江戸時代10

<解説編>

 522 教科書にも登場するこの写真の施設の名前は?  | クイズ江戸時代の問題へ | 12/10/22記述 12/10/23修正


 写真10-01 幕末・明治初期に撮影された神田川沿いの施設。手前の坂道は相生坂と呼ばれています。
            神田川は土手の下を流れています。 (撮影日の詳細は不詳)      

長崎大学付属図書館幕末明治期日本古写真メタデータ・データベース」から許可を得て掲載しました。
このデータベースの説明は、次のページに書いています。
  →日記2007年5月27日(日)すごいです。「長崎大学付属図書館幕末明治期日本古写真DB」 


 この施設は、現在も神田川沿いのこの地にあります。正解は次の写真をご覧ください。


 写真10-02 同じ施設の現在の写真です。神田川沿いの坂に、上の写真と同じ雰囲気の塀が続いています。相生坂を自動車が通っています。(撮影日 10/01/27)


 正解は、湯島聖堂です。1797年昌平坂学問所が併設され、明治維新後、1868年に新政府に接収されました。学問所は、昌平学校、ついで大学校と改称され、1871(明治4)年に閉鎖されました。旧幕府の学問の流れを汲む残る二つの組織、開成学校と医学校は残され、のちに1877年開設の東京大学へとつながりますが、国学や漢学の伝統を受け継ぐ昌平坂学問所は直接には受け継がれませんでした。
 湯島聖堂については、前のクイズ項目→「江戸の坂の名前」を参照ください。


 上の衛星写真は、Google から正式にAPIキーを取得して挿入した、JR中央線御茶ノ水駅と神田川(東京都文京区湯島・千代田区外神田)地域のものです。

 中央左上から右下へ流れるのが神田川です。下の駅はJR中央線御茶ノ水駅です。
 神田川を渡る道路橋は
聖橋、川を斜めに横切るのは東京メトロ丸ノ内線です。中央上が湯島聖堂です。


 写真10-03・04 湯島聖堂とJR中央線御茶ノ水駅   (撮影日 10/01/27) 

 中央線お茶の水駅から撮影した湯島聖堂です。
 左:左端のオレンジの帯の電車は中央線快速電車。中央の赤い帯の電車は、神田川をまたぐ地下鉄東京メトロ丸ノ内線。
 右:地下鉄丸ノ内線電車は、JR御茶ノ水駅側の神田駿河台から神田川の「渓谷」の部分で地上に出て、また北岸でトンネルに入ります。トンネルを入ると直ぐに、地下鉄丸ノ内駅があります。
 川をまたぐアーチ橋は聖橋。背景の茶色のビルは、東京医科歯科大学です。
  


 写真10-05 写真中央の聖橋のもう一つ上流にあるお茶の水橋からの撮影です。右手がJR御茶ノ水駅のホームです。駅舎はお茶の水橋の南東端にあり、ホームは聖橋の西側から東側へ続いています。
 中央の川面に近いところを地下鉄丸ノ内線が渡ります。この電車を神田川に浮かぶ船の上から撮影することが私の夢です。(^_^)(撮影日 07/06/13)


 写真10-06 おまけの写真です。2月の寒い早朝、夜明け前の聖橋と神田川です。写真10-05と同じく、お茶の水橋からの撮影です。川の中央の白く見えるのが地下鉄丸ノ内線の鉄橋です。(撮影日 10/02/06)


 写真10-07・08 さらにおまけの写真です。 ニコライ堂です。   (撮影日 左:07/06/13  右:明治後半期) 

 左:聖橋の西側歩道からから撮影した神田駿河台4丁目のニコライ堂です。日本正教会の大聖堂です。
 右:中央遠くに薄くですがニコライ堂のドームが識別できます。ニコライ堂は1891(明治24)年には完成しましたから、右の写真はそれ以降の撮影です。皇居内から北の方面をの撮影した写真とのことです。
 写真10-01と同じく、「長崎大学付属図書館幕末明治期日本古写真メタデータ・データベース」からの借用写真です。
 
聖橋は、1927(昭和2)年の完成で、湯島聖堂ニコライ堂の二つの聖堂を結ぶ橋という意味で、聖橋と名付けられました。


【昌平坂学問所・湯島聖堂 参考文献一覧】
  このページの記述には、次の書物・論文を参考にしました。
  市川寛明・石山秀和著『図説江戸の学び』(河出書房新社 2006年) 

ナーベル教育研究会編「昌平坂学問所と藩校」『日本教育 2005年12月号』