近代ヨーロッパの誕生1
<問題編> クイズは時代の古い順に並んでいます。答えは各問題のをクリックしてください。  
最終更新日 2011年02月23日 ※印はこの5週間に新規掲載 
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番号 掲載月日   問                     題
707 05/04/24

 下のヒント1・2・3をクリックしてください。
 ヒントの一つずつに、異なる製造物の写真が付いています。
 これらの製造物に共通するのは、製造物の一部にポルトガルの特産品が使われているという点です。さて、その特産品とは何でしょうか。
ヒント1 ヒント2 ヒント3

701 01/04/08

ポルトガルがアフリカの喜望峰回りのインド航路を開拓し、スペインがアメリカ大陸への航路を開拓して、大航海時代の幕が開きます。16世紀の中頃から後半にかけて台頭した新興国のオランダとイギリスは、新航路開拓でポルトガル・スペインに遅れをとったため、アジアへ向かう両国とは異なる第三の航路を探すための探検隊をしばしば派遣しました。それはどういう航路だったでしょうか。

702 01/04/08

 イギリスとオランダは、現在のインドネシア領のモルッカ諸島の一部バンダ諸島のルン島の支配権をめぐって激しく争いました。最終的に他の領土との交換で、イギリスはこの島の支配権を放棄します。さてこの時、反対にオランダからイギリスへ支配権が移った別の有名な島は何島でしょうか。

705 02/12/08

 17世紀前半のオランダでは、あるものへの過剰な投資熱が経済を破綻へと向かわせました。オランダ国民が熱中して買おうとした物件は何だったでしょうか。

703 01/09/16

 イタリアの発明家・学者ガリレオ・ガリレイは、コペルニクスの「地動説」を肯定する本を書いて、1633年にローマ教会から異端判決を受けました。その後、ローマ教会も「地動説」を認め、ガリレオの裁判が間違っていることを公式に謝罪しました。それは、裁判から何年後のことだったのでしょうか。



708



10/02/07

 江戸時代の末に、あるオランダ語の書物が日本語に訳されて出版されました。その本の名前を、『三兵答古知幾』(読みかたは、「さんぺいたくちーき」)といいます。このタイトルの意味は、陸軍歩兵・砲兵・騎兵の3兵による戦術という意味です。
 このような戦術は古代の昔から存在したのではありません。この戦術が確立されたのは、少なくとも歩兵銃や大砲がある程度の戦力になってからです。
 そこで問題です。では、それはいつのことでしょうか?
 実は高校の世界史の教科書には、この
三兵戦術については書かれていませんが、この戦術を確立した人物とその戦争については、以下の様に記述されています。
 さて、何戦争の誰でしょうか。
 〔1   〕の
戦争と〔2     〕の国王名を答えなさい。(赤字は引用者が施しました。)
17世紀の前半に、16世紀から続いていた経済成長がとまり、ヨーロッパは凶作、不況、人口の停滞などの現象にみまわれた。17世紀のなかばは、経済・社会・政治のすべての領域におよぶ、全ヨーロッパ的規模の危機の時代となった。ドイツの戦乱は、この「17世紀の危機」の一つの現れであった。
 神聖ローマ帝国内に大小の領邦が分立していた
ドイツでは、主権国家の形成がおくれていた。1618年、オーストリアの属領ベーメン(ボヘミア)の新教徒が、ハプスブルク家の旧教化政策に反抗したのをきっかけに、〔1    〕戦争がおこった。この戦争の一つの対立軸は旧教対新教で、スペインは旧教側のハプスブルク皇帝を支援し、新教国デンマークはこれとたたかった。ヴァレンシュタインの皇帝軍が優勢となると、バルト海の派遣を目指す新教国スウェーデンの国王〔2     〕が戦いに加わり、旧教国フランスも新教勢力と同盟して皇帝とたたかいはじめた。〔1    〕戦争は、宗教的対立をこえたハプスブルク家対フランスの戦いでもあった。
 〔1    〕
戦争は1648年のウェストファリア条約終結し、ヨーロッパの主権国家体制は確立された。」

佐藤次高・木村靖二・岸本美緒・青木康・水島司・橋場弦著『詳説世界史』(山川出版 2004年)P185−186

706 04/05/09

 右の?マークをクリックしてください。なにやら、木の船のようなものの写真が登場します。さてこれは何でしょう。

709

11/02/23

 イギリスの産業革命において、原料や製品の輸送のために、二つの交通ネットワークが作られました。一つは1760年代からはじまり、1790年代に建設の絶頂期を迎えます。
 もう一つは、1820年代からはじまり、1830年代から40年代へかけて建設の絶頂期を迎えます。それぞれどういう交通ネットワークでしょうか?

710 11/02/23 

 鉄道の発祥の地がイギリスであることは、有名な事実です。そして、世界史の教科書上は、蒸気機関車の発明者は、スティーブンソンということになっています。
 しかし、詳細に吟味すると、いろいろ疑問が出てきます。
 たとえば、世界史の教科書の一つには、次のように書かれています。
「綿工業などでの機械化の進展は、機会をつくる機械工業やその素材を提供する製鉄業、動力エネルギー源を供給する石炭鉱業を発展させた。大量の原料や製品を運搬するための運河の建設や道路の整備も、18世紀後半から各国ですすんだ。1825年にスティーブンソンが蒸気機関車を実用化すると、イギリスでは鉄道建設が急速に進み、19世紀半ばまでには鉄道網と表現できるようになった。」(本文)P255
【産業革命初期の主要な技術革新】(技術革新の小年表から抜粋)
1814スティーブンソン、蒸気機関車を製作
1825スティーブンソン、蒸気機関車を実用化
1830マンチェスター−リヴァプール間に鉄道開通」

尾形勇・後藤明・桜井由躬雄・福井憲彦・本村凌二・山本秀行・西浜吉晴著『世界史B』(東京書籍 2006年教科書センター配布見本版) 

 この機関車製作、実用化、鉄道開通の違いは、正確にはどうなっているのでしょうか?

704 01/12/16

 フランス革命といえば、多くの人々が処刑されたギロチンが有名です。この処刑台では、1番多い日には1日に何人の人が処刑されたでしょうか。

尾形勇・後藤明・桜井由躬雄・福井憲彦・本村凌二・山本秀行・西浜吉晴著『世界史B』(東京書籍 2006年教科書センター配布見本版) 


<解説編>

701 アジアへ向かう第3の航路とは、どんな航路だったのでしょうか。   | ヨーロッパ近代世界の問題TOPへ |

 大西洋から北極海を抜けて、いわば北回りで東アジアへ向かおうとする航路。(北西航路と呼ばれた。
 当時、地球は球形だと認識されていたが、極地の地形や気候の詳細は把握されておらず、その危険や無謀さももちろんわかりませんでした。ヨーロッパからの東回り航路・西回り航路が先進国ポルトガル・スペインに抑えられてしまった以上、両国よりも北に位置するイギリス・オランダの商人の必然的発想として、北回りのアジア到達航路の開拓が発想されました。この発想の早いものは、資料的には、1527年に当時のイギリス国王ヘンリー8世に届けられたある商人の手紙に見いだされます。
 
 最初の探検船は、1553年に出帆しました。リチャード・チャンセラーの率いる3隻の船団は、6月にイングランドを出ましたが、8月には北緯72度付近の夏でも氷塊が漂う海に行く手を阻まれてしまいました。指揮官チャンセラー自身は、今のロシアのアルハンゲリスクあたりに上陸し、陸路ロシアを経て帰国しました。
 しかし、残る2隻は、北極圏をさまよったあげく、現在のロシアとフィンランドの国境付近の入り江で越冬するはめになり、結果的に全員が凍死しました。

 このような失敗にもかかわらず、イギリスおよびオランダでは、この後も、「北回りアジア到達航路」(北西航路)発見を目指した探検隊が何度も組織され、当然ながら、その都度多くの犠牲者をだして失敗に終わっています。

 北大西洋を探検し、運良く後世に名前を残した人物に、イギリス人のヘンリー・ハドソンがいます。
 彼は、1607年と1608年の2度、イギリスの商人の依頼で北大西洋を探検し、グリーンランドやスバールバル諸島の沿岸を北緯80度23分まで北上し、またバレンツ海のノバヤ・ゼムリャ島付近にも出かけました。
 
 1609年オランダ東インド会社と契約し、3回目の航海にでました。この航海でもノバヤ・ゼムリャ島沖から北上しましたが、寒さと悪天候のためハドソンがかねてから考えていた、北米大陸を回ってアジアへ至る航路の発見に目的を変えました。
 
 彼は大西洋と太平洋はせまい地峡でへだてられているにすぎないと信じ、ノバ・スコシア沖をへて北米大陸の海岸沿いに南下し、同年9月、ニューヨーク湾にはいって、川を河口から約240kmさかのぼって現在のニューヨーク州オルバニー市付近まで探検しました。この川は彼の名前に因んで、ハドソン川と呼ばれることになります。現在のニューヨーク市を河口とする川です。
 その河口の島には、原住民が住んでいましたが、原住民はアルコールには弱く、ハドソン一行の差し出した酒に全員酩酊状態となりました。「全員酩酊の島」という意味の現地語の発音をオランダ語風に表記すると、「Manahactanienk」となります。これが、現在のニューヨーク市の中心部マンハッタン島の名前の由来です。
 
 イギリス政府は、ハドソンの発見を重要視し、以後は彼は、オランダのためでなくイギリスのために働くことを命令されます。
 1610年、ハドソンはイングランドの商人たちの支援をうけ、北西航路をもとめて4度目の航海にでます。
 この年の夏にはハドソン海峡を通って、さらにハドソン湾へと進みましたが、西への出口をもとめてさまよううち、氷結した海にとじこめられ、飢えと寒さにたえながらの越冬を余儀なくされました。
 翌年6月、反乱をおこした乗組員におきざりにされ、以後、消息不明となってしまいます。

  ※ジャイルズ・ミルトン『スパイス戦争』(2000年朝日新聞社)


702 モルッカ諸島ルン島を譲る代わりにイギリスが新しく領有したのは何島。| ヨーロッパ近代世界の問題TOPへ |   

 まず、モルッカ諸島のバンダ諸島のルン島の説明です。
 右の地図をご覧ください。
 現在のインドネシアに属するたくさんの島のうち、ニューギニアに近い東部に、モルッカ諸島があります。この島は別名香料諸島と呼ばれ、大航海時代の幕開け以来、数多くの国がこの島々の領有をめぐって争いました。

 15世紀末からのヨーロッパ社会の膨張の原因のひとつが、ヨーロッパ人による香料(香辛料=スパイス)の獲得にあったことは皆さんご存じのとおりです。
 まず、ポルトガルがモルッカ諸島に進出しました。

 ところが、16世紀半ば頃になると、オランダ・イギリスが台頭し、両国がこの島々をめぐって激しく争います。モルッカ諸島全体がスパイスの大産地ですが、この時代とりわけヨーロッパで人気が高かったナツメグ(別名肉づく)の産地は、当時は、モルッカ諸島南部のバンダ諸島のルン島のみでした。

 ナツメグは、現在では、ハンバーグ料理などに使われるスパイスですが、当時のヨーロッパでは、肉の腐敗臭を消す香料としてのみならず、伝染病に効く特効薬であるとも信じられていました。伝染病はオーバーですが、現在でも、ナツメグは整腸薬・風邪薬の主成分のひとつです。
 スパイスの詳しい説明は「現物教材編へ」


 まずオランダがポルトガルの要塞を攻略し、モルッカ諸島の中心部を支配しました。ところが、最南部のバンダ諸島とりわけルン島は、潮流の関係から当時の帆船では近づくのが容易ではなく、オランダもなかなか支配を固めることができませんでした。
 
 これを見たイギリスは、1616年ナサニエル・コートホープをルン島に派遣します。 
 彼は現地住民を巧みに味方にしてイギリス国王に忠誠を誓わせ、それからしばらくの間、ルン島を支配しました。その間、イギリス艦隊とオランダ艦隊の戦いもありました。しかし、結局はコートホープはオランダに殺され、イギリスの立場は弱くなります。
 
 さらに、1623年、世界史や日本史の教科書で有名な、アンボイナ虐殺事件が起きます。
 これは、モルッカ諸島の中心部にあるアンボイナで、イギリス人が日本人傭兵と手を組んでオランダへの反乱を企てるという「計画」が発覚し、多くのイギリス人・日本人らが逮捕処刑された事件です。真相は、オランダ側のでっち上げとされています。
 これによって、全モルッカ諸島は完全にオランダの領有下に入りました。さらに、オランダは、ジャワ島のバタビヤを根拠地として、全東インド(現在のインドネシア)を支配します。
 
 ところが、1652年〜54年、64年〜67年の2度にわたる英蘭戦争にオランダは敗北します。この結果、戦後処理を決めたブレダ条約で、イギリスは思い切ってルン島の一切の権利を放棄する代わりに、ある島の支配権を手に入れます。
 答えは、
オランダ領ニューアムステルダム、つまり現在のニューヨークの中心であるマンハッタン島です。

 クイズ701の中の説明にあるように、1609年のハドソンの探検によってヨーロッパに知られるようになったマンハッタン島にも、イギリスよりも先にオランダが積極的に進出しました。
 1623年には「ニューネザーランド号」という船で、いくつかの家族が入植しました。
  ※イギリスからのメイフラワー号のボストン入植は、これより早い1620年
 このあと、入植者たちは定住に成功し、1626年原住民から、島全体を60ギルダーで購入します。当時の貨幣価値を推測するのは難しいですが、この時のオランダのライデン市の市役所の記録では、道の舗装に使う敷石がひとつ1ギルダーだったということですから、マンハッタン島全部の土地が、敷石60個分ということになります。むろん、現金払いではありません。60ギルダー分のガラス玉・酒類・雑貨類と交換したのです。アメリカ史ではこれは「史上最大のバーゲン」といわれています。
 オランダはこの植民地を正式に、ニューネザーランドと呼び、要塞が完成し人口も増えたその中心の町をニューアムステルダムと名付けました。

 この植民地が、2度目の英蘭戦争の結果結ばれたブレダ条約によって、ルン島の支配権と交換でイギリスの手に渡ったのです。すでに、香料諸島よりもインドに興味を持っていたイギリスとしては、分のいい交換でした。
 この町は、しばらくして、国王ヨーク公ジェームズ2世の名前に因んで、ニューヨークと改名されました。
  
※ジャイルズ・ミルトン『スパイス戦争』(2000年朝日新聞社)
  ※司馬遼太郎『街道をゆく39 ニューヨーク散歩』(1994年朝日新聞社)

 


703 ローマ教会がガリレオの裁判の誤りを認めたのは、何年後?      | ヨーロッパ近代世界の問題TOPへ |    

 こういう数字の発想のクイズは、まじめな常識派の生徒諸君ははずし、非常識な生徒諸君の方がよく当たるといった、番狂わせを生じさせる効果を持つものです。
 この場合は、予想より、はるかにのちの話なのです。

 正解は、359年後。ローマ教会が、ガリレオ・ガリレイの宗教裁判の誤りを認め、ガリレイに謝罪したのは、1992年、ついほんのこの前の出来事です。

 天動説と地動説の勉強、そして、ガリレオグッズの話です。
 この場合で言う天動説とは、2世紀にギリシアの天文学者プトレマイオスが作り上げた、静止した地球を中心として宇宙が存在しているとする理論体系です。プトレマイオス体系とも言います。この理論では、地球にもっとも近いのが月で、水星、金星、太陽が連続してならび、さらに外に火星、木星、土星、そして恒星がつづくことになっています。当時でも観測されていた惑星の複雑な動きは、周転円とよぶ小さな円軌道を描きながら地球の周りを回っているという形で説明していました。
 この説が、キリスト教の学問体系に組み込まれ、ローマ・カトリック教会によって、ヨーロッパ世界では長く唯一の「真実」とされました。

 この天動説にかわる新しい理論を作り上げたのが、コペルニクスです。
 彼は、1473年にポーランドの富裕な階級の家に生まれました。
 才能に恵まれていた彼は、当時の富裕な階級の子弟がみんなそうしたように、1496年に23歳でイタリアのボローニャ大学に留学して、天文学を学び始めました。彼が下宿したのは先輩天文学者ノバラの家でした。ノバラはプトレマイオス体系に批判的で、その影響を受けたコペルニクスは、二人で、プトレマイオス理論を検証し、1497年には月の運行に関しての誤りを証明します。

 ポーランドに帰った彼は、1512年までの間に、「梗概(こうがい)」(難しい日本語です。意味は「あらすじ」です。)という名の本を著し、新しい理論を発表しました。これが地動説、すなわち、太陽はほぼ宇宙の中心にあり、地球は1日に1度地軸の周りを自転しながら、太陽の周りを1年周期で回転しているという説です。この短い本には、その原理が記されていましたが、19世紀になるまで出版はされませんでした。
 彼の主要著書「天球の回転について」(天球回転論)は、1530年に完成しましたが、当時は、印刷機がやっと登場した時代で、本の普及は、今と違って遅々たるものでした。印刷された初版本が彼のもとに届いたのは、1543年の彼の死の直前だったといわれています。(死後という説もある)
 コペルニクスのこの著書は、当初は、数学的計算の実証のための書物という位置づけであったため、教会からは、弾圧を受けずに済みました。

 プトレマイオス体系に変わるコペルニクス体系は、惑星の動きを正しく説明できる画期的なものでしたが、惑星の位置に関する計算が難解であったことと、何より、その説を認めることは、教会権力から危険人物と見なされてしまうという理由から、彼を全面的に支持する人はなかなか現れませんでした。
 それでも、1543年から1600年の間に、10人程のコペルニクス支持者があらわれました。そのほとんどは当時の教会の権威とを同体であっ大学には属さず、国王や貴族などにつかえる学者たちでした。なかでも有名なのがガリレオ・ガリレイとドイツの天文学者ケプラーです。
 
 ケプラーは、1609年に惑星の動きに関する有名な理論、ケプラーの法則(詳しくは別で調べのところで調べてね)を述べた「新天文学」を執筆しました。天動説ではなく、コペルニクス体系の中に、さながら、神が作りたもうたと思えるような、単純な秩序が証明されたのです。

 さて、ガリレオ・ガリレイです。
 彼は、1564年イタリアのピサで生まれました。ピサの斜塔で落下の実験を行うことでも有名な彼は、1595年のにはすでにコペルニクス体系を信じていました。その理論こそが、かれの潮汐理論をうまく説明できるものだったからです。しかし、この時点では、彼はまだ天文学には興味は示していませんでした。

 1609年にオランダで望遠鏡が発明されると、彼は早速、倍率32倍の望遠鏡を自作し、はじめて、天体観測に望遠鏡を使います。これによって、月のクレーターや木星の4つの衛星を発見し、1610年には、著者『星からの使者』で公表しました。
 その後、金星の満ち欠け、太陽の黒点の観測に成功し、コペルニクス体系の正しさを主張します。

 ところが、それらの活動が、周囲の反対者の動きを活発化せさます。1613年には、ピサのある教授がガリレイが仕えるトスカナ大公家に、彼の説が異端であることを進言。1614年には、フィレンツェの司祭から公然と非難を受けました。
 
 1616年には、コペルニクスの本を検閲対象とするという教令(ローマ教会の命令)が出され、べラルミーノ枢機卿(教会の幹部)は、ガリレイに、コペルニクス体系についてはあくまで仮説としてとどめ、数学的な目的のためにだけ用い、けっして現実のこととして聖書とすりあわせるようなことをしないようにと警告し、これ以上地球が動いているという概念に固執すべきではないと命令しました。

 この後しばらくガリレイは天文学については、目立った動きをやめて沈黙を守りました。
 ところが、1624年には、プトレマイオスとコペルニクスのそれぞれの説を、地上の潮汐作用の力学と関連して論じる「天文対話」の執筆にかかります。1630年には、ローマの監察官から出版許可を得て32年に出版しました。ところが、許可を得ていたにもかかわらず、ローマの異端審問所(キリスト教の教義に反する(異端という)ものを取り締まる所)からの出頭を命じられます。1616年のベラルミーノ枢機卿の命令に反したというのが理由です。

 1633年異端審問所は、ガリレイに異端誓絶(自説、この場合はコペルニクス体系も含め、を異端であると認め、廃絶を誓うこと)を強制し、生涯にわたる投獄を宣告しました。(すぐに無期の自宅蟄居に軽減)『天文対話』は焚書にされてしまいます。

 しかし、彼は、すぐに自分の力学と天文学の集大成とも言うべき、『新科学対話』を著述します。もちろん、イタリアでの出版はできませんでしたが、オランダのライデンの書店から1638年に出版され、こののち、ニュートンが、ケプラーの法則と結びつけて万有引力の法則を見いだす起点となりました。
 ガリレイは、1642年没します。

 1965年にピサを訪問した法王パウロ6世は、ガリレイの異端審問に関して、教会の誤りであることを明言しました。その後、1979年法王ヨハネ・パウロ2世によって、有罪取り消しをもとめて判決の調査がおこなわれ、そして92年10月、教皇の委員会は有罪判決はバチカンの誤りであることを正式にみとめたのです。
 1633年の判決から、359年目のことでした。

 ガリレオ・ガリレイは、いろいろなものを発明した人としても知られています。その一つが、ガリレオ・ガリレイの温度計です。実用的ではありませんが、インテリアとしては、面白いものです。東急ハンズで売っています。3500円。

 東急ハンズ名古屋店「ガリレオ・ガリレイの温度計」


704 フランス革命中ギロチンで処刑された1日の最大人数は?        | ヨーロッパ近代世界の問題TOPへ |   

 フランス革命について書かれた本は山ほどあるでしょうが、当時の人の記録を日本語で気軽に読めるという本はそう多くはないでしょう。
 その貴重な本のひとつが、セレスタン・ギタール著レイモン・オベール編『フランス革命下の一市民の日記』(河盛好蔵監訳 中央公論社1980年)です。
 
 これは、革命当時パリに住んでいた第3身分の中でも比較的裕福な階層に属する

 中央の絵は、国王ルイ16世が処刑された直後の様子。

ギタールが付けていた日記の一部です。彼の没後出身地のシャンパーニュ州の田舎に送られ、そこで2度の大戦の戦禍をもくぐり抜け、編者のオベールの手に届き、日の目を見た物です。
 
 著者ギタールは、1724年生まれで、革命当時はいくらかの債権の価格の動きや年金の支給を心配するプチ・ブルジュアでした。
 この日記の面白い点は、恐怖におののく首都パリのビッグニュースが、折々の会話やうわさ話から集められ、小心な老ブルジュアの「日常生活」とまざりながら、一見とりとめもない記述のうちに、驚くほど生々しく、真実みを持って伝わって来ることです。

 まず始めに、フランス革命の簡単な復習です。
 フランス革命の発端は国王の失政にあります。
 フランスは太陽王と言われたルイ14世の時に華やかな繁栄の時代を過ごし ますが、彼の死後国王となったルイ15世はポーランド・オーストリ ア・イギリスとの戦争で大量にお金を使い、しかも領地を失って国家財政を 苦しくします。
 その後をルイ16世はチュルゴー、ネッケル らを登用して何とか財政再建を図りますが、イギリスに対抗するためにアメリカ独争(1776年〜83年)に介入(13州を援助)したばかりに更に借金を増やすことになります。
 事態の打開を図ろうとしたルイ16世は、1789年、長く開催されていなかった 三部会(貴族・聖職者・市民の代表からなる議会)を開催し、増税を可決しようとします。
 ところが、第三身分の反発が高まり、彼らは 6月20日に、第3身分は真に国民の代表であることを宣言し、自ら「国民議会」を称して憲法が制定されるまでは解散しない事を誓います。これを、「
球技場(テニスコート)の誓い」といいます。
 国王は、第一・第二身分の中からも同調者が現れるのを見てこの動きを承認、国民議会は憲法制定議会と称して憲法の起草にかかります。
 ところが、保守派貴族の反発に動かされた国王は、7月11日、愚かにも国民に人気のあった財務長官ネッケル を罷免します。この結果、市民の反発は急速に高まり、とうとう7月14日、バスチーユ 監獄襲撃事件が起こります。一般にはこの日をフランス 革命のスタートとみなします。

 事態を掌握したのは、三部会の市民代表に一部の聖職者・貴族が合流してで きた
国民議会でした。
 国民議会は、8月4日に封建制の廃止を決議、8月27日には「人権宣言」を採択して、国王夫妻は身柄をベルサイユからパリへ強制的に移されます。
 革命勃発当初は、王制を認めていた国民議会でしたが、1791年6月の国王夫妻のオーストリアに亡命未遂事件(
ヴァレンヌ事件)が発覚すると、国王は急速に国民の信頼を失います。

 さらに、諸外国が革命政府の打倒をはかり革命干渉軍を派遣し戦争が始まると、国王夫妻はこれに呼応してフランス軍の秘密を諸外国に漏らしているとも疑われ、ついに、1792年8月10日国王夫妻は逮捕されます。

 1792年9月男子普通選挙によって選ばれた新議員による国民公会が招集されると、マラー、ダントン、ロベスピエールらのジャコバン派が台頭してきます。
 彼らによって、国王ルイ16世は1793年1月21日に処刑、また、王妃マリー・アントワネットも、同年10月16日に処刑されました。

 通常ギロチンに人を乗せる時は落ちてくる刃を見なくて済むように 下向きに置かれますが、国民の憎しみが集中していたマリー・アントワネット は上向きに乗せられたとも伝えられています。
 ※ギロチンの模型や名前の由来等については、現物教材「ギロチン(模型)」へ 
 
国民公会に影響を与えたのが、「サン・キュロット」と呼ばれる人たちです。
 キュロットとは半ズボン(キュロットスカートは同じ語源)のことで、当時の貴族の標準的な服装で した。サンはフランス語で「ない・持たない」の意味(英語で言うとwithout)、つまり、サン・キュロットとは、キュロットを穿かない人々、すなわち、一般市民を意味する言葉です。

 その中でも有力な派閥だったのが「ジロンド党」と「ジャコバン党」ですが、 一時は穏健なジロンド派が政権を取ります。しかしこれが やがてマラーらの積極的な活動によりひっくり返り、1793年6月、ジロン ド派が国外追放されて、ジャコバン派が政権を掌握するのです。
 ジャコバン派は、執行機関の公安委員会と警察機関の保安委員会を抑えて独裁的権限を握り、反対派を次々に処刑する恐怖政治を展開します。
 

 当時、貴族や政府官吏などが極めてささいな罪でどんどん処刑されました。 質量保存の法則の発見者ラボアジェなども科学関係の政府の委員をしていた為にギロチンの露と消えます。そのギロチンの発明者ギヨチーヌ自身もギロ チンで処刑されました。
 結局このジャコバン派政権下でコンコルド広場のギロチンで処刑された人の数は10ヶ月間に2,800人にのぼると言われています。1日10人平均の計算です。またその間の全国での 処刑者は14,000人にのぼるとも言われています。

 1794年になるとジャコバン派の内紛が激化します。
 3月にロベスピエールは最大のライバルであるダントンとその一派を逮捕し、続いてエベール一派も逮捕して即裁判にかけます。無論この時代の裁判には意味がなく、死刑を宣告しなけ れば裁判官が処刑される時代。3月24日エベールらが処刑、4月5日にダントンらが処刑されました。
 ギロチンに乗せられたダントンは処刑直前 にこう叫んだと言います。「私の首をみんなに見せろ。その値打ちはある」と。

 無論、このような恐怖政治は長続きしません。
 1794年7月27日、革命暦の熱月(テルミドール)9日、カンボンやタリアンらの、ロベスピエール と対立し始めた一派が先手を打ってロベスピエール一派を根こそぎ逮捕。
 有無を言わさず翌7月28日処刑して恐怖政治を終わらせました。
 世にテルミドールの反動 と呼ばれる事件です。
 
 このロベスピエールの処刑で国民はやっと胸をなで下ろ すことができました。 タリアンらは一時的に政権を掌握するもののあまり指導力はなく、政府は混乱、やがて1799年ナポレオンのクーデターによって、新しい時代へ向けて動き出すことになります。

 また長い解説をしてしまいました。

 正解、1日に最も多く処刑された人数は、71人です。

 ギタールの日記によれば、ロベスピエールが処刑された翌日の7月29日、ジャコバン派とその共謀者71名が処刑されています。「気温は25度。暑い。」と記されています。
 ギロチンがいくら能率がよい処刑台であるとはいえ、71人の処刑は、まるで、首切り死体の大量生産工場の観があります。

 余談ですが、山川出版の世界史の教科書には、ロベスピエール等が処刑された日について、「1794年7月27日(革命暦テルミドール9日)、ついに政敵にとらえられて断頭台で処刑された」となっています。
 これでは、逮捕の日と処刑の日がともに7月27日と読めてしまい、不正確です。正しくは処刑は翌日です。大山川出版の教科書にもこのくらいのミスはあります。
 ※江上波夫・山本達郎・林健太郎・成瀬治著『詳説 世界史』(1999年山川出版)

 以下、ギタールの日記から興味深い記述を引用します。

1792年3月22日(木)

昨日、国王の名で、首切り機械の製造をフランス全土に命ずる、という布告がなされた。今後絞首刑は廃止されるだろう。

1792年4月25日(水)

今日、初めてギロチンがテストされた。処刑者はペルチエという男。3時半にグレーブ広場で首を斬り落とされた。

1793年1月17日(木)

ルイ16世に今日判決がくだされた。
 投票権を有する者745名。うち死刑を望むもの366名。禁固重労働または国外追放を望む者319名。(注 この時の出席総数は721名で、過半数は361票。きわどい票差で死刑となりました。)


705 17世紀前半のオランダを破滅に導いた過剰投資熱の対象は?    | ヨーロッパ近代世界の問題TOPへ |    

 正解、これがかの有名なチューリップです。歴史上に言うチューリップバブルです。世界の経済市場で確認できるはじめての「バブル」です。

 17世紀前半にオランダが海上の覇権を握ったことは、すでに、このページのクイズ702で説明しました。
「1598年から1605年までのあいだに、平均して年に25隻の船が西アフリカへ、20隻がブラジルへ、10隻が西インド諸島へ、そして150隻がカリブ海へ航行していた。植民地も1605年にはアンボイナに、1607年にはテルテナに建設される。工場や貿易拠点がインド洋、アマゾンの河口近く、そして(1609年には)日本に設立された。」
 ※ポール・ケネディ著鈴木主税訳『大国の興亡』(1988年草思社)P118

 この時代最強の貿易国家となったオランダには世界の富が集まります。国際貿易港アムステルダムの埠頭には、鉄・木材・ワイン・香辛料・穀物・漁獲物・麦芽・石炭・砂糖・衣料品などあらゆる物資が山のように運び込まれ、陸路を通じてヨーロッパ諸国へ送られていきました。
 
 オランダの繁栄の様は、英語でダッチの付く言葉にも示されています。「オランダ式の」を意味する Dutch は、「Ducth treat」(ダッチトリート=割り勘)、「Dutch auction」(ダッチオークション=オランダ式競売、だんだん値を下げていく)、Dutch courage(ダッチカレッジ=オランダ式勇気、酒の勢いを借りる)などの言葉に残されていますが、これはみな、当時のライバル国家であったイギリスが、オランダを悪く言う場合に使った言葉です。逆に言えば、オランダは、こんなに目の敵にされるほど経済的繁栄を謳歌していました。
 ※オランダ人と隣国ベルギー人悪態のつきあいは、こちらへ。(現代社会クイズ世界文化の諸相) 

 ものが集まるオランダには金も集まります。
 オランダ共和国の首都アムステルダムには、ヨーロッパ各国から資金が集まり、世界ではじめて、「世界の金融の中心地」となっていました。
 世界ではじめて取引所が成立し、手形や成立したばかりのオランダ東インド会社の株取引が行われていました。そして、現物の取引はもちろん、やがて、先物取引も行われはじめます。

 金が集まったオランダで、人々は信じられないものに価値を見いだし、競って購入しはじめます。それが、チューリップなのです。
 チューリップは、ユリ科の球根植物で、もともとはエジプト・シリア・イスラエルが原産地と考えられています。その地を支配したオスマン・トルコは、この美しい花をいくつか品種改良して、観賞用に仕立て上げました。
花の形が頭に巻くターバン(tullbnet)に似ていることから、トルコ人はそれをターバンにのような花、tulipanと呼びました。
 これがヨーロッパに伝わり、tulipとなったのです。


 チューリップがヨーロッパに伝えられたのは、16世紀半ばと言われています。
 これが、次第にオランダで人気を集めていきます。もともと色彩の美しい花ですから、人気を集める要素はあります。

 どの時代にでも、それほど価値のないものを貴重品だからといって買い集める人は必ずいます。切手などもそうでしょうし、植物では、ランなどがその典型です。それが、少数の愛好家に留まっているうちは、その国の経済を左右することはありません。
 ところが、国家的な投機熱の対象となると、話は別です。
 
 オランダ人は何故チューリップの球根などにお金を投じたのか?「花」についての感覚が日本人とは少し違うことについて、こう説明されています。
「それは、オランダいう国が、花に恵まれない国だったことである。この地は、1万5000年前の氷河期に植物が絶滅してしまった地域である。その後、何千年もかけて南から花はだんだん北上していったが、アルプス以北の地域は、山にさえぎられて花の植生は貧弱を極めていた。こういう地域に端正で美しく、また栽培も比較的容易なうえに色調が簡単に変化するチューリップが入ってきたのだから、人々がこの花を偏愛したとしても不思議ではなかった。」
 ※斉藤精一郎著『大崩壊が始まるとき−金融恐慌と三つのバブルの物語』(日経ビジネス人文庫2002年)P29
 
 チューリップへの人気が高まると、「チューリップが商売になる」と気が付いた人々がこぞってアムステルダムに集まり、ますます大金が投じられていきます。
 1634年には、財産があるのにチューリップの取引を行わない人は「趣味が悪い証拠」とまでいわれ、国民のすべてがチューリップに大金を投じます。チューリップ相場は跳ね上がり、投機が投機を生みます。こうして、1634年から数年間、チューリップ・バブルが発生しました。

 では、チューリップバブルの最盛期、チューリップの球根1個はいくらで取り引きされたのでしょう? 
 最高値で、球根1個、6000フロリンという記録が残っています。
 当時のオランダの通貨、フロリンというのが、今の価値にしてどのくらいのものなのか、比較は非常に難しいところです。
  「バイスロイ」という品種は、2500フロリンでした。 幸い、品物で支払った2500フロリンのうちわけが残っていますので、比較ができます。2500フロリンは以下の通りです。  
小麦 2ラスト 448フロリン
ライ麦 4ラスト 558フロリン
肥えた雄牛 4頭 480フロリン
肥えた豚 8匹 204フロリン
肥えた羊 12匹 120フロリン
ワイン大樽 2個 70フロリン
ビール 4タン 32フロリン
バター 2タン 192フロリン
チーズ 1000ポンド 120フロリン
ベッド 1式 100フロリン
洋服 1着 80フロリン
銀杯 1個 60フロリン ※斉藤精一郎前掲書 P34

 今のお金に直せば、相当の金額であることが容易に推察できます。

 このバブルは、1637年2月4日に終わりました
 一部の人間が、「そろそろだな」と思って売りに転じることが、いつの時代でも、バブルの崩壊の始まりです。そして、それがある日、大暴落となります。
 この日、殺到した売りによって市場は大混乱となり、価格は暴落しました。
 この結果、オランダ経済は深刻な破綻に見まわれました。

 球根です。これ一つからでも、授業はできます。

 しかし、このバブルのおかげで、現在のオランダは、知っての通りの、「チューリップ大国」です。
 球根の生産高は、毎年オランダの農産物生産高全体の2%であり、1997年には、100億個の球根が生産され、その4分の3が輸出されました。
  ※詳しくは、オランダ国際球根協会(IFBC)のサイトへ
 
 ところで、日本でチューリップの栽培が一番盛んな県はどこか分かりますか。
 球根の出荷額では富山県です。第2位は新潟県で、球根は北陸地方が日本の主産地です。
 切り花はとしての出荷はまた別で、徳島県が盛んです。
 チューリップの球根の値段は、1個50円から100円ぐらいです。
 やはり、1630年代のオランダは異常でした。
  ※関連するホームページです。
    チューリップの球根栽培日本一は富山県です。その中でも栽培が盛んな砺波市のサイトです。
    美しい花の写真が満載です。