| 旅行記のメニューへ  | | 全行程目次・地図へ | | 一つ前へ | |  次へ |

 佐渡金山の基本です                | 全行程目次・地図へ | | 先頭へ |

 では、旅行記に本題に入って、まずは佐渡の金山からです。
 ただし、あくまで、タイトルは、「産業遺跡訪問記 新潟佐渡・群馬富岡」です。この「産業遺跡」という所が今回のポイントです。まず最初に、
佐渡の金山について基本的な事項を確認します。

 佐渡本島にはあちこちに金鉱脈がありますが、歴史的に有名な佐渡金山といえば、佐渡北西部にある相川金山(あいかわ)です。

 相川金山は江戸幕府が開かれる(1603年)直前の1601(慶長6)年に鉱脈が発見され、発掘が開始されました。

 江戸幕府ができると、鉱山は幕府直轄となり、特に17世紀前半は多くの金を産出、幕府財政を支えました。

 ただし、産出量は、18世紀になると激減し、収入減によって幕府財政が危機に陥る原因となりました。

 そこで基本的な質問です。次の黒板クイズに挑戦してください。


 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。



左の地図は、NASA World Windhttp://worldwind.arc.nasa.gov/index.html)の写真から作製しました。

右の地図は、国土交通省のウェブマッピングシステム(試作版)のカラー空中写真から引用して作製しました。国土交通省ウェブマッピングシステム http://w3land.mlit.go.jp/WebGIS/) 元写真は、1976(昭和51)年のもので、現在の様子とは多少異なっていますが、基本的な位置関係は同じです。

 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。

 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。

| 説明図04相川金山位置図と説明図05相川金山遺跡地図へ |

 3つのクイズの内容と関連事項をまとめてみましょう。

 相川金山は、1601(慶長6)年に開山され、1989(平成元)年に閉山となりました。なんと、388年間も採掘された息の長い鉱山でした。

 明治時代となり、金山は明治政府の官営鉱山となりました。欧米から技師を招聘し、江戸時代末には年平均20kg程度の産出量となってしまっていた金山の再開発を図りました。

 1896(明治29)年、鉱山は、生野銀山・大阪精錬所とともに、173万円で三菱合名会社に払い下げられました。日本史の教科書にも掲載されている官業払い下げです。

 日中戦争期になると、金の増産が呼びかけられ、1940(昭和15)年には、佐渡鉱山史上最高の、年間産出量1538kgを記録しました。

 太平洋戦争がはじまると、金の輸出が途絶し、生産は縮小。代わって銅の生産を強化。

10

 戦後増産を試みるも、1940年前後の急激な採掘量増加によって有望な鉱床が涸渇しており、産出量は大きく増加せず。1952(昭和27)年に大幅に採掘体制を縮減。

11

 1989(平成元)年、閉山。

12

 時代別の総生産量は、期間が長かった江戸時代が最高、388年間の全産出量78トンの52%にあたる、40.9トンを産出。年代別平均産出量では、戦中期を含む1926(昭和元)年から1952(昭和27)年の昭和前半27年間が最高、年平均産出量630kg

 ここで、強調しておかなければならないのは、佐渡金山は、「江戸時代の金山」ではなく、「江戸時代から平成元年まで採掘された鉱山」だったということです。
 このことは、日本史教師の私も、1989年の閉山のニュースを聞くまでは知りませんでした。自分が中学・高校時代にはどの社会の先生も佐渡金山が「現役」であるとは、教えてくれませんでした。
 自分も佐渡金山はすっかり過去の遺物と思い、自分が教師になってからもまだ採掘が続けられていることには、気が付かなかったというわけです。面目ありません。

ここで使った数値に関しては、次の資料によりました。

株式会社ゴールデン佐渡のHP「史跡佐渡金山」http://www.sado-kinzan.com/index.php
担当のNさんには佐渡市教育委員会編の『旧佐渡鉱山近代化遺産建造物群調査報告書』を送って頂きました。感謝です。

佐渡市教育委員会のHP「金と銀の島、佐渡−鉱山とその文化−
http://www.city.sado.niigata.jp/sadobunka/kingin/index.html

井澤英二著『岩波科学ライブラリー5 よみがえる黄金のジパング』(岩波書店 1993年)


 これがかの有名な佐渡金山宗太夫坑です  | 全行程目次・地図へ | | 先頭へ |
| 説明図04相川金山位置図と説明図05相川金山遺跡地図へ |

 それでは、まずはオーソドックスな江戸時代の金山を紹介します。 


 写真02−01          (撮影日 08/08/09)  

  写真02−02      (撮影日 08/08/09)  

左:史跡佐渡金山駐車場
右:坑道入口。見学コースとして、江戸時代の坑道「宗太夫坑」と明治・大正・昭和の産業遺跡である「道遊坑」の両方のメニューがあります。常識的に江戸時代の「宗太夫坑」のコースを選びますが、それだけでなく、是非、近代産業遺跡の「道遊坑」も見学をしなければなりません。「宗太夫坑」だけなら所要時間40分ですが、「道遊坑」も見ると、その倍の1時間30分ほどかかります。料金は、「宗太夫坑」のみは800円、「道遊坑」と両方行くと、1200円です。(大人個人料金)


 写真02−03                                            (撮影日 08/08/09)  

 宗太夫坑の説明板です。

  坑内には、ちゃんといくつもの人形がディスプレイしてあり、よく分かる説明と併せて、江戸時代の状況がとてもうまく理解できます。夏でも、半袖で入坑すると、涼しいを通り越して寒いぐらいです。

 写真02−04 のみと金槌で鉱脈を掘る様子です。                 (撮影日 08/08/09)  


 写真02−05          (撮影日 08/08/09)  

  写真02−06        (撮影日 08/08/09)  

左:排水装置、つまり坑道の下部から水をくみ上げる装置です。
右:真剣なまなざしのおじさんです。排水機の筒の中には、内径にぴったりの螺旋状のくるくる回る装置が入っていて、取っ手を回すと、その回転作用によって、水が螺旋を上がってくる仕組みとなっています。
 


 写真02−07    坑内での食事の様子です。                       (撮影日 08/08/09)  


 近代産業遺跡 道遊坑です     | 全行程目次・地図へ | | 先頭へ |
| 説明図04相川金山位置図と説明図05相川金山遺跡地図へ |

 さて、次は、その余り知られていない道遊坑の紹介です。
 宗太夫坑を40分ほどで巡って金山資料館に入り、資料を一回り見た後、もう一度、同じ入口に戻り、もう一つの坑道、道遊坑に入ります。
 こちらは、明治になって官営鉱山から三菱に払い下げられたのちの1899(明治32)年に開発された坑道です。そしてこれが、1989(平成元)年の閉山時まで使われました。
 トロッコが通る主要運搬坑道で、南西側にある高任坑道につながり、さらにその下の鉱石破砕場に繋がっていました。


 写真02−06          (撮影日 08/08/09)  

  写真02−07        (撮影日 08/08/09)  

 セメントで固められた近代的な坑道です。  レールが走りトロッコが通っています。  
| 説明図04相川金山位置図と説明図05相川金山遺跡地図へ |

 写真02−08 道遊坑を出たところにある高任地区の機械工場                (撮影日 08/08/09)  


 写真02−09 電気トロッコに乗車する家族連れ。               (撮影日 08/08/09)  


 写真02−10          (撮影日 08/08/09)  

  写真02−11        (撮影日 08/08/09)  

左:1969年製の蓄電池電気機関車です。重量4トンで貨車を20両ほど牽引したそうです。
右:鉱石運搬貨車です。小さいながら鉱石を1.6トンも積載することができます。鉱石を上から積んで運びますが、降ろす時は、貨車が傾くように線路が敷かれている傾斜式荷下ろし装置のある場所で行います。傾斜によって側戸が開いて鉱石を落とす仕組みです。こういう荷下ろし装置をダンパーといいます。 


 写真02−12                                           (撮影日 08/08/09)  

上:機械工場の内部です。
左:機械工場の横にある高任の竪坑です。
 
 高任(たかとう)という名前は、東北の南部藩出身で佐渡鉱山の鉱山局長を務めた、
大島高任に由来します。
 この人物は、ペリー来航前の1840年代に江戸や長崎で蘭学を学び、鉱山・精錬の技術を身に付けました。
 藩に戻り南部大橋の地で日本で初めて西洋式の高炉を建設しました。明治維新は、新政府に出仕し南部の釜石での製鉄所建設に尽力しました。
 のち西洋人技術者と対立して南部を離れ、小坂銅山・阿仁銀山、そして佐渡金山の局長を歴任し、鉱山の採掘技術の近代化に尽力しました。

 写真02−13       (撮影日 08/08/09) 
| 説明図04相川金山位置図と説明図05相川金山遺跡地図へ |

 写真02−14  道遊の割戸(どうゆうのわれと)                      (撮影日 08/08/09)  

 「道遊の割戸」は上部は江戸時代の露天掘り、下部は近代以降の採掘によって、山の中央部が崩落した状態となっています。今佐渡金山が「売り出し」ている、お薦めの景観です。 

| 説明図04相川金山位置図と説明図05相川金山遺跡地図へ |

 写真02−15     道遊の割戸のアップです。                    (撮影日 08/08/09)  


 写真02−16  道遊の割戸の穴の内部です。                      (撮影日 08/08/09)  


 写真01−17 道遊の割戸に行く途中にある高任神社です。              (撮影日 08/08/09)  


  これで道遊坑の紹介を終わります。

 佐渡には、この道遊坑と高任地区をはじめ、明治・大正・昭和の鉱山遺物がたくさん残されています。佐渡はそれらを近代産業遺跡として、
世界文化遺産登録を目指しています。
 2008年9月26日、文化審議会の
世界文化遺産特別委員会は、「金と銀の島 佐渡」を世界遺産の国内候補のリストに追加することを決定しました。
 世界文化遺産として脚光を浴びることができるよう応援したいものです。


ついでに世界文化遺産とその候補について説明します。
これまでに
世界文化遺産に登録されたのは、2007(平成19)年までで、次の11件です。

  「法隆寺地域の仏教建築」(1993年)

「姫路城」(1993年)

「古都京都の文化財」(1994年)

「白川郷・五箇山の合掌造り」(1995年)
「原爆ドーム」(1996年)
「厳島神社」(1996年)
「古都奈良の文化財」(1998年)
「日光の社寺」(1999年)
「琉球王国グスク及び関連遺産群」(2000年)
10 「紀伊山地の霊場と参詣道」(2004年)
11

「石見銀山遺跡とその文化的景観」(2007年)


2007(平成19)年までに、世界文化遺産候補としてリストに掲載されていたのは次の8件です。

「古都鎌倉の寺院・神社ほか」(1992年)

「彦根城」(1992年)

「平泉の文化遺産」(2001年)

富岡製糸場と絹産業遺産群」(2007年)

「富士山」(2007年)
「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」(2007年)
「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」(2007年)
「国立西洋美術館本館」(2007年)

2008年9月に世界文化遺産候補リストに追加されたのは次の5件です。

(『朝日新聞』2008年9月27日)

「北海道と北東北の縄文遺産群」(青森、岩手など4道県)

「九州・山口の近代化産業遺産群」(福岡、佐賀、鹿児島など6県)

「宗像・沖ノ島と関連遺産群」(福岡)

「百舌鳥・古市古墳群」(大阪)

金と銀の島 佐渡」(新潟)

| 説明図04相川金山位置図と説明図05相川金山遺跡地図へ |
| 一つ前に戻る | | 次へ進む |