江戸時代6

<解説編>
 518 落語『紀州』の落ちは?            | クイズ江戸時代の問題へ |   | 現物教材メニューへ |    

 解説編といいながら、問題編ではちゃんとした問題になっていませんので、まずちゃんとした問題を示します。

 落語『紀州』の内容については、次の二つの資料で確認しました。

江國滋・大西信行・永井啓夫・矢野誠一・三田純一著『古典落語大系 第4巻』(1993年第1版5刷、全8巻で約200噺を掲載 )

CD『NHK落語名人選54 五代目古今亭志ん生 泣き塩 紀州 権兵衛狸 六尺棒』(NHKサービスセンター 1994年)


 1 問題とこの噺の解説  2 答え・現物教材紹介  3 歴史的事実  4 安楽庵策伝

 1 問題      | 目次へ |

 落語『紀州』は、第7代将軍徳川家継が7歳の若年で死亡し、御三家の一つ紀伊(紀州)徳川家から吉宗が後継者に迎えられ、新しく第8代将軍となったことを題材としています。
 但し、落語ですから、そんな固い話題がテーマというわけではありません。落語のテーマは、あくまで、そそっかしい話、市井の面白い話が主役です。
 この噺では、ひとつは「人間は何かそうしたいと思っていると耳から聞こえる物音や声が自分の都合のいいように聞こえる」というのがテーマになっています。その例として、「自分の妻がそろそろ飽きてきて、誰か不倫相手が欲しいなという気持ちでいる」と、おっとこれは極めて現代的な用語使いでした。落語では、昔の噺ですから、「妾が欲しいなと思っている」時となっています。このあたり、現代の高校生に落語を聞かせる場合に苦労するところです。使われている用語が分かりません。また、分かろうとする興味や素養にも欠けています。話を本題に戻します。
 「
妾が欲しい」時に、商売屋さんの街角で声がします。「お好みの妾
 昔は、行商、露天商などいろいろな商売が道路上に存在し、現在の数少ない生き残りの「竿竹屋」さんのように、いろいろな声をかけていたものでした。
 それにしても、「
お好みの妾」なんて、お妾さんを売り歩いている人なんかいません。正体は何かというと、「のこぎりの目立て」屋さんのかけ声を聞き違えたという話です。
 
のこぎりの目立て屋さんというのも現在では見られないのでしょうか?両刃のこぎりの歯を調整する商売が、のこぎりの目立て業です。

ご存じでない方、こちらに映像があります。(鳴門教育大学の「匠の技を見てみよう」です。)http://www.secsch.naruto-u.ac.jp/~tokugika/kyoushitu/takumi/index.html 

 話がなかなか進みません。(--;)
 この噺の中には、こういう「欲望が背景にあるが故の聞き違え」の例がたくさん出てきます。古今亭志ん生師匠は、この『紀州』の噺を全体で12分40秒でやっていますが、このうち、前半の5分40秒をこの人間の錯覚の例に費やしています。

 この原理が十分に理解できたら、ようやく本題です。
 徳川本家の
家継が僅か7歳で当然跡継ぎを作らずに死亡したため、こういう時のために準備されていた分家、御三家の当主から第8代将軍を決めることになりました。この噺の主役は、吉宗ではなく尾張の第6代藩主徳川継友です。噺の中では、「尾州公」と表現されています。ちなみに、吉宗の方は「紀州公」です。尾州と紀州では、藩祖の兄弟の順番からいって尾州が上位です。尾州公は次期将軍になることについては、やる気満々です。

御三家の3番目、常陸の水戸藩は、形式的に他の2家より格下と見られていたため、この噺には登場しません。朝廷からもらう最高官職は、他のニ家は大納言ですが、水戸家は権中納言でした。

 
 いよいよ今日は江戸城で将軍の跡目(後継者)を決めるという日、尾張公は朝の早い内に屋敷を出ます。お供を従えた籠が尾張藩上屋敷から江戸城に向かいます。当時の稼業として朝早くから営業しているのが、豆腐や
鍛冶屋だったそうです。この鍛冶屋さんというのが、この噺の蔭の主役です。

豆腐屋さんが早起きなのは保存設備がない昔、その日の朝に作ってその日のうちに売るということから分かりますが、鍛冶屋が早起きなのは何ででしょうか?
 そもそも鍛冶屋さんですが、今では町では見かけませんが、昔は、刀などの刃物・大工道具・農具等を鍛造したり接合したり、修理したりする稼業として町中に必ず存在したものでした。朝早くから営業するのは、火を使うために気温が低い時間から営業するようにしたのでしょうか、それとも、朝の時間に火を使うということに、宗教的な意味合いを持たせていたからでしょうか。


 
鍛冶屋の槌の音というものは、誠に威勢のいいもので、親方が槌を「とォん」と入れると、弟子がこれに合わせて「むこう槌」というのを、「てんかァん」とうちます。「とォん、てんかァんとォん、てんかァん。」
 これが、将軍になりたいと思っている尾州公の耳には、「
とォん、てんかァん」とは聞こえません。これからお城へ上がって、将軍の身になろうというのですから、この鍛冶屋の槌の音が、「てんかとォル」「てんかトール」「天下取る」と聞こえました。尾州公はこれはさい先がよいと思って登城します。
 
 江戸城の大広間で会議が開かれます。
 噺では、相模小田原の城主大久保加賀守(老中かなんかの設定です)が尾州公、紀州公の順番で将軍になる真意を確認します。まず、尾州公の前で、口上を述べます。
「この度は七代の君、ご他界に相成り、お跡目これなく、下万民扶育のため仕官(将軍への就任受諾)あってしかるべし。」
 ここで尾州公がひとこと、「引き受けた」旨の言葉を発すればそれで済んでしまったのです。しかし、人間には
見栄というものがあります。軽く引き受けたのでは安っぽく思われてしまうから一度は辞退しようというわけで、
「余は徳薄うして、その任にあらず」と返答しました。
 次に同じ事を聞かれる紀州公も同じように一度は辞退するだろうから、その後もう一度尾州公へ依頼があった時、「それでは」と受諾するつもりだったわけです。
 ところが、紀州公は、
「余は徳薄うして、その任にあらず。なれども、下万民のためとあらば仕官いたすべし」と返答し、あっさり紀州公に決まってしまいました。
 がっかりしたのは尾州公です。見栄を張って本心とは違うことを言ったが為に、将軍の跡目という大きな獲物を逃がしてしまいました。この噺の2つ目のテーマは、「いらぬ見栄を張ると自分の希望が達成できない」です。
 
 落胆して江戸城をあとにした尾州公ですが、先ほどの鍛冶屋のところまで来ると、親方と弟子が相変わらず、「
とォん、てんかァん」とやっています。先ほどのことがあっても、なお尾州公の耳には、「天下取る」と聞こえます。尾州公はこの期に及んでも、都合よくこう考えます。
「ははぁ、さては紀州公。一旦将軍職就任を受諾しておいて、『まだ若年故に尾州公によろしく頼む』と使者でもよこすに違いない。鍛冶屋が「
天下取る」と言っているのだから間違いはない。」
 そう思って、にっこりと笑った尾州公、籠の垂れをあげて、自分の目で鍛冶屋の店先を注目します。
 すると、これまで、「とォん、てんかァん」「天下取る」とやっていた鍛冶屋が・・・・・・・。

 ひぇーい、長い長い問題でした。このあとがこの落語の最後の
落ちの部分です。そこでクイズの問題です。鍛冶屋が次のある動作をします。その時にある擬音が発生して、尾州公は自分に将軍職(天下)が回ってこないことを悟らされます。
 さて、鍛治屋(親方)の行為と擬音とは、何でしょうか。 
   


 2 答え・現物教材紹介   | 目次へ |

 この落語を知っている方はともかく、上述の質問の仕方でいきなり正解が出る方は、天才です。ヒントを出しながら正解にたどり着きますので、次の黒板を順にクリックしていいってください。 


 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。


 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。


 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。


 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。

 時間がかかって済みません。
 つまり、「とォん、てんかァん」「天下取る」と槌を打っていた親方が、鉄がだんだん冷えてきたので、ここらで限界と、
水の中に入れて焼きを入れます。これは。鍛治屋の仕事がお分かりの方は簡単ですね。
 普通はその時の擬音語は、「
ジュウー」でしょうね。
 それが、「
キシュウー」となるところが味噌です。天下を取るのは、尾州ではなく、紀州というわけです。(表現の方法としては「キシュー」でも同じですね。)
 現在では、テレビやラジオで落語視聴する機会はずいぶんと少なくなりました。この『紀州』などは、もはや現役の落語家の口からはなかなか聞けないものだと思います。

 冒頭(↑)に参考文献としてあげた本とCDのうち、本は現在では入手不可能です。ただし、岐阜県図書館を始め公立の図書館にはかなり揃っていますので、利用できます。
 CDの方、
『NHK落語名人選54 五代目古今亭志ん生 泣き塩 紀州 権兵衛狸 六尺棒』は、Amazon.com で入手が可能です。私は、大昔に購入したカセットテープしか持っていませんでしたが、上のものを新規購入しました。1937円+送料でした。『紀州』以外に、『泣き塩』『権兵衛狸』『六尺棒』が収録されています。
 古今亭志ん生さんは、1890年東京神田生まれ。1939年五代目古今亭志ん生を襲名しました。1967年勲四等瑞宝章受賞。1973年、84歳で死去されました。

 
 もし、将軍吉宗の登場のところでこの噺をすると、およそ10分間はかかります。享保の改革とこの噺は関係はありませんので、強いて授業で取り上げるべきものではないかもしれません。
 しかし、日本史のどこかで、落語というものを紹介したい気持ちが捨てがたく、少し時間の余裕がある時は、この噺の内容や時には落語そのものをやって来ました。落語を覚えるのは、いや落語の話法を覚えるのは、地歴公民科の教員にとってはかなりプラスになることです。落語のウイットは、生活にとっての潤いにもなります。

「 8代将軍吉宗任命に題材をとったはなしではあるが、むろんのことこんな歴史的事実があったわけもない。しかし、そうした歴史の一駒から、こんな小粋な、洒落た作品を創りあげてみせた先人のセンスには、やはりあらためて感心させられる。」

矢野誠一氏のコメント、前掲『古典落語大系 第4巻』P90


 さらに、次の次で紹介するように、岐阜市は、古典落語に縁のある都市です。地域に誇りを持てる教育というのにも繋がります。
 地歴公民科の先生、是非、授業で落語に挑戦してみてください。


 3 歴史的事実   | 目次へ |

 歴史的な事実としては、もちろん、この落語のような話はありません。落語はあくまで落語です。
 ただし、7代将軍
家継(いえつぐ)が若年で死亡し、跡継ぎがなかったことは事実です。江戸時代は、跡継ぎがなければ、近親者を養子に迎えて家系を保つというのが常識でした。
 徳川家も4代目
家綱までは親子関係で将軍職が相続されましたが、5代目からは違っています。
 5代将軍
綱吉は、4代家綱の弟ですし、その綱吉にも実子はなく、6代将軍家宣は、綱吉の甥綱豊が迎えられて改名したものでした。
 幼少の
家継が将軍となった段階で、次の将軍候補の有力者は、尾張家の吉通(よしみち)でした。ところが、吉通は1713年に25歳の若さで急死し、そのあとを継いだ実子も2ヵ月で死亡するという不運に見舞われました。
 そのため、跡を吉通の弟の
継友が継ぎます。尾張家は将軍家継の死の3年前に跡継ぎを巡って「異常事態」が起き、盤石の体制ではありませんでした。
 一方、吉宗はというと、父
光貞の4男として身分の低い女性を母に、1684年に生誕しました。(2番目の兄は早世)
 本来なら将軍職どころか紀州藩主にも成れないところです。ところが、1705年に兄二人が相次いで死亡し、幸運にも吉宗が
紀伊徳川家を継ぐことになりました。21歳の青年大名は、紀州で統治の実績を上げその名声を高めていきます。
 そして、将軍
家継が死んだ時点では、決定的なことに、大奥の状勢も吉宗に味方しました。
 6代将軍
家宣時代以来、幕政は間部詮房新井白石が掌握し、大奥では家継の生母の月光院が勢力を持っていました。この一派に反感を持つ譜代の重臣らは、亡くなった将軍家宣の正室天英院と結んで、間部・新井・月光院一派を一掃しようと企図し、吉宗の担ぎだしを図りました。
 かくて、鍛冶屋のお告げではなく、
第8代将軍徳川吉宗が誕生したのです。

 ※南条範夫著「徳川吉宗」『人物日本の歴史13 江戸の幕閣』(小学館 1976年)P104−106


 4 安楽庵策伝   | 目次へ |

 安楽庵策伝と言う人物をご存じですか?古典落語の祖とされている人物です。

 策伝自身は落語家ではありません。浄土宗の宗です。では、なぜ彼が古典落語の祖なのかと言えば、17世紀の後半に活躍した京(上方)落語の祖とされる
露の五郎兵衛と落語家がいますが、彼が著した「辻咄」(つじばなし)とよばれる落語の原型となった話のネタに、策伝が著した『醒垂笑』(せいすいしょう)の話がたくさん受け継がれているからです。
 策伝の『醒垂笑』は、庶民の間にひろく流行した面白い話を集めた笑話集で、17世紀の前半、元和年間もしくは寛永年間初期に著されました。全8巻に1039話の笑話を掲載しています。

 この
安楽庵策伝は、織田信長や豊臣秀吉の家臣で、のち江戸幕府から飛騨高山城主に封じられた金森長近の弟で、1554(天文23)年に美濃の国で生まれました。
 
美濃浄音寺で出家し、のち京都禅林時(永観堂)に移り、さらに備前国大雲寺を建立した後、美濃浄音寺に戻り住職となりました。
 つまり、美濃の国に縁のある僧侶が古典落語の祖というわけです。
 これに因んで、わが岐阜市では、
2003年が策伝生誕450年になるのをきっかけに、「笑いと感動のまちづくり」をはじめました。その一つとして、策伝和尚をシンボルキャラクターとする「全日本学生落語選手権・策伝大賞」が2004年から開催されており、来年2009(平成21)年2月22日には、第6回を迎えます。この選手権は、「笑いと感動のまちづくり事業」のシンボルイベントとなっています。但し岐阜市民自体にも知名度は今ひとつで、活動は緒についてばかりです。
  ※「笑いと感動のまちづくり」 (http://sakuden.jp/index.html)
  ※参考文献 鈴木棠三著『醒垂笑研究ノート』(笠間書院 1986年)