江戸時代1
<問題編>クイズは時代の古い順に並んでいます。答えは各問題のをクリックしてください。  

最終更新日 2012年10月22日 ※印はこの5週間に新規掲載 

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番号

掲載月日

  問                     題

520  10/09/18

 古代・中世・近世の各時代の貿易にについて、その貿易品を並べて確認すると、輸出品の中には、金属が多いことがわかります。さて、どの時代にどんな金属が輸出されたでしょうか?
 これだけでは問題の真意がわかりません。解答編の冒頭に詳しい問題が掲載されていますから、クリックしてそちらへ行ってください。→解答編へ
 

508

02/02/03

 右の?マークをクリックしてください。現代の大相撲の番付表の一部が登場します。その真ん中にある、「蒙御免」の文字は、「御免蒙る(ごめんこうむる)」と読み、その昔の江戸時代に、相撲興行が許可をもらって行われていたことの名残です。
 さて、許可を出したのは、江戸幕府の次の機関のうちどれでしょう。
 ・老中 ・江戸町奉行 ・勘定奉行 ・寺社奉行 ・大目付 

503

01/03/05

 江戸時代のおよそ200年間、日本は鎖国政策を行い、西洋の国としては、オランダとのみ貿易を行いました。その結果として、現代の日本人が使うカタカナ語(外来語)には、オランダ語起源のものがいくつかあります。
 次のオランダ語は今の日本語では普通に何と言うでしょう。
 
blik  kabas  ransel  orgel  pistool  koffe  inkt  lens  gom 
 jacatra roeper zecchin  matroos 

507

02/01/20

右の?マークをクリックしてください。これは、東京の都心の大通りの中央分離帯に作られている銅板のレリーフです。
 さて、このレリーフに刻まれた左側の人物および右側の船の名前は何でしょう。  
  ※見当がつかない人はヒントをどうぞ     第一ヒント  第二ヒント

501

01/01/13

 江戸時代、江戸日本橋から東海道を通って京都に向かう旅人は、東海道の起点の日本橋を朝出発し普通のスピードで歩いたとすると、最初の宿泊地は何宿になるでしょうか。

502

01/01/13

 東海道の大井川には戦略的な理由から橋が架けられず、大名行列も普通の旅人も川越人足の助けを借りて、渡らねばなりませんでした。
 もちろん降雨などで川が増水すると、人の渡河は禁止されます。では、
水深が何尺何寸以上となると渡河禁止となったでしょうか。

517

08/10/05

 新潟県佐渡にある相川金山は、江戸時代前半にあたる17世紀前半には日本を代表する金鉱山でした。では、この佐渡金山は、いつの時代まで存続したでしょうか?
 1 江戸時代末期まで  2 明治時代末期まで  3 戦前(昭和前半))まで
 4 戦後直後まで     5 高度経済成長時代まで 6平成時代まで
 (このクイズの答えの説明は、旅行記の「産業遺跡訪問記 新潟佐渡・群馬富岡」に詳しく説明してあります。こちらです。→

515

04/01/04

 2004年の現時点まで、日本の歴史上、最も多くの金を産出した金鉱山は、何県の何鉱山でしょうか。これは正直言って難問です。

518

08/11/09

 第7代将軍徳川家継が死んだあと、誰が跡を継ぐか?これをテーマにした落語があります。落語『紀州』です。さて。この落語の落ちはどうなっているのでしょうか?
 これだけでは問題になっていません。詳しい問題は、解答編に記載します。そこを読んでから考えてください。(落語『紀州』を知っている人は、答えは当たり前に分かってしまいます。次の付け加えだけ見てください。
 また、この落語に引っかけて、
美濃の国出身で落語の祖と称される、安楽庵策伝の説明も付け加えています。日本史で古典落語を教える?、「受験の日本史」ではありえないことですが、日本人としての教養に興味を喚起するためには必要な事ですね。

513

03/06/21

 江戸時代、第8代将軍徳川吉宗の時代に、「公事方御定書」とよばれる、判例や法令を集大成したものが作られました。そこには、金銭を盗んだ場合の刑罰として、次のように書かれています。
手元にこれある品ふと盗み候類(ぬすみそうろうたぐい)、金子は拾両より以上は、死罪
 そして、それより少ないものは、入墨敲(いれずみたたき)とあり、単純な窃盗に関しては、10両以上とそれより少ないもので、死刑か否かという大きな差があったことが分かります。
 では、死刑にならないぎりぎりの上限金額は、どれだけでしょうか。

512

03/06/07

 江戸時代の享保年間、朝廷から位をもらった外国生まれの動物がいました。さてその動物は何でしょう。
 ヒント 特別な動物ではありません。今でも動物園の人気者です。

506

01/11/04

 江戸時代後半の天明年間、東北地方を中心に大飢饉が発生しました。この時、南部八戸藩の米の収穫は、石高2万石の4%でした。これを、藩内の人口51,604人で等分すると、1日どのくらいの割り当てになるでしょうか。

521  11/09/05

 東京23区の地形は、東半分は低地ですが、西半分は台地とそれが浸食された谷地のため、現在でもたくさんの坂があり、名前が付けられた坂もたくさんあります。
 地名として有名なのは、
神楽坂九段坂道玄坂乃木坂三宅坂などでしょうか。(といっても、東京在住以外の方には、あまりなじみはありませんが・・・。)
 歴史上の有名な坂で、最も多くテレビや映画で取り上げられた坂と言えば、
南部坂でしょうか。忠臣蔵の「南部坂雪の別れ」です。討ち入りを決意した大石内蔵助が浅野内匠頭の未亡人、瑤泉院に最後の挨拶をするシーンで、未亡人が住んでいる場所が南部坂です。東京都港区赤坂6の10の氷川神社横と言われています。(なお、同じ名前の南部坂が港区広尾の有栖川記念公園南にもあります。)
 ところがこれらの坂は、いずれも高等学校の日本史の教科書には記載されていません。高校の日本史の教科書に記載されている坂は、たった一つしかありません。
 さて、何坂でしょうか?
  ヒント:その坂の西に建てられたある建物の固有名詞の一部となっています。 

522  12/10/22

 右の?をクリックしてください。
 幕末・明治初期に撮影されたある施設の写真です。現在も同じ場所にあります。高校の日本史の教科書にも登場する東京の神田川沿いの施設です。さてなんでしょうか?
 

504

01/08/05

 江戸幕府の第11代将軍徳川家斉は、江戸幕府将軍として二つの記録を持っています。
 ひとつは、
将軍在職期間の長さです。もう一つは、設けた子どもの多さです。さて、彼は、生涯にいったい何人の子どもを設けたでしょうか。

511

02/02/17

 大塩平八郎が反乱を起こしあと、事件を題材にした狂歌がいくつも詠まれました。次の歌の□部分には何を入れたらいいでしょうか。1文字です。(漢字でもひらがなでも1文字です。)
 
大塩が持ったる本を売り払い これが□本の始めなりけり

516

04/03/06

 右の?をクリックしてください。
 
ビニール袋に入った6つの品物が登場します。これらは、すべて高校の日本史の江戸時代の部分で学習する日本の産物です。それぞれなんでしょうか。
 一つ一つの詳しい写真は解答編の最初の部分に載っていますから、そこを見ながら考えてください。

510

02/02/10

 江戸時代後半に確立された町人の美意識に関する問題です。
 この時代江戸町人に対する
最高の褒め言葉「□□な人」、と反対にけなし言葉「□□な人」でした。何と表現されたでしょうか。

509

02/02/10

江戸時代後期の戯作文学者の一人に山東京伝がいます。彼が小説家として愛用した遺品がその死後土中に埋められました。さてその遺品とは、何でしょう。

505

01/10/14

江戸時代に地図を作ったことで有名な伊能忠敬
 彼の測量の基本は、「歩測」すなわち、自分の歩幅での測量でした。彼の一歩の歩幅はどのくらいでしょうか。
何尺何寸で答えてください。

514

03/09/07

 19世紀の前半、鹿児島の薩摩藩は、500万両という多額の借金を抱え、財政再建のためには、思い切った手だてが必要でした。
 そこで、1836年、今日の常識では考えられないような、長期のローンを組んで返済することを大坂などの商人に認めさせました。さて、薩摩藩のローン年数は何年だったでしょうか。



519 

09/12/06

 右下の?をクリックしてください。(クリックしてから登場まで少し時間がかかります)
 丸い玉を根本に二つおいた筒が登場します。
 文章にすると相当怪しげなものですが、実はこれは江戸時代末のペリー来航の少し前に、とんでもない偉業を成し遂げたある町人の業績をたたえるモニュメント(記念物)です。さて、高校の日本史の教科書に登場するその人物とは誰でしょうか?


<解説編>

501 江戸日本橋を出発して1日目の最初の宿は普通どこですか。        問題へ

 江戸時代は、大名行列以外にも、庶民が広く旅行をした時代です。もちろん今と違って労働人口の大半は農民でしたから、ビジネスで出張する人とか流通業に携わる人とかはそんなに多くはありません。 
 江戸などの大都市の町人や農民が、寺参り・神社参り・温泉場めぐりなどの「観光」に出かけたのです。普通の人々が武器も持たずに安全に旅ができたという点で、この時代からすでに、日本は欧米の諸国と比べれば、非常に治安よい国でした。
 
 今流にいえば、交通のインフラとして整備されたのがご存じいわゆる「五街道」をはじめとする街道と宿駅の制度です。
 さて、教科書・資料集の「江戸時代の交通」の所には、五街道と宿駅・関所の図が必ず掲載されています。しかし、学校の所在地が旧街道筋でもない限り、あまり生徒の興味を引く学習ではありません。




 そこで、この問題です。
 生徒の中には、江戸・京都間がおよそ126里(約490キロ)であることはもちろん、新幹線の東京・大阪間が約500キロであることも知らない生徒大半です。もちろん、江戸時代普通の旅人が、14日間かかって江戸から京都まで旅したことも知りません。さらに、現代人は遠くまで歩くという経験がありませんから、普通に人間が歩くと1時間に約4キロつまり1里ほどは進めるということも実感としては持っていません。
 これだけ知らない要素がいっぱいあると、実際の生徒諸君の答えは、ものすごい幅のあるものになります。これまで最高に遠くの答えはなんと「1日で府中(静岡)」です。
 
 おまたせしました。「お江戸日本橋七つ立ち」と歌にもあるように、朝早く江戸日本橋を発ち、一日10時間歩くとおよそ40キロ。最初の宿場は、戸塚です。十返舎一九のおなじみ滑稽小説『東海道中膝栗毛』の主人公弥次郎兵衛と喜多八コンビも第一夜は戸塚です。
 ※秋山忠弥『日本史おもしろ百貨店 江戸と江戸っ子』(1983年新人物往来社)


502 大井川は水深が何尺何寸以上となると川留めになるでしょう。  問題へ

【改訂 11/08/29】 旅行記:「大井川 鉄道の旅」で取材した内容を元に、改訂しました。 
 まずは、単位が問題です。
 年輩の方なら尺・寸といわれても何ら戸惑いはないでしょうが、今の高校生は、「一寸法師」の身長は何センチと聞いても知らない場合が多いくらいです。高校の日本史では、「日本の文化」のひとつとして、「昔の単位」への理解も進めなければなりません。
 さて、大井川では、庶民は川越人足に手を引いてももらって自分で歩いてわたるか、人足の肩車に載せてもらって渡ります。大名は、時代劇などでも時々でてきますが、人足にれん台(れんは夫夫の下に車を書く字)を担いでもらって、その上に乗ります。いずれにしても、人足が流されたり、溺れたりするような水量では人の渡河は禁止となります。
 答え、一般人の渡河禁止は、4尺5寸(約136センチ)でした。
 
 大井川では、
常水(平均的な水野深さ)が2尺5寸で、そこから2尺の増水があれば、つまり水位が4尺5寸となれば、渡河禁止となったわけです。
 しかし、4尺5寸の水量でも、「御状箱越」と言って、将軍家の文書が入ったものは、特別な役目の人夫によって運ばれました。(この人夫たちは、何百人といる金谷・島田の人夫の中から14ずつ選ばれた栄誉を持つもので、「侍川越え」と呼ばれました)
 しかし、
2尺5寸の増水、つまり、水位が5尺となった場合は、御状箱の渡河も禁止されました。この状態が、正式に「川留め」と呼ばれました。
 
川留めとなれば、数日間川の渡河は禁止され、川の両側の金谷と島田の宿は宿泊客で超満員となりました。(大井川の位置は上の問題の地図参照
  ※秋山忠弥『日本史おもしろ百貨店 江戸と江戸っ子』(1983年新人物往来社)
  ※中部電力株式会社編『大井川 その歴史と開発』(経済往来社 1961年)P135−154
  ※松村博著『大井川に橋がなかった理由』(創元社 2001年)P85
  ※大井川については、次のページで詳しくレポートしています。
   →旅行記:「大井川 鉄道の旅1〜4」川留めについては、4


503 オランダ語に起源を持つ現代語は何でしょう。  問題へ

 blik・・ブリキ  kabas・・カバン ransel・・ランドセル orgel・・オルゴール  pistool・・ピストル
 koffe・・コーヒー  inkt・・インク  lens・・レンズ  gom・・ゴム 
 jacatra・・ジャガイモ 
roeper・・ラッパ  zecchin・・ゼッケン  matroos・・マドロス(船乗り) 


 生徒に出題するクイズとしては、赤字のものが発音のなまりが可愛くて受けます。あなたはこの四つは正解でしたか?
 オランダは、16世紀まで独立国ではありませんでした。16世紀にはスペインに支配されていましたが、1581年スペインから分離独立を宣言し、粘り強い抵抗の後、1648年のウエストファリア条約で各国から独立が承認されました。同時に、その時代オランダは、世界の貿易の覇者となります。
 
 15世紀末の大航海時代の開幕以来、インド及び東インド(現在のインドネシア)はポルトガルが支配し、モルッカ諸島(コショウ、ナツメグなどの香料を豊富に産出する別名香料諸島)を握って、巨大な利益を収めていました。これに果敢に挑戦したのがオランダとイギリスです。その争いで優位に立ったオランダが、17世紀前半には「世界の海を支配」します。
 
 首都アムステルダムは、世界の経済中心となります。ついでにいうと、この時、金を手にしすぎたオランダ人はあるものに投機熱をもやし、やがてバブルがはじけて、経済に変調をきたします。ちょうど、1980年代末の日本の様にです。バブル経済時代の日本の投機対象は、土地・美術品・外国の不動産等でしたが、17世紀のオランダは、何とチューリップの球根でした。
 
 オランダが西回りでアジアを目指す5隻の船団を船出させたのは、1598年6月27日のことです。日本ではこの直後に秀吉が死ぬという時代です。この時は、オランダは、まだ東インド会社を設立する前で、ロッテルダムのハーヘン商会によって派遣されました。
 船団はマゼラン海峡を通過し太平洋に入った時点で離ればなれになり、一緒にいた2隻はチリ沖で、目的地を日本に変更します。そしてさらに1隻は大暴風雨の最中行方不明となり、残るただ1隻、デ・リーフデ号のみが、1600年4月19日(日本の太陰暦では慶長5年3月16日、関ヶ原の戦いの半年前)やっとの思いで豊後(大分県)の臼杵湾にたどり着きます。出発時の乗組員110人のうち生存者は24人、そのうち、船長カーケルナックら大多数は息絶え絶えで、歩けるものは6名に過ぎませんでした。
 24名のうち、6名は上陸後2日間で死亡します。
 結果的に、5隻の船団総計491名のうちの大半が犠牲となりました。
  
 上陸十日目に当時大坂にいた徳川家康から、「責任者を大坂へ」という命令が届き、動けない船長に代わって、水先案内人ウィリアム・アダムス(イギリス人、オランダ東インド会社に雇われていた)が代表して大坂へ向かい、徳川家康に謁見しました。この後、家康から貿易許可の朱印状を得たことが、オランダが日本との貿易の開始するきっかけとなりました。
 17世紀はじめにおける、オランダのライバルは、先発国のポルトガル・スペインと、新規参入を狙うイギリスでした。既述の様にオランダが主導権を握り、この結果、日本は鎖国体制布く時点において、オランダとのみ貿易を続けることになります。日本史では、この時オランダが世界の貿易の覇者であるという視点からは、あまり説明をしません。付け加えるべきでしょう。
 
 オランダはこの後17世紀の半ばから後半にかけて、イギリスとの2度の戦争(第一次・第二次英蘭戦争)を行い、覇権を失っていきます。
 ※司馬遼太郎『街道をゆく35 オランダ紀行』(1991年朝日新聞社)
 ※オランダに関しては、他にもクイズがあります。
  クイズ現代社会宗教編  クイズ現代社会世界文化の諸相編 クイズ世界史近代ヨーロッパの誕生編


504 11代将軍家斉がもうけた子どもの数は?           問題へ

 第11代将軍徳川家斉は、1786年、第10代将軍徳川家治が死亡したあとを受けて、13歳で将軍職を嗣ぎました。先代家治には跡継ぎの子どもはなく、家斉は8代将軍吉宗がそういう時のために自分の子どもを分家させて作っておいた分家のうちのひとつ、一橋家から徳川本家の養子に入ったのでした。
 彼は、この後、1837年まで将軍職を続け、将軍在職期間は51年となりました。これは、江戸幕府将軍中の最長記録です。(鎌倉幕府にも室町幕府にもこんな長期在職記録はありませんから、日本記録といえば、まあそうです。) 彼は、さらに4年生存し、1841年68歳で没します。

 その在職期間中、彼は、実にたくさんの子どもを設けました。その数は、
53人。(これ以外に流産・死産の子どもが2人いて、、これを合わせると55人になります。


 もちろん、一人の奥さんが生んだのではありません。彼には、正室以外、生涯で40人の側室がいました。正室と側室16人との間にできた子どもの数が、55人です。
 
 但し、この時代は乳児死亡率は高く、生きて生まれた53人のうち、21人は2歳未満で死亡しています。残り、32人のうち、40歳以上まで生きたのは、次の将軍家義など7人しかいません。跡継ぎをしっかり残すためには、それはそれはたくさんの子どもを作る必要があったのです。
 試算によると江戸後期の100年間の平均寿命は、28歳代ということです。
  ※『歴史ものしり百科 エピソードで綴る日本史』(1982年三公社)P323

 そのうち、24番目の子は溶姫(やすひめ)といい、加賀金沢の大名前田家に嫁ぎました。当時は将軍家から娘を妻として迎える際は、輿入れのためだけに専用の朱塗りの門を作る必要がありました。この時の門が、現在の東京大学の門のひとつとして残っている「赤門」です。(加賀の前田家に嫁ぐと行っても、参勤制度がありますから、嫁ぎ先は江戸の前田家の屋敷です。明治になってこの跡地に、東京大学ができました。)

 このクイズの意味は、ひとつは、上に書いた、江戸時代の乳幼児死亡率の高さに注目させることにあります。 
 もう一つは、将軍家斉の生活に、江戸時代後半の社会と世相が反映されていることを、このクイズを通して理解させることです。

 家斉が将軍になった直後、前将軍に信頼されていた老中田沼意次が失脚し、かわって松平定信が老中首座となり、いわゆる寛政の改革が始まります。
 朱子学的禁欲主義の信奉者であり実践者であった松平定信は、若い将軍家斉にも、「将軍御心得之箇条」等を示し、性行為の回数までも「指導」しました。
 定信が失脚し、その後継者も一掃された1810年代後半から、将軍家斉の好みにしたがった政治が展開されます。教科書には次のように簡潔に書かれています。
「約50年の家斉の治世で、文化年間までは寛政の改革の質素倹約が受けつがれたが、文政年間にはいると、品位の劣る貨幣を大量に流通させたことで幕府財政はうるおい、将軍や大奥の生活は華美になった。また商人の経済活動も活発になり、都市を中心に庶民文化の花がひらくことにもなった。」
 ※石井進他著『詳説日本史B』(1999年山川出版)P210

 その、「華美」な生活の実態が、子ども55人なのです。

 但し、高校生の授業では、歴史を見つめる視点を複数にしなければなりません。
 生徒諸君には、敢えて質問をします。「将軍家斉は、よい将軍か悪い将軍か?」

 答えはもちろんひとつではありません。
 幕府の財政の悪化と綱紀の弛緩を招いたという点では、徳川政権の将軍としては褒められたものではありません。しかし、教科書の引用文にもあるように、放漫財政は明治時代につながる経済活動の活発化を促しました。この流れは、家斉の死後老中水野忠邦が天保の改革において抵抗を試みても、もはやせき止められるよなものではありませんでした。
 その意味では、近代につながるひとつの要素を作り出した将軍といえるでしょうか。 


505 伊能忠敬の1歩の歩幅は何尺何寸?    12/05/15写真追加            |問題へ

 伊能忠敬は、全国を実地に測量して、日本全土の正確な地図を作った人物として有名です。
 正確には、彼の第一次から第十次に及ぶ全国調査に基づいて、地図の編纂が進められ、その死後に、全国地図が完成しました。
 距離の測量には、縄や鎖(つまり巻き尺)といったオーソドックスなものから、
量程車(りょうていしゃ)という道の上を転がして距離を積算する新兵器も使われました。量程車は、伊能忠敬の師であった高橋至時の作とされていますが、地面が平らでないと正確な数字が出ないため実用的ではありませんでした。そのため、使用は、大きな城下町の平らな道路などに限られました。もっとも、大きな城下では、測量隊がやってきたゾーというデモンストレーションの意味で、量程車を転がしていくことは効果もありました。
 千葉県佐原市のホームページには、同市にある伊能忠敬記念館が紹介されており、そこに量程車の実物も展示されています。
 ※千葉県佐原市の伊能忠敬記念館
 記念館の展示物量程車

 近代的な測量器具がない時代、伊能測量隊が、最も頻繁に頼りにした測量”道具”が、
自分の足による測歩です。第一次測量に出る前に訓練を重ね、常に同じ歩幅で歩く技術を身につけます。
 その歩幅は、
2尺3寸、メートル法では約69センチです。
 忠敬の身長がどのくらいなのか分かりませんが、我々がグランドなどでスポーツのコートの設営のために測歩する時は、きりのいい単位のメートルに合わせようとしますが、よほど大きな人でないと無理な歩幅です。それに比べると忠敬の2尺3寸は、ごく自然に歩く時の歩幅といえましょう。
 ※1991年2月10日放映、NHKTV『歴史誕生 伊能忠敬』より
 
 さて、伊能忠敬の勉強です。
 忠敬は、将軍の徳川吉宗時代の1745(延享2)年に、上総国山辺郡小関村の小関家の第3子として生まれました。現在の千葉県九十九里町です。17歳の時に香取郡佐原村(現在の佐原市)の酒造家、伊能家の婿養子となりました。
 伊能家は、元来名主を務める旧家でしたが、忠敬は酒造業のほか米穀取り引きなどで伊能家をさらに隆盛に導き、名主もつとめ、幕府から苗字・帯刀をゆるされます。天明の飢饉のときには、私財をなげうって窮民の救済にあたりました。
 この間、独学で暦学をおさめ、1794(寛政6)年、50歳で引退して家督を長男にゆずったのち江戸にでて、この時ちょうど幕府天文方に任命され、改暦の命を受けていた高橋至時(よしとき)の門下生となり、天文学をならいはじめます。第二の人生のスタートです。
 師の至時は、よりすぐれた暦の作成をするために地球の正確な大きさを追求するという、大きな命題を忠敬に提示します。緯度1度の距離を正確に把握できれば、地球の大きさを知ることができます。これが、忠敬の測量・地図づくりの出発点となりました。
 
 ところが、この時代の日本には、不正確ながら各地の大名の命令等によって測量された日本の絵図が存在しており、簡単には幕府の出資による測量・地図づくりの命はでません。至時は、幕府の命をもらうきっかけとして、ロシアの接近により緊張の度を増す蝦夷地情勢を利用しました。すなわち、ロシアとの抗争を有利に進めるため、至急蝦夷地の地形を把握する必要があると上申しました。これにより、幕府の許可申請がおり、若干の財政的支援も得られることになりました。

 こうして、1800年、忠敬は第一次測量、つまり蝦夷(えぞ)地・奥州街道の測量を実施し、その結果作製した地図を幕府に提出しました。この時、忠敬は55歳でした。
 この結果、測量技術・地図作製技術の確かさが幕府に評価され、それ以後の第2次から第10次の調査が実現しました。

 忠敬は、これ以後17年間に全国の4万km余の踏破を成し遂げました。1817年に測量を完了。その後、地図の編纂を開始します。
 ところが、忠敬自身は、その翌年の1818年、地図完成を見ないまま、病気のため73歳で没しました。
 編纂は、忠敬死後もその弟子や高橋至時の子、高橋景保らによって続けられ、1821年、『大日本沿海輿地(よち)全図』として完成しました。忠敬の死の3年後のことでした。
 地図は幕府に献上され、紅葉山文庫に秘蔵されました。別に縮小図が景保により編修され、その写しを景保から譲り受けたシーボルトがのち国外にもちだそうとして発覚。シーボルトは国外追放、高橋景保は獄死しました。これがシーボルト事件です。
 ※渡部健三著『伊能測量隊、東日本をゆく』(無明舎出版2001年)

 2001年7月5日、朝日新聞に次のように報じられました。

  • 近代的日本地図の先駆者、伊能忠敬による「大日本沿海輿地(よち)全図」の大図(縮尺約3万6千分の1)214枚のうち、206枚の写本が米国ワシントンの議会図書館でみつかったと4日、日本国際地図学会(大竹一彦会長)などが発表した。未発見の約140枚が含まれており、17年にわたる忠敬の測量の全容がほぼ明らかになった。

     忠敬没後の1821(文政4)年に完成版として江戸幕府に納められた「伊能図最終本」を原寸大で模写したもの。実物は焼失しており、中図(全8枚、約21万6千分の1)と小図(全3枚、約43万2千分の1)は写本がそろっているが、大図の写本はこれまでに約60枚しか発見されていなかった。

     発見された地図はほとんどが1枚が畳1枚程度の薄い和紙に裏打ちをしたもの。砂浜を黄色、忠敬らが通った道を朱線で記し、天体観測で方位や緯度を測定した地点に星印を記載するなど伊能図の特色を備えている。

     今年3月末、渡辺一郎・伊能忠敬研究会代表理事が渡米した際、議会図書館地図部で発見した。

     伊能図の正本は1873(明治6)年の皇居の火災で焼失。伊能家が政府に貸与した副本(控え)も1923(大正12)年の関東大震災で焼失した。

    副本は旧内務省や陸海軍により写されており、今回の写本について渡辺代表理事らは「陸軍が1884(明治17)年から作った『輯製(しゅうせい)二〇万分之一図』の参考資料に模写したもの」とみているが、なぜ米国に渡ったのかは判明していない

 忠敬の足跡を現代人の足で辿ろうというイベント、「平成の伊能忠敬・ニッポンを歩こう・21世紀への100万人ウォーク」は、1998年1月にスタートして、無事日本1週1万qを走破し、2001年1月1日にゴールしました。
 ※伊能ウォークに関するサイトはいくつもありますが、その一つの個人的なサイトを紹介します。
   「ニッポンを歩こう平成の伊能忠敬100万人ウォークWeb隊http://www2s.biglobe.ne.jp/~cyberred/inou1.htm

 写真01 東京都江東区富岡八幡宮にある伊能忠敬像の説明(撮影日 02/06/21)

 写真02・03 伊能忠敬像と三角点(撮影日 02/06/21)

 写真04・05 三等三角点     (撮影日 10/06/21)


506 天明の大飢饉の時の南部八戸藩の一人あたりの米の量は?                 問題へ

 普通の日本史の教科書には、江戸時代の三大飢饉というのが掲載されています。享保の飢饉、天明の飢饉、天保の飢饉です。
  ※出典は岡山直太郎『日本の人口』 ●のあとに飢饉

1721(享保6)

2607万

1780(安永9)

2601●

1726(享保11)

2655

1786(天明6)

2509

1732(享保17)

2692●

1792(寛政4)

2489

1744(延享1)

2615

1798(寛政10)

2547

1750(寛延3)

2592

1804(文化1)

2562

1756(宝暦6)

2607

1822(文政5)

2660

1762(宝暦12)

2592

1828(文政11)

2720

1768(明和5)

2625

1834(天保5)

2706●

1774(安永3)

2599

1846(弘化3)

2691

 これらの飢饉がどのような災害をもたらしたかは、教科書や資料集に掲載してある「江戸時代の全国人口推移」の数字を見ればある程度は推測できます。
 
 天明の飢饉の前、1780年には2601万人あった人口は、飢饉後の1792年には、2489万人に減少しました。その原因は、おもに飢饉による餓死者・病死者の増加によるものです。

 天明の飢饉は、東北地方の冷害がその原因でしたから、東北地方の各藩では多くの餓死者がでました。
 ここで話題にする南部八戸藩は、現在の青森県の太平洋岸にありました。この地域は、これだけ技術が発達した現在でも、夏の冷たい東風による被害が大きいところです。1980年の大凶作の時は、全国平均で、平年の作柄の87%しか収穫できませんでしたが、青森県は47%でした。

 これが江戸時代となると、その被害はもっと大きくなって当然でしょう。
 1883年の大飢饉は、通常の冷害に加え、浅間山の大噴火の結果生じた降灰・粉塵による日照量の減少が加わって、収穫量は大打撃を受けました。
 
 南部八戸藩は、
石高2万石。この時の収穫高は、763石8斗、つまり石高の4%でした。
 この藩のこの時の人口は、51604人であったと記録されています。収穫量を藩の人間に均等に分配するとしたら、
  763石8斗÷51604≒0.0148
 となります。石は容積の単位で、勺・合・升・斗・石の順に十進法となっていますから、
  現物リスト「容積を理解するセット」参照

 0.0148石は、1升4合8勺となります。さらにこれを365日割れば
  1.48升÷365≒0.0041升  
 となります。
合に換算すると、0.04合です。
 つまり、1合桝の4%の量が、1日の割り当て分となります。


 クイズとしては、こういう単位で答えた人は、まあ正解としましょう。
 ここでは、もっと細かな正解を出します。
 右下の写真は、1合桝に米粒を詰めたものです。江戸時代においては、収穫や年貢を表現する場合は、かならず籾米でした。写真もそれに習って、籾米が詰めてあります。この場合に1合升にはいる米粒の量は、およそ6000粒。 従って、
  6000×0.04=240
 つまり、南部八戸藩の人々に
1日割り当たる米の量は、約240粒 ということになります。

 右下の写真は、
炊きあがったご飯の240粒 です。僅かこれだけです。

 この換算は、収穫量が等しくすべての領民に配分されたことを仮定としていますが、実際にはそんなことはあり得ません。農民は米はほとんど口にすることはなかったでしょう。
 当時の本にはサバイバル食として、次のようなものが推薦されています。

  • 松皮餅・・松の木の薄皮をよく剥ぎ、その内側の甘皮を取って細かく砕き引いて粉にして煮たあと、ダンゴにしたもの。

  • ワラ餅・・生ワラを半日水につけてアクを抜き、細かく刻んで蒸して乾燥させ、煎って臼で挽いた後、米の粉と混ぜて餅とする。

  • 土粥・・・・土1升、水4升を鍋に入れてかき混ぜ、何回か研いで、粥のようにして食う。

 こんな涙ぐましい努力も、根本的解決にはつながりません。南部八戸藩の人口は、30105人となってしまいます。以前の人口の実に40%近くが餓死したことになります。
 想像を絶する被害でした。
 授業では、240粒のご飯のリアリティーが、キーポイントです。
  ※野坂昭如「天明飢饉地獄」鈴木健二『NHK歴史への招待 16』(日本放送出版協会 1981年) P96。
    但し同書には、1合から米粒への換算に誤りがあるため、独自の計量値を使用した・


507 東京都心にあるレリーフの船と人物の名前は?                    問題へ   

 まずは、右の地図をご覧ください。 
 写真のレリーフは、地図中の場所(中央通りと八重洲通りの交差点の西側中央分離帯)にあるもので、写真は、そこから東京駅八重洲口のビルを背景に撮影したものです。(ちなみに、はかの有名な八重洲ブックセンターのある場所です。)
 
 正解は、ヤン・ヨーステンと彼が日本に乗船してきたリーフデ号のレリーフです。
 
 まずは東京以外にお住まいの方のために東京駅周辺の簡単な説明です。

 赤煉瓦で有名な東京駅は、丸の内側にあります。その反対の東側が八重洲口です。

 
 本来東京駅の表玄関は、天皇の住居である皇居の方を向いた丸の内口です。大正時代にできた当時は、裏側の八重洲口はありませんでした。
 駅のホームの番号も、丸の内側から始まっていて、一番東の新幹線は、10番台のホーム番号になっています。
 レリーフのリーフデ号は、オランダが西回りで東アジアへ初めて派遣した船団の1隻であり、ヤ・ヨーステンは、その航海士の名前です。船団については、このページのクイズ503の解説をご覧ください。
 1600年、大坂城でのウィリアム・アダムスとの謁見の後、徳川家康は乗組員全員を江戸へ招き、自由の身としました。しかし、アダムスとオランダ人航海士ヤン・ヨーステンは手放さず、徳川家そして江戸幕府の、軍事・外交の顧問としました。

 ウィリアム・アダムスの方は、相模国三浦郡逸見(へみ)に250石の領地をもらい、日本人妻を娶って、三浦按針と名乗りました。但し、家康の死後は幕府に疎んじられ、特別な扱いを受けませんでした。このため、平戸に開設されたイギリス商館員となって、長崎・平戸に入ってくる外国船の要人を江戸に案内する仕事をしていました。1620年平戸で亡くなります。
 現在の横須賀市西逸見町塚山公園には、按針夫婦の供養塔があります。

 ヤン・ヨーステンは、航海士であるとともに、砲手の経験がありました。
 そのため、彼らが漂着した半年後にあった関ヶ原の戦いでは、同僚ら数名とともに家康の要請で参戦しました。修理されて江戸湾に回航されていたリーフデ号から、大砲をはずして関ヶ原まで運び、戦いの最中に数発発砲しています。
 この戦功でヨーステンは、江戸城和田倉門南の堀端に屋敷をもらいました。
 この結果、その付近は、彼の名に因んで、「八代洲」といわれるようになりました。その後、これがなまって、「八重洲」という地名になったのです。
 
 ところで、彼の屋敷があった場所、和田倉門の南の堀端といえば、現在の東京駅の西、千代田区丸の内2丁目の三菱電機や三菱重工のビルのあるあたりです。(地図中のの場所)
 なぜ、現在の八重洲と場所が異なるのでしょうか。
 実は、1929(昭和4)年の町名変更により、当時の八重洲1丁目・2丁目などが併合されて丸の内2丁目となり、その時点で、八重洲という地名は、東京駅の東側のみとなったのです。

 したがって、レリーフの場所は本来の屋敷跡、地名発祥の地ではありません。
 ヨーステンの屋敷があった三菱電機ビル横の歩道には、1980年にオランダ首相ファン・アフトから送られたリーフデ号の彫刻が立っています。
 また、八重洲地下街の日本橋・高島屋方面出口脇の地下通路の一角にヨーステンの大きな銅像があります。(写真右上) 
  ※河野 實著『日本の中のオランダを歩く』(彩流社1999年)P53
 


508 江戸時代に相撲興行を許可した役所は?                       問題へ    

 正解は、寺社奉行です。 



少々古い番付で恐縮です。横綱には千代の富士や大乃国がいて、小錦が大関です。西の前頭筆頭は曙、同9枚目に貴花田(今の貴乃花)、東10枚目に若花田(のちの若乃花)がいます。平成3年の番付表です。

 さて、相撲の勉強です。

 相撲の始まりは古事記にあるタケミカヅチノカミ(建御雷神)とタケミナカタノカミ(建御名方神)との国譲りの力比べといわれます。
 日本書紀には垂仁天皇の7年に野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹶速(たいまのけはや)が大和で相撲をとり、宿禰が蹶速をふみ殺した(すごいわざ)とあり、宿禰は相撲の始祖とされています。もちろん、事実の裏付けはなく、神話の世界です。
 初め、五穀豊穣を祈願する農耕の儀礼としてはじまった相撲は、8世紀にはいって神前に奉納する神事相撲になり、821年(弘仁12)には相撲節会として宮中の儀式にさだめられました。その後、武士の台頭とともに、公家から武家のための相撲へと変化していきます。

 江戸時代になると職業化した相撲集団がふえ、京都・大坂・江戸をはじめ、各地で神社や寺の建立・修復の資金を集めるための目的で開催される相撲、つまり、勧進相撲が増加し、その許可を出すのは、当然ながら寺社奉行でした。

 興業主は、御免(許可)をもらった(蒙る)という高札を、興業地にたてて、興業を実施しました。

 番付にも、中央に「蒙御免」の文字を刷り込みましたが、これが、現在の大相撲の番付に残る、「蒙御免」の文字の由来です。
 ※竹内誠著『大系日本の歴史10 江戸と大坂』(1989年小学館)P261

 この勧進相撲が、プロとしての大相撲へと発展していきます。1761(宝暦11)年10月場所の江戸番付には「勧進大相撲」とあり、そのころ1場所晴天8日の年2場所制が確立、81年からは晴天10日になりました。89年(寛政元)11月、谷風梶之助と小野川喜三郎にはじめて横綱免許があたえられ、横綱土俵入りがゆるされます。これが現在の横綱の始まりで、寛政期が最初のいわば黄金時代でした。谷風の死後には、よく話しに出てくる、無敵の雷電為右衛門が16年も大関をはりました。1833(天保4)年からは、両国にある回向院が興行場所として定められました。


 1889(明治22)年、それまでの相撲会所が東京大角力(おおずもう)協会になり、90年5月、西ノ海嘉治郎(初代)がはじめて番付に「横綱」と明記されました。1903年5月場所後、常陸山谷右衛門と梅ヶ谷藤太郎(2代目)が同時に横綱にのぼり、寛政とならぶ黄金時代をむかえます。このころの横綱はそう簡単には成れるものではなかったのです。

 1909年には回向院境内に国技館が完成して相撲人気に拍車がかかり、1925年財団法人大日本相撲協会が認可され、27(昭和2)年東京と大阪の両協会が合併して年4場所になり、大日本大角力協会、日本大角力協会をへて28年5月に大日本相撲協会が確立しました。
 この年、同年1月、NHKのラジオ相撲放送開始にともない、仕切時間(幕内10分、十両7分、幕下5分)がもうけられ、31年4月の天覧相撲を機に、土俵の直径が3.94mから4.55mに拡大されました。なお現在の仕切制限時間は幕内4分、十両3分、幕下2分です。
 
 1932(昭和7)年1月、改革をとなえる力士たちが大量に脱退して危機をむかえますが、それをすくったのが双葉山定次です。彼は、36年1月から39年1月にかけて69連勝を記録、5場所連続全勝優勝をとげ、戦争景気とあいまって空前の相撲人気をもたらしました。37年5月から13日制、40年1月から15日制となりました。


509 埋められている山東京伝の遺品とは?                                問題へ

 この問題は、授業の展開上重要不可欠とか言うものではなく、エピソードから作った、軽い問題です。生徒諸君の答えは、筆・硯・文鎮などが圧倒的に多くなりますが、正解は違います。

正解は、机です。 

 上の写真は、仲店と雷門で有名な浅草の浅草寺および右手が浅草神社です。神社の裏手の駐車場の中に、右の「山東京伝机塚の碑」があります。
 この碑は、山東京伝(1761年〜1816年)が没した翌年の文化14年に弟の山東京山が兄を偲んで立てたもので、この碑の下に、京伝が愛用した机が埋められました。
 碑の表面に刻まれた、京伝自身の文章「書案之紀」(書案とは机のこと)には次のように述べられています。
 「9歳の時に寺子屋に入った際、親の買ってくれた机を生涯愛用し、この机で100部を越える戯作を書いた。しかし、50年近くも使ったので、ゆがみ、老い込んださまは哀れである。」
 そして、次の歌が記されています。
「耳もそこね あしもくしけてもろともに 世にふる机なれも老いたり」
 ※現地にある台東区教育委員会の説明文より
 ※碑の最上部の拡大「書案之紀」の右から読む



 山東京伝は、1761(宝暦11)年8月に深川木場の伊勢屋という質屋に生まれました。本名を岩瀬醒(さむる)といい、通称京屋伝蔵といいました。号を、紅葉山の東という意味で山東庵といい、この結果教科書には、山東京伝の名で登場します。
 
 15歳のころ浮世絵師の北尾重政に師事し、北尾政演の名で、黄表紙などの挿絵を描き始めました。 1782(天明2)年黄表紙『御存知商売物』(ごぞんじしょうばいもの)で、作家としてデビューします。


 江戸時代は元禄文化に代表されるように、前半は上方が文化の中心であり、浮世草子などの出版物も上方で作られて、江戸へ下ってきていました。ところが、18世紀後半から、江戸でも洒落本や黄表紙などが庶民に好まれ、新しい文芸の潮流が形成されつつありました。
 黄表紙は、江戸で生まれた黄色い表紙の滑稽挿絵小説です。縦18センチ横13センチ袋とじ5ページを1冊とし、多くの場合、上下2冊、上中下3冊にして1作品となっていた、短編読み物です。
 『御存知商売物』は、その情勢を書物を擬人化して小説にした物で、挿絵も山東京伝が描きました。

 洒落本は、遊郭を題材とした短編風俗小説です。遊郭での一昼夜の遊興を、時間的展開にしたがって描いたもので、遊郭独特のしきたりや風俗を教えてくれる遊郭遊びの教科書のようなものであった。その中で、江戸文化の行動理念とも言うべき「通」が描かれていました。
 
 山東京伝は、1787(天明7)年刊の『通言総籬』(つげんそうまがき)、1791(寛政3)年刊の『仕懸文庫』(しかけぶんこ)等の洒落本の大当たりによって、寛政年間には洒落本作家としての地位を不動のものにします。
 彼は最初の妻(吉原扇屋の遊女)、死別後の二人目の妻(吉原弥八玉屋の遊女)とも、吉原の女性を身請けしており、遊郭での豊かな体験と鋭い観察力に基づいてなされた精緻な写実的描写によって、その作品群は江戸庶民の好評を博しました。
 ところが、寛政の改革では、朱子学的禁欲主義を掲げる松平定信によって、好色本追放を旨とする出版統制令が発令され、京伝の『仕懸文庫』以下の3作品は違反作として絶版を命じられました。京伝自身も手鎖50日の刑を受けて、執筆を一時断念しなければなりませんでした。

 彼はそののち、読本(よみほん)などの他のジャンルにいくつかの作品を残しましたが、黄表紙・洒落本ほどの人気は出ず、1816(文化13)年に、その生涯を閉じました。
 ※竹内誠著『大系日本の歴史10 江戸と大坂』(小学館1989年)P251〜3)
 


510 江戸町人への褒め言葉「□□な人」、けなし言葉「□□な人」とは?             問題へ   

 正解は、褒め言葉「いきな人」、けなし言葉「野暮な人」です。
 
 「いき」とは、気質・容姿・身なり・色彩・柄などが洗練されていて、しゃれた色気があることをいいます。この反対が野暮です。
 この「いき」という美意識は、18世紀後半の江戸の町人社会で確立されました。江戸時代の前半の文化は、上方(京都・大坂)中心で、新興都市江戸は、まだまだ、独自の文化を生み出すことができませんでした。江戸は、各地から雑多な人々が集まる混然としたとらえどころがない町でした。

 ところが、18世紀後半ともなると、洗練・昇華された江戸にならではの特色ある町人文化が成立し、その中で、独特の意識、行動様式が確立されました。そのひとつが「いき」という美意識なのです。これは、文学・美術・演劇・音楽・遊郭といった世界にとどまらず、江戸町人の日常的な生活スタイルの中にも溶け込んでいきました。

 具体的には、たとえば、元禄時代の美女は、やや肉厚の丸顔が理想の容姿でしたが、18世紀後半から浮世絵や洒落本に登城する美女は、柳腰で細面です。湯上がり姿、薄物を身にまとう、流し目、ほほえみ、薄化粧、略式の髪、素足、手を軽く反らせたり曲げる、といったことも、いきでした。
 模様なら、幾何学的図形、特に平行線による縞模様。
 いきな色彩は、、深川鼠・銀鼠・藍鼠・漆鼠・紅掛け鼠などの灰色系、黄柄茶・焦げ茶・媚び茶・千歳茶・鶯茶・煤竹茶・丁子茶・素海松茶などの褐色系、紺色・藍色・木賊(とくさ)色・江戸紫などの青色系統の三つでした。
 
 「いき」という美意識に基づく行動理念を「通」(つう)といいます。ものごとの機微に通じる人という意味です。この反対語も野暮です。
 18世紀後半になると、吉原・深川などの江戸の遊郭は、基本的に男の人口が多い江戸の娯楽場として大いに繁盛し、この特殊な遊郭社会での遊びのしきたりや知識が、町人たちの重要な関心事となりました。
 そのしきたりに通じていることが、「通」の重要な要素でした。

 こうした需要に応え、人気を博したのが、遊郭の風俗を描いた洒落本です。遊郭の用語・風俗・習慣が細密に描かれており、これを読めば遊郭の事情に精通するとともに、人情の機微にも通じ、遊女との接し方にも支障をきたさないというものでした。この洒落本の作家としては、山東京伝が第一人者でした。
 
 クイズ埋められている山東京伝の遺品とは?」
  ※竹内誠著『大系日本の歴史10 江戸と大坂』(小学館1989年)P240・244


511 大塩平八郎の乱を詠んだ狂歌、「これが□本の始めなりけり」、適語を?       問題へ    

 これは、ノーヒントでは難しいかもしれません。大塩平八郎は、大坂町奉行所の元与力でしたが、飢饉に対応することもなく、豪商と結託して儲けに走る奉行所の役人に反発し、彼らを誅伐する計画を立てます。彼は自分の経営する塾、洗心洞(せんしんどう)の門弟の一人と決起の計画を練りました。

 この時彼は、
自分の蔵書1241部を銀40貫896匁(大坂は江戸と違って銀での取引、小判に換算すると668両)で売却しました。その資金を元手に、行動を開始します。彼は、同時に施行札(せぎょうふだ、今で言うビラ、このビラを持参すれば施しを受けることができるというもの)1万枚を印刷し、大坂の近郷の農民に配りました。

 1837(天保8)年2月6日から8日の間、
ビラと金1朱(金4朱=1両)を交換させました。この時、大塩の門人たちは、施行を受ける農民たちに、「天満に火事があれば必ず大塩先生のところへかけつけてくれ」と、決起への参加を依頼しました。
 そして、2月19日、大塩勢は、役人宅への大砲での砲撃を合図に蜂起しました。

 
正解は、大塩が持ったる本を売り払いこれが無本(謀反)の始めなりけり本が無くなったこと(無本)と反乱の謀反をかけことばにしています。
 大塩が決起した背景には、天保年間に起こった大飢饉、天保の大飢饉があります。
 東北地方は、天保年間に入ってしばしば冷害に見舞われ、特に1833(天保4)年と1837(天保9)年は大飢饉となりました。
 江戸時代、飢饉の際に被害を大きくさせるのは、役人と豪商(都市の特権的な大商人)の癒着です。つまり、通常なら、飢饉が発生した地域で、それまで貯蓄していた米を飢える農民に無償で供給すれば、被害は最小限にとどめられます。さらに、凶作でない地域(この時は、西日本は平年作だった)の米を迅速に凶作地および江戸大坂の大消費地に送れば、米価はそれほど高騰せず、飢饉の被害は、小さくなるのです。
 事実、1780年代の天明の大飢饉の時は、奥州白河藩主であった松平定信、農民に対する米の施しを巧みに実施して、被害を極めて小さくすることに成功しました。(彼はその功績もあって、そのあと、老中となり、寛政の改革を始める)

 ところが、実際には、これと逆の現象がしばしばおきました。
 つまり、幕府や藩の役人は、貯蓄米をそう簡単には売らない、豪商も、流通すべき米を囲い込んで、米価の上昇を狙うといったことが、行われたのです。日頃から、商人に対して大きな借金を抱える藩としては、ここで高い米価を利用して、米の売却=借金の返済を行うことが、藩にとっては、緊急の課題でした。
 商人が、米価の暴騰を利用して大儲けを考えることは、想像に難くありません。

 大坂にはもう一つ別の事情が存在しました。
 1835(天保7)年、幕府老中水野忠邦の実弟跡部山城守良弼(あとべやましろのかみよしすけ)が、大坂東町奉行所に赴任してきました。そのころ江戸では、50年の長きにわたって将軍職にあった、11代将軍徳川家斉の引退の準備が進められていました。次の将軍第12代家慶の代になって、「善政」によって「御政道の安定」を取り戻すためには、たくさんの米を貯蓄し、その時に供える計画が進められていました。

 跡部はそのため、米を江戸に送る政策を進めます。特に、名奉行と評判の高かった大坂西町奉行矢部駿河守定謙(やべするがのかみさだのり)が勘定奉行に栄進すると、西町奉行の職が一時空白となり、東西町奉行所の実権を一手に掌握し、貧しい町民の苦痛をよそに豪商と癒着した政策を露骨に打ち出した。このため、米価はさらに上昇します。

 こうした時、大塩平八郎は町奉行らに窮民救済の方策を建言し、豪商らに助力を要請しましたが、いずれも無視されました。町奉行所役人と豪商の癒着を知った大塩は、彼らの誅伐を決意したのです。

 奉行所のある天満の街を焼いた大塩勢は、南下して大坂城に迫ります。ところが、城門外での城兵との戦いが起こると、もろくも、大塩軍は四散してしまいました。
 つまり、戦いは、正味半日で終了しました。

 しかし、これは、島原の乱(1637年)以来、200年ぶりの武士による武力を用いた蜂起であり、その意義は大きかった。戦いになれていない跡部東町奉行は、出陣したものの、驚いた馬から振り落とされ、「ようよう起きあがり馬に乗りて、命からがら逃げられし」という醜態も演じてしまいました。

 大塩平八郎の存在はしばらくの間は不明でしたが、3月19日、市内の商人宅にいるところを発見され、取り方に追いつめられました。大塩は、持っていた爆薬で爆死し、事件は終わりを告げます。
 ※青木美智男著『大系日本の歴史11 近代の予兆』(小学館1989年)P280