爆撃を開始しました。この襲来機数は、真珠湾攻撃の第一次攻撃隊183機を上回る機数でした。
 これに対するダーウィンの防空兵力は10数機の米豪軍戦闘機と16門の高射砲といくつかの対空機関砲があるばかりで、日本軍攻撃隊はほとんど抵抗を受けず爆撃を続けました。ダーウィン港には、駆逐艦より大きな軍艦は停泊して入らず、真珠湾のような大被害にはなりませんでしたが、8隻の艦船が沈没しました。
 続いて、11時58分には、モルッカ島のアンボンとセレベス島のケンダリから長駆飛来した、九六式陸上攻撃機と一式陸上攻撃機54機の編隊による第二波の攻撃隊が襲来し、空軍基地を中心に爆弾の雨を降らせました。
 二波の攻撃で
ダーウィンの停泊艦船、港湾施設、空軍基地、陸上軍事施設等は大きな被害を受け、将兵や市民に300人ほどの被害者が出ました。(正確な数字は不明)
  ※参考文献7 ピーター・グロース著『ブラディ・ダーウィン もう一つのパールハーバー』(大隅書店 2012年)

この参考文献は、日本人あまり知識がない太平洋戦争中のダーウィンの様子とそこへの日本軍の空襲について詳しく解説しています。ついでに、ダーウィンに関するさらに目から鱗のクイズです。

 
 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。
 ※参考文献6 越田稜編前掲書 P315 
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 日本軍のこの執拗な空襲の回数が、逆にオーストラリアの感じていた「危機感」の強さと考えてよさそうです。
 このあと、1942年5月31日深夜には、
日本軍特殊潜航艇行艇甲標的3隻が、シドニー湾に侵入し、魚雷を放ってオーストラリアの宿泊船(兵員の宿泊用に停留していた船)1隻を撃沈するという戦果を上げました。近くのアメリカ重巡洋艦シカゴをねらった魚雷がはずれたものでした。
 この3隻はすべて未帰還となりました。湾内で沈没した2隻(うち1隻には岐阜県出身の都竹二等兵曹が乗り組み)は戦争中に湾内から引き揚げられ、現在はキャンベラのオーストラリア戦争記念館に展示されています。
 また、湾外へ逃げて消息を絶った残る1隻も、2006年11月23日にダイバーによって発見されました。
 
 この攻撃による被害そのものは大きくありませんでしたが、オーストラリア国民にとっては、オーストラリアの心臓部の東南部沿岸にも日本軍の手が迫っているということを自覚するという点においては、大きな意味がありました。
 ※参考文献8 土屋康夫著『和解の海 特殊潜航艇、シドニー湾攻撃を越えて』(ゆいぽおと 2009年)P57

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 1942年前半の時期は、オーストラリアにとって次ふたつの意味で大切な時期となりました。
  1 太平洋戦争の戦火が具体的に及んだ。
  2 オーストラリアの外交の大きな転機になった。
 1はすでに説明しました。
 
 2については、オーストラリアの頼るべき国が、イギリスからアメリカへ転換されたという話です。
 シンガポール陥落・ダーウィン空襲がイギリスの楯によってオーストラリアを防衛するという戦略の破綻を意味したことは明らかです。オーストラリアはそれ乗じて、「大英帝国」との関係を薄め、アメリカとの関係を強くしていきます。
 すでに、カーティン首相は1942年1月の新年のメッセージで、
「オーストラリアはアメリカを求める。イギリスとの伝統的な紐帯や血縁関係が存在するものの、これから生じる激痛からオーストラリアは解放される。」
と発言し、中東・北アフリカ戦線で投入した兵士を、イギリスの要請に反して本国へ帰還させる決定を行いました。

 また、アメリカ軍はすでに1941年12月からオーストラリアに駐留しており、’42年2月には、オーストラリア軍は、連合軍の南西太平洋方面司令官となったアメリカ陸軍マッカーサー大将の指揮下に入りました。
 オーストラリアは、太平洋戦争を通してアメリカとの関係を強め、これは戦後1951年のANZUS(オーストラリア、ニュージーランド、アメリカによる太平洋安全保障条約)の締結につながっていきます。
 ※参考文献9 竹田いさみ著『物語 オーストラリアの歴史 多文化ミドルパワーの実験』P176-180

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オーストラリアにとってニューギニア戦とは何だったのか     | このページの先頭へ |

 ここで、また原点に戻って、オーストラリアの歴史の教科書Retroactive 2』を見てみましょう。
 ニューギニア戦は、オーストラリアにとってどういう戦いだったのでしょう?

 

資料913-02 
 オーストラリアの教科書『
Retroactive 2』P136・137
 太平洋戦争についての記述がなされている部分の3、4ページ目、Experiences At Kokoda and Milne Bay」(ココダとミルン湾の体験)です。
 ミルン湾の戦いについては、↑上で説明しています。
 P136にはニューギニアココダ道の詳細の地図、P137には当時の写真が掲載されています。

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P136・137の主な記述(赤字は引用者が施しました。)
 「日本軍は、珊瑚海海戦とミッドウエイ海戦の敗北の後、陸路ポートモレスビーに向かう決断をし、東部ニューギニアの北部海岸に上陸した。彼らが目指すのは、
ココダ道であり、この道は直線距離では僅か200kmであったが、泥濘と深いジャングルや、河道をしょっちゅう変える川や険しい山岳地帯を通る、狭くて世界で最も過酷な領域を通過するルートであった。標高の最高地点は2,200mであった。」
「多くの困難にかかわらず、オーストラリア軍守備隊は、日本軍のポートモレスビーへの進軍を阻止した。我が軍は、1942年7月29日にココダの町を占領され、飛行場は敵軍の手に渡った。日本軍はポートモレスビーに僅か50kmと迫るイオリバイワに迫ったが、9月25日に同地からの逆襲を始めた。中近東から帰還した部隊によって増強されたオーストラリ軍とアメリカ軍は、ココダ道を海岸線まで達すると同時に、新たに東部北海岸に上陸し、1943年1月2日にはブナを奪還した。」
ココダ道におけるオーストラリア軍の勝利は、太平洋戦域における日本の陸上の戦いにおける二つ目の敗北であった。(一つ目は、上述したミルン湾の戦い↑)そしてこの地は、日本軍の太平洋戦域における撤退の出発点となった。これによりオーストラリアに対する侵略の脅威は去ったココダ道での我が軍の犠牲者は、戦死者625名、負傷者1600名以上、その他に4000名以上がマラリアなどの病気に倒れた。」
 尚、ガダルカナル島においてアメリカ軍海兵隊との戦いに敗れ、日本軍が島から撤退するのは、これらの戦いよりやや遅く、1943年2月1日~7日にかけてのことです。

 ここで強調されている、ココダ道の戦闘の意義は次の2点です。
  1 この戦いにより、日本軍のオーストラリア侵略の脅威は去った。
  2 太平洋戦争全体の日本軍の陸上での敗北のはじまりとなった。

 この事実から、オーストラリアの歴史の教科書で、
ココダ道の戦いが大きく扱われている理由が理解できます。
 
ココダ道の戦いは、オーストラリア軍にとっては苦戦でしたが、その苦難の末の勝利によって退勢挽回を成し遂げたという位置づけになっているわけです。
 このことが、現在においても、
ココダ道(Kokoda trail)において、戦い偲んでトレッキングをするオーストラリア人が多いという事実につながっています。
 そのひとつに、ウエブサイト「
Kokoda trekking」があります。http://www.kokodatrail.com.au/

たくさんのメニューがありますが、その中で最短のものは、6日間コースです。
2012年11月19日に
ポートモレスビー側のオワーズ・コーナーから出発し、オーエン・スタンレー山脈を越えて、ココダに11月23日に付き、1泊して24日に飛行機でポートモレスビーまで戻り、ポートモレスビーから帰国するという旅程です。 http://www.kokodatrail.com.au/schedule.html#2

 これで、このページの冒頭のALTのN氏の発言、「ココダトレイルトレッキングの場所として人気を集めている」の意味がご理解いただけたと思います。
 
 そしてもう一つ、上記の教科書の記述から強調しておかなければならないことがあります。
 もし、
ココダ道の戦闘で負けていたら、逆にオーストラリアは日本軍の侵略を受ける危険性があったと、オーストラリア側では判断していることです。
 実は日本の大本営の陸海軍調整会議(1942年3月)において、オーストラリア占領が議題に上がりましたが、陸軍は実施不可能として反対しました。日本陸軍は、中国での蒋介石軍との戦争を重視し、太平洋地域での戦争は、主役はあくまで海軍だと考えていました。オーストラリアを占領するとなると、東南部の主要地域を制圧するだけでも陸軍12個師団の兵力と150万トンの船腹が必要とされていました。これは、太平洋戦争開戦時の太平洋地域の陸軍全兵力を上回る兵力であり、陸軍にとってはとても応じることができない作戦でした。
  しかし、それはあくまで日本側の事情です。オーストラリア側では、日本のオーストラリア上陸の危険性(北部のダーウィン及び東海岸のどこか)はあると考えられていました。
 カーティン首相は、日本軍の上陸があるという確かな情報はつかんでいなかったにもかかわらず、国民へ向けては、「やつらは南にやって来る」(当時のポスターの標語)というプロパガンダ情報を流し、国民に危機を煽りました。
   ※クレイグ・コリー、丸谷元人著前掲書 P80-82                                               
 つまり、オーストラリアにとって、ニューギニアにおける戦闘は、遠い偏遠の地の戦いではなく、まさしく祖国の衰亡に直接つながる
祖国防衛戦争だったわけです。
 カーティン首相のこの方針は、軍事力の動員という点では功を奏し、オーストラリアは、人口700万であったにもかかわらず、約100万人の陸海軍を作り上げることに成功しました。
 この当時の両国の状況の違いが、現在の日豪の教科書の取り扱いの差につながっているのです。

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ニューギニア戦の再評価の必要性           | このページの先頭へ |

 これまで見てきたようなオーストラリア側の高い注目度に対して、日本側から見た太平洋戦争におけるニューギニア戦についても、再評価の必要性が提唱されています。どういうことでしょうか?

 ここでまずはじめに、日本史における太平洋戦争のとらえ方の標準タイプを紹介します。(赤太字は引用者によります)
「 1941年12月8日、日本軍のマレー半島と真珠湾への奇襲攻撃によって開始されたアジア・太平洋戦争は、その後、次のような推移をたどつた。
 
第一期は、開戦から1942年5月までの時期である。この時期、日本軍は戦略的な攻勢をとり、東南アジアの広大な地域を短期間のうちに支配下におさめた。日中戦争以降、軍備の急速な充実に努めてきた日本軍が、戦争準備の立ち遅れた米英軍、オランダ軍を圧倒したのである。
 
第二期は、42年6月から43年2月までであり、米軍を中心にした連合軍の反撃が始まった時期である。42年6月のミッドウエー海戦に勝利した米軍は、8月には、ガダルカナル島への上陸を開始する。以後、同島の争奪をめぐって激しい攻防戦が展開されたが、結局、戦閲は米軍の勝利に終わり、翌43年2月には、戦いに敗れた日本軍がガダルカナル島から撤退する。この激しい攻防戦で、日本軍は多数の航空機と熟練した搭乗員を失った。艦艇の喪失も深刻であり、特に、多数の新鋭輸送船の喪失は、日本の戦争経済に深刻なダメージを与えた。陸上戦においても、日本軍は、優秀な装備の米軍に完敗した。ガダルカナル島をめぐる攻防戦における日本陸海軍の敗北は、戦局の決定的な転換点となつたのである。
 
第三期は、43年3月から、44年6、7月ごろまでの時期である。米軍の戦略的攻勢期、日本軍の戦略的守勢期として位置づけられる。この時期、戦争経済が本格的に稼動し始めたアメリカは、多数の正親空母の就役や新鋭航空機の大増産などによって、戦力を充実させた。その結果、日米の戦力比は完全に逆転し、戦力の格差は急速に拡大してゆく。そして、充実した戦力によって、太平洋の制空・制海権を握った米軍は、各地で本格的攻勢を開始した。
 これに対して、日本側は、戦線の縮小で後方の防備を固めつつ、連合軍との本格的決戦に備えるため、43年9月の御前会議で「絶対国防圏」を設定する。しかし、「絶対国防圏」の防備の強化が進まないうちに、44年6月、米軍はマリアナ諸島のサイパン島への上陸を開始した。このとき、日本海軍は温存してきた機動部隊を出撃させて、米機動部隊に決戦を挑んだが、強力な反撃にあって完敗した。このマリアナ沖海戦によって、日本の横動部隊は事実上壊滅する。また、サイパン島の日本軍守備隊も7月には全滅し、米軍はマリアナ諸島を完全に制圧した。
 
第四期は、44年8月から、敗戦までの時期である。この時期は、日本による絶望的抗戦期として特徴づけられる。マリアナ諸島の陥落によって、日本本土の大部分は、新鋭大型爆撃機B29の行動圏内に入り、11月からは、マリアナ諸島を基地とするB29よる日本本土空襲が開始された。一方、米潜水艦部隊の攻撃によって、多数の船舶が失われ、日本本土と東南アジアの占領地を結ぶ海上輸送路は、随所で切断された。このことは、占領地からの資源の移入によって成り立っていた日本の戦争経済にとって、致命的な打撃となった。日本の戦争経済の崩壊が始まったのである。」
  ※参考文献10 吉田裕「アジア・太平洋戦争の線局の動向」
    NHK「戦争証言」プロジェクト著『証言記録 兵士たちの戦争⑥』 P8-10

 長い引用となりましたが、このストーリーにいちいち文句を付けるのではありません。ごく標準的なタイプの的を射た解説です。
 しかし、ここまで私の説明をお読みいただいたみなさんは気がつかれるでしょう。これまでの標準的な解説には、
オーストラリアニューギニアという文言は出てきません。
 つまり、これまでの常識的な解説では、
太平洋戦争の帰趨においてニューギニア戦は大きな意味を持っていないと考えられているわけです。

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 これに対して、これまでの太平洋戦争の見方を変え、ニューギニア戦やオーストラリアとの戦闘の意義を重視すべきだと主張しているのが、参考文献2の田中宏巳著『マッカーサーと戦った日本軍 ニューギニア戦の記録』です。
 649ページ、3,800円の大著ですので、盛りだくさんの内容がありますが、まずは核心の部分を引用します。

「 マッカーサーの軍団がニューギニア戟で勝利を確定したのは19年8月で、この時点でやっとフィリピンに向かう道が開かれた。マッカーサー軍をここまでニューギニアに縛りつけてきたのは、日本陸軍の第18軍の敢闘である。安達二十三中将に率いられた第18軍は、ニューギニア上陸時から補給不足に苦しみ、島嶼戦において不可欠な海軍艦艇の協力をほとんど受けられなかったにもかかわらず、マッカーサーの米豪軍と堂々渡り合ってきた。またこれほど長い間、最前線を維持し続けた戦場もほかにない。負けたとはいえ、強大なアメリカを相手にして4年近い太平洋戦争を日本が戦ったことを、日本人の誇りとする人達もいるが、その多くを、ニューギニア戦における第18軍の頑張りに負っていることに気付く日本人は極めて少ない。
 戦後日本の中で、ニューギニア戦や第18軍に対する評価がほとんど聞かれない一因は、米海軍との戦いを中心軸にして太平洋戦争を見る傾向が強く、陸軍が単独で戦った戦場を異例と見るからであろう。日米双方ともに、太平洋の戦いが海軍の戦いであるという先入観が強く、陸軍を通して太平洋戦争を見る視点が欠落している。それ故、まずミッドウェー海戦後に米海兵隊がガダルカナル島で反攻を開始し、続いてニミッツの米海軍がギルパート諸島、マーシャル諸島の要地を奪取し、マリアナ海戦に勝利後、サイパン島やテニアン島を奪取し、次いでバラオのペリリユー・アンガウルに上陸し、レイテ戦・フィリピン戦ののち、硫黄島および沖縄戦に上陸し、日本の敗北が決定的になった云々の「太平洋戦史」が成立してきた。
 こうした構成の戦争史には二つの問題点があある。一つは昭和18年末にギルバート諸島のマキン・タラワ島の戦いがあるにせよ、18年がほぼ抜け落ちているに等しいこと、二つ目はフィリピンに侵攻してきたのは、パラオからの米海軍ではなく、ニューギニアのマッカーサーの部隊であった理由について説明がつかないことである。」
  ※参考文献2 田中宏巳前掲書P16-18
 
 この説明は、次の地図を見ていただくとより分かりやすいと思います。

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地図1 ニューギニア全体図へ||地図2 ココダ道詳細図へ||地図3 太平洋戦争要図へ||攻略作戦年表へ

 ガダルカナル島の戦いがアメリカの勝利に終わった時点で、アメリカ海軍は、戦争の今後の帰趨を左右する決定的な力を手にし始めていました。アメリカ軍機動部隊において、エセックス級の航空母艦の一番艦、空母エセックスが就役し1943年1月にハワイに到着したのです。これ以後、エセックス級航空母艦が次々と就役し、新しい機動部隊の編成と訓練が着々と進んでいきます。
 この機動部隊の支援の元、西部太平洋を西に向かって反撃が始められ、その最初は1943年11月のギルバート諸島マキン・タラワ上陸・占領でした。
 しかし、ガダルカナル島撤退からここまでは、10ヶ月の空白があります。その間、日本軍はどこで戦っていたか?それがニューギニアというわけです。
 ニューギニアには、1942年11月に
陸軍第18軍が設置され、安達二十三中将(司令部ニューギニア・マダン近郊)の指揮下に、最盛期には第20・41・51の3個師団、第4航空軍(第6師団・第7師団)を基幹として総兵力15万人が展開していました。
 田中氏は、ニューギニア戦の実情として、具体的に次の問題点を指摘しています。

 ニューギニア戦は、ガダルカナル島などと同じ島嶼戦であった。同島は大きな島であるが、内陸部は山岳地帯とジャングルであるため、飛行場を建設し基地をつくる適所は海岸線に限られており、戦場が海に面しているという意味で小さな島嶼と何ら変わりなかった。
 島嶼戦では、
陸上兵力と航空部隊と海上艦艇とが統一の指揮の下協力を密にして作戦を展開しなければならない。
 しかし、日本軍はもともと海軍と陸軍との共同作戦がとりにくく、島嶼戦の対応は後手に回った。
 米豪軍はそれを実施した。たとえば陸軍の上陸作戦においては、当初の作戦では海軍部隊の支援が僅かで、日本軍と同じ小艦艇による夜間上陸という場合もあった。しかし、やがて海軍艦艇の支援が有効であることがわかると、重巡洋艦以上の戦闘艦による艦砲射撃を最初に行って、そののちに陸軍部隊を上陸させるという方式が採用された。この方式は、のちには海兵隊の島嶼上陸においても、引き継がれ定番となっていく。 
 一方で日本海軍主力は、艦隊決戦至上主義を変更することができず、島嶼戦への主力艦の投入を控え、1943年の間を通して、傍観者的態度を貫いた。(前掲書 P119・493)

 

 補給や兵站に関しては、普通は、日本からニューギニアまでは5000kmの距離があり、補給線は長大で、そのことが日本にとって決定的に不利で、それが敗因であったと説明される。しかし、ニューギニアは、アメリカ本土からは10,000km以上有り、補給線が長いという点では日本以上であった。
 このためアメリカにとっては、オーストラリアにおける軍事物資の調達が不可欠であった。しかし、オーストラリアはこの当時から資源と食糧生産には恵まれていたが、国内市場は人口約700万人と狭く、大きな生産力を持っているわけではなかった。
 マッカーサーが指揮する南西太平洋方面司令部は、アメリカ本国から専門家を呼んでオーストラリア産業の指導を行い、遊休設備の積極的な活用と技術指導を進め、さらには交通システムや流通機構の整備まで支援した。このような努力によって、米豪軍の「物量作戦」が可能となった。南西太平洋戦域で消費した物資の内、60%~70%がオーストラリア産であった。(前掲書P46-47)

 

 オーストラリア軍は、そもそも少ない軍事力を有効に活用するため、将兵の犠牲をできるだけ少なくする火力重点主義(敵陣を攻める場合、最初に徹底的に砲撃を行ってから歩兵を進軍させる)を取った。物量があったから武器弾薬を大量消費する戦闘をおこなったのではなく、人命を重視する火力戦を行うために、物量を整えたのである。
 しかし、日本軍は日露戦争の後半頃から歩兵の突撃力を重視する
白兵主義(典型的なものは喊声を上げての夜間突撃)を取っていた。これは相手軍の火力が貧弱な中国軍相手の中国戦線ではある程度有効であったが、火力を保有しているオーストラリア軍には有効でない場合がしばしばあり、いたずらに犠牲を増やした。
 一方で日本軍現地部隊の工夫によって始められた
潜入攻撃(敵陣深く密かに潜入して円陣を築き、四囲を一斉射撃して敵軍を崩壊させる)は効果を発揮したが、広く普及するまでには至らなかった。(前掲書 P109・251・564)
 

 

 1943年の「空白の10ヶ月」の間は、海軍艦艇による大きな戦いはなかった。しかし、ニューギニア戦では、おびただしい航空機の消耗を見た、「航空消耗戦」となった。1943年の初頭におけるニューギニア全体の兵力は、日本軍と米豪軍との間にあまり大きな差はなく、航空隊の兵力もむしろ日本が上回っていた。
 しかし、熱帯という過酷な土地で十分に能力を発揮する頑丈な航空機を多数保有・補給し、集中して有効に作戦に投入すると言う点において、また土木機械を駆使して大規模な飛行場を短期間に整備し維持していくという点において、米豪軍は数段優れており、日本軍にとってはしだいに苦しい戦いとなっていった。
 また、上記の1の島嶼戦という視点から見ると、日本の戦闘機は、敵戦闘機との空中戦重視、逆に言えば陸上部隊を支援するための機銃掃射や爆弾投下などは全く考慮されていない設計思想で製作されており、
陸・海・空の一体となった戦闘における陸上部隊支援という点では、微力であった。
 航空勢力の劣勢は、戦闘力のみならず補給力の欠如にもつながった。米豪軍は輸送機から投下輸送を有効に行った。日本軍も小規模ながら実施しようとしたが、日本軍にはそもそも輸送機が不足しており、食糧等の投下も爆撃機から行わざるをえず、成功率は格段に低いものになった。(前掲書 P18・121・139・331・343)
 

 

 島嶼戦には、戦闘・輸送の両面において、大型艦艇よりも小型艦艇の方に多くの活躍の場がある。アメリカ海軍は小型艦艇の象徴ともいうべき魚雷艇を開発・運用し、ニューギニア戦やソロモン戦で大きな効果を上げた。ひたすら艦隊決戦を目標とし、艦艇の運用が硬直化していた日本とは対照的であった。(前掲書 P236・382-384) 

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 写真913-03 ウェワク近郊のダグアの日本軍基地を爆撃するアメリカ軍機  (撮影日 1944/02/03)

 この写真は、ロバート・シャーロッド編中野五郎訳『光文社版 記録写真 太平洋戦争史(下)』P23から複写しました。
 この写真には二つの大きな意味があります。
 第一には、この基地の持つ意味です。
 ニューギニア東部にある
ウェワクは、ニューギニアに展開する日本陸軍第18軍(安達二十三中将)の航空勢力の拠点でした。したがって、この基地をめぐる航空戦は熾烈を極め、連合軍は1943年8月17日・18日の大空襲(2日間で200機が撃墜・地上破壊された)をはじめ、しばしばこの基地を爆撃しました。
 第二には、爆撃の方法です。
 この写真の左上を飛んでいるのは
アメリカ軍陸軍爆撃機B25です。1942年5月に東京初空襲を行ったドゥーリットル爆撃隊の使用機と同じです。そのB25が投下している白いものは、落下傘爆弾です。超低空で編隊爆撃を行うと命中率は抜群ですが、自分の編隊も爆弾の影響を受けてしまいます。それを防ぐため、爆弾にパラシュートを付けて投下し、編隊が飛び去ってから地面に達して爆発するように信管をセットしておく爆撃方法が工夫されました。これは飛行場爆撃にはきわめて有効でした。
 滑走路に停まっている日本軍戦闘機は
飛燕です。こちらは、→「各務原・川崎航空機・戦闘機」シリーズで説明しています。 

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 ニューギニア戦は、全体として南西太平洋方面司令官マッカーサー大将によって指揮されていましたが、最初はオーストラリア軍との戦いで始められ、、1944年1月のグンビ岬上陸以降はアメリカ軍が中心となり、また、アメリカ軍がフィリピンに去ってからは、終戦まで再びオーストラリア軍との間で進められました。
 マッカーサーが、フィリピン侵攻に絶対不可欠と思っていたモロタイ島に軍を進めるのは、1944年9月です。それから1ヶ月後に、フィリピン・レイテ島上陸作戦が展開されます。
 これまで、フィリピン上陸は、ニミッツの海軍部隊の1944年6月のマリアナ諸島占領に引き続いて行われたいう視点からのみのストーリーが語られてきました。
 しかし、実際にフィリピンに上陸したのはマッカーサー軍であり、それは、マッカーサーがニューギニアのほぼ全域を手中に収めた結果として可能となった軍事行動でした。
 その意味で、日本側の太平洋戦争の歴史の見直しという視点から、もう一度
ニューギニア戦を再評価する必要があります。ニューギニアにマッカーサー軍を2年半あまり釘付けにした、陸軍第18軍の奮闘に対する再評価です。  


 3年あまりのニューギニア戦に総合計でいくらの兵力が投入され、何人の日本人将兵が熱帯の地に倒れたのか正確な数字を出すことは不可能です。田中宏巳氏は、次のように推定しています。
 ○ニューギニア戦線投入兵力陸海軍総計(途中帰還分を除く) 22万5000人
 ○終戦時生き残り人数  3万7900人 
 ○戦死及び戦病死者数  18万7100人 
 
 犠牲者の中に、食糧不足による飢餓やマラリアなどの病気によってなくなられた方がかなりの数含まれていることは、一つ一つ具体的に説明しなくても、最初の南海支隊の例から考えてみれば、おわかりいただけると思います。

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 ずいぶん長くなりましたが、これでニューギニア戦に関するレポートを終わります。  


 ※上の地図は、Google から正式にAPIキーを取得して挿入した、ニューギニアの地図です。


 【クイズ913 ニューギニアにおけるオーストラリアと日本の戦い 参考文献一覧】
  このページの記述には、主に次の書物・論文を参考にしました。

クレイグ・コリー、丸谷元人著丸谷まゆ子訳『ココダ  遙かなる戦いの道 ニューギニア南海支隊・世界最強の抵抗』(ハート出版 2012年)

 

田中宏巳著『マッカーサーと戦った日本軍 ニューギニア戦の記録』(ゆまに書房 2009年)

防衛庁防衛研修所戦史室編『戦史叢書 南太平洋陸軍作戦1 ポートモレスビー・ガ島初期作戦』(朝雲新聞社 1970年)

三根生久大著『モレスビーの灯 ニューギニア南海支隊』(光人社 2006年)

 

Maureen・Anderson、Anne・Low、Ian・Keese、Jeffrey・Conroy著『Retroactive 2』(Jacaranda出版 2009年) 

 

越田稜編『アメリカの教科書に書かれた日本の戦争 教科書に書かれなかった戦争part40』(梨の木社 206年)所収のオーストラリアの教科書 

  ピーター・グロース著『ブラディ・ダーウィン もう一つのパールハーバー』(大隅書店 2012年)  
  土屋康夫著『和解の海 特殊潜航艇、シドニー湾攻撃を越えて』(ゆいぽおと 2009年) 
  竹田いさみ著『物語 オーストラリアの歴史 多文化ミドルパワーの実験』(中公新書 2000年)
   10 吉田裕「アジア・太平洋戦争の線局の動向」NHK「戦争証言」プロジェクト著『証言記録 兵士たちの戦争⑥』 (NHK出版) 
   11 ロバート・シャーロッド編中野五郎訳『光文社版 記録写真 太平洋戦争史(下)』(光文社 1952年)