江戸時代8 |
520 日本の貿易の輸出品について | クイズ江戸時代の問題へ | | 旅行記:出雲・石見へ | |
日本の歴史上、外国との交易は古くから行われていますが、教科書に貿易という表現で登場するのは、平氏政権の日宋貿易からです。 |
正解は、1=金、2=銅、3=銀、4=鉄 です。 |
日本史と世界史の教科書には、次のように記述されています。 |
16世紀から17世紀前半における日本の銀産出の主力だった石見銀山が、ユネスコの世界遺産に登録された理由の一つは、「16世紀後半及び17世紀前半の世界の交易活動と結びつき、東西文化の交流を促進させた」ことにあります。 |
日本史の教科書には、次のように記述されています。 |
では、その二つの技術について、詳しく紹介します。 |
その1 坑道掘削法 |
まずは、採掘技術から説明します。
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写真08−01 石見銀山の龍源寺間歩 (撮影日 03/11/27) |
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この写真は、島根県教育委員会・太田市教育委員会の作成によるHP「世界遺産石見銀山遺跡」にある「写真ダウンロードのページ」から複写・転載したものです。
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石見銀山の技術は、後に佐渡金山に伝わりました。以下の写真は、佐渡の金山の内部の様子です。人形のディスプレイがたくみです。 |
写真08−02 のみと金槌で坑道を掘る様子です。 (撮影日 08/08/09) |
写真08−03 (撮影日 08/08/09) |
写真08−04 (撮影日 08/08/09) |
左:排水装置、つまり坑道の下部から水をくみ上げる装置です。 |
その2 精錬方法 灰吹法 |
続いて、精錬方法を説明します。
1526年に石見銀山の採掘が開始された当時は、日本には有効な製錬・精錬技術が無く、開発者の神屋寿禎は、銀鉱石をわざわざ技術の進んだ朝鮮に運んで、そこで精錬する手間をかけて、銀鉱を銀に変えていました。 |
写真08−05 貴鉛 (撮影日 10/08/01) |
写真08−06 灰吹銀 (撮影日 10/08/01) |
上の03説明に記述されている、左=貴鉛(銀と鉛の化合物、銀が15%・鉛が85%)と、右=灰吹銀。 |
まとめです。 |