太平洋戦争期6
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<解説編>
 912 アメリカ軍爆撃機隊が名古屋の三菱工場の詳細情報を入手した理由は?

 全体のボリュームが大きくなりますから、次の順序で説明します。
クイズの正解です
どのような詳細な情報か
どこでこのような情報を入手したか
アメリカの情報収集システム
日本軍将兵の協力の実態


クイズの正解です         | このページの先頭へ |

 まずは正解です。


 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。

 1・2・3の選択肢を冷静に考えると、あの戦時下に、一番あり得ないことは、「2 日本にいたアメリカ人スパイの活動」です。これはちょっと奇抜なダミーでした。
 有名な事実で一番ありそうな選択肢は、「3日本軍の機密暗号の傍受・解読」です。しかし、これも、無理があります。作戦命令ならともかく、三菱重工業の工場の情報を暗号を組んで無線で流すかという点から考えると、ちょっと非現実的です。
 実は、「1日本軍捕虜の証言」が正解です。

 
どのような詳細な情報か            | このページの先頭へ |

 その詳細な情報とは、どのようなものだったのでしょうか?このクイズの設定は、次の参考文献1から多くの示唆を得ました。
  ※参考文献1 中田整一著『トレイシー 日本兵捕虜秘密尋問所』(講談社 2010年)

 アメリカ軍は、1944年11月から、占領したサイパン島などの
マリアナ諸島からB29爆撃機を使用した日本本土爆撃を開始します。(その概要は、すでに、→クイズ901,→クイズ911で紹介しています。)
 その爆撃目標としては、
航空機生産設備が第一とされ、アメリカ軍は、目標に関する情報をいろいろな手段を使って集めていました。その重要な手段の一つが、捕虜となった日本軍将兵の尋問による情報収集です。
 
 たとえば、
三菱重工業名古屋発動機製作所に関する捕虜尋問では、捕虜となった陸軍上等兵発議のように証言したと記録されています。
「捕虜ははじめ話すことを嫌がった。他の捕虜に知られることを恐れたからである。そこで繰り返し尋問した。やっと話しはじめた。かつて働いていた三菱重工業名古屋発動機製作所についてこう証言した。
 工場は、24時間稼働でエンジン50個をつくる。日勤7:30〜19:00、夜勤は19:00〜翌朝7:00、従業員約5万人、捕虜はシリンダー部門の旋盤工。13人の男性が働く。一日12時間勤務。一日で最大30個の部品をつくつた。そのうち5パーセントが不良品。
 かれの製作部門での一番の問題点は、シリンダー・バレルの焼き戻しの工程である。これが一番灘しい。人は足りているが、熟練した技術者が不足している。シリンダーヘッドも同じ建物でつくっている。建物2(スケッチ・ナンバー667番参照) では、鋳物の約80パーセントをつくる。残り20パーセントは下請け。
 捕虜は機械について特記すべきことは報告していないが、複数のドリルのついた機械があったと思うと証言。使用目的は知らない。陸軍用、海軍用、同じ生産ラインでつくつている。最後につけるラベルが違うだけだ。シリンダー・バレルには二種類ある。名称は知らない。
 捕虜は記憶で部品のスケッチを描くことができた。(中略)捕虜によると部品の二十パーセントが静岡市の三菱のエンジン工場から届く。」 
  ※参考文献1 中田整一前掲書P159〜160 

 また別の
捕虜Bに対する尋問からは、同じ名古屋にある三菱重工業名古屋航空機製作所に関する情報が収集されました。
「 尋問は前記の陸軍上等兵と重なる11月6日から13日にかけて行われた。スケッチ・ナンバー664番である。情報参謀部(A−2)では、捕虜の証言と航空写真をもとに、工場内部の建物に1番から24番までの番号をふって、そのひとつひとつについて詳しく説明している。スケッチに添えて建物の詳しい解説書をつけたのだ。大きさ、構造、用途、工具類、労働体制、勤務時
間、製造飛行機の機種。捕虜が描いたスケッチは、
零戦雷電など海軍機の組み立て工場であった。」
  ※参考文献1 中田整一前掲書P161 
 
 これに基づいて作製されたスケッチを再現したものが、次の説明図01です。 



 恐るべき詳細な情報です。
 
 1944年12月13日、それまで東京地区を中心におこなわれていたB29爆撃の目標が変えられました。選ばれたのは名古屋です。初空襲でした。
 マリアナ諸島の基地から飛び立ったB29爆撃機92機は、午後1時57分から3時38分にかけて
徹底的な精密爆撃を行いました。エンジン工場を中心に生産ラインや最新式のエンジン開発施設などが徹底的に破壊されました。
 「爆撃成果は多大。目標地域で230カ所が爆発し、主要建築物の69万平方フィートを破壊した」と米軍の報告書には書かれています。
  ※参考文献1 中田整一前掲書P18 

 
どこでこのような情報を入手したか            | このページの先頭へ |

 では、この情報をアメリカ軍は、どこでどのようにどういう捕虜から入手したのでしょうか?
 日本軍の将兵から尋問によって入手したことは事実ですが、どこで捕虜になったどういう将兵からどういうシステムで尋問をしたのでしょうか?もちろんその捕虜がこの工場で働いていたことが、正確な情報の源です。しかし、そんなに都合よく捕虜が捕まるのでしょうか?
 そこで二つ目の質問です。1944年11月において、尋問を受けて工場の情報をしゃべった捕虜
は、ある場所の戦いにおいて、比較的大量にとらえられた捕虜の中の二人でした。どこの戦いにおいてアメリカ軍に捕えられたのでしょうか。ちょっと難しいですが、次の選択肢から考えて下さい。


 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。

 ガダルカナル島は敗北の末に撤退を余儀なくされた島、アッツ島サイパン島は、歴史年表上は「玉砕」=「守備隊全滅」の島ですから、いずれもそれほどたくさんの捕虜がいるとは思えませんが、実は、かなりの捕虜がいたのです。
  ※捕虜の数は、参考文献2 秦郁彦著『日本人捕虜 白村江からシベリア抑留まで 下』P433・455より
 
 サイパン島の守備隊は、全兵力44,000人弱でしたから、捕虜となった2,300人を全守備兵力で割ると5%強となり、それまでの戦いとは比較にならないくらい高い数字となりました。
 この要因は、それまでの部隊と違って、年齢の高い応召兵が含まれていたことや、守備隊以外に、約24,000人の在留邦人、約4,000人の原住島民がおり、アメリカ軍が積極的に投降を呼びかけたことなどが上げられます。
  ※参考文献2 秦郁彦前掲書(下)P448

 ここで捕虜となった
は、招集される直前の1944年4月21日まで、三菱重工業名古屋発動機製作所で働いており、捕虜となったのちの、11月4日からアメリカ本土の捕虜取り調べ施設で尋問受け、スケッチ付きの情報を提供したのでした。
 また、捕虜
も同じように三菱重工業名古屋航空機製作所で働いており、これも同じく、アメリカの捕虜取り調べ施設で貴重な情報を提供したのでした。

 

 写真912−01・02 サイパン島バンザイクリフ  (撮影日 07/08/04)


 写真912−03・04 サイパン島の戦車等の残骸  (撮影日 07/08/04)

 これらの写真は、元の職場の同僚が新婚旅行でサイパン島に行った際に撮影してきてもらったものです。Oさん、感謝。


 この事実から、二つの疑問が出てきます。
 一つ目は、捕虜が捕らえられたその戦場における情報ならともかく、サイパン島で捕えた兵から三菱重工業の名古屋工場の情報を聞き出すというような、非常に戦略的な情報収集をアメリカはどのような仕組みでおこなっていたのかという点です。
 二つ目は、よく言われている、東条首相が定めた兵隊の心得である戦陣訓に、「
生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず」と教育され、必死覚悟で戦った日本軍将兵が、不本意とはいえ捕虜となったのち、なぜ上記のように貴重な情報をいとも簡単に漏らしたのかという点です。
 

 
アメリカの情報収集システム            | このページの先頭へ |

 まずは上記の一つ目の疑問点、アメリカの情報収集システムについて説明します。
 アメリカ軍は、日米開戦後、敵となった日本の情報を得るため、相当の危機感をもって、日本語のわかる人材の育成を始めました。詳しい統計はありませんが、開戦前の日本人の中にいる英語がわかる人の比率と、アメリカ人の中にいる日本語がわかる人に比率を比較すれば、後者の比率が恐ろしく低いことは、容易に想像できます。
 日本が英語を敵性語と呼称してその教育を制限していったのに対して、アメリカ軍は、その逆に、積極的に日本語学校を設立し日本語学習を広げていきました。アメリカ軍が最初の日本語学校が設立されたのは、日米開戦以前1941年の6月(海軍)、11月(陸軍)のことでした。
 アメリカの場合の強みは、日系人や日系二世が多くいたことです。日系人は最初はアメリカ軍上層部の信頼を得られず枢要なポストには就けませんでしたが、のちには活躍の場が広がっていきます。軍だけでなく、一般の大学にも日本語講座・学校が設立されていきます。
  ※参考文献1 中田整一前掲書 P60
  ※参考文献3 山本武利著『日本兵捕虜は何をしゃべったか』P25−27


 ほっと横道へそれますが、最初に日本陸海軍と米軍との激しい戦いが演じられたソロモン諸島やニューギニアを管轄した南西太平洋連合軍翻訳尋問部隊ATIS)では、生身の捕虜以上に、日本軍の文書から多くの情報を入手しました。
 面白いことに、日本軍将兵の多くは、アメリカ軍では想像も付かない貴重な情報が詰まった文書を携行していたのです。
 ここで三つ目のクイズです。 


 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。

 アメリカ軍は、日本軍に情報が渡るのを恐れて、兵士が日記等の文書を持参することを禁じていました。それとは対照的に、日本軍兵士は、諜報の固まりでした。日本軍兵士は前線にまで日記や手紙や遺書などをポケットに入れて持ち歩いていたからです。日記などの中には、軍の作戦や命令を書き写したものも多くありました。
 日本軍は日記については禁止するどころか、日々の生活の反省を促し向上につながるものとして、奨励している面もありました。
 さらに、機密保持という意識が全般に低かったからか、また日本語などと言う複雑な言語がアメリカ人に読み取られるはずがないと信じていたためか、将校などは、作戦命令・作戦地図・部隊配置図そのものなどを持参してアメリカ軍と白兵戦に臨み、その結果、戦死者はアメリカ軍に様々な情報を提供してしまいました。
  ※参考文献3 山本武利前掲書 P29・34−35
 
 基本的にはアメリカ軍が、情報収集という点においてきわめて熱心であり、対照的に日本軍は、国内における防諜に気を遣っただけで、最前線の情報の漏洩、及び情報収集にはあまり気を遣いませんでした。

 遺体から収集した文書に比べれば、捕虜の人数そのものは、戦争初期はそれほど多くはありませんでした。しかし、1943年になってソロモン諸島やニューギニアの戦闘が連合軍優位に展開し始めると、前線で捕らえられる日本軍将兵の数は増加していきます。
 アメリカ軍の捕虜尋問は,まずは現地でおこなわれました。捕虜を捕らえたその現地における生々しい戦術的情報は、アメリカ軍に多くの利益をもたらしました。その中で特筆すべき貴重な情報となったものに、1944年3月のブーゲンビル島における日本軍総攻撃の事前察知があります。あるアメリカ軍尋問官が日本兵から同軍の総攻撃の日付が3月23日であることを聞き出し、その前日に逆にアメリカ軍が先制攻撃をかけて大成功をおさめたという事例です。
  ※参考文献3 山本武利前掲書 P62−64
 
 また、アメリカ軍は、日本軍捕虜からの情報収集に、きわめて大胆な方法を用いました。一つの例として、航空母艦隼鷹(じゅんよう)乗り組みのゼロ戦パイロット
C中尉(アメリカ軍の報告にはそうなっていますが、事実は航空母艦飛鷹乗り組みの艦上爆撃機パイロット)からの事情聴取があります。
 パイロットC中尉は、1943年4月9日にソロモン海域で捕虜となり、ハワイで徹底的な尋問を受けました。C中尉が有意義な情報を話すことから、アメリカ軍はより具体的な情報を入手できると考えました。日本軍の航空母艦の構造や運用のシステムはどうなっているかについても興味深い情報が入手できそうでしたが、尋問室でのやりとりでは、具体的な話はよくわかりません。そこで、アメリカ軍はなんと彼を真珠湾停泊中の自軍の航空母艦エンタープライズに連れて行き、実物を見ながら、日本軍空母との違いを説明させたのです。彼の口から日本軍空母の艦内構造が、アメリカ空母とのそれと比較して具体的に説明されたのは言うまでもありません。なんと大胆な方法でしょう。
  ※参考文献1 中田整一前掲書 P124−126
 このパイロットは、中田前掲書では、アメリカ軍の記録に基づいて「大谷」とされていますが、これは偽名で、本名は、空母飛鷹乗り組みの艦爆操縦員、豊田穣(とよた みのる)中尉でした。岐阜県出身の、のちの直木賞作家です。
 豊田穣自身は、自著の中で、彼自身が希望してエンタープライズ乗船がかなったと表現していますが、秦郁彦は、「米側も抜け目はない。案内役の副長が豊田から聞き出した「隼鷹」(乗艦の「飛鷹」と同型)の構造や性能が,そっくり尋問記録に記載されているから、所詮は米側に翻弄されたと言ってよいのではないか」
  ※参考文献4 豊田穣著「愚か者の船」『割腹−虜囚ロッキーを越える−』(文藝春秋 1979年)所収 
  ※参考文献2 秦郁彦前掲書(上)  P177
 
 そういう事例とは別に、もう一つ大事なことがあります。名古屋工場の建物に関するような戦略的な情報はいかにして収集したかという点です。
 これには、戦地での局地的な情報を集めるシステムとは別に、もっと
広域から戦略的に目的にかなった情報を集めるシステムが必要です。
 たとえば、アメリカ軍にとって、戦争前半においては、日本海軍の戦闘機ゼロ戦や秘密のベールに包まれた新鋭戦艦大和などに関する情報は、第一に優先して集めるべき情報でした。
 そういった情報を集めるため、アメリカは陸海軍共同で、重要な情報を持った捕虜を尋問する施設をつくりました。これが、カリフォルニア州サンフランシスコの東60km程のバイロン・ホット・スプリングスに、1942年5月に秘密裏に開設された
日本兵捕虜秘密尋問所です。施設の暗号名は、「トレイシー」でした。この施設には設立当初で、陸海軍の人員合計360名以上が勤務していました。アメリカ軍の熱意がわかる部隊規模です。
 太平洋戦争中に太平洋戦線でアメリカ軍の捕虜となってアメリカに送られた日本軍将兵は約5,000人、そのうち2,342人が「
トレイシー」に送られて尋問を受けました。
 「
トレイシー」の関係文書には、先の航空機工場などの他に、皇居の詳細な図面の含まれています。これも複数の捕虜の証言から作製されました。

 1944年になると、アメリカ軍には「トレイシー」の機能を最大限に発揮させることにつながる一つの組織が立ち上がりました。
 それが、合同攻撃目標グループ(Joint Target Group、
JTG)です。その目的の一つが、日本本土への戦略爆撃に関するデータの収集でした。
 こうして、いろいろな捕虜の断片的な情報が意図的につなぎ合わされ、最重要爆撃目標の航空機製作工場の詳細が明らかになっていったのです。
  ※参考文献1 中田整一前掲書 P139−145  

 
日本軍捕虜じゃなぜ情報を教えたのか         | このページの先頭へ |

 さて、最後は、日本軍将兵の問題です。
 そもそも日本軍将兵は、生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず」と教育され、死ぬまで敵軍を攻撃する精神・覚悟で戦っていたはずです。その日本軍将兵が、不本意とはいえ捕虜となったのち、なぜ上記のように貴重な情報をいとも簡単に漏らしたのかという点です。

 最初は、欧米と日本の捕虜観の相違です。
 欧米では、第二次世界大戦終了後、日本の捕虜となって将兵が本国へ帰還すると、熱狂的な歓迎を受けました。捕虜となったとは言え、頑張って戦ったヒーローというわけです。
 もちろん敗戦国日本ではそういう歓迎はありませんでした。それでは、日本が戦勝国だった日露戦争の時はどうだったでしょうか。
 日露戦争でも、2000人余りの日本軍将兵がロシアの捕虜となりました。彼らは日本が勝利したのち帰還することができましたが、それを迎えた日本の社会は、「歓迎」という状況とはほど遠いものでした。
 すなわち、帰還捕虜将兵は軍当局の審問を受け、軍法会議にこそかけられませんでしたが、将校の多くは軍職を去っていかなければなりませんでした。また、郷里に帰った兵士たちも概して冷たい視線に晒されました。彼らを待っていたのは、「歓迎」ではなく「村八分」だったのです。中には、新天地を求めて町や村から出て行かなければならないものも少なくありませんでした。
 つまり、捕虜となった将兵たちは、法的制裁は受けなかったものの、その奮闘を感謝されるどころか、社会的に「制裁」を受けるという状況でした。
  ※参考文献2 秦郁彦前掲書(上)P10・18・19
 捕虜に対するこのような考え方は、「戦場の死」を極度に美化する武士道以来の日本の伝統的考え方に由来するものでしょう。

 太平洋戦争中には、これに加えて、戦陣訓の「
生きて虜囚の辱を受けず」がありましたから、戦争前半期には投降すると言うことなどは見られませんでした。マリアナ諸島の戦闘以前に捕虜となったものの多くは、海で漂流していたり、陸で人事不詳に陥っていたりの状態で捕虜となったものがほとんどで、いかんとも仕方がない状態で、捕虜となっています。
  それでも、捕虜となってしまった将兵は、まずは、「連合軍に殺されるのではないか」と恐怖におびえ、次には、「自分は2度と本国に帰れない」「自分が捕虜となったことは本国には知られたくない」という思いで苦しむことになります。
 捕虜となることを認めない教育は、ドイツ軍のように大量に捕虜を出すことは抑えることができました。しかし、捕虜となることを想定していませんから、当然ながら捕虜となった場合の教育、どこまではしゃべってもいいものなのかということも、まったくしていませんでした。したがって、捕虜となった場合の対応は、日本人としての「素」のままの基本が、そのあり方を決めました。

 「ベネディクトが気づいたように、「
」の意識は、往々にして日本的な「義理」や「恩返し」の感覚に結びついていた。とらわれた直後の苦悶期を過ぎると、捕虜たちの多くは「一宿一飯」の義理に目覚め、何かの形で恩返しをしないと気がすまぬ心境におちいる。
 とくに重傷の身を、医師や看護婦が献身的に治療してくれた場合の効果は大きかった。」
  ※参考文献2 秦郁彦前掲書(上)P149
 
 「礼儀」を重んじるのは、我々日本人の誇るべき資質です。本来は殺されてもしょうがない相手から、想像できなかった親切な処遇を受ける。それに感動して「恩返し」をするのは、現在に至るまで我々日本人の重んずべき「美徳」です。その日本人としての「素」の自然な感情が、戦術的・戦略的情報を提供してしまった場合には日本軍全体としてどのようなダメージを受けるのかという理性性的な思考を上回ってしまったのです。
 これについては、「そんなバカな」と批判するよりは、「自分もそういう立場だったら」と理解する心を強く持つのは、私の「素」も70年近く前の日本軍将兵と同じだからでしょうか。
 さらには、日本人が抱いている欧米文化への基本的な崇拝の気持ち、とくに映画や自動車などへのあこがれは、兵士の抵抗や収容所からの脱走の意思を萎えさせることになりました。
  
 そして、これらのことを理解していたアメリカ軍は、次のような捕虜対応マニュアルを定めていました。
「捕えたら最初は孤独にしておく。拷問され殺されると覚悟している捕虜は、親切にしてやるとメンツもあってか何か恩返ししたくなってくる。ブーゲンビルの捕虜で、一人だけ嘘をつき非協力的だった男がいた。事情を調べてみると、連行の途中にひどい取扱を受けたせいだとわかった。くり返す。捕虜を優しく扱え。」
  ※参考文献2 秦郁彦前掲書(上)P156

 かくて日本兵将兵は、故郷に知られたくはないため、偽名を使う場合は多いものの、自分の部隊の状況・作戦の内容・兵器の詳細等について、たくさんの情報をアメリカ軍に話すことになったのです。極秘であるべき戦艦大和の主砲口径が46cmという情報も、関東軍の中に731部隊という細菌戦を準備している部隊があることも、アメリカ軍は捕虜をとおして把握していました。
 また、中には、日本軍への投降の呼びかけや自軍の上空を飛んで大砲の場所などを教えると言ったアメリカ軍側もあきれかえる「協力」的姿勢も見られました。
 「この敵への協力は、自殺の意思の裏返しでもあった。平時の教育や軍隊の訓練、戦闘によって、
自主的で柔軟な思考とそれに基づく行動を長く排除せられてきた日本兵は、捕虜となったとき、敵側の姿勢に同調した硬直的な行動を取ったのである。それがしかも、集団的であった点が、いかにも日本的であった。」
  ※参考文献3 山本武利前掲書P91

 

 日本国の為に戦い捕虜となった将兵のみなさんを悪く言うつもりは全くありません。
 戦闘に倒れた方、また九死に一生を得て生き残った方、そして奮闘の結果捕虜となった方々の労苦を偲び、その勇気と誇りある行動に敬意を表するものです。
 そして同時に、その時代の軍隊や社会のあり方を批判的に分析することを通して、現在の教育のあり方や進むべき方向をもう一度考え直してみたいと思います。


 【クイズ912 日本軍の捕虜と情報収集 参考文献一覧】
  このページの記述には、主に次の書物を参考にしました。

中田整一著『トレイシー 日本兵捕虜秘密尋問所』(講談社 2010年)

 

秦郁彦著『日本人捕虜 白村江からシベリア抑留まで 』(上)(下)(原書房 1999年)

山本武利著『日本兵捕虜は何をしゃべったか』(文春新書 2001年)

  豊田穣著「愚かものの船」『割腹−虜囚ロッキーを越える−』(文藝春秋 1979年)所収