江戸時代9

<解説編>

 521 教科書に登場する東京の坂の名前は?  | クイズ江戸時代の問題へ |   11/09/05記述 11/09/06改訂 


 その1 東京の坂について

 正解の説明の前に、東京の坂についてちょっと知識を深めます。
 神楽坂九段坂道玄坂乃木坂三宅坂
紀伊国坂などのように、ちゃんと名前の付いている東京の坂の数は、いくつあるでしょうか?
 東京の坂について研究した書物はいくつもありますが、そのひとつ、斉藤ゆき・田中正雄・松本眞理・森田ひろ子著・三船康道監修『歩いてみたい東京の坂 上』(地人書館 1998年)P6 からの引用です。
 同書による、江戸時代後半期にはすでに200ほどの坂の名前が存在していたとのことです。

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 続いて、坂の名前についての分析です。
 同じ名前の坂がいくつもありますが、同じ名前の坂ランキングはどうなっているでしょうか。
 一番多い坂の名前は、「新坂」です。これまでなかったところに新しい坂道を通すと、それが「新坂」となるわけですね。これはあまり芸のないネーミングです。では、2位・3位はどうでしょうか?



 今は高層ビルの中に埋もれてしまっていますので、東京の坂から富士山を見ることは難しくなっています。しかし、昔は多くの場所から富士山を臨むことができ、そういう坂には、「富士見坂」という名前が付けられました。
 また、江戸の町には、稲荷神社が多く、「お稲荷さん」がそばにある坂という意味で、稲荷坂という名前も多く存在していると推定できます。
 ※参考文献2 斉藤ゆき・田中正雄・松本眞理・森田ひろ子著・三船康道監修『歩いてみたい東京の坂 下』P174
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 写真09-01 東京の代々木のビル4階から見えた富士山。手前の山は、神奈川県と山梨県境の丹沢山系。       

(撮影日 07/06/15) 

 その2 正解です。

 さて正解です。正解は、次の写真の坂です。


 写真09-02 古跡「昌平坂」、旧名は「団子坂」と言います。  (撮影日 11/08/08)


 この坂は、本郷台地の東端にある昌平坂です。日本史の教科書には、昌平坂学問所というのが記載されています。
 言わずと知れた、江戸幕府後期の儒学(朱子学)の学問所です。場所は以下の地点です。


 上の地図は、Google から正式にAPIキーを取得して挿入した、東京都文京区湯島・千代田区外神田地域の地図です。

 中央左上から右下へ流れるのが神田川です。左下の駅はJR中央線御茶ノ水駅です。
 坂は、中央の赤い点線(東京メトロ千代田線)のすぐ左、斯文会(しぶんかい)・斯文会館の文字のある場所の坂です。東京メトロ丸ノ内線もすぐそばを走っています。


 では、この坂の由来について説明します。それには、江戸幕府と儒学、その学問所についても説明を進めなければなりません。
 徳川家康に仕えた江戸時代初期の儒学の学者と言えば、
林羅山です。彼は将軍家康・秀忠・家光・家綱と4代に仕え、僧形で儒学を教えたほか、3代将軍家光の代には、武家諸法度の制定など幕府政治の確立に大きく貢献しました。そのことから、将軍家光は林羅山に上野忍岡(しのばずのおか)に土地を与えました。羅山はここに私塾(学問所)と文庫並びに孔子を祀る孔子廟を建設し、先聖殿と称しました。この私塾はのち忍岡聖堂と呼ばれ、多くの門人を輩出しました。
 5代将軍
徳川綱吉は、文治主義の政治で有名な学問好きの将軍ですが、彼は、1690年に忍岡にあった孔子廟を本郷台の湯島へ移転させる命令を出しました。上野には将軍家の菩提所である上野寛永寺があり、同じ場所に孔子を祀る聖堂を置くのはふさわしくないと判断したのでした。
 新しく幕府の手によって建設された
聖堂(孔子廟)には綱吉自らが揮毫した「大成殿」という額が掲げられ、同時に、隣接する坂は孔子の出生地である昌平郷(春秋時代の魯国の地名)にちなんで、昌平坂と改称され、近くの橋も昌平橋と改名されました。ただし、この時の昌平坂は今と二つの点で異なっていました。
 ひとつは、この時の聖堂の敷地は今よりも狭く、その東側にあった坂と南側(神田川側)にあった坂の両方が昌平坂と名付けられたことです。このうち、南側の坂は、やがて相生坂と呼ばれるようになります。神田川を挟んで対岸の坂を淡路坂と呼んだので、現在の兵庫県の淡路島と対岸の相生の地理関係に因んで、相生坂と名付けられたそうです。
  ※参考文献1 斉藤ゆき・田中正雄・松本眞理・森田ひろ子著・三船康道監修『歩いてみたい東京の坂 上』P57
 
 この施設は、講堂・講釈所・稽古所・学舎・教官宿所などが配置されて学問所もかねていましたが、基本的に孔子を祀る聖堂中心の建築であったため、
湯島聖堂と呼ばれました。
 羅山の孫、
林鳳岡(ほうこう、父は鵞峰:がほう)は、これまで僧形の儒者でしたが、将軍綱吉によって正式に従五位下大学頭(だいがくのかみ)に任じられました。これにより、林家は一私塾の経営者から、江戸幕府の学問=儒学をになう立場を強めることになりました。しかし、林鳳岡の子孫は才能に秀でたものがなく、林家の地位は次第に低下していきます。
 その状況が変わったのは、
老中松平定信の寛政の改革によってです。
 この改革によって、朱子学は幕府の正式の学問(幕藩体制を支えるイデオロギー=官学)と位置づけられ、これによって
湯島聖堂附属学問所も官学を教える場としての性格を担うことになりました。1790年、学問所は幕府直轄となりました。
 松平定信はまもなく退陣しましたが、そのあと将軍徳川家斉によって、1797年、学問所の敷地は東側に広げられ、その時まで東に隣接していた南北の坂道、昌平坂を敷地内に取り込んで、学問所が拡張しました。そして完成した新しい学問所を
昌平坂学問所と呼ぶことにしました。ここに昌平坂の名前が、官学所の正式名称となったわけです。以後、幕末までの約70年間、「官立の大学」として江戸時代の文教センターの役割を担いました。
 綱吉の命名以来の
昌平坂は道路としてはなくなってしまいましたので、拡張された敷地の東側に隣接する南北の坂道、これはそれまでは団子坂と呼ばれていましたが、これが新たに新「昌平坂」と名付けられました。これが現在の昌平坂です。
  ※参考文献3 市川寛明・石山秀和著『図説江戸の学び』(河出書房新社 2006年)P94-99
  ※参考文献4 ナーベル教育研究会編「昌平坂学問所と藩校」『日本教育 2005年12月号』 
  ※湯島聖堂の解説板「孔子廟、神農廟と昌平坂学問所跡」

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 写真09-03 雨の湯島聖堂。 (撮影日 07/05/25)

 写真の左右の坂は 外神田からお茶の水の聖橋へ上る相生坂です。また、石組みの塀に沿って右上へ向かう坂が現在の昌平坂です。角の石碑が、写真09-02の「古跡昌平坂」です。私がカメラを持って立っている場所は千代田区外神田、湯島聖堂は文京区湯島です。左奥のビルは東京医科歯科大学と付属病院です。


 写真09-04 事務棟      (撮影日 11/08/08)  

  写真09-05 孔子像    (撮影日 07/06/13)  

 左の写真の左手の看板の後にあるのが、3つある門の一つ、仰高門です。これは寛政の拡張以前は下の大成殿・杏壇門の真南にありましたが、拡張後、東に移されました。この門のあたりが、旧昌平坂と言われています。


 写真09-06 杏壇門    (撮影日 11/08/08)  

  写真09-07 大成殿   (撮影日 11/08/08)  

 敷地の東北の角が孔子廟です。長い石段の上に入り口の杏壇門があります。さだまさしの名曲、「檸檬」の「君は湯島聖堂の白い石の階段に腰掛けて」は、この石段でしょうか。
 杏壇門の奥に、将軍綱吉が名付けた
大成殿(孔子廟)があります。


 写真09-08  ショップ     (撮影日 07/06/13)  

  写真09-09 講義案内 (撮影日 07/06/13)  

左:事務室のそばには、儒学関係のいろいろな書籍や案内が売られています。
右:講義の案内です。現在も斯文会によって儒学の講座が開講されています。


 写真09-10 神田川の対岸から見た湯島聖堂 (撮影日 07/06/13)

 JR中央線御茶ノ水駅近くから撮影した対岸の湯島聖堂。聖堂の前の坂は相生坂。下を神田川が流れ、斜めに東京メトロ丸ノ内線が横切っています。


【昌平坂学問所・湯島聖堂 参考文献一覧】
  このページの記述には、次の書物・論文を参考にしました。

斉藤ゆき・田中正雄・松本眞理・森田ひろ子著・三船康道監修『歩いてみたい東京の坂 上』(地人書館 1998年)

 

斉藤ゆき・田中正雄・松本眞理・森田ひろ子著・三船康道監修『歩いてみたい東京の坂 下』(地人書館 1998年)

  市川寛明・石山秀和著『図説江戸の学び』(河出書房新社 2006年) 

ナーベル教育研究会編「昌平坂学問所と藩校」『日本教育 2005年12月号』