安土桃山時代1
<問題編> クイズは時代の古い順に並んでいます。答えは各問題のをクリックしてください。  
最終更新日 2012年10月29日 ※印はこの5週間に新規掲載 
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番号 掲載月日   問                     題
405 01/10/07

 鉄砲が伝来した後、日本の鍛冶たちは、苦労を重ねてその製法を修得し、当時の西洋の銃にまさるものを作り上げていきます。ところで、鉄砲の筒の部分(銃身)はどうやって作ったのでしょうか。

404 01/09/24

 1549年に日本に来たイエズス会のフランシスコザビエルは、鹿児島・平戸・山口等で2年3ヶ月にわたって布教を行い、多くの信者を作って帰っていきました。彼は本国へ帰る途中、1552年にマカオで病死します。そのあと、遺骸はインドのポルトガル領ゴアに運ばれました。ところが、そのゴアで遺体は「災難」にあいます。熱狂的な彼の崇拝者が、何かをしてしまったのです。次のうちどれでしょうか。
 ・指の一部を切って持っていってしまった  ・髪の毛を切って持っていってしまった
 ・歯を折って持っていってしまった       ・着ているものをすべて持っていってしまった 

409  12/02/06 

 高校の日本史の授業の中で、「印」(はんこ)が教科書に登場する場面が2カ所あります。(実は小学校6年生の社会科歴史分野、中学校の歴史教科書にも登場します。)
 一つは、授業がはじまってすぐの弥生時代に出てくるかの有名な「
漢委奴国王」印です。(これは現物教材で紹介しています。→こちらです。
 もうひとつが信長が使用した印、「
天下布武」の文字が刻まれた印です。
 この「
天下布武」印は3種類の形が確認されており、最初に登場した形は、楕円形です。さて、この楕円形という形は、世界の印の歴史上、どの文明のものを継承しているでしょうか?次から選んでください。
   @黄河文明  Aインダス文明  Bメソポタミア文明  Cエジプト文明 
 これだけでは、正解の選択はなかなか難しいでしょうから、解説を見てもう少しヒントを考慮に入れながら考えてみてください。 

410 

12/05/28 

 越前の戦国大名といえば朝倉氏です。その本拠地、越前一乗谷は、1471(文明3)年から100年余にわたって繁栄しました。しかし、1573(天正元)年に朝倉義景が織田信長に敗れ、越前一乗谷も信長軍の放火によって灰燼に帰しました。
 その遺跡の中から、トイレの遺構と思われる穴が発見されました。しかし、それが確かにトイレのあとと断定されたのは、その穴からある木製遺物が出土したからです。その決め手となった出土木製品とは何でしょうか。
 

411  12/05/28 

 越前一乗谷についてのクイズ、第2弾です。
 越前一乗谷からはたくさんの遺物が出土しました。写真の遺物は何に使われていたものでしょうか?解説では、正解とあわせて越前一乗谷朝倉遺跡の解説も示します。 
  

403
01/04/28

 右のマークをクリックすると写真が登場します。写真は、韓国で出版されている児童向けの偉人伝の絵本の表紙です。高校の日本史の近世史の部分にも登場するその人物とは誰でしょう。(画像からここへ戻る時は、エクスプローラーの「戻る」をクリックしてください。)

401 01/02/25

 【シリーズ関ヶ原の戦い その1】
 関ヶ原の戦いの前、徳川家康は当時大垣城に布陣していた石田三成と対峙するため、軍を美濃に進めて現在の岐阜市の西荘にある立政寺に立ち寄りました。住職は行軍の疲れをいやすため大きな柿を進呈しましたが、緊張のあまり、御前で盆から柿を落としてしまいます。戦いの前に縁起でもないことをしてしまった住職、さて、何とお詫びしたでしょう。

402 01/02/25

 【シリーズ関ヶ原の戦い その2】
 関ヶ原の戦いでは、石田三成が総大将に担いだ毛利輝元の養嗣子秀元が率いる毛利軍が、実は家康に内応していた分家の吉川広家の策略で戦闘に参加せず、三成にとっては痛い誤算となりました。戦いの最中、戦闘参加を促す三成の使者に、吉川・毛利軍は何といいわけを続けたでしょうか。

・今作戦会議中 

・今弁当を食べている

・霧で鉄砲の火薬が湿ってい

・浅野や山内の軍勢が攻め上がってくる


408

09/02/22

 【シリーズ関ヶ原の戦い その3】
 歴史の専門家でない方は、自分が生徒として学習した時代と、それから何年、何十年も経た現在とでは、歴史の学習内容が教科書の記述レベルでも大きく違っていることになかなか気付かれません。
 関ヶ原の戦いの意義・位置付けも15年前と最近とでは大きく違ってきています。ちょっと難しいですが、ここではそれを問題とします。上のシリーズその1・2とは違って、かなり専門的で難しいものです。
 次は、関ヶ原の戦いの関する現在の中学校の教科書の記述です。

2006(平成18)年版の教科書「関ヶ原の戦い」 (2005年文部科学省検定済)

「江戸幕府の成立 豊臣秀吉の死後,関東を領地とする徳川家康が勢力をのばしました。石田三成らの大名は,秀吉の子秀頼の政権を守ろうとしましたが,1600(慶長5)年,関ケ原の戦いで敗れました。家康は,全国支配の実権をにぎり,1603年には征夷大将軍に任命され,江戸幕府を開きました。1614年,1615年には豊臣氏に戦争するように仕向け,大阪の陣でほろぽしました。
 江戸幕府は,260年余りも続く平和な時代をつくりあげました。この時代を江戸時代といいます。」

 五味文彦他著『新編 新しい社会 歴史』(東京書籍 2006年)P90 
  ※赤太字は引用者が施しました

 これを読むと、徳川家康は関ヶ原の戦いの勝利によって、「全国支配の実権をにぎ」ったと解釈できます。
 しかし、この解釈は古典的すぎて、現代の研究では、これとはかなり異なる「関ヶ原の戦いの位置づけ」がなされています。
 教科書の古典的な解釈と現代の研究水準とでは、どのように異なっているでしょうか?

406 01/10/22

 右の?をクリックしてください。グラフが現れます。これは応仁の乱から島原の乱までの170年間の文書を調査し、戦場でどのような武器で死亡・負傷したかを原因別に統計したものです。一番多いのは、刀・鉄砲・槍・弓矢のうち、何によるダメージでしょう。

407 03/12/21

 ポルトガル語に、biombo、bonzoという単語があります。この意味は何でしょうか。ヒント、もともとは日本語です。

412 12/10/29

 次の4つの寺は、日本史に登場する超有名な寺です。この寺のうちの一つの近くには、安土桃山時代の武将も含めた歴史上の有名な人物や一族の墓が集中する墓域があります。さてどの寺でしょうか。
 1 
奈良唐招提寺   2 比叡山延暦寺   3 高野山金剛峯寺  4 京都東本願寺
 
 ヒント、そこに墓が集中した理由は、その寺の創始者(1鑑真 2最澄 3 空海 4親鸞) が多くの人々の信仰を集め、その人物が祀られている廟の近くに、墓が集まったためです。


<解説編>

401 柿を落とした立政寺住職のいいわけは何でしょう。           問題へ 

 【シリーズ関ヶ原の戦い その1】
 家康は、大垣城にいる石田三成らの西軍と対峙するため、9月14日に尾張から美濃赤坂に移動し、その途中で、現在の岐阜市の西部にある立政寺(りゅうしょうじ)に立ち寄りました。
 柿を落とした和尚は、とっさの機転で、「
内府(家康は内大臣)、これはめでたや。みごと、大柿(おおがき)が落ちましてございます。」といったと伝えられています。つまり、三成のいる大垣城の落城と引っかけたのです。
 これに喜んだ家康は、立政寺に50石の領地を与え、これは続く江戸時代に、御朱印地(家康から直接朱印状をもらって得られた領地)として継承され、立政寺の寺格を高めました。1987年当時の住職の話では、山門内側にある、「御車寄下乗」の文字は、身分が高い人でもここで下馬下乗しなければならなかったことを示しているそうです。
 立政寺は浄土宗(西山派)の寺で、江戸時代は、同宗同派の美濃地方の拠点でした。    
 住職が機転を効かしたおかげで本当に寺領をもらったかどうかの資料上の確認はできません。あくまで言い伝えです。しかし、江戸時代に御朱印地を相承したことは、岐阜県史等に明らかになっています。

 

※『岐阜県史通史編近世下』P702、『岐阜市史通史編近世』P655、
   『岐阜県の歴史散歩』(1988年山川出版)P73(この本の岐阜の項目は、私が担当しました。)

【家康と三成】
 徳川家康軍(東軍)と石田三成軍(西軍)の動きは、以下の年表のとおりです。家康は9月14日に、上図のように移動し、その途中で立政寺に立ち寄りました。
 

慶長5年(1600年)の動き(旧暦表記)
 6月16日家康、京都伏見城の守りを家臣鳥居元忠に依頼。
 7月19日三成、伏見城総攻撃を開始。
 7月21日家康、会津(福島県)の上杉景勝征伐のため、諸将を率いて江戸を出発。
 7月24日下総(栃木県)小山で家康軍作戦会議。会津征伐を中止し豊臣秀吉の家臣、黒田長政・
      福島正則ら諸将を味方とし、三成との決戦を決意。
 8月11日三成(西軍)、美濃大垣城に布陣。大垣・関ヶ原一帯を決戦地域と想定して準備を進める。
 8月23日家康軍(東軍)先鋒隊、美濃岐阜城を攻撃。
      落城後、美濃赤坂(現在の大垣市北部)に布陣。
 9月01日家康、江戸を出発。
 9月02日西軍主力宇喜多秀家、大垣城入城。
 9月11日家康、尾張(愛知県)清洲城到着。
 9月14日家康、清洲出発。午後、美濃赤坂に布陣。
      夜に入って、雨の中西軍主力大垣城を離れ、関ヶ原に向かう。
 9月15日午前1時頃、西軍主力は関ヶ原に布陣。
      午前3時頃、東軍主力は赤坂を出発。5時関ヶ原に布陣。
      8時過ぎ、両軍戦闘に入る。


402 石田三成の催促に吉川・毛利軍は何と言い訳したでしょう。     問題へ 

 【シリーズ関ヶ原の戦い その2】
 正解は、「
今弁当を食っている」です。石田三成の再三の督促にも、何度もこう答え続けたため、のち、「毛利の長弁当」といわれました。
 さて、関ヶ原の戦いです。まずは、当日の両軍配置図を示します。

 明治になって、日本陸軍の教官としてドイツ帝国からやってきたあるドイツ将校は、途中の行動を教えられずにこの配置図だけ見て、「この戦いは西軍が勝利したに違いない」と答えたそうです。緑の西軍は、東軍を包み込むように位置しており、西軍方武将がすべて、その名前の通り戦っていたら、石田三成の勝利は、揺るぎないものだったでしょう。
 ところが、現実は違ったのです。

【関ヶ原の戦いにおける豊臣家臣団と徳川家臣団・・・勝敗の帰趨を決定したもの】 
 毛利輝元が西軍の総大将として大坂城にいるにもかかわらず、毛利家の分家である吉川広家は、家康と通じ、陣を布いた南宮山から降りるつもりはありませんでした。当然、おじの吉川を後見人としている毛利秀元も、参戦することはできません。第一、これから戦うというときに、高さ419mあまりもある山の中腹より上に登ってしまっていること自体、すでにはじめから傍観を決めているようなものでした。
 
 そして、小早川秀秋です。
 彼は、幼いころ一時秀吉の養子となり、秀吉にも、北の政所にも可愛がられたのですが、生来の主体性のなさから家康に誘われ、闘いの帰趨決する裏切りをすることになります。
 
 闘いの当日においては、上記のことが最終的に勝敗を決めたことは間違いありません。しかし、関ヶ原の戦いは、戦った武将の顔ぶれからすれば、豊臣家の家臣団が二つに分裂して、その片方を率いた家康が、もう片方を率いた三成を破ったという戦いになります。
  秀吉は一代で天下を人ととなった偉大な人物ですが、それ故に、家臣団も秀吉一代の間に作り上げられたものです。その家臣団が三成派(行政官僚タイプ、統一過程及び統一後の行政で台頭)と反三成派(武将派タイプ、戦闘で活躍。加藤清正、福島正則ら)に分裂し、後者が、家康にうまく利用され、その他にも機を見るに聡い武将たちが、家康に組みしたため、三成の勝機は消え去りました。
  三成と福島正則らが何故争い分裂しなければならなかったかは、この闘いをテーマに詳しい授業をする場合の最も面白い部分です。政策の遂行で手柄を立てる、具体的には、検地業務や闘いの兵站業務に秀でる、象徴的にいえば、そろばんと文筆で出世したものに対する、誇り高き武将派の嫉妬といえばそれまでですが、これは会社組織でも、どんな組織でも、あってはまる理屈です。
 私の授業では、勝手に「たこ焼きカンパニーの理論」なるものをつくって、生徒に理解させました。
 
 私が教師を辞めて、妻と屋台のたこ焼きをはじめます。ちょうど就職に困っていた教え子のA・B・C君も一緒に参加します。みんなで、具が何がいいか考え、たれは、たこはと必死になって、おいしいたこ焼きを作ります。そのかいあって、たこ焼きは売れに売れ、20年後には、世界チェーンの「たこ焼きカンパニー」に成長します。A君は西日本支社長、B君は東日本支社長、そしてC君はニューヨーク北米総支社長です。
 
 ところが、会社成長の過程で、有名大学卒で、経理と国際戦略に明るく、コンピュータが自在に扱えるD君が入社し、めきめき頭角を現し、あっというまに本社総合政策部長として、実権をふるいます。会社の維持のため、利益を上げるため、A君がその昔開発した「たれ」とは違うものが採用されます。B君がこだわる瀬戸内海のたことは違う、マダガスカル沖の安いたこが採用となります。
 A君・B君・C君は、時に集まって、愚痴をこぼします。「たこ焼きの焼き方も知らない男に何がわかるか。俺たちの手には、創業時からのたこやキャベツのにおいが染み付いている。」

 その時、社長である私が死ぬのです。D君と、途中参加ながら実力者のE専務が後継者を争ったとしたら、A君・B君・C君はどちらに味方するか。
 こんな話を授業で、20年以上してきました。

 さて、三成です。
 司馬遼太郎氏は、「石田三成、かみそりのように切れる頭を持つ。しかし、かみそりでは木は切れない。」と評しておられます。現実にどんな人物であったか、正確に知る由はありませんが、完璧主義者にありがちな、目的遂行のあまり、「他人の誇りを傷つける」タイプであったような気がします。 

 家臣団といえば家康の方は、対照的でした。
 弱小大名とはいえ三河岡崎以来の家臣団に分裂のおそれなどありません。上の年表の一番上にも記載しましたが、鳥井元忠のように、先祖も代々、そして本人は家康自身の幼少時代から徳川家を支えてきた三河武士がたくさんいます。

 家康は、鳥居に伏見城の守りを頼みます。それは、三成が反旗を翻した場合、真っ先に討ち死にする事を意味しました。家康には、その命令を下せるだけ家臣がいました。喜んで死んでいく家臣がいました。封建制度というのは過去の遺物ですが、「大河ドラマ」などを見ると、「忠義」などという武士的道徳に、時に感銘を覚えてしまうこともあります。
 
 きっと、守りを託す伏見城の天守で、家康と鳥井元忠は一杯飲みながら、人質になったりした昔の苦労話を懐かしく話し、二人だけの最後の別れの宴を持ったのでしょう。いよいよと言う時になって、特に難しい説明はいらないでしょう。家康は元忠の手を握り、「元忠、頼む」といったはずです。元忠はおそらく「喜んで」と答えたのではないでしょうか。そして、二人の男の目に涙。
 
 これも勝手に想像して、20何年授業で話してきました。資料的裏付けはありません。
 まさしく、「歴史の教師は見てきたようにうそを付く」です。でも思っています。意味のある嘘なら、ちょっとぐらい許されると。
  ※司馬遼太郎『関ヶ原 上・中・下』(1966年新潮社)、
   加来耕一『家康の天下取り』(1993年日本経済新聞社)


【追加記述】 以下の説明は、2012年5月21日に追加記載しました。
 現地に立ってみると、関ヶ原の戦いの様子がよくわかります。

 写真402−01北側から見た南宮山                          (撮影日 01/05/06)

 南宮山は、東西に長い独立の山です。写真中央やや右よりの最高峰は、419mあります。吉川軍・毛利軍が陣取った左手の峰でも300m前後あります。こんな所に昇ってしまった毛利軍・吉川軍は、はじめから戦うつもりはありませんでした。まさに高みの見物です。  

 写真402−02 石田三成本陣から、家康の本陣のあった桃配山方面を臨んだ写真です。 (撮影日 01/05/06)

 背後の南宮山から西へ続く小峰が桃配山です。この写真の撮影地点と桃配山との間の平地が、両軍の激戦地です。  

 写真402−03 石田三成本陣の笹尾山前の鉄砲隊              (撮影日 01/05/06)

 もちろん現代の復元鉄砲隊です。火縄銃の発砲については、→目から鱗「火蓋を切る」をご覧ください。  


403 韓国の絵本の主人公は誰でしょう。                         問題へ 

 豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に、朝鮮水軍を率いて大活躍した、李舜臣です。

李舜臣

 高校で最も多く採用されている日本史Bの教科書である石井進・笠原一男・児玉幸太・笹山晴生著『詳説日本史』(1999年山川出版)では、「釜山に上陸した日本軍は、新兵器の鉄砲の威力などによってまもなく漢城(現、ソウル)をおとしいれ、さらに平壌(現、ピョンヤン)も占領した。しかし、李舜臣の率いる朝鮮水軍の活躍や朝鮮義兵の抵抗、明の援軍により補給路をたたれ、しだいに戦局は不利になった。」(P159)と書かれています。
 
 秀吉が明国の征服という野望を持ち、朝鮮に出兵した動機は、細かく分析すればいろいろ考えられます。基本的には、200年後のナポレオンがそうであったように、功成し遂げたも者に特有のあくなき欲望にあるでしょう。また、現実的には、統一によって戦時体制から平時の統治体制へ移行しなければならなくなった時に生じた様々な矛盾が、再び戦時体制の継続によって解消できるという面もあったに違いありません。
 
 天正20年(途中で文禄元年に改元)1592年、宇喜多秀家・福島正則・小西行長・加藤清正ら総計15万8千人の朝鮮遠征軍が編成され、この年4月から朝鮮に出陣しました。
 加藤清正隊は遠く会寧(現在のロシアとの国境近くの町)まで進出しています。
 破竹の勢いで進んだ日本軍の勢いを止めたのが、地主層に率いられた朝鮮民衆の抵抗運動と、全羅左道水軍節度使という役職にあった、李舜臣の活躍です。李は、亀甲船と呼ばれる大型戦艦を率いて、藤堂高虎の率いる日本水軍を覆滅しました。
 この時同時に明の援軍が漢城の奪回に現れ、不利な要素を考慮した秀吉は、明の使節との和睦交渉に入ります。
  ※熱田公『集英社版日本の歴史J 天下統一』(1992年集英社)

 韓国では、この朝鮮出兵(文禄・慶長の役)は、昔から「壬辰倭乱」と表現されており、小学校の教科書には次のように書かれています。
 「それでも学士(文官)たち、僧侶たち、農民たちは各地で義兵を起こし、日本軍の侵入軍を悩ました。なかでも水軍をひきいた李舜臣の活躍はめざましく、倭軍はやがて撃退された。(国定小学校6年生用教科書 1977年)
  ※別技篤彦『世界の教科書は日本をどう教えているか』(1992年白水社)P85

 活躍をねたまれて一時獄につながれますが、慶長の役の際に再び指揮を任され、明艦隊と朝鮮艦隊を率いてまたしても日本を破ります。この時彼は、銃弾に左脇腹を射抜かれて、それがもとで戦死しました。現在、釜山とソウルに銅像が建立されています。日露戦争時の日本海軍の指揮官東郷平八郎も李の功績を高く評価しており、日本海海戦におもむく時、李の霊に戦勝を祈願したと伝えられています。
  ※司馬遼太郎『街道をゆく2 韓のくに紀行』P50(1978年朝日文庫)
 
 日本史の授業ではあまり気にもとめられない人物ですが、韓国では、スーパーヒーローです。

  ※掲載書は、以下の書店で購入ができます。電話注文もOKです。定価1312円(送料400円)です。
   株式会社 高麗書林(こましょりん) 〒101-0061 東京都千代田区三崎町3−4−8
          山田ビル2F   T 03-3262-6801 F 03-3262-6878 URL http://www.komabook.co.jp/


404 ザビエルの遺体が受けた災難とは何でしょう。                          問題へ 

 遺骸は、ゴアの聖ポーロ聖堂に運ばれ、棺から出されて、三日間一般参観が許されました。1554年3月16日から18日のことです。この時事件が発生しました。参観者の一人、イサベラ・ド・カロンという貴婦人が、遺骸の足に接吻したと思うと、いきなり右足の薬指と小指を噛みきってそのまま口に含んで逃げ去ったのです。
 
 カロンは生涯その指を大切にし、死ぬ時に聖堂に返しました。二個の足の指はその後も聖堂に保管され、1902年には、そのうちの1個がザビエルの生まれ故郷のスペイン北部の家に戻されています。
  ※司馬遼太郎著『街道をゆく22 南蛮の道T(朝日文庫版)』(朝日新聞社1988年)P37

 このような日本人から見ればいささか奇異な「宗教的情熱」について説明すると同時に、ザビエルの生涯についても復習します。
 フランシスコ・デ・ザビエルは、1506年スペインのピレネー山脈に近いバスク地方のナバラ王国の城主の3男として生まれました。
 隣国カスティリアに占領され父が逃亡すると言う苦難の少年時代を過ごしたのち、パリ大学に留学します。ここで、世界史の教科書にも登場するイグナティウス・ロヨラと出会います。10歳以上の年長のロヨラの影響を受けたザビエルは、彼やその同士と一緒に、カトリック教の布教団体イエズス会を結成します。1534年のことです。

 1541年ポルトガル国王ジョアン3世はインド方面の布教のためイエズス会士を派遣することを決め、ザビエルはローマ教皇の使節という高い格式をもらってインドのゴアに向かいます。ゴアを拠点に南インド・セイロン・マラッカ・モルッカ諸島などに布教活動を行ううち、1547年マラッカで鹿児島出身の日本人アンジローと出会います。殺人を犯して故郷から逃げだしポルトガル商人に助けられてゴアで洗礼を受けていたアンジローは、ザビエルに日本の情報を教え、キリスト教の教えを日本語に翻訳する手助けもしました。
 
 このようなことがザビエルの日本布教を決断させます。
 1549年ザビエルは鹿児島に上陸、10ヶ月間滞在して布教と日本語の習得に務めました。翌年天皇から布教許可を得るため京都に向かいますが、京都の衰退を目にした彼は許可を得るのをあきらめ、当時西の京都と呼ばれて文化が栄えていた大内義隆のおさめる山口におもむき、布教活動を行います。
 そのあと、大友宗麟のおさめる豊後府内におもむき、宗麟にも謁見しています。

 所期の目的を達したザビエルは、次ぎに中国での布教を計画し、日本のことは他の宣教師と弟子に任せ、1552年日本を発ちゴアに戻ります。ついで中国へ向けて出発し、マラッカを経て、マカオの近くの小島に上陸しますが、そこで病没しました。

 ポルトガル人たちは、ザビエルの遺骸を棺の中に石灰を詰めて納め、それを海岸に埋めました。それから2ヶ月半ののち遺骸を船で運ぶべく掘り返してみると、まるで生きているようでした。キリスト教では、よくこういった奇跡が信仰の対象となります。
 次ぎに遺体はマラッカの聖堂に運ばれここで2度目の埋葬がなされます。ところが、ところが、また2ヶ月ほどして掘り返してみると(キリスト教徒はよほど掘り返すのが好き)、遺体はなおまるで生きているかのような状態でした。驚いた人々は、以後は棺の中に納めたまま聖堂に安置します。

 この話が伝わったゴア(ポルトガルの東アジアの根拠地)では、一刻もはやく奇跡の人ザビエルを見たいと言うわけで、遺体はまた船でゴアに運ばれます。船が着いた時は、ゴア中の教会の鐘が鳴らされ、総督以下ゴアの要人がすべて港まで出迎え、群衆がひしめき合う状態だったと伝えられています。
 そして、一般参観が許され、この問題のの事件が発生したのです。

 このあとさらに、遺体にまつわる話は続きます。
 1614年になって、ローマ教皇庁から「遺体の右腕を切断して送れ」との命令が届きます。ザビエルの遺体の奇跡はローマ教皇まで伝わっており、ローマでは、ザビエルをキリスト教の布教に貢献し奇跡を起こした人として「聖人」に列するかどうかの検討を始めていました。その証拠として、遺体の一部が必要だったのです。こうして右腕は、切断されてローマに運ばれ、確認ののち、ザビエルは晴れて、1622年に教皇より聖人に列せられました。 

 1904年には、教皇ピウス10世によって信仰布教の守護者と位置づけられました。のち、日本カトリック教会も日本の守護者とし、12月3日はザビエルを祝う日となっています。

 1949年には、ザビエル上陸400年祭が日本で行われ、なんと、その右手が箱に収まって日本で展示されました。中味は見ることができなかったそうです。


405 鉄砲の筒の部分(銃身)の作り方は?                                問題へ 

 教科書等でご存じのように、鉄砲(火縄銃)は、1543年8月25日に種子島に流れ着いた中国船に乗っていたポルトガル人によって伝えられました。実射によってその威力を確認した領主の種子島時堯は、大金を積んで鉄砲2挺を買い取り、家臣の篠川小四郎に火薬の調合方法を学ばせた。
 また、時堯は鍛冶職人に模造品の製作を命じたが、よく知られているように、底の塞ぎ方が分からず、なかなか作ることができませんでした。ところが、翌年またポルトガル人が渡来し、その中に鍛冶師がいてようやく底の塞ぎ方(ねじを切って塞ぐ)を学ぶことができました。数十挺の模造品が完成するのは、入手して以来1年後のことでした。

 鉄砲の製造は、種子島までやってきた、紀州根来寺の僧侶杉坊(すぎのぼう)や、泉州堺の商人橘屋又三郎らによって近畿地方に伝えられていきました。やがては、近江の国友も鉄砲の産地となります。
 鉄砲が実戦に使われたことが最初に確認できる資料は京都の貴族山科言継の日記『言継卿記』で、天文19年、1550年7月に京都で細川晴元軍と三好長慶軍が戦った時、鉄砲が使用されて、戦死者が出たと記録されています。
 ※池上裕子著『集英社版日本の歴史I 戦国の群像』(1992年集英社)
 ※火縄銃の模造品は 現物教材「火縄銃(これは高価でした)」へ
 
 さて、鉄砲に関するクイズをいろいろ考えてみましたが、たとえば、上述の底(銃底部)の塞ぎ方は、いろいろなところに書かれていて、生徒は結構よく知っています。そこで、生徒に知恵を使わせ、なおかついろいろな学習につながるという意味で、この筒の部分の作り方という問題を考えました。

 
正解は、鉄の棒を芯にして、細く薄い鉄の板を螺旋状に巻き付け、赤く焼いた後鍛練を重ねると言うものです。

 正確には、筒の作成は2段階に分かれています。最初の筒作成は、ただの細長い鉄板を、心棒となる鉄のまわりに巻き付ける作業です。


 そして第2段階として、細長い鉄板を第1段階で作った筒の上に巻き付けて仕上げるのです。こうしないと、筒の強度を保つことはできません。
 ※この2枚の写真は、滋賀県の近江国友鉄砲の里資料館で撮影。


 誤った答えとしては、鉄を鋳型に流し込むとか、鉄の棒に穴を空けるとかが出てきます。
 鉄砲の作り方が、刀を作ることを仕事とする鍛冶師のいるところに伝わっていくと言うところが重要なヒントです。鋳物を作る鋳物師のいるところへは伝わりません。鋳物では、銃身が火薬の爆発にたえるほどの強度を保つことはできません。
 鉄を筒状に巻いていくという製法が生徒には理解しづらいので、授業の時はいつもトイレットペーパーの芯を持っていきます。この芯は、幅数センチの厚紙を螺旋状に巻いて作ってあるので、解体して見せれば、一目瞭然です。

 ※津本陽・所荘吉「戦国火縄銃無頼」鈴木健二編『NHK歴史への招待28』(1984年日本放送出版協会)

 鉄砲は弓矢に比べれば、格段に威力のある飛び道具でした。しかし、決定的な欠点は、当時の先込め(銃の先=銃口から火薬と玉を入れる)の火縄銃では、次弾発射まで早くとも30秒近くかかってしまうことです。弓矢なら、当時の手慣れた武士ならほんの数秒で次を射ることができます。
 授業では、この次弾発射まで30秒を、きわめてリアルに説明しなければなりません。もし相手が、騎馬隊であるとして、初弾をはずしたらどうなるか?
 
 この時代の鉄砲の有効最大射程距離は200メートル。しかし、50メートルを超すと命中精度は急速に悪くなります。実戦では敵を100メートルぐらいまで引きつけて発射しなければなりません。
 そこで、不幸に初弾がはずれたとしましょう。次弾発射までの間に、騎馬隊はどれだけ進んでくるのでしょうか。いつか、プロ野球の盗塁王の選手と、馬とを競争させるテレビ番組がありましたが、野球の塁間のような短い距離ならともかく、100メートル・200メートルともなれば、人間より馬が早いのは当然です。30秒もあれば、騎馬隊はゆうに150メートルは進軍します。つまり、初弾をはずしたら、何の障害もない平地であれば、次弾を発射する前に、馬に蹴散らされてしまうことになるのです。

 織田信長と徳川家康の連合軍が、武田勝頼の騎馬隊を破ったとして有名な長篠の戦いの説明は、これだけのリアリティがあってこそ面白いものになります。長篠の合戦図屏風に見られる馬防柵の意味も理解できるでしょう。

 もっとも、この時の武田勝頼は、自軍の騎馬隊の威力を過信して、僅か6000の兵力で、およそ15000(つまり3倍)の敵が馬防柵を作って待ちかまえる所へ無理矢理にせめさせました。したがって、織田・徳川の勝利は、信長の鉄砲を用いた作戦に、武田勝頼が無謀にも挑んでしまったところにありました。

 ※熱田公著『集英社版日本の歴史J 天下統一』(1992年集英社)
 長篠の戦いについては、目から鱗「銃砲と歴史:長篠の戦い01〜04」(→)で詳しく説明しています。
 


406 戦場における傷の原因は何か?                                 問題へ 

 鈴木眞哉氏が、1467年の応仁の乱から1637年の島原の乱までの170年間に起こった戦いについて、調査できる限り、死亡者や傷を負ったものの原因を調べました。その方法は、軍忠状の分析です。
 軍忠状とは、武士が戦いのあと、自分や従者の戦場での活躍ぶりや戦死の状況を報告するために自分の大将に提出する書類のことです。

 調査することができた1461人のうち、最も多い604例が、弓矢による傷でした。2位は286例の鉄砲傷です。
 もっとも、調査期間のうちの前半のおよそ80年間は、武器としては鉄砲はあまり使われていませんでしたので、後半だけに限ると、鉄砲傷の比率は44%になるそうです。
 全期間の第3位は、槍による傷です。
 刀は、ひとつとんで第5位、全体の僅3.8%です。武士というと刀というイメージがありますが、戦場では、刀による斬り合いという接近戦は最後の手段で、斬り合いによる負傷はほんの僅かです。
 刀は、むしろ、敵の首を刎ねるための武器でした。

 ところで、第4位の10.3%は何でしょう。
 これだけでも別のクイズになります。
 正解は、石・礫(つぶて)によるけがです。

 戦場においては、飛び道具がまず有効であるのは、日本の戦国時代の昔も、アフガン侵略の今も、あまり変わらないようです。
  ※谷口克広著『目からウロコの戦国時代』(2000年PHP研究所)P190