江戸時代3
<解説編>
513 江戸時代、窃盗で死刑にならない金額の上限は?                    問題へ    

 まず、公事方御定書ですが、これは、吉宗の享保の改革で登場する定番のものです。上げ米の制とか、目安箱とかの政策と比べて派手さはありませんが、この判例や法令の集大成によって、行政事務や裁判事務の円滑化が進みました。江戸幕府という、当初は軍事優先の政府が、法治国家・官僚国家を目指す上では、不可欠の仕事でした。

 この問題は、授業中には、その話と同時に、少し前の江戸時代の経済のところでさっと説明しておいた、江戸時代の貨幣制度について、復習・実践する意味で、出題します。

 さて、問題をもう一度復習します。
 窃盗罪は、10両盗めば、死罪です。

 10両未満であれば、入墨敲です。入墨敲は、刺青の上、棒で敲かれる刑罰ですから、 その差は大きいと言えます。
 
 では、10両に満たないぎりぎりの金額はいくらなのでしょうか。

 今の金額なら、100円に満たないぎりぎりの金額は、99円です。
 しかし、明治から太平洋戦争前までなら、99円99銭9厘でした。

 江戸時代は、1両以下の単位が存在しましたから、それが分かっていないと、この問題の答えは出せません。
 
 右の大きな表を見てください。

 江戸時代の貨幣の単位を示しました。これを見れば、正解が分かるはずです。

 
正解は、9両3分3朱249文です。

 もちろん、実際の江戸時代の刑罰は、それほどしっかりとした罪刑法定主義を取っていなかったでしょうし、捕まったときの罰のことを考えて、この細かな金額を計算して盗むという盗人もいなかったでしょう。あくまで、架空の話です。

 上の図の補足をします。
 江戸時代の貨幣は、金貨・銀貨・銅貨に関して、1両=4分=16朱=銀60匁=銭(銅銭)4000文という交換比率が定められました。
 しかし、江戸時代前半は、金貨が計数貨幣(金属の成分等に関係なく、示された数値の価値を示す貨幣)であったのに対し、おもに関西で使われていた銀貨は、重さを量ってその価値を示す、秤量貨幣(しょうりょうかへい)でした。
 上の図の丁銀(ちょうぎん)・豆板銀(まめいたぎん)がそれです。

 ところが、次第に商業が発達し、経済の統一が進むと、金銀2本建ての貨幣制度は不便になります。
 この不便さを積極的に克服し、商業の発達をより促そうとした人物が、かの老中田沼意次です。

 田沼は、南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん)と呼ばれる銀貨の計数貨幣を初めて鋳造しました。この場合の「南鐐」は、寛永とかの年号ではなく、上質な銀という意味です。南鐐二朱銀と小判1両との交換比率は、上の表からもうおわかりですね。
 ※南鐐二朱銀8枚で、1両と交換という既定でした。

 但し、金貨も実際には、純然たる計数貨幣ではなく、小判の金の含有量によって、その価値は変動し、幕府が小判の改鋳をして金の含有量を下げると、物価が上がりました。

 江戸時代金銀貨幣の現物教材は、現物教材編をどうぞ。  


514 薩摩藩のローンの年数は?                              問題へ   

 この問題は、高校の教科書では普通に記載されている内容からの出題です。
「鹿児島(薩摩)藩では下級武士から登用された調所広郷が、1827年(文政)年から改革に着手し、三都の商人からのばく大な借財を棚上げにし、(後略)」
 ※石井進他著『詳説日本史』(山川出版1999年)P214

 正解 500万両の借金を、無利子・250年賦で返済することとしました。つまり、無利子250年のローンです。

 さて、この問題では、@このようなことが何故起こってしまったのかという点と、A授業の際にどのように説明を組み立てたらいいかの二つについて、話そうと思います。
 
 まずは、Aからです。
 借金返済については、これだけの説明では、生徒からは、ほとんどよい反応は得られません。教科書にはこれ以外のデータは掲載されていませんから、生徒は何も考えません。

 ちなみに、2003年春に高校を卒業した長男が、3年生の時に学習した授業プリントを見ると、
「大坂などの商人から借りている負債500万両の事実上の帳消し」とだけ書いてあり、彼は、それ以上の説明は何も受けておらず、250年という途方もない年数の記憶もありませんでした。

 別に、250年という年数がセンター試験の問題にでるいうわけではないのですから、こんなことを教えなくてもいいですが、ここは、歴史の面白い部分ですから、少しこだわってみたいと思います。

 この授業をきちんと組み立てるきっかけになったのは、生徒諸君と話し合っているときに彼らがつぶやいた次の素朴な疑問からです。

  1. 莫大な借金といっても、500万両がどのくらいか、わからない。

  2. 何故、普通の返済の仕方ではいけないのか。そんな長期のローンを組む必要はあるか。

  3. そんな無茶なローンは可能なのか。

  4. またすぐに借金地獄に陥るのではないか。

 至極当然の疑問です。
 これらに答えなければ、ただ、わけもわからずに、「500万両を帳消しにした」と暗記させるだけの授業に終わります。

 1・2の疑問点に答えるために、次のデータを探し、説明しました。

  • 薩摩藩の米などの産物の売り上げ高は、1820年代前半では、年間13万両から14万両ぐらいである。したがって、借金500万両というのは、年収の35倍から38倍にあたる。つまり、あなたがた(生徒)の家庭にたとえれば、あなたがたのお父さんで、年収1000万円(こんな人はそんなにはいませんが)の人がいて、3億5000万円〜8000万円の借金をしているということと同じになる。途方もない金額と言うことが分かるだろうか。年末ジャンボ宝くじが前後賞であたらないと返済できない。

  • さらにいうと、500万両の借金というのは、普通に利子を支払うと、それだけでも、年間35万両はくだらない。さっき説明した藩の年間収入と比較するなら、この段階では、もはや、毎年の利子さえも返済できず、利子の支払いのためにさらに借金しなければならない状態となっている。いわゆるサラ金借金地獄と同じ。

 これだけ説明すると、ちゃんと深い理解ができます。
  ※上記の数値や以下で説明する内容は、次の参考資料から引用・構成
     青木美智男著『大系日本の歴史11 近代の予兆』(小学館 1989年)P317〜319
     賀川隆行著『集英社版日本の歴史M 崩れゆく鎖国』(集英社 1992年)P277
     井上勝生著『日本の歴史18 開国と幕末変革』(講談社 2002年)P161〜162

 ところで、このクイズは、授業では、「雄藩の改革」というのを教える冒頭に出題します。
 もちろん、「教科書は見てはいけない」ルールが適用され、生徒諸君は、常識と勘を頼りに解答します。そこから、授業が「展開」します。

 解答がでて、生徒を驚かすことに成功したら、次は、疑問点3そんな無茶なローンが可能だったのかを説明します。
 調所広郷は城下士最下級の小姓組の家柄でしたが、才能を見込まれて、1827年から財政改革にあたりました。
 上記の、500万両の無利子250年賦返済を大坂で宣言するのは1836年のことです。翌年1837年には江戸商人に対しても実施しました。

 調所広郷は、借金の古証文を書き換えと称して取り上げ、代わりに通帳を渡し、その際に250年賦・無利子返済を通告するという詐欺のような方法を取りました。この妙案を提案したのは、大坂の商人浜村孫兵衛です。
 調所は、債権者たちの前で、「この調所を生かすなり殺すなり勝手にせよ」と開き直ったと伝えられています。

 当然、、債権者との間にトラブルが起こり、恨みを買いました。浜村孫兵衛は大坂町奉行から大坂追放の処分を受けました。また、債権者から訴訟も起きましたが、幕閣に裏から手を回して、事なきを得ました。
 つまり、当時の支配者階級である武士階級だったからこそできた、強引きわまる債権処理だったのです。

 続いて、どうしてこのような財政状態となったのかの説明です。

 薩摩藩の財政の悪化の原因は、次の諸点と考えられています。

  • 九州南部のシラス台地を藩領とするため、米の生産性は低く、江戸幕府当初から厳しい収奪を行っていたが、米穀売買に頼るだけでは限界があった。

  • 1755年から藩主となり、藩主の地位を子や孫に譲ってもなお1833年まで実権を握り続けた島津重豪が、藩校の設置(造士館という)、西洋知識の吸収など積極策を展開したが、これと彼の個人的な奢侈が重なって、財政の支出が増大した。

  次は生徒の質問4、「またすぐに借金地獄に陥るのではないか」の説明です。

 調所広郷は、500万両の無利子250年賦返済を宣言する一方で、その以前から、収入の面での再建策も、着々と行っていました。

 その答えが、下の写真です。これは現物教材の「でかいシリーズ」の第3弾です。
授業では、次に、この現物を生徒諸君に見せることになります。 

 これが何かおわかりですか?決して石ではありません。


 横幅15センチほどの特別なものを見せて、生徒諸君を煙に巻くようにしてありますが、実はこれは、黒砂糖です。
  ※黒砂糖や砂糖に説明については、現物教材日本史「でっかい黒砂糖」をご覧ください。

 調所広郷の方針は、「負債は踏み倒す。新たに国産品を開発して増収を図る」というものでした。その増収の為の国産品が「黒砂糖」だったのです。

 砂糖は、古くから、サトウキビ(甘藷)から生産されていました。
 江戸時代の記録として、8代将軍徳川吉宗が琉球からサトウキビを取り寄せて、江戸城内で栽培したというのが残っています。彼は各藩にサトウキビ(甘藷)の栽培、砂糖づくりを奨励しました。これは、教科書にも載っています。
 ちなみに、18世紀のドイツでは、新しく、てんさいとう(さとうだいこん、ビート)から砂糖を精製する方法が開発されましたが、日本に入ってくるのは、もっと後の話です。
 
 薩摩藩領では、サトウキビは、主に
大島(奄美大島)・喜界島・徳之島で栽培されていました。
 調所広郷は、「三島方」という役所を設置し、三島の島民にサトウキビの栽培を強制し、製造された砂糖をほとんどすべて買い上げて、藩外へ高値で売るという砂糖専売制度を確立しました。

 15歳から60歳の男女に強制割付を実施し、黍横目(きびよこめ)・黍検者(きびけんしゃ)などの役人に監督させて、甘藷の栽培を管理したのです。
 甘藷の刈り株の位置が高ければさらし者にし、粗悪な砂糖を製造すれば、かぶり(首かせの刑)・しまき(足かせの刑)に処したといわれています。

 この専売制は、薩摩藩に莫大な利益をもたらしましたが、それは三島島民の犠牲の上に実現されたものでした。
 島々では、「かしゅてしゅてしゃんでな、誰(た)が為どなりゆる。大和んしゃぎりやが為どなりゆる」(こんなに働いても誰のためになるの、みな薩摩の武士のためにしかならんのに)と言われました、島民にとっては、砂糖地獄だったのです。
 
 但し、サトウキビの栽培は、農学者大蔵永常の『甘藷大成』(甘藷の栽培法の普及)の出版を幕府に手を回して断念させたにもかかわらず、まもなく、讃岐高松藩をはじめ、西南の各地の藩で普及し、砂糖専売制度による薩摩藩の利益は、下降していきます。
 
 しかし、調所広郷は、他の手も打っていました。 
 最も効果があった策が、琉球を経由した中国との密貿易(唐物抜け荷)の実施です。
 当時、中国との貿易は、長崎を通して幕府の管理下で実施することになっていましたが、薩摩藩は、琉球を属国として琉球貿易を独占している立場を利用し、琉球経由で中国へ、俵物(たわらもの)や蝦夷地の昆布を輸出し、逆に中国の産物を輸入して国内で売りさばき、莫大な利益を上げました。
 俵物というのはフカノヒレ・干しアワビ・いりこなど中国料理に使われる食材の海産物のことです。昆布にかんしては、薩摩藩は、蝦夷地→新潟・富山→薩摩・琉球という、全国規模の密貿易ルートを作り上げました。

 もう一つの手は、偽金づくりです。
 調所は1833年頃から、一分金や二分金の偽金を極秘に鋳造し、利益を上げました。

 まあ、いろいろ積極的にやったものです。 
 
これらの策によって、薩摩藩の財政は好転し、500万両の借金の踏み倒し分を除くと、1844年頃には、財政支出を拡大させた上に、さらに50万両の積立金を蓄えることに成功しました。(「100万両の予備金」と表現されている場合もあります。)

 しかし、これらの施策は、幕府の目にとまり、密貿易の件が幕府隠密によって明るみに出されてしまいました。
 調所広郷は、1848年薩摩藩江戸藩邸で自殺しますが、それは、密貿易の責任をとったものとされています。
 
 
この財政力を基盤に、薩摩藩は、1851年に藩主となった島津斉彬のもとで、近代化施策を実施して、雄藩として台頭することになります。

 この授業には、ちゃんと落ちがあります。説明が全部すんだら、生徒諸君にこう問いかけます。
「ところで、薩摩藩の借金の完済の年は、西暦何年だろう。」
 これは、簡単です。遅れて実施した江戸は、1837年が開始でしたから、これにに250年を足せば、完済の年は、2087年となります。
「へー、それでは今はどうなっているの?」
こういう疑問がでてくるのは当然です。

「もちろん、今はもうお金は払っていない。逆にいえば、明治維新と廃藩置県がなかったら、薩摩藩は今も毎年2万両ずつ返済し続けているということだ。」 

 さらに、余談です。
 この授業では、参考資料により、19世紀前半の借金の利率が、7%(500万両で利子35万両)となっています。
 現在の消費者金融などはどうでしょう。

  インターネットを使って調べてみたら、各社の最高年利率は次のとおりです。

武富士

27.375%

※ダンサーのせいか?貸出残高1位(^.^)

アイフル

28.835%

アコム

27.375%

プロミス

25.550%

ほのぼのレイク

29.200%

 100万円を1年間も借りたら、利子だけでも25万円から29万円も返却しなければなりません。すぐに薩摩藩と同じになってしまいます。くわばらくわばら。
 地歴公民科の教師としては、消費者教育もしなければなりません。(+_+)