江戸時代7

<解説編>

 519 筒と丸い玉のモニュメントは誰の業績?    | クイズ江戸時代の問題へ |   | 現物教材メニューへ |    

 もう一度写真で確認します。右はモニュメント全体です。

 (撮影日 03/11/27) 

 このモニュメントは、中央の筒が1857(安政4)年に鋳造された青銅製の大砲(24ポンドキャノン砲)で、それを中心に据え、その根本に火炎砲弾4発を配置したものです。 

 (撮影日 03/11/27) 

 左は、そのモニュメントが設置されているお寺、曹洞宗の萬吉山宝持寺松月院(東京都板橋区赤塚8−4)の門です。
 右は、松月院の北にある最寄りの地下鉄の駅です。
 松月院は、南から行くと、
東武東上線下赤塚駅から徒歩10分ほどですが、北から行くと地下鉄都営三田線の駅から徒歩15分ほどです。
 その地下鉄の駅は、この地域がこの人物の業績に因んで「
○○平」と名付けられていたため、駅名もこの人物の名前が入った、「○○平」という地名になりました。  


 (撮影日 03/11/27) 

 これが地下鉄都営三田線の駅の正面玄関です。駅名が読み取れますでしょうか? 


 この人物については、教科書に次のように記載されています。 

「改革中(引用者注 天保の改革)も、対外関係は緊迫の度を増していた。忠邦が改革に着手する前年の1840(天保11)年、アヘン戦争で清国がイギリスに大敗を喫したという情報が幕府にもたらされた。危機感をもった幕府は翌年、長崎の西洋流砲術家高島秋帆武蔵徳丸原(引用者注 むさしとくまるがはら)で演習をおこなわせ、1842(天保13)年には異国船打払令にかえて薪水給与令を出した。」 

※ 

脇田修・大山喬平・福永伸哉・栄原永遠男・勝山清次・平雅行・村田路人・高橋秀直・小路田泰直・江口圭一・広川禎秀・川島敏郎・豊田文雄・児玉一・矢野慎一著『日本史B 新訂版』(実教出版 2008年)P230


「幕府は同時に国内体制の強化もはかった。まず人材面では、開明的な人物の登用@をおこなうとともに、攘夷論者に信望のある前水戸藩主徳川斉昭を参与に任命した。

脚注@

外交にかかわった川路聖謨・岩瀬忠震(いわせただなり)、反射炉を建設した伊豆代官江川英龍(太郎左衛門)洋式砲術の高島秋帆、海軍の勝海舟らがいる。」

※ 

脇田修ら著 同前 P246


 この人物については、教科書に次のように記されています。 

「1840(天保11)年に、アヘン戦争の情報がオランダ船や中国船から伝えられると、長崎町年寄で砲術家高島秋帆は、西洋砲術の導入を建言し、老中水野忠邦はアヘン戦争を「自国の戒め」とし、対外政策の教訓にすることを表明するなど、いち早く対応策が論じられた。」

※ 

大津透・久留島典子・藤田覚・伊藤之雄著『新日本史 改訂版』(山川出版 2008年)P230


 正解は、長崎の町年寄であった高島秋帆が、日本で初めて西洋式の砲術の演習をおこなった事を記念するモニュメントです。松月院はその際に高島秋帆らが本営としたお寺です。また、武蔵徳丸原(または徳丸ヶ原)の地は、1956(昭和31)年から大規模団地ができる際に、高島秋帆の名前に因んで、高島平と名付けられ、その中央にある地下鉄都営三田線の駅も高島平駅と名付けられました。 


 ここまで紹介して、このページは終わりです。
 高島秋帆の説明は、目から鱗:銃砲と歴史「高島秋帆と高島平」で説明します。