満州事変・日中戦争期1 |
<問題編> クイズは時代の古い順に並んでいます。答えは各問題のをクリックしてください。 |
最終更新日 2011年07月16日 ※印はこの5週間に新規掲載 |
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番号 | 掲載月日 | 問 題 |
901 | 01/01/28 |
満州事変の始まる少し前、「満蒙は日本の生命線」という政治スローガンが流行り、早速これをもじった商品広告も登場しました。「咽喉(のど)は身体の生命線、咳や痰には、□□□」という宣伝文句にあてはまる商品名は何でしょう。 |
902 | 01/01/28 |
満州事変の発端となった柳条湖事件は、関東軍の板垣征四郎・石原完爾らによる策謀であったことは今では広く知られています。この二人に心服していたある人物は、このあと生まれた自分の子どもに彼らの名前から一文字ずつ漢字をもらって名付けました。現在世界的な指揮者として有名なその名前をもらった人は誰でしょう。 |
903 | 01/01/28 |
柳条湖事件を調査した国際連盟のリットン調査団は、爆破の直後満鉄の列車が現場を無事通過しているのを注目し、破壊されたにもかかわらずなぜそんなことができたのか、と質問します。これに対して、関東軍の軍人は「運転士が日本人だから□□□ですっ飛ばした」と答えたそうです。さて何といったでしょうか。 |
906 | 02/11/22 |
1933(昭和8)年、伊豆大島三原山は、自殺の名所となってしましました。この年、1年で合計944人が火口へ投身自殺したのです。 |
905 |
01/12/23 |
1936年、日本は、ロンドン軍縮会議を脱退して、ワシントン・ロンドン両海軍軍縮条約の制限を受けないことになり、軍備拡大に入ります。その結果どうなったのか。海軍の軍事力という点から答えてください。 |
908 | 04/09/12 |
1936年2月26日、陸軍の青年将校の一団が、クーデターを敢行しました。世に言う二・二六事件です。しかし、彼らは「反乱軍」の扱いを受け、その目論見は失敗しました。 |
907 | 03/02/08 |
1937年12月、日本軍は中華民国政府の首都南京を占領します。この時、非戦闘員が虐殺される事件、南京事件が起きました。現在この犠牲者の数は、高校の教科書には何人ぐらいと表現されているでしょうか。 |
909 | 11/07/11 |
日中戦争が始まると、初期に占領した内蒙古地区は、それ以後特別な「商品」の供給場所として日本軍の占領政策に大きな役割を果たすようになります。その商品とは何でしょうか? |
904 | 01/09/09 |
1939年夏、当時の満州国とモンゴル共和国の国境ノモンハンで、日本の関東軍とソ連軍との間で熾烈な戦闘が展開されました。ノモンハン事件です。この地域は、乾燥気味の草原地帯で、自然状況も過酷でした。五味川純平著『ノモンハン』には、防○具(面)なしでは過ごせなかったと記されています。さてこの防○具(面)とは何でしょう。 |
<解説編>
「咽喉(のど)は身体(からだ)の生命線、咳(せき)や痰(たん)には龍角散」が正解です。 |
正解は小沢征爾です。 |
正解は「運転士は日本人だから大和魂ですっ飛ばした」です。 |
ノモンハン事件は、日本の陸軍が犯した愚かな過ちとして有名であり、戦前の日本陸軍・官僚機構の欠点、ひいては日本人の考え方の欠点を如実に示した戦いとして有名です。教科書では、本の一行ですが、このあとの太平洋戦争の「愚かな失敗」につなげる話として、是非生徒に語っておきたいものです。
さて、ノモンハン事件の説明です。
関東軍もまた、辻参謀や上司の作戦参謀服部卓四郎中佐の強硬意見に基づき、第23師団に第7師団他の歩兵部隊、戦車部隊、航空機部隊を次々と増援します。
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この問題は、生徒に出題するクイズのレベルとしては、高度なかつ重要なジャンルのものです。
これでは、少々説明足らずですし、また誤解も与えますので、詳しい説明をします。 |
その一つとして、37年度から、世界一の46センチの主砲を持った戦艦『大和』・『武蔵』の建造が始められました。(下は、その模型) |
戦艦大和 1936年の軍備拡張計画で建造が決定。1937年12月に起工、1941年12月16日、つまり、日米開戦の直後に完成しまた。排水量69,100トン(完成時)で、口径46センチの巨砲を9門搭載しました。 |
また、このあと、1937(昭和12)年7月からは、日中戦争が始まり、日本の軍事予算は底なしの飛躍的な増加始めます。
一般に、政治に深く介入して日本型ファシズム政治を生んだ陸軍軍人が戦争の原因を作ったと言うことは、よく言われていることです。しかし、無条約時代に突入させ、さらに、将来の予測をも誤って、戦争をする以外に道をなくしてしまった海軍の責任も、また、同様に重大だったのです。
軍拡という自由競争がもたらした結果が、表のような圧倒的な日米の差でした。 |
これを見れば、教科書の引用の「3」のような、どの戦いでちょっと負けたとか言う問題では、あまり本質論ではないことが理解できるでしょう。個々の戦いの勝敗と言うより、圧倒的な生産力の違いが、戦争の帰趨を決定したのです。(下は、アメリカが戦時中に就役させた8隻の戦艦のうちの1隻、戦艦ニュージャージーの模型。1991年まで現役であり続けた。) |
1936年以降の無条約時代に入ってから、日本海軍は数度の海軍拡張計画を策定しました。これに対して、アメリカは、常にそれを上回る「量」を持つ計画を示して対抗しました。 |
この1933(昭和8年)は、満州事変が始まった1931年の翌々年です。 |