満州事変・日中戦争期1
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最終更新日 2011年07月16日 ※印はこの5週間に新規掲載 
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番号 掲載月日   問                     題
901 01/01/28

 満州事変の始まる少し前、「満蒙は日本の生命線」という政治スローガンが流行り、早速これをもじった商品広告も登場しました。「咽喉(のど)は身体の生命線、咳や痰には、□□□」という宣伝文句にあてはまる商品名は何でしょう。

902 01/01/28

 満州事変の発端となった柳条湖事件は、関東軍の板垣征四郎・石原完爾らによる策謀であったことは今では広く知られています。この二人に心服していたある人物は、このあと生まれた自分の子どもに彼らの名前から一文字ずつ漢字をもらって名付けました。現在世界的な指揮者として有名なその名前をもらった人は誰でしょう。

903 01/01/28

 柳条湖事件を調査した国際連盟のリットン調査団は、爆破の直後満鉄の列車が現場を無事通過しているのを注目し、破壊されたにもかかわらずなぜそんなことができたのか、と質問します。これに対して、関東軍の軍人は「運転士が日本人だから□□□ですっ飛ばした」と答えたそうです。さて何といったでしょうか。

906 02/11/22

 1933(昭和8)年、伊豆大島三原山は、自殺の名所となってしましました。この年、1年で合計944人が火口へ投身自殺したのです。
 あまりの多さに地元の警察や島民は予防策を考えました。島民以外で島に渡る人は、観光客などたくさんいますが、「自殺希望者?」を見つけて、「説得」するという方法が考え出されました。
 この当時は、伊豆大島へは、東京または静岡の熱海や伊東から船で渡りました。今と違って飛行場はありません。そこで船会社に協力を求めて、船で伊豆大島へ渡る人の中から、「自殺希望者」を見つけようとしたのです。さて、どのような方法で、チェックしたのでしょうか。

905

01/12/23

 1936年、日本は、ロンドン軍縮会議を脱退して、ワシントン・ロンドン両海軍軍縮条約の制限を受けないことになり、軍備拡大に入ります。その結果どうなったのか。海軍の軍事力という点から答えてください。

908 04/09/12

 1936年2月26日、陸軍の青年将校の一団が、クーデターを敢行しました。世に言う二・二六事件です。しかし、彼らは「反乱軍」の扱いを受け、その目論見は失敗しました。
 ところが、結果的に、この事件を契機として、陸軍は政治に強い影響力を持つようになります。そのため、この政治的事件を、「クーデターとしては失敗したが、○○○○○・クーデターが成功した」と表現します。
 ○○に適する、カタカナは何でしょう。ヒント、サッカーなどのゲームの最中に用いるスポーツ用語でもあります。

907 03/02/08

 1937年12月、日本軍は中華民国政府の首都南京を占領します。この時、非戦闘員が虐殺される事件、南京事件が起きました。現在この犠牲者の数は、高校の教科書には何人ぐらいと表現されているでしょうか。

909 11/07/11

 日中戦争が始まると、初期に占領した内蒙古地区は、それ以後特別な「商品」の供給場所として日本軍の占領政策に大きな役割を果たすようになります。その商品とは何でしょうか? 

904 01/09/09

 1939年夏、当時の満州国とモンゴル共和国の国境ノモンハンで、日本の関東軍とソ連軍との間で熾烈な戦闘が展開されました。ノモンハン事件です。この地域は、乾燥気味の草原地帯で、自然状況も過酷でした。五味川純平著『ノモンハン』には、防○具(面)なしでは過ごせなかったと記されています。さてこの防○具(面)とは何でしょう。


<解説編>

901 「咽喉は身体の生命線、咳や痰には□□□」にあてはまる商品名は何。    | 問題編のTOPへ |

 「咽喉(のど)は身体(からだ)の生命線、咳(せき)や痰(たん)には龍角散」が正解です。
 「浅田飴」・「なんてんのど飴」・「ビックスドロップ」などいろいろ対抗馬があって盛り上がるクイズとなります。
 但し、もとのフレーズの「満蒙は日本の生命線」を生徒にしっかり理解させるには日清戦争以後の長い歴史の中での骨太の説明が必要です。
 ことばそのものは、1931年1月(満州事変が始まるのはこの年9月)の第59議会で、野党政友会の松岡洋右議員が、当時政権にあった浜口雄幸民政党の幣原喜重郎外務大臣による協調外交を批判する演説の中で使っています。 松岡は外交官から1927年に満鉄副社長(田中政友会内閣時)となり、内閣後退で辞職し、この議会の直前の選挙で代議士となり、その後、国際連盟脱退時の日本代表、太平洋戦争直前の外務大臣と要職を歴任します。日本の半英米的対外膨張主義の急先鋒でした。
 ※江口圭一著『昭和の歴史4 十五年戦争の開幕』(1982年小学館) 


902 板垣征四郎・石原完爾の名前に関係する世界的な指揮者は誰か。      | 問題編のTOPへ |

 正解は小沢征爾です。
 1931年満州(現在の中国東北部)の奉天校外の柳条湖で南満州鉄道線路が爆破され、満州に駐留していた関東軍はそれを中国軍の仕業として戦闘を開始し、満州事変が始まりました。
 現在では爆破は関東軍の板垣征四郎大佐(当時)・石原完爾中佐(当時)らが計画したことが明白となっています。
 小沢征爾氏の父親小沢開作氏は、1898年山梨県生まれの歯科医。1928年満州で満州青年同盟を結成し、台頭する中国ナショナリズムに対向して日本の植民地権益を守る運動を開始します。のちには満州協和会のリーダーとして、日本の傀儡政権である満州国を支援しました。
 開作氏は、活動を通じて板垣征四郎・石原完爾氏に知り合い、彼らに心服して、1935年9月1日奉天で生まれた三男に、征四郎・完爾から一文字ずつ取って、「征爾」と名付けました。現在ボストン交響楽団指揮者などとして世界的に活躍している小沢征爾氏そのひとです。
 小沢家の人々は、開作氏の長男克己氏(故人)は彫刻家、次男俊雄氏は元筑波大学言語学教授、四男幹雄氏は俳優・TVレポーターとそれぞれ才能の持ち主です。
 板垣征四郎はその後、陸軍大将・陸軍大臣となり、戦後極東国際軍事裁判(東京裁判)で、日本の侵略戦争を「終始一貫指導した」として東条英機らとともに絞首刑となりました。
 石原も板垣同様の罪がありそうですが、こちらは、東条英機と意見が合わず、途中陸軍主流派からはずれ1941年に退役したため、裁判の被告とはなりませんでした。
 ※『現代日本人物辞典』(朝日新聞社)、児島襄『東京裁判 上・下』(1971年中公新書)
 


903 爆破されたはずの線路をどうやって列車が通過したか。             | 問題編のTOPへ |

 正解は「運転士は日本人だから大和魂ですっ飛ばした」です。
 爆破は9月18日午後10時20分に行われましたが、線路への損害は軽微でした。証言記録では、レールが吹っ飛んだ部分の長さは、10pとも70pとも80pとも1m50pともいわれています。そのあと、10時30数分に上り急行列車がその上を無事通っています。

 リットン調査団は、被害があったのかなかったのか、その被害が満州全域を占領するような理由となるものかどうかを確かめようとしました。その時、実際に爆薬を仕掛けて爆破させ、そのあと当然ながら現場に一番早く「駆けつけた」河本末守中尉は、調査団の質問にそう答えたのです。

 爆破の被害が少なかったのは、爆破グループに工兵(爆破等を専門に扱う兵種)がいなかったため、期待通り破壊できなかったという説と、1928年の張作霖爆殺事件の時にあまりにも「大きな爆破」をしてしまったので、今度は最小限に計画したという説があります。
 何にせよ、リットン調査団は、鉄道の被害は軽微であったので、「其れのみにては軍事行動を正当化するに充分ならず(中略)合法なる自衛の措置と認むること得ず」と結論しました。
 
 「『大和魂』なら何でもできる」という発想は、この時の関東軍のみならず、これ以後敗戦までの日本の政治・社会思想の「主流」となりました。さらに、戦後も、長く生き残りました。そういえば、私たちが高校生の時は、「部活の最中は水を飲むな」といわれました。合理的な視点に立とうともしない日本的な根性論は、多分に「大和魂」的非合理性が生き残ったものでしょう。生徒に「日本の精神文化」考えさせるきっかけのひとつです。
 ※秦郁彦著『昭和史の謎を追う 上』(1993年文芸春秋)
 ※江口圭一著『昭和の歴史4 十五年戦争の開幕』(1982年小学館)


904 ノモンハン事件で必要だった「防○具」とは何か。               | 問題編のTOPへ |

 ノモンハン事件は、日本の陸軍が犯した愚かな過ちとして有名であり、戦前の日本陸軍・官僚機構の欠点、ひいては日本人の考え方の欠点を如実に示した戦いとして有名です。教科書では、本の一行ですが、このあとの太平洋戦争の「愚かな失敗」につなげる話として、是非生徒に語っておきたいものです。
 これを題材にしたクイズは、軍事関係のものはいくらでもできますが、ここでは、事件の本質からは離れた、自然環境に関するクイズです。
 この事件を扱った本は、現在では多数出版されていますが、最初にその問題点を鋭く指摘した書物は、五味川純平氏のものでしょう。クイズの応えそのものは次のように書かれています。
 ※五味川純平著『ノモンハン』
        (文藝春秋社1975年)P16

  • 越境紛争の因となったのはハルハ河は、興安嶺に水源を発してボイル湖に注いでいる。ノモンハン付近では河幅は約50メートル、水深2メートル内外、流速約1メートル。両岸は一帯の草原である。(中略)
     気温は、7・8月は昼間は30度以上40度にも及ぶ炎熱、夜間は10数度以下に下がって冷気が身にしみ、眠りを妨げる。その上、
    虻・蚊・ブヨの大軍が襲ってくる。夕方になると、幕舎外では、粉のようなブヨや蚊が人馬に群がって、防蚊具なしには息もつけぬほどであった。

 さて、ノモンハン事件の説明です。
 この事件には伏線があります。事件の前年の1938年に、朝鮮とソ連との国境で起こった張鼓峰事件がそれです。ソ連軍と朝鮮駐留の日本陸軍との国境をめぐる紛争で、警備の第19師団が敗北を喫していました。

 このため、新しく関東軍参謀に就任した辻正信少佐は(戦後国会議員となる)、国境紛争で朝鮮軍の二の舞はしないという強硬な姿勢を取り、1939年4月、関東軍の「満ソ国境紛争処理要綱」を提案し、東京の参謀本部に認めさせます。それには、国境紛争に際しては、ソ連軍・モンゴル軍(当時は外蒙古軍と表現)を徹底的に「膺懲」(ようちょう、難しい字です。懲らしめるという意味です。)し、「慴伏」(しょうふく、恐れてひれ伏させる)させるという、強硬方針が掲げられました。

 国と国との争いを解決する方針とは思えません。まるで、いたずらする子どもを親がしかりつけるような表現です。傲慢な日本陸軍の発想は、これが普通でしたし、その中でも、辻正信参謀は、とりわけ猪突猛進型の軍人でした。

 39年5月11日、不幸にも、外蒙古と満州国の国境のノモンハン付近で、満州国軍と外蒙古軍の武力衝突が起きました。満州国は、日本の傀儡政権ですから、満州国軍は関東軍の指揮下にあります。また、外蒙古とソ連は、1924年以来、相互援助条約を結んでおり、軍事的には、ソ連が全面的に援助していました。それ故にここの国境での紛争が、日本とソ連の紛争となったのです。

 国境から200q東のハイラルに駐屯していた第23師団(師団長小松原中将)は、「処理要綱」に基づき部隊を出撃させたが、ソ連軍の反撃をうけて、撤退します。この時、陸軍航空隊が、国境線を越えて外蒙古側を爆撃していたことが、ソ連のスターリンを痛く刺激しました。

  • 「明日のヨーロッパの大問題に対処するためにも、今日の紛争を好機として、許される限りの全力を挙げて、日本軍を思いっきり叩きつける、そして好戦的な関東軍の自信を挫いておくことをスターリンは最緊要なことと考えた。後顧の憂いなくヨーロッパ問題に鼻をつっこむためにも、やっておかなければならない出血であろうと覚悟を決めたのである。」
     ※半藤一利著『ノモンハンの夏』(文芸春秋社1998年)P117 

 関東軍もまた、辻参謀や上司の作戦参謀服部卓四郎中佐の強硬意見に基づき、第23師団に第7師団他の歩兵部隊、戦車部隊、航空機部隊を次々と増援します。
 7月から両軍の本格的な戦闘が開始されました。歩兵の人員は、日本軍約5万、ソ連軍約4万と、関東軍が有利でしたが、その他のいわゆる近代戦に不可欠の「武器」が、関東軍は全く劣勢でした。

 

関東軍

ソ連軍

重砲(口径10p以上)

82門

330門

戦車

70両

900両

飛行機

300機

800機



 右の表の重砲・戦車・飛行機は、関東軍としては、精一杯そろえたもので、日本陸軍としては、当時の中国戦線の部隊に比べれば、圧倒的な火器の量でした。

 ところが、日本軍戦車隊は、もともと、相手の歩兵を攻撃することを主目的とした軽武装軽装甲(大砲が小さく、鉄板も薄い)の戦車であるため、ソ連軍戦車の敵ではありませんでした。日本軍戦車隊は、数日で半数以上を失いあえなく退却しました。
 また、重砲はその数に加えて、1門あたりの砲弾量が比較にならないほど少なく、「1発打つと100発打ちかえされる」という惨めな状況でした。

 それでも日本兵は、サイダー瓶にガソリンを詰めて火をつけて戦車めがけて投げつけるという原始的な火炎瓶戦法で、勇敢にもソ連戦車に立ち向かい、かなりの打撃を与えました。

 しかし、8月20日以降のソ連軍の総攻撃で、各部隊は壊滅状態となり、9月1日、ヒトラーのポーランド進撃によって第二次世界大戦が始まると大事件も起こって、日本の敗北のまま、停戦協定が結ばれました。国境線は、もちろんソ連が主張するラインとなりました。

 日本軍の損害(戦死及び重傷)は深刻で、主力の第23師団は、出動人員15140人のうち、10464人が戦死傷となり、損耗率は70.3%となりました。
 この戦闘は、手前かっての予想のもとに、敵の火力・近代兵器の量を低く見くびって、惨敗を喫したものです。日本特有の精神主義、「百発百中の大砲1門は、百発1中の大砲百門に匹敵する」というのは、全くのまやかしでした。こんなことは小学生にも分かりそうです。数学的には、100/100×1=1/100×100です。しかし、現実の戦場では、全大砲が同時に打てば、次の瞬間は、0:99になってしまうのですから。
 この敗戦の教訓が十分生かされていれば、のちのアメリカ軍との戦闘も、少しは変わったものになったでしょう。大和魂では戦争は勝てないのです。

 ところが、この戦闘の実質的な責任者、服部卓四郎中佐と辻正信少佐は、いったん転任したのち、東京の参謀本部の要職に復帰し、太平洋戦争の作戦指導に当たるのです。あの、ガダルカナルの戦いの際、参謀として陸軍を指揮したのは、辻正信です。

  • これは、乱脈経営で支店に倒産寸前の大損害を与えた営業部長と営業課長が、やがて本社の営業部長・営業課長へ栄転して、前にもまさる大乱脈経営をやって、今度は会社を丸ごと倒産に導いたようなものである。」
      ※江口圭一著『大系日本の歴史14 二つの世界大戦』(小学館1989年)P274

目から鱗「昭和時代前半の日本は何だったのか」へ


905 軍縮条約時代が終わったあとはどうなったか  01/12/23記述 12/03/25訂正   | 問題編のTOPへ |

 この問題は、生徒に出題するクイズのレベルとしては、高度なかつ重要なジャンルのものです。
 
 まず、予備知識のおさらいです。
 第一次世界大戦の甚大な戦禍に反省して、戦後先進各国は、2度と戦争が起きないような国際協調路線を模索しました。その成果が、戦艦や航空母艦の保有量や建造禁止を定めたワシントン海軍軍縮条約と、大型巡洋艦以下の補助艦の保有量や建造禁止を定めたロンドン軍縮条約の成立です。
 この結果、列国海軍は、1920年代から30年代の前半にかけて、いわゆる「軍縮条約時代」を過ごし、条約の規定を守りました。

 ところが、1931年の満州事変の勃発・満州国傀儡政権の樹立以来、英米との協調路線との決別を進めていた日本は、1935年12月ワシントン条約の廃棄を宣言し、また、軍縮条約の延長を進めていたロンドン会議からも脱退しました。これによって、1936年末をもって、ワシントン・ロンドン両条約とも無効となり、どのような海軍の軍備拡張を実施してもかまわない状態となりました。いわゆる「無条約時代」の到来です。

 質問の趣旨は、軍事拡張の自由競争を復活させた日本のこの「無条約時代」の選択は、どのような結果をもたらしたのかというのを問う、素朴なかつ重要なものです。

 ちなみに、これに関連する教科書の記述を見てみると、次のようになっています。
  ※石井進他著『諸説日本史』(1999年山川出版)より

  1. 「1936(昭和11)年には、ロンドン軍縮会議を脱退してワシントン・ロンドン両海軍条約が失効した。」P318(注 2・26事件の前の岡田啓介内閣の時)

  2. 「国内的には大規模な軍備拡張計画が推進されていった。」P322(注 2・26事件後の広田弘毅内閣の時)

  3. 「しかし、1942(昭和17)年6月のミッドウェー海戦の大敗北を転機として、戦局は次第に不利に転じ、この年の後半からはアメリカの本格的反攻が開始された。」P331

 これでは、少々説明足らずですし、また誤解も与えますので、詳しい説明をします。

 
日本海軍は、今後10年間の軍備拡張の目標として、アメリカとの戦力比較で、対米7割〜8割を達成するという計画を作ります。これは、ワシントン・ロンドン両条約で、戦艦・大型巡洋艦を対米6割とされてしまった「屈辱」を、本来の理想に近づけ、対米戦争に勝利するための計画でした。その結果、1936年の広田内閣の大軍備拡張予算が作られ、


 その一つとして、37年度から、世界一の46センチの主砲を持った戦艦『大和』・『武蔵』の建造が始められました。(下は、その模型)


 戦艦大和 1936年の軍備拡張計画で建造が決定。1937年12月に起工、1941年12月16日、つまり、日米開戦の直後に完成しまた。排水量69,100トン(完成時)で、口径46センチの巨砲を9門搭載しました。
 アメリカ海軍は戦艦を太平洋と大西洋の両方で運用せざるを得ませんが、両洋を結ぶパナマ運河の制限から軍艦の最大幅に限界がありました。このため、日本海軍は、アメリカ戦艦が積載できる主砲の大きさの上限を上回る46センチ砲を搭載する巨砲を建造したのです。したがって、大和は、もし軍拡競争となった場合、量ではアメリカに勝ちそうにないと考えた日本海軍の苦肉の一点豪華主義の作品でした。
 同型艦の建造は4隻計画されましたが、実際には、2番艦武蔵が半年後完成したのみで、あとの2隻は起工後建造中止となりました。(3番艦は信濃は、途中で航空母艦に変更され完成。)アメリカは、下表のように、開戦後も8隻の戦艦を就役させており、「量では負ける」という予想は現実のものとなっています。
 
 もちろんそれ以上に悲劇的であったのは、第二次世界大戦では、航空機からの攻撃の進歩によって、戦艦の役割が極端に低下してしまったことです。
 大和も武蔵も、敵戦艦とは相まみえることなく、アメリカ軍空母の航空機によって沈没しました。


 また、このあと、1937(昭和12)年7月からは、日中戦争が始まり、日本の軍事予算は底なしの飛躍的な増加始めます。

 しかし、もともと、財政力はおそらくアメリカの10分の1程度、さらには、技術的には、4万トン以上の巨艦が建造できる能力のある造船所がたった4カ所(横須賀海軍工廠、呉海軍工廠、三菱長崎造船所、川崎神戸造船所)しかない日本と違って、桁外れの生産力を誇るアメリカの海軍拡張は、日本の予想する程度の計画にとどまりませんでした。

 
この点で、軍縮条約脱退、対米8割達成というできもしない夢を抱いた対米強硬路派の加藤寛治・末次信正らの軍人は、全く無能で愚かな存在でした。また、それをとどめることをできなかった、政治家やマスコミの在り方も、日本を亡国へ導いた原因でした。
 
 日本の手前勝手な予想に反して、アメリカも、その国力と工業力をフルに使った桁外れな海軍の大拡充計画を発表します。アメリカが本気になったのです。
 この結果、海軍は窮地に陥ります。
 そこで海軍が何を考えどのような行動を取ったか。御田俊一『帝国海軍は何故敗れたか』からの引用です。

「このまま無為に推移すれば、海軍兵力は全く対米劣勢に陥り、これまでのように各国、特にアメリカの意向を軽視した中国政策を採ることはもちろん不可能になるが、国内的にも海軍は、苦境に立つことは目に見えている。
 陸軍は、もはや絶望的な海軍の対米比率恢復を目標とする、軍備の増強も認めようとしないだろう。日露戦闘当時の如くに、日本海軍は日本と大陸とを結ぶ海上の動脈を、ソ連海軍と中国海軍に対して守れば十分と主張するに至ろう。どうせ、かなわぬアメリカ相手の軍備は不必要だ。これからは対ソ戦準備中心に行くべきだと強く主張するであろう。その時、海軍は反乱する有力な根拠をすでに失っているのである。
 座して自らの没落を、みすみす待つより、この際、ひと思いに陸軍も国民も巻き込んで一戦するにしかず、と、海軍はそう考えた、と思われる。
 3年後には、海軍へ威力の対米比率は3割以下に下がるからである。その時にはアメリカ海軍の威力の前に、従来の侵略的な対中国政策は中止となり、主として海軍力に依存していた日本の国威の大幅な低下はまぬがれず、しかも、その責任のほとんどは海軍に帰せられ、海軍の地位は、はっきり陸軍の下位になることは免れないのである。
 しからば戦争したらどうか、現在における彼我の海軍力の比率と配備の状況から言えば、南方は3ヶ月程度で攻略は可能である。その後のことはわからないが、南方を取ればあとは何とかなるかもしれない。ドイツが勝てば、日本が勝てないものでもない。このように海軍の強硬論者は、考えたと思われるのである。」

御田俊一『帝国海軍は何故敗れたか』(芙蓉軍事記録リバイバル【新装版】2000年 芙蓉書房) P38


 一般に、政治に深く介入して日本型ファシズム政治を生んだ陸軍軍人が戦争の原因を作ったと言うことは、よく言われていることです。しかし、無条約時代に突入させ、さらに、将来の予測をも誤って、戦争をする以外に道をなくしてしまった海軍の責任も、また、同様に重大だったのです。

 そして、海軍の拡張の現実の結果は、予想通りになりました。

 最も重要な艦種である、戦艦と航空母艦(空母)の日米の建造隻数を比較すると次のような数字になります。


日本

アメリカ

艦種

戦艦

正規空母

小型・改造空母

戦艦

正規空母

小型・改造空母

開戦時保有数

10

17

開戦後完成数

11

17

123

合計

12

11

14

26

24

124

 軍拡という自由競争がもたらした結果が、表のような圧倒的な日米の差でした。


 これを見れば、教科書の引用の「3」のような、どの戦いでちょっと負けたとか言う問題では、あまり本質論ではないことが理解できるでしょう。個々の戦いの勝敗と言うより、圧倒的な生産力の違いが、戦争の帰趨を決定したのです。(下は、アメリカが戦時中に就役させた8隻の戦艦のうちの1隻、戦艦ニュージャージーの模型。1991年まで現役であり続けた。)

 1936年以降の無条約時代に入ってから、日本海軍は数度の海軍拡張計画を策定しました。これに対して、アメリカは、常にそれを上回る「量」を持つ計画を示して対抗しました。
 戦艦ニュージャージーは、1940年度に計画されたアイオワ型戦艦6隻のうちの2番艦で、1943年3月に完成しました。3番艦は、日本の降伏時に降伏文書の調印の部隊となったミズーリです。(5番艦・6番艦は建造中止となり、4隻が就航。)
 全長は270bと大和型を上回る世界最長ながら、基準排水量は45,000トンで、大和の説明の欄に記述したようにパナマ運河の制限から、主砲は40センチ砲9門の搭載でした。
 すでに、空母部隊と艦載機が戦いの主役となっていたため、日本海軍が「戦艦による艦隊決戦」に固執したのとは対照的に、その高速性を利した空母部隊の護衛、艦砲射撃による上陸部隊の援護等に活躍しました。
 アイオワ型4隻は戦後も朝鮮戦争において支援射撃に活躍しましたが、その後引退し、モスボール(復帰できるように保存しておく状態)にされていました。ニュージャージは、1968年に改装されてベトナム戦争に投入され、さらに1980年代に入るとレーガン政権の「強いアメリカ」政策の軍備拡張により、4隻ともトマホ−ク巡航ミサイル搭載艦に生まれ変わり、電子装備の一新やハープン対艦ミサイルの搭載などが併せて行われました。その結果、1991年の湾岸戦争にも参加し、その後完全に引退しました。
 現在、ハワイ・オアフ島の真珠湾には、撃沈されたアリゾナの記念館のそばに引退した戦艦ミズーリの博物館があります。


 日本がアメリカと戦うと言うことは、これぐらい非現実的なことでした。
 ※兵頭二十八著『パールハーバーの真実』(2001年PHP研究所)
 ※森本忠夫著『魔性の歴史−マクロ経営学から見た太平洋戦争』(1985年文芸春秋社)

 ※泉 江三『軍艦メカニズム図鑑 日本の戦艦 上下』(2001年グランプリ社)
 

  目から鱗「昭和時代前半の日本は何だったのか」へ
  現物教材「太平洋戦争期の軍艦モデルセット」参照
  日本史クイズ「日本は何故軍縮条約を結んだか」


906 自殺希望者のチェックの方法は?                            | 問題編のTOPへ |

 この1933(昭和8年)は、満州事変が始まった1931年の翌々年です。
 1930年に始まった昭和恐慌の最悪の状態からは抜け出しましたが、戦争は始まる、不景気は続くという、世相は暗い時代でした。

 前年の1932年5月には、神奈川県の大磯の坂田山で慶応大学生と静岡県の資産家の娘が、親に結婚を反対されたという理由から心中する事件が起きました。
 これだけでは「大事件」ではなかったのですが、二人が仮埋葬された翌朝、娘の死体が服をはぎ取られて何者かに盗まれるというショッキングな事件が発生し、世間の注目を集めました。
 現代なら、TVのワイドショーの格好のネタです。
 
 犯人は、すぐに捕まりましたが、さらにまた新たな話題が提供されました。
 娘の検視があらためて行われた結果、彼女が処女であることが明らかにされたのです。たちまちこのストーリーが映画となりました。題名を「天国に結ぶ恋」といいます。
 その主題歌は、高名な西条八十が作詞し、
  「二人の恋は清かった 神様だけが御存知よ  死んで楽しい天国で あなたの妻になりますわ」と歌われて、映画とともに大ヒットしました。

 この結果、この坂田山で心中をするというのが流行となり、1932年後半の半年だけで、ここで20組の心中がありました。
 このブーム??が、今度は伊豆大島三原山に飛び火します。
 1933年2月専門学校の女生徒2名が三原山で心中を図りました。一人は助かったのですが、これがまた、この地での飛び込み自殺ブームを引き起こすきっかけとなったのです。
 最初は、汽船会社と火口の茶店も、物見遊山に増えた観光客にほくそ笑んでいました。
 悪のりした読売新聞社(この新聞社は昔からこうみたいです)は、5月29日に、火口上からクレーンでゴンドラをつるし、火口に250メートルもおろして写真を撮るという、勇敢な?報道を行いました。
 この間にも、自殺志願者はどんどん増え、1日に何人もがぽんぽんと飛び込むという状態になってしまいました。
 おかげで大島警察はてんてこ舞いとなります。 
 この結果、少しでもその数を減らそうと、汽船会社に協力を依頼しての、水際作戦となったわけです。
 その自殺志願者をチェックする方法とは・・・・。

 正解は、乗船地から伊豆大島まで、片道キップしか買わない客を「自殺志願者」としてマークするというものでした。確かに自殺志願者は、往復キップは買いませんね。

 それでも、この方法はあまり有効ではなく、最初に示したように、1933年のこの年1年で、三原山で男804人・女140人、合計944人もが自殺に成功?しました。
 ※大内 力著『日本の歴史24ファシズムへの道』(中公文庫1974年)P463 

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