幕末〜明治維新期1
<問題編> クイズは時代の古い順に並んでいます。答えは各問題のをクリックしてください。  
最終更新日 2012年05月21日 ※印はこの5週間に新規掲載 
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番号 掲載月日   問                     題
612  09/09/27

 ペリーの来航によって、江戸幕府は二つの問題を抱え緊急事態を迎えます。
 問題の一つは諸外国への対応そのものであり、もうひとつは、外国への対応を巡って発生した幕府権力と国内諸勢力及び国内諸勢力間の対立をいかにしてコントロールしていくかという問題です。結局、ペリー来航から正味14年余りで江戸幕府は倒れるわけですが、それを簡単に「倒れるべくして倒れた」と片付けてしまうのは、歴史の見方がいささか大味すぎます。
 反対に、江戸幕府は、これまで経験したことがない難局の中で、しばらくの間は何とかそれを乗り切ることができたと考えることにしましょう。その場合、それができた要因を考えると、それぞれに対応した江戸幕府の官僚と呼ぶべき担当者が、極めて有能であったことがあげられるでしょう。
 その代表的な人物の一人は、川路聖謨(としあきら)です。彼は、ペリー来航の直後、
海防掛(かかり)として、来航したロシア使節との条約締結交渉の全権となりました。
 ところが、この川路は、元々の出自は、大名でも、旗本で、御家人でもありません。なんと、甲州出身の一庶民で豊後日田の天領の代官所の下級吏員になっていた人物を父に生まれました。母が出産した場所は、代官所構内の小屋の中であったと言われています。
 そのような、当時としては出自の低い人物が、52歳の時、上述の役職にあり、難局に対応したというjことは、
幕府の役人任用の仕組みに、封建制的な「世襲」制度とは異なる、能力による人材登用制度があったことを意味しています。
 もちろんこのような登用制度は、江戸幕府の最初から行われていたわけではありません。途中から、ある人物の「改革」によって、それが可能となっていったのです。
 やっと問題です。(長い問題文ですみません。)
 この人材登用の仕組みとは、「改革」の中で創出されたどのような制度をルーツに持っているでしょうか?
 正解は普通に高校生が教科書で学習するレベルの、つまり受験レベルの知識の中にあります。

602 01/07/15

 江戸時代後半から庶民の文化として、狂歌がたくさん詠まれました。1853年のペリー来航は、江戸幕府にとっては衝撃的な事件だっただけに、かずかすの狂歌の名作が残されています。
 その一つからの問題です。
 ペリーとの外交折衝を行った時の江戸幕府政権の責任者は、老中首座阿部伊勢守正弘でしたが、庶民から見れば、アメリカ艦隊に何ら打つ手なく押し切られてしまったと映ったのはやむ得ないところでした。その弱腰を非難して、次の狂歌が読まれました。

 
「いにしえの蒙古の時とは○○○○で 波風立てぬ伊勢の神風」
 
 その昔、蒙古来襲の時は、神風が吹いて元軍をやっつけたのに、今回は何も起こらないという意味ですが、○○○○に、ちょっと機転を聴かして4文字を入れてください。

606 03/06/14

 右の?マークをクリックしてください。相撲の力士と米俵の絵が登場します。この絵の意味する所はなんでしょうか。絵の左手の隅にある黒いものは、ペリーの座乗する黒船です。 n06-1kurofunerikishiA.gif',412,308,412,308

611 04/06/13

 右の?マークをクリックしてください。道路の写真が現れます。    n06-691sakuradabori_road.jpg',512,384,512,384
 この道路で、今から140年以上前に起こった事件とは何でしょうか。
<ヒント>
 この事件の主役の人物は、この写真の撮影地点から出発して、この写真の道を通って、彼方に写っている門に向かいました。
 続いて、2問目の質問です。だとすると、この写真を写した場所は、当時何だったでしょうか。、

610 04/05/02

 右下の?マークをクリックしてください。
 たくさんの人がいる部屋の写真が現れます。今から140年前の1864年、この建物のこの部屋の奥で、斬り合いがありました。襲った人物、襲われた人物、誰と誰でしょう。   n06-61yagitei_from_outside.jpg',512,384,512,384

608 04/03/20
追加修正

 右下の?マークをクリックしてください。四角い小さな島が登場します。
 この島は何でしょうか。  n06-36daiba.jpg',512,384,512,384

609 03/10/11

 幕末、新しい開港地横浜には、その時代なら当然のごとく、新しい遊郭が設営されていました。そこのある遊女は、アメリカ人に身請けされるのを拒んで、自害しました。次は、その辞世の歌です。

 
「露をだに厭う(いとう)大和の□□□□□ 降る雨□□に袖はぬらさじ」

最初の□5文字には、秋に咲く花の名前が入ります。
後ろの□□は、掛詞です。
さて何でしょう。

607

03/07/20
12/05/21改訂

 右下の?マークをクリックしてください。大砲の写真が登場します。これは現在ある場所に展示されている大砲です。展示といっても、博物館のような屋内ではなく、屋外です。もちろんその場所でその昔戦いがあったのです。さて、この場所とはどこでしょうか。また、その戦いとは何でしょうか。ヒント、海に面した場所で、負け戦でした。 n06-1bronzegun_in_kanmonstraight.jpg',412,308,412,308

605 02/11/24

 日本史の教科書に出てくる人物の一人に、長州藩の大村益次郎がいます。彼は、司馬遼太郎の小説『花神』の主人公としても有名で、幕末から明治初年にかけて活躍しました。さて、彼の銅像が建っている東京の神社とはどこでしょうか。

604 02/09/01

 幕末、ペリーの来航と和親条約の締結によって、鎖国は終わります。この後、あの咸臨丸で有名な勝海舟など、日本人が正式に欧米諸国へ渡航することが、頻繁となっていきます。
 しかし、しばらくは民間人が渡航することはできませんでした。
 1866(慶応2)年になって、初めて一般人の渡航が許され、早速、この年の10月、旅券発行第1号となった「団体」がアメリカ・ヨーロッパに向けて出発します。
 さて、この団体の目的、また、「仕事」はなんだったのでしょうか。ちなみに、この団体も含めて、この年の旅券発行1号から30号まではみな同じ職業に人たちでした。

603 02/03/31

 またまた、江戸庶民が読んだ川柳・狂歌を題材とするクイズです。
 1858年の夏、第14代将軍に徳川家茂が就任することが決まった直後に読まれた次の狂歌の□□に適語を入れてください。

 「徳川に かけそこなった □□」
    ※ヒント 「川」 「かける」 といえば・・・。

601 01/04/01

 幕末の英雄の一人に、土佐(高知県)の坂本龍馬がいます。その斬新な発想力、大胆な行動力は、今でも多くの人を魅了しています。1980年代はじめから、高知県は観光客の誘致に龍馬の写真が入ったポスターを使ってきました。そのポスターには、

 「龍馬にも、○○○○○○○、土佐の旅」

というキャッチコピーが使われています。さて、何という文字があてはまるでしょう。

<解説編>

601 高知県の観光ポスター「龍馬にも、○○○○○○○、土佐の旅」  問題編へ

 下は1983年に、名古屋鉄道各務原線の車内広告に使われたポスターです。龍馬に「ふとあえそうな」はずがありませんが、それでも、これがキャッチコピーとなるところに、龍馬の偉大さがあります。
 

 高知と龍馬については、旅行記の「徳島・高知旅行」を参照ください。

また、龍馬のポスター、ミニチュア像の入手に関しては、「現物教材」を参照ください。


602 ペリー来航時の阿部正弘政権に対して詠まれた狂歌とは?    問題編へ

 狂歌というのは、巧みな風刺や皮肉と「言葉遊び」が盛り込まれていなければなりません。
 正解は、「
いにしえの蒙古の時とはあべこべで 波風たてぬ伊勢の神風」です。
 つまり、蒙古襲来の時とは「反対」に、という意味を、老中阿部伊勢守正弘に引っかけて、「あべこべ」と表現したのです。
 この問題については、授業の際は何も言わないでおいて、いきなり、期末テストなどの定期テストに出題したことが何度かありました。柔軟頭の生徒諸君が必ずいるもので、正解を勝ち得てクラスの賞賛を浴びていました。

 と説明すると、老中阿部正弘が全く無能な人間に見えてしまいますから、例によって授業のネタになる話を付け加えます。
 阿部正弘は、ペリー来航時に34歳。備後福山(広島県東部)藩主でした。1845年水野忠邦(あの天保の改革の老中)に代わり、弱冠
26歳で老中首座となりました。三河以来の徳川家の譜代の名門であり、かつ、その才能を評価されての登用です。

 阿部は、強大な軍事力を背景とするアメリカに対して「協調」路線をとります。
 一方で、これまでの通例に反して、ペリー来航を正式に朝廷に報告し、また
対応策について諸大名以下幕府役人・儒者・浪人・町人にいたるまで意見を求めました
 これらは、「危機に直面した幕府が、朝廷という伝統的・名分的な権威に事態を報告するという行為を通して、その権威をも危機内に引き込み、大義名分論によって自らの権力を補強しようとしたのであるし、他面、外圧の危機感を意識的に被治者層へ広げることによって、揺らぎつつあった支配の体制を再編・強化しようとしたものにほかならなかった」と位置づけられています。
 ※田中 彰著『集英社版日本の歴史N 開国と倒幕』(1992年集英社)P67

 上述の集まった
意見がまた、面白いものでした。
 以下は、面白い意見の現代語訳です。

  •  「開国絶対反対、アメリカの大砲、恐るるに足らず、神国の長技、槍と刀で十分勝てる」
    勝てないと思いますが、これは、こちこちの攘夷論者、水戸藩主徳川斉昭の意見です。

  •  「なるべく解答を先に延ばして、その間に海岸の防備を固めて、三年間たてばどんな命令を下されても勝ってみせますよ」
    ちょっと泥縄という感じがしますが、これは、薩摩藩主島津斉彬の意見です。

  •  「まず貿易をしなさい。そしてその利潤で武備を整えたらいかがでしょうか」
    これは当時小普請組の下っ端役人だった勝麟太郎、のちの勝海舟の意見です。

  •  次は江戸の吉原の遊郭の経営者の意見です。
    「私に1000艘の船をください。富津の御台場の外三里ほどのところで漁をしております。黒船がやってまいりましたら、直ちに御注進に及びます。そして私どもは黒船に近づいていきます。そして魚をやるなどと懇ろに挨拶して仲良くなり、黒船に乗せてもらいます。そして酒盛りを始めてドンチャン騒ぎをし、ころあいを見計らってかねての手はず通り、われわれの仲間同士で八百長喧嘩を始めます。するとたぶん異人たちは仲裁に入るでしょう。こうした騒ぎの間に、船の火薬庫はどこにあるかを見当を付けておきます。そして私どもはマグロ包丁でもってこの異人たちを次々に斬り殺してまいります。そして最後にこの火薬庫に火を付け、黒船がドカンとといけば大勝利でございます。」
    黒船1隻だけをやつけるにはこれでいいですが、その後はどうするんでしょう?
    次ぎも江戸の町人の意見です。

  •  「江戸湾にたくさんの木の柵を作って沈めておけばいかがでしょうか。たいへん丈夫なものなので、大砲などにも容易に壊れるものではありません。黒船が入って来ても全然先に進むことはできないでしょう。」
    これは江戸深川の材木問屋の中村屋の源八の計画です。さらに続きがあります。
    「この案を採用の節には、ぜひ当方の材木をお買いあげのうえお作りください。」
    いつの時代も商人の商魂のたくましさは目を見張ります。

  ※鈴木健二編『NHK歴史への招待N 大江戸黒船パニック(草柳大藏著)』(1981年NHK出版)

 問題の狂歌以外、次のような面白い狂歌・和歌が残されています。

  • 太平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船) たった四はいで夜も眠れず

  • 陣羽織異国から来て洗いはり ほどいてみれば裏が(浦賀)大変

  • なにしおう大坂陣のままなれば さびたる剣とぐよしもがな


603 徳川にかけそこなった□□?     問題編へ

 「徳川」は、もちろん徳川氏を示していますが、ここでは、「川」の比喩です。「かけそこなった」の「かける」が次の言葉を引き出します。川にかけるのは、もちろん、「橋」です。
 第14代将軍徳川家茂が就任した時点で、橋といえば・・・・・。
 正解は、  
徳川にかけそこなった一橋  です。 

 1853年、アメリカのペリー提督が来航した時の将軍は、第12代徳川家慶でした。家慶は来航直後病死し、そのあとを第13代徳川家定が次ぎます。
 ところが彼は、病弱で実子もなく、いつ亡くなるかわからないという不安定な存在でした。そこで、開国という緊急事態の中で、将軍後継者を誰にするかということが、政治問題化します1858年のことです。これを将軍継嗣問題といいます。

 この時候補者となったのが、ひとりは、第13代家定のいとこで、第11代家斉の孫にも当たる紀伊徳川家の当主、徳川慶福(よしとみ)です。この時12歳。
 そして、もう一人が、一橋慶喜です。慶喜は、徳川吉宗が起こした三つの分家(御三卿)、一橋、田安、清水の一橋家の当主で、この時、21歳。実は、水戸の徳川家の徳川斎昭の子で、一橋家に養子にいった人でした。将軍家定との血縁関係は限りなく他人です。

 慶福を推したのは、これまで同様、血筋を重視して将軍後継者を決め、譜代大名を中心とする政治指導体制を維持していこうという、保守派の大名でした。これを南紀派といいます。その中心は、彦根藩主井伊直弼です。

 慶喜を推したのは、これまでとは路線を変え、血筋よりも、難局に自ら対応できる政治判断力を持つ人物を将軍に据え、あらたに、外様大名も加えた、新指導体制を作ろうとする、いわば革新派の大名でした。これを一橋といいます。その中心は、徳川斎昭、越前藩主松平慶永、宇和島藩主伊達宗城、薩摩藩主島津斉彬、土佐藩主山内豊信らでした。

 授業では、ここまで話をした時点で、まず必ず、「どちらが勝ったか」と質問します。
 中学校では詳しい情報を学んでいませんので、中学校の知識がある生徒は、かえって間違えます。「慶喜」という名前に記憶のあるよくできる生徒は、一橋が勝ったと答えます。

 そこで生徒にはこう聞き返します。
「慶喜という将軍がいることを知っているのはすごい。よく勉強している。ところで、彼は、最後の将軍の筈だろう。第何代だったかな?」
「第15代」
「ここでは、第13代家定の次を決めようとしているのだから、勝った人は第14代将軍になったはずだよね。ということは。」
「慶福が勝った。」「でもそんな名前の将軍聞いたことがない。」

 そうです。
 この争いは、南紀派の勝利に終わりました。
 その象徴が、推進派の井伊直弼自身が大老という重職に就いたことです。
 この結果、1858年5月、慶福を将軍継嗣とすることが発表されます。まるでそれを待っていたかのように、7月には家定が急死。慶福があとを継ぎ、改名して、第14代将軍徳川家茂となるのです。

 川柳はこの時期の政治を風刺して詠まれたものです。

 このクイズそのものは、学習してから少し間をおいて、生徒の記憶が混乱し始めたころを狙って、復習をかねて実施するのが効果的です。習ったばかりだと、簡単過ぎるかもしれません。まあそのへんは、生徒の力に応じての判断です。


604 旅券第1号の団体の職業は何か?                     問題編へ

 もうあと2年で幕府が滅ぶという、1866(慶応2)年、幕府は、学問・商用を理由に、一般人の海外渡航を認めました。そこで、その年、正式な旅券をもらって渡航した第1号の日本人が出たのです。
 しかし、この問題は、非常に難問です。彼らは、普通に想像できるような「ビジネス」関係の人々ではありません。
 
 正解、旅券第1号の団体は、なんと高野廣八以下、曲芸師の興行団体でした。
 廣八は全体の世話人、足芸の浜碇定吉の一座、定吉(35歳)・梅吉(12歳)・長吉(11歳)など、角兵衛獅子の米吉(13歳)・千太郎(13歳)、手品師の隅田川浪五郎一座、駒廻しの松井菊次郎一座の総勢18人です。
 ※田中彰著『集英社板日本の歴史N 開国と倒幕』(集英社1992年)P251
 
 ちなみに、この年の旅券発行の1番から30番まではすべて芸人で占められており、この時代の日本人の庶民のエネルギーといったものが感じられます。

 廣八一行は、1866年10月に横浜港から日本を出発、アメリカ・イギリス・オランダ・フランス・ポルトガル・スペインとまわって再びアメリカを経由して、1869年3月横浜に帰ってきました。正味、2年4ヶ月の大欧米巡業でした。
 
 田中氏の著書によって廣八日記を分析していくと、驚くべきことに気が付きます。

  1. ひとつは、彼ら旅芸人が、どういうきっかけか、大統領と公式謁見ができていることです。1867年3月12日、彼ら一行はアメリカ合衆国第17代大統領アンドリュー・ジョンソンに謁見しました。
    その時の様子を、廣八は日記に次のように書いています。(現代語風の訳は私がやりました)
    「この日国王にまねかれて御城内にまいり、王様の座敷に入り謁見した。握手という互いに手と手を取り合って握って仁義を交わす儀式をした。我々が珍しいということからいろいろ自ら世話をしてもらい、付き人の役人に付き添って、全員がいろいろ案内してもらった。座敷はいうにおよばず、寝室まで見せてもらった。照明が光り輝いてまぶしく、みんな肝をつぶした。」

  2. もう一つは、これは、廣八の趣味の問題ですが、彼はあちこちで「女郎買い」をしています。それも日記に克明に書かれています。大統領と謁見した夜も、「女郎買い」を行い、代金は「7両2分」と記しています。
    次の日の記述はもっと克明です。(現代語風の訳は私がやりました)
    「今夜も又女郎買いに行った。女性のきれいなこと、美女にして色は透き通るようである、衣装も同じく立派である。部屋は2間と2間半ほどの広さで、絵の額が9枚、身の丈大の鏡が二つ、金銀の金具がいっぱい付いた台が置かれている。3尺ほどの高さの台に床を取り、カナキンに羅紗、白い毛布などいろいろ布団を5つ重ねその上に寝た。女性の接し方は日本の80倍まさっていて(何で80倍なのか??)、よく機嫌を取ってくれる。セックスのやり方は、日本と違うところはない。」

 いつの時代も変わらないと言うべきか、今から140年前の日本の庶民の息づかいがありありと感じられる資料です。


605 大村益次郎の銅像が建っている東京の施設は?                   問題編へ

 正解は、東京の九段にある靖国神社です。

 大村益次郎は1825(文化8)年、周防の国(現山口県)の鋳銭司村に生まれました。家柄は、長州藩の村役所付きの医者でした。母方の村田の家名をつぎ、のち藩主によって大村益次郎と改名するまでは村田蔵六と称しました。1842(天保2)年に防府のオランダ医学の医師に入門、46年には、大坂に出て当時有名だった緒方洪庵の適塾に入ります。蘭学に秀でた彼は、やがて塾頭となります。
 1850(嘉永3)年に郷里で開業しましたが、あまりふるわず、53年には伊予宇和島の伊達藩(仙台の伊達家の分家、幕末英明な藩主伊達宗城が出た)に招かれ、蘭学の知識を生かして西洋流兵学者として兵書の翻訳を行い、また、西洋式軍艦の製造にも成功しました。

 56年には藩主にしたがって江戸に行き、やがて幕府の近代的軍備訓練所である講武所の教授となりました。そして、60年になってあらためて長州藩に軍制改革の担当として出仕しました。政争で一度解職されましたが、高杉晋作ら急進派が主導権を握ると復帰し、農民・町民を兵士とする西洋式装備の近代的軍隊の創設に尽力しました。

 幕府が送った第二次長州征伐軍を山陰道の石州口戦(石見(島根県西部)国境での戦い)で撃破し、その才能を発揮しました。戊辰戦争では、江戸城無血開城後、上野に立てこもった彰義隊の征討にも指揮を執りました。

 1869(明治2)年明治政府の軍隊を管轄する兵部省が設置されると、その実質的な長官兵部大輔(正式な長官の兵部卿は公家)として、徴兵制の実現へ向けて改革を進めました。
 ところが、69年9月、西洋化を嫌う攘夷派の士族に京都で襲われ、その傷がもとで死にました。この時病院まで彼を担架で担いでいった青年の中に、児玉源太郎(日露戦争時陸軍参謀総長)や寺内正毅(大正時代の首相)がいたといいます。
 司馬遼太郎著『花神』(1972年新潮社)1〜4には、シーボルトの娘イネの存在もからませて、彼の活躍がいきいきと描かれています。1977年にはNHKの大河ドラマにもなりました。
   
 さて、靖国神社ですが、明治天皇の命にしたがって、大村益次郎が、ペリー来航後戊辰戦争までの犠牲者を祀るために1869年に建立されました。
初め、東京招魂社と呼ばれましたが、79(明治12)年に靖国神社と改称されて今日に至っています。
 現在では、太平洋戦争の戦没者まで、合計2,466,364名を祀っています。(平成13年10月17日現在)

 建立者の大村益次郎の銅像は、1891(明治24)年10月に立てられました。
   ※靖国神社のホームページはこちら

 銅板に描かれた明治時代の靖国神社  靖国神社正面鳥居
 鳥居の手前、参道に立つ大村益次郎像  大村益次郎銅像拡大

 靖国神社ついてです。
 国が国のために戦って死んだ人々の尊い命を慰霊することは、至極当然のことです。
 しかし、いくら日本的な習俗といえ、戦没者をすべて神として祀ってしまうことには、賛成はできません。
 戦犯が祀られているとかいう視点とは別のところにも私自身のこだわりがあります。
 
 今は、ただ、引き取り手のない戦没者を祀っているにすぎない千鳥ヶ淵の戦没者霊園を拡充した、すべての戦没者・犠牲者を慰霊する施設を、もっと早くに作っておくべきでした。
 そう、沖縄の摩文仁の丘の「平和の礎」のようなものを・・・。


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