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 16 卒業V 総合学科第3期の卒業生へ   02/02/24       

 岐阜総合学園高校は.平成9年4月に開校した総合学科の学校で.私の前任校である。
 この3月1日には.総合学科の第3期の卒業生を送り出す。
 
 彼らが入学してきた平成11年4月.私は.進路指導部長に就任したばかりだった。
 平成9年入学の1期生の1年次・2年次の学年主任として.毎日が手探り・試行錯誤の指導を行い.3年になった彼らを後継者の学年主任に任せ.総合学科生徒の3年間の進路指導等のグランドデザインを作るべく.そのポストを任された。
 ※総合学科の進路指導については.教育について考える「進路指導の考え方は」?
 3期生が入学してきた時.入学式の直後に.まず.保護者の皆さんにお話しができる機会があった。その時には.この学校の特色として.次の点を説明した。

  1. 総合学科は.自分の進路やその基本となる世界観や人生観などいろいろな要素について.普通科や専門学科より以上に考えさせることを目的としている学校.つまり.積極的に自分探しをする学校である。
  2. そのために.「アイデンティティの確立」・「ライフプランの作成」のふたつを.常に意識した指導を行う。
  3. 進路選択の幅を広げるため.岐阜県で最高の150以上にも及ぶ選択科目を開講しているが.それと同時に選択に伴う「選択者の責任」という考えも大事にしつつ指導している。

 そして.新入学の生徒諸君には.オリエンテーションや1年次に配置されている総合学科独特の「産業社会と人間」という科目を通して.「アイデンティティとライフプラン」を.まるで企業の商品のキャッチフレーズのように.語り続けた。
 それは.その時3年次生になっていた総合学科の1期生の先輩たちを見て得た結論に裏付けられていた。
 つまり.なまじ.ちょっとした知識があるなんてことより.自分たちが悩んで真剣に進路を考えたという事実と何より「自分たちはそうしたことを経てきた立派な人間なんだ」という自分への信仰の方が.経験と自信とから.はるかに優れた魅力ある人間をつくるということがわかっていたからだ。
 実際.就職や進学の指導の際に実施した面接では.うちわの私たちから見ても素晴らしかったが.保護者や外部の方からみても.高い評価を得ていた。自信とそれから生まれるすがすがしさや誠実さ.それらはなによりも.高校生として重要な魅力に感じられた。
 現実には.これはありえないのだが.もし.第3期生の卒業式に呼ばれて.お祝いの言葉をしゃべることができたら.次の祝辞をおくりたい。

「卒業生の諸君.おめでとうございます。1年生の時に.「アイデンティティとライフプラン」を呪文のように唱え続けていた元進路指導部長です。君たちが2年になった時.この学校を離れてしまいましたから.僕自身があなた方に接することができたのはほんの僅かでした。
 しかし.昨年の秋.久しぶりにこの学校に来た時.何人かの生徒諸君が.私を指さしながら.「あ.あの人.アイデンティティの先生」といってくれた時は.本当にうれしい思いでした。
 最初のオリエンテーションの時.日清の焼きそば「UFO」をもってあなた方の前に現れ.「アイデンティティ」という言葉を使ってから.もう3年が過ぎました。
 この3年間のあなたがたの自分探しの旅は.今どこへ行こうとしているのでしょうか。

 アイデンティティを確立する.自分の世界を作るということにおいて.一番大事なことは.いろいろな価値観がわかると言うことです。
 あなた方が2年次生になった4月に.私は離任式で次のように質問しました。「江戸幕府の第8代将軍徳川吉宗は.いい将軍か.悪い将軍か」と。
 これの答えは.「いい悪いを計る場合は.必ずスケール(物差し.価値尺度)が必要で.どの物差しを使うかによって.人間のいい悪いなどは答えが違ってくる」.というものでした。人を小馬鹿にした質問でしたが.このことが実は大事なことだと思います。

 簡単なことを言えば.それぞれの立場に立って物を見ることができるような.複眼的な視野を作ることが.アイデンティティの確立の大事な要素です。
 ひとつの偏狭な価値観.イデオロギー.世界観からは.多くの場合.排他的な論理と不毛な対立しか生まれません。それは.イスラム原理主義者によるテロリズムを引き合いに出すまでもなく.ひとつの価値観しか持たなければ.人々の集団の中で.ちょっと違った姿形の人を.いじめる・差別するということにも繋がるということなど.これは社会の軋轢の根元といえるでしょう。
 ライフプランを考える上で大事なことは.その時々の時間の使い方です。 授業の際.ノートの書き方について.皆さんにいつもいったことがあります。「あとで自分が見てわかるノートを作りなさい。」
 記憶する方法について.皆さんにいったことがあります.「記憶するのも自分.あとで試験の時に思い出すのも自分。あとで自分が苦労しないようにしなさい。未来の自分に優しく生きなさい。」

 時間はすべての人間に平等に与えられています。これを.今その時のためにだけ消費するか.将来の自分に役立つように使うか.それはあなた方次第です。あとのほうは.むずかいしことばで.投資するといいましょう。つまり.時間を.今のためだけに消費するか.将来の自分のために投資するかは.すべてその人の自由です。
 その場その場の楽しみを求めるあまり.時間を消費しすぎると.自分の将来に何も残せなくなります。反対に.勉強でも運動の練習でも.将来への投資ばかりでは.日々の生活は.ストレスが多いものになるでしょう。
 消費と投資のバランスをうまくとることが.どんなデザインを描くにしろ.ライフプラン作成の時に忘れることができない視点です。
 最後にもう一つ。
 みなさんは.この学校の中では.科目の選択を自由に行って.いろいろな夢につなげてきました。今いろいろな資格を取ることができたのも.大学や就職試験に合格したのも.そのおかげです。
 自由に選択したら.その結果には.自分が責任を持ってください。自由と責任こそが.社会を支える基本的な原理であることを理解してください。

 皆さんの未来航路が.できたら.疾風怒濤・波瀾万丈の中で.満足と成功の港へ繋がっていくことを願ってやみません。」

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 17 女.妻.母V 次男Y卒業式   02/03/10      

 次男Yは.昭和61年4月9日生まれ.この春.無事中学校を卒業する運びとなり.3月9日が卒業式だった。

 自分は.この6年間ほど仕事が忙しくて.子どもたちの面倒を見る時間が減っており.ここという時は.彼らの姿をしっかり見るということに心がけて来た。この卒業式は運良く仕事が休みの土曜日に実施されることになり.我が家は.夫婦そろっての出席となった。
 私は.基本的に.入学式・卒業式・結婚式.そして誤解していただくとまずいが.葬式さえも.参加することは好きである。特別な日に.特別な儀式とスピーチがあって.それを特別な気持ちのものが聞けば.それは.その人にとって特別な心の糧となるからである。
 さて.どこの家庭でも同じだろうか?
 妻の「晴れ」のお出かけはときたら.前の日から大騒動である。美容院に行って.何か加工をしてきたらしく.夜遅く帰って.寝ている彼女を見たら.頭に得体の知れないかぶり物をしていた。
 朝は.当然のことながら.着物着付け師さんが来て.7時過ぎから大騒ぎである。
 
 「準備完了」の声が聞こえたのは8時過ぎ。
 見ると.春らしい


晴れの日の写真。え.写真が小さいって。そりゃまあ.あなた.こういうのは.アップは耐えられません。

ピンクの着物に.いつもは見られないなかなかの厚化粧と赤いルージュ。「やあ.なかなかの美人ですね。思わずチュッとしたくなるような。」「馬鹿なこといわない。高いルージュが剥げ落ちるから.ダメダメ。」

 卒業式会場に行くと.私たちのように夫婦で参加という保護者がかなりあって.保護者席は満員です。
 午前9時半から始まった式典は.卒業証書授与.学校長式辞.副校長挨拶.来賓挨拶.在校生代表送辞.卒業生代表答辞と.滞りなくすすみ.午前11時には終了しました。

 副校長が生徒にも保護者にも分かるように.前向きに積極的に生きるとはどういうことかを説明してくれたくだりが印象的でした。
「ひとつは.問題を解決しようと物事を進めることです。困難を恨み.マイナス要因に文句を言っていても.ことは進みません。いい条件で誰にでも簡単にできることなどこの世の中にいくつあるでしょう。困難な中でどう解決するかが.その人の人生を決めます。

 二つ目は.人のいいところを褒めることです。自分の周りの人の欠点を誹謗し.悪口をいいあうことは.その場しのぎの発散ではあっても.物事の前進には繋がりません。他人のいいところを褒めてください。そうすれば.あなたに.よしんばいいところが少なくても.相手は必ず見つけて褒めてくれます。

 三つ目は.自分のいいところに感謝することです。自分の欠点を恨んでも悩んでも.あまり.いい明日はありません。自分のいいところを作った.自分自身や両親や子どもやあなたの周りの人に.感謝する気持ちを持ってください。」

 卒業式そのものは終わったが.次男Yの中学校の卒業式は.そう珍しいわけではないが.式典のあとの生徒全員の大合唱がいつもながらの見物である。この時の会場全体を包み込む感動が.いかにも卒業式らしくていいのである。

 期待通り.合唱は.素晴らしいものだった。
 みんなで過ごしてきた中学生活とこれからの思いが.6っつの歌にこめられている。それをこれから歌うというだけで.ステージ上に並んだ女生徒の中には.初めから.ハンカチで顔を覆っている子もいる。
 まず.「時の旅人」「トゥモロウ」の合唱なのだが.この2曲には.8人の養護学級の生徒も参加している。養護学級の生徒の歌声は.微妙にメロディーラインをはずれがちながらも.その一生懸命さが.会場の在校生・保護者の胸を打つ。残り4クラスの生徒が.懸命にバックコーラスとなって.彼らを支え.何とも言えぬ.感動が会場を包むのである。
「涙の数だけ強くなれるよ アスファルトに咲く 花のように  見る物すべてにおびえないで 明日は来るよ きみのために」
 保護者は.みな.涙.涙である。
 このあと.「そのままのきみで」「旅立ちの日に」「友よ北の空へ」と続き.「大地賛賞」で感動の幕引きとなる。旅立ちの期待と不安とを抱いた.15歳の少年少女の初々しい心に触れて.大合唱は終わった。卒業生退場は.出ていく生徒.見送る先生.保護者とも.また.拍手と涙であった。

「いい話だった。」
「いい歌だったね。」
「3年間.電車・バスで遠くまでよく通ったものだ。」
「これで入試に受かればね。」
「高校生になれば.またひとつ弁当を作る手間が増えるけど.母としては.自分の手からまた一人出ていくようで.さびしいだろう。」
「もう一人いる。」
 「とはいっても.D(三男)も春から中学だ。もうそう子ども扱いはできないし・・・。あんまりやかましく言ってると.『うるさい.ばばあ』とか言われるぞ。だんだんと子離れをしなければ。」
「よくいう.家にほとんどいないくせに。世の中そう簡単ではないのだ。」
 うん.そうだ.そう簡単ではないのだ。だから.誰しも思い悩んで生きていく・・・・。

 こういう時は.アメリカ映画なら.夫婦のかたい抱擁というシーンだ。
 妻の顔を見つめた。
 なれない厚化粧と赤いルージュに.大量の涙が流れて.・・・・・。
 映画のようには.うまくはいかない。

 次男Y.この日.きみのお腹から生まれて.15年と334日目。  

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 18 なぜ教師になったか  02/05/18                 

 4月は.学校にとっては.1年の始まりの.すべてが初々しい時期である。
 4月22日の『中日新聞』に.愛知県内の二人の新人教師の話が掲載された。

 愛知県立武豊高校のAさんは.小学校3年生の時にバレーボールを始め.その先生の影響で.「いつしかこんな先生になりたい」と思うようになった。その先生は.「児童のためにいつも一生懸命だった。体調が優れなくても練習を欠かさず.休日には児童を自宅に招き昼食をごちそうした」という熱意のある先生だった。
 自分は「夢中になれるものを見つけるお手伝いをしたい」と思って.高校の先生になったという。
 私立安城学園高校のB先生は.高校生の時.「高校生フェスティバル」に深く関わり.その時に出会った.「生徒にとことん付き合う教師の姿」に惹かれ.「こんな人になりたい」と思うようになった。
 
 この二つの例は.「自分が教師になった理由」.または.「どんな教師がいい教師か」という質問の答えとして.よく聞くパターンであり.それ自体感動的である。
 そういうタイプの熱血教師がいて.人に多くの感動を与えて.そして教育は支えられてきた。

 では.自分は.「なぜ教師になったのか」という問いには.何と答えるのか。
 私には.とくに目標とする教師.影響を強く受けた先生はいない。部活動やその他で.とくに特別な思いをしたことはない。
 それでも.教師になった。
 理由は簡単である。「教えるのが好きだから。教えられた相手が.自分が教えたことによって成長していくのを見ているのが好きだから。」
 たったこれだけである。

 そういう点では.当たり前だが.私はごく普通の先生方がそうであるように.記事にも絵にも何にもならない.ごくごく普通の教師である。部活動を指導するだけの技量もない.生徒ととことん付き合うだけの度量もない。ただ.普通の勤務時間内に.教科書に書いてあることを.ごく普通に「教えることが好き」だから.教師になった。
 このごく普通さを大事にしていたいと思っている。
 部活動にしろ他のことにしろ.特別な指導ができる先生方の努力と苦労は.十分理解しているつもりであるし.またその存在なくては.教育は平板なものになってしまうと理解している。
 しかし.数の上では.ごく普通に教えている先生が大半であり.その先生方が.どれだけの感動を生産できるかに.教育の日常的活動の成果がかかっていると思っている。
 だから.ごく普通の形で「教えられた相手が.自分が教えたことによって成長していく」ということや.それによって自分自身が喜びを得ることができることについては.その手法・プロセスにこだわりと情熱を持っていたい。
 自分の夢は.「あの先生にあの授業をならったからよかった。」「あの先生のあの授業に感動して自分も先生になった。」といわれることである。
 ごく普通の活動だけでは.難しいだろうか。

 長男Kが高校1年生の時.学校のコース・科目選択のために.どこの家庭でもあるように.将来の進路について話し合う機会があった。
 父の生活が影響したか.我が家の息子たち3人は.社会科の科目は大好きである。長男の場合は.数学とか理科とかほかにも好きな科目があり.どんな将来を描いているか.父としては.彼が希望する具体的な職業までは.それまで知らないでいた。

父「文化系か理科系か.どちらかを選択するのだけれど.本質的には.自分が将来どんな職業に就きたいかという問題だ。何になりたいか.漠然とでもいいから.決めているか?」
K「文化系コースを選択する。」
父「何になるつもりか」
K「中学校の社会科の先生になろうと思っている」

 息子が.自分と同じ職業を選択しようとしているという意志を.この時.初めて聞いた。
 正直.一瞬の戸惑いの中で.それでも.嬉しいと思った。
 創業企業家や.個人病院経営者と違って.私たちの職業は.「どうしても子どもに継がせたい」と思うものではない。
 それでも.息子に「同じ職業を選ぶ」と言われれば.自分の人生を肯定されたようで.嬉しいものである。

 息子は.なぜ.教師になりたいと思っているのだろう。どんな教師になろうとしているのだろう。
 彼には.だれかある先生にとくに世話になったという特別な経験はないと思う。
 また.今はまだ.志望する明確な理由はないというのが本音だろう。
 
 「どうしてだ」
 と性急に聞くこともあるまい。
 父の努力を見ながら.自分の世界を広げていけばいい。 

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 19 趣味はサッカー1 いよいよWC  02/05/25          
 

 

趣味はサッカー。Gノースのユニフォーム姿。
 といっても.若い頃ちゃんと練習したわけではない。「部活歴」は.高校の時の僅か3ヶ月だけ。

 しかし.日本リーグの時代からサッカーは大好きだった。TVの「三菱ダイヤモンドサッカー」を見ていた.といえばその道の人にはわかってもらえるだろうか。

 高校教師になってからは.好きなサッカーを程々にやるいい方法を見つけた。生徒の体育の授業に混じって.汗を流すのである。
 授業のレベルだから.いくら高校生相手でも.ちょっと心得のある自分の方がうまい。得点もとれる。ヒ−ローになれる。楽しむには実にいい方法だった。

 12年在籍したG高校では.うまい具合に時間割係をやっていたので.年度当初.自分のクラスの体育の時間は.自分の授業がないという時間割を組んで.せっせと体育の授業に出席した。
 思えばとんでもない教師だった。
 
 次男Yが小学3年生の時にMサッカー少年団に入団した。そのパパさんチームに入ったことが.今の活動につながった。
 背番号17は.何とチームの年齢の高い順から17番目ということ。最高年齢の方は.戦前生まれの方もおいでです。私ぐらいの年では.まだまだ.駆け出しである。

 下は.岐阜地区サッカー協会の選手登録証。試合の前には.ちゃんと本人の確認をするのだ。

 私は.会社人間の典型タイプのように.「無趣味」な人間だ。以前は.半分冗談で半分本音で.「趣味は授業」と答えていた。

 とはいっても.高邁な趣味ではないが.一つだけ趣味といえるものがある。それがスポーツ.とりわけサッカーなのだ。
 
 人生のその時々に他のスポーツ.例えば.バレーボールとか.ソフトボールとかにも熱を上げてきたが.小学生の頃からずっと変わらず好きなのは.サッカーである。
 
 どのくらい好きなのかというレベルは理解してもらうのは難しいが.サッカーなら.一般受けしない.たとえば.デンマークvsカメルーン戦でも面白がって見るし.47歳のこの年で.「3連休ずっとサッカーの試合があるけどやるか」といわれれば.たとえ次の週に「へろへろ」になっていようと.試合をする。

 今現在も.40歳以上のメンバーで構成される.岐阜地区のシニアサッカーチーム.「Gノース」の一員である。
 このチームは.岐阜市北部と隣接町村のスポーツ少年団のパパさんチームが合同して結成したもので.他のいくつかのシニアチームと総当たりのリーグ戦をやったり.時々の特別なトーナメントに参加したりと.そこそこの活動をしている。

 チームの中には.若い頃国体などでバリバリに活躍した選手が多数在籍するところもあり.年齢の割には.レベルはまずまずである。
 私個人は.高校や大学・社会人のチームでちゃんとサッカーをやったわけではないので.リフティング等のボール扱いは.ほとんど三流である。

 ただ.この年になっても足が速いこと.試合時間中フルに走り回れること.サッカーの戦術を頭で理解していることの三つが「武器」である。
 したがって.相手エースのパスを読み切ってカットし.とんでもない場面でスルーパスを出したりという玄人はだしのプレーもすれば.自陣ゴール近くで思いいっきり空振りして.味方の全員の血の気をひかせると言ったことが得意の.「波瀾万丈」のプレーヤーである。(^.^)

 さて.いよいよワールドカップである。

 試合が始まる前に.すでに大騒動があった。
 ひとつは.カメルーンチームの延着事件。もうひとつは.セネガルチームの対応に終われた静岡県藤枝市の担当課長の自殺事件である。
 いずれも.いくつかの誤解が生んだ事件だった。

 そもそも.日本の自治体が.WC出場チームをこれほどまでに「手厚くもてなす」理由は何だろうか。
 自治体の知名度のアップ.滞在に伴う経済効果.住民との国際交流.などなど。
 そもそもは.そういうことになった.いかにも日本的な「流行」があった気がする。
 つまり.韓国・日本での開催が決まって以来.ちょっと物知り顔のマスコミや評論家が.「サッカーワールドカップは.単なるサッカーの大会ではなく.国際交流も含めた世界最大の祭典である」などと喧伝した。
 これに乗らない手はないと感じた多数の人々が.日本的な勤勉さと律儀さとにも加速されて動き.小さな自治体までもが.「WCを契機に」といっぱいの夢を盛り込んで.誘致合戦を演じてしまった気がする。

 確かに.オリンピックでは.長野を例に出すまでもなく.地元住民との交流等もあったことは確かである。
 しかし.言っては何だが.オリンピックは.金にからんでいる超一流の選手(一億円も税金を納めた高橋選手)もいれば.普通の選手(プールの端まで泳ぐのがやっとだった某国水泳選手)もいる。後者は.純粋に自己記録のみが問題のスポーツ選手で.注目度も本人のわがままさも.そう高くはない。そういうゆるやかさが.五輪の特色である。

 しかし.サッカーワールドカップは違う。
 出る選手は.いずれもプロ軍団。国の威信と自分の人生と名誉と報酬をかけて試合に臨む。オリンピックとは違って.参加すればいいとか.32人中.25位でもいたしかたない.など思っている選手・監督はおそらくいないだろう。

 であるなら.キャンプをはる地元町村民との交流=国際親善などは.優先順位で言ったら.うんと低くなるはずである。彼らはあくまで.戦いに来るのだから。
 そこには大きな誤解があったことが.冒頭の二つの事件の理由であろう。

 藤枝市では.サッカーどころの同市のサッカーチームの監督も務めた歴戦の勇士が.担当課長として奮闘された。しかし.セネガルチームのスケジュールの突然の変更や.日常的な「遅刻」などの対応に悩み.5月17日歓迎パーティーの後に自殺された。
 カメルーンチームの.パリ出発の遅延.5月24日未明の大分県中津江村へのキャンプインは.もっと大きく報道され.全国民の関心を呼ぶところとなった。

 関係者としては.「どうなっとるんじゃ」と怒りたくなるところなのだが.両チームとしては.ごく自然だったのではないだろうか。つまり.戦いと自分たちの成功を優先したスケジュールの実行という点においてである。

 関係者には大変だったが.第三者の我々には.異文化理解と「国際交流」が十分に達成できた事件だった。
 そうそう.大分県中津江村という.それまで近くのひとしか知らなかった.福岡と熊本との県境の小さな村が.全国ニュースになって「知名度」が上がったという点では.これ以上にない「成功」だったかもしれない。全くの皮肉だが。

 サッカーを愛するものとして.当の選手たちにの対応には少々気がかりだったが.杞憂に過ぎなかった。
 TVで見たカメルーン選手・セネガル選手も立派で好感が持てるものだった。
 あれで.「傲慢」なら顰蹙ものだが.そこも心得ているところが.また.一流の選手なのだろう。同じく注目されると言っても.そこいらの芸能人とはわけが違う。

 ワールドカップ.開催まであと6日。   

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 20 趣味はサッカー2 民族の文化  02/06/02          

 いよいよワールドカップが始まった。どこもかしこも盛り上がっている。
 開幕戦でいきなり全優勝国フランスに勝ったセネガルでは.大統領の鶴の一声で5月31日は休日となった。すごいすごい。セネガルといえば.あのパリ・ダカール自動車レースのゴール.元フランスの植民地なのだ。植民地が本国に勝ってしまったのだから.休日ぐらいは当然だろう。もっとも.勝利を誇り高く語るその大統領が.自国語ではなく.フランス語を使っているところに.ちょっと悲しいものがあった。

 世界の中で一番盛り上がっていない国は.言わずとしれたアメリカだろう。
 開幕日のニュースも.イギリスやフランスがすべてのニュースのトップで報じたのに.アメリカの3大ネットワークは.いずれも.スポーツニュースの最後の方。ほとんど普通のイベント扱いだった。ちなみに.スポーツのトップは.今進んでいるNBAファイナル。つまり.アメリカプロバスケットボールの年間優勝チーム決定戦の報道だった。

 あるTVで紹介されたアメリカ人のコメントが.印象的でした。
「90分も戦って0−0とか1−1とか.アメリカ人はそんなのはスポーツとは思っていない。」

 アメリカ中西部アイオワ州の友人の話では.小学生では少しはサッカーをやる子どもはいるけど.高校生となると人気は急激に下降するとのこと。みんな.野球・フットボール・バスケットボールへ行くのだ。
 反対に言うと.そんなに競技人口が少ないアメリカが.ポルトガルに勝ってしまうことがすごい。別の意味でアメリカというのはすごい国だ。
 アメリカが勝った次の日は.さすがに.報道はランクアップした。それでも.アイオワ州の州都デモインの新聞.デモイン・レジスターのインターネット版のページには.一面には登場しない。やっと.スポーツの欄の一番上に登場したのみであった。何と奥の深い国よ.アメリカ。
  ※ヒマがあった見ておくれ。「デモイン・レジスター」のトップページ。
 
 「サッカーはそれぞれの国の文化を表す」
 これは.そう特別なことではない。当たり前といえば当たり前で.別にサッカーでなくても.野球でも.バレーボールでも.それぞれのお国柄があるのは当たり前だろう。

 あまり開き直ると話が進まないので.サッカーももちろん国の.民族の文化を表すという話をしよう。
 『朝日新聞』の5月27日から29日夕刊に.3日連続で「サッカーW杯を前に ポジション文化論」が掲載されました。見出しを掲げると.「上 ストライカー 日本における不在は失敗許さぬ集団主義の鏡」「中 司令塔 組織戦術の象徴は 職人.今やボール管理職」「下 ゴールキーパー かつての人材難は 体にしみついた野球の動き」となる。

 サッカーは失敗が当たり前で.その中で.人に目立つ失敗をしながら.周囲の批判に耐えながら.ストライカーを続けるのは.日本的ではない.というのが「上」の主張である。記事の中には.「有識者」の意見がたくさん紹介してあった。

  • 「日本には.どこか.失敗を許さない文化があると思う。海外のストライカーって.失敗を恐れないし.俺が入れなきゃ誰がやる.という強さがありますから」

  •  「規律はよく守るが.責任を持ってシュートを打つ.責任を持ってシュートをはずすということをしない」

  •  「組織で戦うことを好み.決断の速さより.その戦術や過程の美しさに重きを置き.それを評価する。そんな.これまでの日本サッカーのスタイルって.ほとんど日本の社会の特色と同じじゃないですか。突出した個性や我の強さは嫌われますが.ストライカーにとって.そういう資質は.最も重要です。健全なエゴイストとうか.規格はずれでも結果を出す人間を育てる.評価する土壌のないところでは.なかなか難しい話かもしれませんが」

 ストライカーの人材不足とは反対に.中盤にテクニックの優れた選手が多いというのが.「下」の主張である。

  • 「日本には.伝統的に細かく器用な『匠』の技術を尊重する文化がある。・・・日本の社会は職人的なテクニック.うまさを大事にする」

 この二つの分析は.傾聴に値する。
 ストライカーにもいつ完璧を要求して.そのいい芽を摘んでしまうというのは.自分が少年サッカーのコーチをやったら陥りそうなことである。
 また.逆に.有能なMFには.いかにも芸術的なパス回し.とりわけ.究極のスルーパスを要求して型にはめてしまいそうである。

 そして.「下」の主張は.ゴールキーパーの過小評価。
 ゴールキーパーは.たった一つのドジでゲームをつぶしてしまうこともあるし。また.一番後ろで全体を見回して指示を出すキーパーの指示ほど.有益で大事なものはない。
 しかし.これまで日本では観衆はもちろん.サッカーを志す少年たちにも理解されることはなかった。

  • 「かつては.背が高いから.あるいは足が遅いからといった理由だけで.キーパーにさせられたケースが多かったからではないか」

 いまでも.そういう傾向にあることは.間違いない。
 これは.クイズ日本史の太平洋戦争の項目のところでいくつか説明したように.日本人が.日本の文化が.攻めて戦うということを重く評価するのに対し.守るとか後方支援とかを重要視してこなかった文化的伝統のよるものと考える。
 スターは.攻撃する人にあり.後方支援をいくらうまくやっても.花形にはなれないのが日本の社会であった。

 これが.いつ頃からの伝統なのかといえば.ルーツは武士道にあると考える。武士は.自らは死んでも立派に「家名」を残すことが最高であると考えていたが.この家名を残すことには.相手をやっつけて.あるいはたとえ無謀でも先陣を切って突撃して.大将に評価されることが必要である。
 食糧をいくら補給したとか.鉄砲の火薬をうまく調達したとかは.「手柄」とは見なされなかった。

   さて.明日は.また自分の試合。
 左.バックのポジションから.相手のパスをカットして.前線へ一発で長い決定的なパスを送るか.空いた左のスペースに上がり込んで.うまいセンターリングを上げるか.イメージはいろいろあるが.TVのスーパースターのようにはいかない。
 せいぜい.攻め上がっても.また守備に戻ってくるという.ハデさも何もない.ごく普通のプレーをしっかりやろう。年を取ると.それすらが難しい。 

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 21 趣味はサッカー3 幸福な勝利  02/06/15         

 6月14日(金)午後5時過ぎ.日本代表チームは.2002年FIFAワールドカップKorea・Japanにおいて.予選リーグを勝ち抜いて.決勝トーナメント進出を決めた。これは.いろいろな意味で.「幸福な勝利」になった。
  サッカー業界の発展.中津江村など誘致自治体の思い.経済効果.いろいろな観点があろうが.ここでは.教育に関係のあるものとして.「未来への希望」という意味で.思いを書きたい。

 自分たちぐらいの世代にとっては.はっきり残っている記憶の中で.一番最初に「日本」というのを意識したのは何だったのかと質問されれば.それはもう文句なく.「東京オリンピック」と答えるであろう。

 歴史的には.東京オリンピックの成功は.敗戦から日本が復興し.経済大国に成長していく象徴的な事件であったとされる。
 その時代に生きていた人間.とくに小学生だった私たちにしてみれば.それは.それからの人生のイメージを決める重大な事件だった。
 
 開会式の聖火の最終ランナーが.原爆投下の日に広島で生まれた青年だったというのも.感動的であった。スポーツ番組の視聴率として.いまだに破られることがない.女子バレーボールの決勝.日本対ソ連(当時)は.感動を通り越して身震いすら覚えるものであった。
 ※開会式の聖火ランナーについては.日本史クイズ戦後編へ

 それは.戦争のあやまちや.戦後の貧しさやといったマイナス要素からはい上がり.自信を持って明るい明日に向かって進んでいくぞ.というパワーを.国民全体に共感させるものであった。

 バブルの崩壊以後.経済も.政治も.教育も.暗い話題の中で沈んでいる今にあっては.このサッカー代表チームの勝利に意味を感じる人は多いに違いない。

 新聞の調査によれば.日本の高校生は.他国の生徒に比べて.将来に希望を持っている生徒が極端に少ないという。
  村上龍は『希望の国のエクソダス』(文藝春秋)で.その状況を憂えて.「この国では何でもある。ほんとうにいろいろなものがあります。だが.希望だけがない」(P309)と書き.「まあ.子どもの場合ですが.とりあえず大人のやり方を真似るっていうか.参考にしていく以外に生き方を考えることはできないわけで.要するに.誰を真似すればいいのか.みたいなことがまったくわからなくなってしまっているわけです。政治家とかどうなんでしょう。いいからおれを真似て生きればいいんだ.みたいなことを言う政治家の人っているんですかね?どうですか?みなさん。・・中略・・今の政治家の生き方を真似ろ.今の政治家のように生きればいいんだと.なぜ僕らに向かって大きな声で言えないんですか?」(P310〜P311)と言わしめた。
 こう生きて見ろ.というのは.別に政治家でなくってもいい。もともと.政治家に期待する方が無理だ。

 それに代わって.代表チームのメンバーがやってくれたと思う。
 予選リーグにおける代表チームの活躍によって.サッカーに関心のあるサポーターは.それぞれが.いろいろな意味で.「頑張れば何とかなる」「努力することに意味があるんだ」と感じていてくれると信じている。

 この先.どこでどんな敗戦が待っているかわからないが.私は.もう文句は言わない。
 希望を.感動をありがとう。代表チームよ。
 
 そして.もうひとつ。
  予選リーグ最終日.日本が勝利して決勝トーナメント進出を決めた後.次ぎに.私は.心から願った。「韓国も何とかして決勝トーナメントに進出してほしい。
 
 日本・チュニジア戦は.勤務時間中だったため.TVを見るわけにはいかなかった。しかし.韓国戦は.残業しながら.職場のTVで応援した。
 自分の経験として.韓国という国を.チームを.心から応援したことは.生まれて初めてである。
 これも.私一人の思いではないと考えるがいかがだろうか。

 日本・韓国両チームの決勝トーナメント進出によって.当初から言われていた.日韓両国共催による盛り上がりも.予想外に成果を残しそうである。

 植民地支配と.戦後のギクシャクした関係によって.日韓の海峡は.なかなか乗り越えがたい海峡となっていた。しかし.この大会は.その意味でも.とくに若い世代を中心に.新しい何かを確実に残してくれると信じている。

 本来.勇気は人がくれるものではなく.自分で感じ取るものだろう。
 あの勝利は.多くの人に希望と明るさを感じさせ.「何かできるぞ」という気持ちを共感させてくれたのではないか。勇気がわいた.幸福な勝利だった。

 明日は.M郡町村対抗サッカー大会。自分も頑張ろう。 


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