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 2006年春、家族で紀伊半島へ出かけました。
 熊野古道、潮岬、太地、大和十津川・・・、自然の雄大さと神々の存在を体験した旅行でした。

 例によって、
得意の地理や歴史や文化をいろいろ考えながら書きつづる、ずっこけ家族旅行記です。しばらくおつきあいください。
【探検記目次】<解説目次>  

内     容

掲載月日(修正日)

なぜ紀伊半島? 魅力は満点、しかし遠いぞ−

2006年04月23日(06/04/25追加)

まずは海の魅力1、「伊勢路」七里御浜、「大辺路」、潮岬 

2006年05月03日

海の魅力2、太地のクジラ 

2006年05月07日

熊野古道と熊野三山 神々の領域

2006年05月14日

熊野古道「中辺路」大雲取越・胴切坂 

2006年05月21日 

紀伊半島、山の魅力

2006年05月28日

熊野古道「中辺路」大雲取越・舟見峠

2006年06月04日

秘境大和十津川1 帰り道は「小辺路」 

2006年06月11日

秘境大和十津川2 「大峯奥駈道」 

2006年06月25日

10

現代熊野信仰、山や木や神について思うこと

2006年07月02日

実は、家族と一緒に出かけた3月11日・12日の旅行のあと、4月28日・29日に自分一人で、もう一度熊野へ行ってきました。その時の写真等も含まれています。

おことわり。
本編は、あくまで個人的な旅行記です。熊野の文化や歴史・地理を個人の趣味的な視点から説明したに過ぎません。熊野古道を歩いたとはいえ、その距離はほんの少しです。(面白く説明している自信はありますが。)
熊野古道の道案内について詳しく知ることが目的の方は、他のサイトをお薦めします。失礼。(^_-)


 例えば、
那智勝浦町の公式サイトには、熊野古道の経路・地図・所要時間・標高などが写真もそえて、詳細に示されています。
 こちらです。
http://www.town.nachikatsuura.wakayama.jp/kankou/32kodoumap.html

【紀伊半島地図】

この地図は、グーグル・アースよりGoogle Earth home http://earth.google.com/)の写真から作製しました。川の流れ、都市・山の位置ともフリーハンドで書いていますので、正確さは今ひとつです。あくまでイメージ図です。


なぜ紀伊半島?魅力は満点、しかし遠いぞ 06/04/23初版06/04/25追加
熊野へ行くってか、遠いぞ

 どこかに家族旅行に行きたいという場合、行き先の決め方は、それぞれの家庭でいろいろなやり方があるかと思います。わが家の場合、「協議中になんとなくそうなる」というのがいつものパターンです。

 今回の「熊野古道ちょこっと探検」の発端は、1月末の家での会話です。(以下の会話のY,Dは息子です。)

「春になったら、また車で遠くに行きたい。」

「遠くって、遠くに行けば、正月の広島のように強行軍になるぞ。(私は本心、運転したくない。)」(注 広島旅行は、1月2日の21時過ぎに家を出て、3日の真夜中過ぎに戻るという日程で尾道・広島・呉と回ってきました。28時間で950kmを走行。)

「できたら、秘境に行きたい。」

「秘境なら自然遺産だね。知床、白神山地、屋久島・・・・。」

「ちょ、ちょっと待て。そんなところまで車で行けるわけはないだろう。もっと近いところ。」

「じゃあね。・・・熊野古道。」

「あれは、文化遺産。でも秘境っぽいね。それに、紀伊半島ぐらいなら、なんとかなるんじゃない。」

「そんなところ、歩くのは疲れる。」

「おいおい、熊野古道はな、最近売れ筋の所だし、歴史的にも魅力なのだぞ。(あまり行きたくなかった父なのに、子どもに日本史の勉強をさせようと言う「野心」が生じて、ちょっと行く気になる。)」

「(Dは今年高校2年生で、日本史を選択)日本史の授業にも出てくる?」

「出る出る、熊野詣でといってな、平安時代後半から鎌倉時代にかけて、白河上皇を始め、たくさんの皇族や貴族が熊野に出かけた。教科書にもちゃんと出てくる。」

「じゃ、勉強にもなるから行こう。」

「しょうがないか。でも、運転は大変へんなんだぞう。」

 
 実のところ、広島まで、28時間で往復したのですから、紀伊半島ぐらい、そうたいしたことないと思っていました。次男Yに、行程や距離を調べるように依頼しました。


 数日後、次男Yの報告がありました。

「父ちゃん、熊野は遠いね。
 鉄道で行くとすると、名古屋から和歌山県の東の端の新宮まで、関西本線・紀勢本線を通って、
特急で3時間10分弱かかる。もし新幹線の「のぞみ」で西に向かったら、3時間あれば、新山口までいける。東に向かえば、東京で乗り換えて宇都宮まで行けるよ。」

「電車ではなく、自動車で行くんだぞ。」

「理屈は同じ。
 西や東に向かうのなら、高速道路があるから、平均時速80kmとして、5時間もあれば、400kmは進めるわけでしょう。西なら、広島の手前の西条ぐらいはいけるし、東なら東京を越えて埼玉ぐらいはいける。
 でも、紀伊半島は高速道路が途中までしかないから、新宮まで250kmぐらいしかないけど、同じく5時間近くかかる。」

「ひえぃ、5時間かい。
 ただ乗ってる君たちは居眠りしてればいいけど、父ちゃんには、難行苦行だぞ。おまけに、そのあとで、古道を歩くと来たもんだ。」

「母さんは張り切っているみたいだけど、古道は、ちょこっと歩くだけにしたら。」

「そうしよう。その代わり、2日目は、潮岬やクジラの太地に行こう。」

 
 かくて、計画は概ね固まりました。目指すは、南紀熊野古道です。
 

右の地図をご覧ください。
行程は結果的に次のようになりました。
<1日目>
岐阜 → 長島 → 亀山 → 勢和多気 → 尾鷲 → 新宮 → 熊野古道をちょこっと探検 → 那智の滝 → 那智勝浦(宿泊) 

<2日目>
那智勝浦 → 潮岬 → 太地 → 本宮 → 十津川 → 五条 → 天理 → 伊賀上野 → 亀山 → 長島 →岐阜 
 
行きと帰りを異なるルートを使った結果、
全行程800kmとなりました。

この地図は、いつも使っている「NASAのWorld Wind」からの借用写真をもとに作成しました。
「NASAのWorld Wind」の説明はこちらです。


紀伊山地の文化遺産

 3月11日(土)7時5分、自宅を夫婦と息子たち3人、合計5人で出発です。マイカーでは窮屈なので、レンタカーを借りました。カーナビも付いています。
 地歴公民科教師にカーナビというのは、鬼に金棒なのか、屋上屋架なのか、どっちなんでしょう。

 いやそんなことはどうでもいいのです。
 父としては、これから新宮まで5時間、運転手以外は全員眠ってしまうということを避けるためには、たくみに「授業」を展開しなければなりません。
 

「それでは、現地に着く前に、熊野古道やそれを必要とした熊野三山の信仰について、説明をしよう。」

「(Kは大学4年生)高校の授業でも「熊野詣で」というのが出てきたけど、これってどこへまいるの?高野山とは違う?」

「世界遺産に指定されたのは最近だよね。」

「もともと紀伊半島には、信仰の中心となる場所がいくつもあった。大きくは三つに集約できる。その三カ所が、運動がかなって、2004(平成16)年7月にユネスコの世界文化遺産に登録された。登録名は、「紀伊山地の霊場と参詣道」。
 つまれ、信仰の中心となっている場所=霊場と、そこへ参詣するために作られ利用されてきた参詣道が、世界文化遺産となったわけだ。
 霊場の3カ所とは、

  1. 高野山(金剛峯寺〔こんごうぶじ〕など)

  2. 吉野・大峯山(金峯山寺〔きんぷせんじ〕など)
  3. 熊野三山(熊野本宮大社、速玉大社(新宮市)、那智大社(那智の滝)など)

の三カ所なのだ。」

「すると、熊野と、高野山、桜で有名な吉野も、今回同時に文化遺産となったんだ。」

「道はいっぱいあるの。」

「昔使われていた古道が、現在もかなり残っていて、それが、「参詣道」として登録された。これは、ちょっと地図を見ないと分からない。


【紀伊半島古道地図】

この地図は、グーグル・アースよりGoogle Earth home http://earth.google.com/)の写真から作製しました。川の流れ、都市・山の位置ともフリーハンドで書いていますので、正確さは今ひとつです。あくまでイメージ図です。


「まずは地域の指定だけど、人びとは、本来は、古代や中世なら、京都や奈良から参詣に出かけたのだろうけど、遺産に登録する直接の参詣道というと、和歌山県北部の紀ノ川より南の地域と言うことにした。
 今回文化遺産に登録された参詣道は、

  1. 高野山町石道〔こうやさんちょういしみち〕、紀ノ川の川岸から、高野山へ上る道。町石道という名前は、参詣道の全域に、ほぼ1町(昔の距離の単位、約109m)ごとに、石の卒塔婆が立てられて、道案内になっていることから付けられた。

  2. 大峯奥駈け道〔おおみねおくがけみち〕吉野山から熊野本宮までを結ぶ道。これは一般の参詣道ではなく、修験道の修行者が、標高1500m以上もの高所を100kmにわたって山中の修行をしながら歩いた道だ。
  3. そして、直接に熊野三山につながる、小辺路〔こへち〕(高野山から熊野本宮まで)、中辺路〔なかへち〕(紀伊田辺から内陸に入って、熊野本宮を経て那智大社、速玉大社にいたる道。本宮から速玉大社に直接行く場合は、熊野川の水運が利用された。)、大辺路〔おおへち〕(紀伊田辺から海沿いに那智へ向かう道。)、そして、伊勢路〔いせじ〕(伊勢神宮参詣道路から松阪で分岐し、紀伊長島・尾鷲を経て速玉大社へいたる道。)。

 の3参詣道、合計6ルートとなった。」

「とりあえず、今われわれは、三重県北部から伊勢路に向かっているというわけか。」

「そういうことになる。」


皇族の熊野参詣と蟻の熊野詣で

熊野三山って、3つの高い山があるの?」

修験道ってなにさ?」

熊野三山は、○○山とか言う高い山が3つあるわけじゃない。
 先にも列挙した、和歌山県田辺市本宮町本宮にある
熊野本宮大社と、新宮市にある熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)と、那智の滝で有名な熊野那智大社の三社のことを、現在は熊野三山といっている。

 この3つの神社は、もともとは、別々の神様を祀る神社だった。10世紀の中頃までは、3社の神様のうちでは、速玉大社の神様が朝廷から一番高い位をもらっていた。
 しかし、11世紀中頃には、それぞれ、他の2神社の神様を相互に祀るようになっていて、11世紀後半以降は、3神の「セット」化が進むんだ。
 まるで、現代で言うと、観光地をいくつもパックにして売り出すみたいなもんだけど、古代の人びとにもそう言う心理は働いたのかもしれない。」

あとから調べた補足事項です。

つの神社の主神は次のようになっています。

神社名

祭 神

本地仏

熊野本宮大社

熊野坐神(くまのにいますかみ)

阿弥陀仏

熊野速玉大社

熊野速玉神(くまのはやたまのかみ)

薬師如来

熊野那智大社

熊野牟須美神(くまのむすびかみ)

千手観音

 
 熊野信仰が広がっていく時期、奈良時代から平安時代中期にかけては、日本で、
神仏習合が進む時期と時を同じくしています。

  
神仏習合というのは、従来の日本の神様と6世紀以降新しく入ってきた仏教の思想を結びつけようと言う考え方で、神社と寺がセットになって信仰されます。
 この過程で熊野3社は、
 平安時代中期には、一歩進んで、仏や菩薩が人びとを救うために神となって姿を現したという考え方、
本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)が広がり、それぞれの神様には、本地仏(もともとの仏様)が当てられました。
 熊野の3神の場合は、上表の右欄の様な
本地仏が想定されました。

 仏・菩薩が何かの形に姿を現すことを「
権現」(ごんげん)ともいいますから、この考え方が一般的になると、熊野権現熊野三所権現という言い方も一般化しました。

「そのころって、教科書に出てくる、熊野詣でがさかんになるころだね。」

「記録上最初に熊野詣でをおこなった皇族は宇多法皇で、907年のことだ。宇多法皇というのは、日本史の教科書では、天皇の時に、藤原氏の専横に対抗する人物として菅原道真を登用した人だ。。また、花山法皇という人も、986年に出かけている。
 このあと、先にも行ったように、熊野信仰が高まり、三山も相互に神を祀ったというわけだ。
 高校の日本史の教科書には、
白河・鳥羽・後白河の3上皇の院政の説明の所で、熊野詣でが出てくる。

  • 3上皇は仏教をあつく信仰し、出家して法皇となり、六勝寺など多くの大寺院や堂塔。仏像を作って盛大な法会をおこない、しばしば紀伊の熊野詣でや高野詣でをくり返した。

 時代的には、11世紀から12世紀初めの100年ほどの期間になる。上皇のうち先頭の白河上皇は、熊野三山のセット化に決定的な役割を果たしている。
 彼は、1090年に初めて熊野に出かけたが、この時、熊野三山を統括する役を作っている。この役を、
熊野山検校(けんぎょう)というんだ。
 初代検校は、増誉という人物だった。この人は、藤原一族の子で、出家して天台宗の園城寺(三井寺)の僧となったが、奈良の小峯山や葛城山で山岳修行をし、のちには京都に聖護院という修験道の寺院を開山している。三山はこの時上皇から領地(荘園)ももらって、経済的にも、地盤を固めることができた。
 ただし、熊野山検校は普通は京都に住んでいて、現地の熊野を仕切っていたのは、また別の役の人物だった。この人物を、熊野別当という。この別当のうち最も有名なのが21代目の
湛増というのだが、この人物についてはまた別の所で話そう。」

「おお、せっかくの楽しみ旅行なのに、車の中が日本史の授業異次元空間のようになってきた。(--;)」

「上皇たちは、確か、相当何回か熊野詣でにいったんだったよね。」

「相当なってもんじゃない。熊野詣での回数は、次のようになっている。

  • 白河上皇      9回(2回目は1116年。それから1128年までに、8回出かけた。)

  • 鳥羽上皇     21回(在位34年間)

  • 後白河上皇    34回(在位35年間)

  • 後鳥羽上皇    28回(在位24年間、つまり、平均すると、10か月に1度熊野へ行った計算。)

 ここでちょっと日本史のクイズを出そう。

 11世紀から12世紀の初めにかけてこれだけ盛んだった皇族や貴族の熊野詣では、ある事件をきっかけにピタリと終わりを迎えるのだが、その事件とは何だろう。
 ヒントは、中学生でも知っている知識だ。」

「わからん。」

「きみは、高校の時に日本史を選択していないから、忘れとる。」

「わかった、あれだ。」

「大学で日本史を学んでいるKは分かって当たり前。これから日本史を学ぶハンディはあるけど、日本史が好きなDは分かるだろうか。」

「へへ、わかった。承久の乱だ。」

「正解。
 鎌倉政権に敗れた承久の乱によって、京都の皇族や貴族の熊野詣では、まったく廃れてしまう。
 次に盛んになるのは、中世の後半以降。この時代以降の主役は、武士や庶民となる。あまりにたくさん人がぞとぞろと熊野に出かけて、『
蟻の熊野詣で』と呼ばれる。蟻の行列みたいだったというわけ。」


熊野信仰とは?

「ほんで、修験道はどうなったの。」

「うんうん、今度は信仰の中味を考えなくっちゃいけない。」

修験道というのも、日本史の教科書にほんの少し登場する。
  • 天台宗・真言宗では、奈良時代の仏教と違って山岳の地に伽藍を営み、山中の修行を修行の場としたから、在来の山岳信仰とも結びついて修験道の源流となった。修験道は、山伏に見られるように山岳修行により呪力を体得するという実践的な信仰であり、山岳信仰の対象であった奈良県吉野の大峰山や北陸の白山などの山々がその舞台となった。

 縄文時代以来、人間は、超自然的な力をあちこちに感じていた。
 大きな木にも、岩にも、岩穴にも、ちょっとした特異な地形などは、みんないわゆる「神」が宿るところだったわけだ。
 そう言う神は、英語では、
アニマanimaといい、そう言う神を信じる原始的な信仰は、アニミズムと呼ばれる。このanimaは、アニメーションの語源でもある。アニメは、絵が神が宿るが如く動くものなのだ。

 日本の神道の根元は、このアニミズムにある。」

「そう言う意味では、荘厳な山などは、それ自体、信仰の対象だったということかな。」

「そうだ。
 日本人は、山やそれを覆う森は、聖なる場所であり、神や祖先の霊(祖霊)が住んでいるとても素晴らしい場所だと考えてきた。」

「 それは当たり前に分かる気がする。」

「 そう言う感覚を持っていてくれることは嬉しいが、この感覚は、必ずしも世界共通ではない。イスラム教やキリスト教などの一神教では、こんな所に神はいない。
 この二つの宗教はもともと乾燥地帯で誕生したから、そもそも森という発想がない。キリスト教がヨーロッパに伝わって、そこには森があったのだけど、キリスト教的には、森は悪魔や魔女が住むおぞましい所という位置づけしかされていない。
 
ハリー・ポッターでもそういう風に描かれていたと思う。
 反対に、日本では、現代でも「
もののけ姫」に代表されるように、森は、学ぶべき、大事にすべき対象だ。

 話がそれてしまったが、
山岳信仰修験道の定義をしよう。
「山岳信仰」とは、山を崇拝し山に代表される自然をあがめ、そこからいろいろなことを謙虚に学ぼうという宗教だ。
 また、修験道は、「日本古来の山岳信仰に、神道や外来の仏教、道教、陰陽道が混淆して成立した日本固有の民族宗教」ということになる。」

「分かりやすく言えば、険しい山中で人間離れした修行を積めば、普通の人間にはない魔法の力を得られるってわけでしょ。」

「そうだ。それを、呪力という言い方もするし、修験道用語で法力とか験力とか呼んだ。魔法といってしまえばそれまでだが、自然の中に入って自然の摂理を学べば、いわゆる、理科の学問内容、物理学・生物学・地学・化学は、本を読むのとは別の方法で学ぶことができるわけで、合理的に言えば、そう言うのが、呪力だったと思う。
 たとえば、薬草に詳しければ、誰よりも病気を治すことができただろうし、気象などを予知して、預言めいたことも言えただろう。
 ところで、あなた達の知っていることと
修験道を結びつけるのを忘れていた。
 
修験道の修行者が、あの山伏なのだ。」

山伏って、TVの時代劇に出てくる悪役のこと。」

「いや、別に山伏は悪い人ではない。現代の時代劇が、たまたま、そう言う役割にしているだけだ。他には、虚無僧って、かぶり物をして尺八吹いている僧も、いつも悪役だ。」

「この前、俳優の高橋英樹が、TV「桃太郎侍」とか遠山の金さんとかやって、劇中で、7万人程も人を斬ったと言っていた。そのうち、600人ぐらいが勘定奉行と越後屋だって。(笑い)山伏や虚無僧もたくさん斬ったんじゃないかな。」

「いや、すばしっこいから、あまり斬れないんじゃない。」

「話を元に戻そう。
 
山伏修験道の創始者といわれているのが、役小角(えんのおづの、えんのおづぬ)という変わった名前の人だ。ただし、記録にはあるが、実態はよくわからない。伝説上の人物といってよい。8世紀の人だ。
 この人はすごい人で、『日本霊異記』という本には、その呪力を恐れた朝廷が捕まえようとしたがなかなか捕まらず、ついには母を人質にしてとらえたとある。その後で伊豆の島に流した。」

「捕まっちゃ面白くない。」

「いや、捕まってからが面白い。
 役小角は、海上を走り、空を自在に飛び、昼は伊豆の島にいて、夜は空を飛んで富士山で修行していたというとんでもない男だった。」

 ※修験道については、その道の専門、京都聖護院のHPへどうぞ。
   こちらです。http://www.shogoin.or.jp/

「スーパーマンはいつの時代にもいるもんだ。
 ところで、じゃ、
なんで、紀伊山地が上皇や貴族の対象となるの。わが岐阜県の飛騨山地や、長野県ではあかんの?

「そうなのだ。
それこそ、これから旅に行って、現地を見て考えるべきテーマなのだ。この旅行の意義は大きいのだ。
みんな分かったか。」

「了解。」

「ところで、一人会話に参加していない母さんは後ろで何してる。」

「寝とる。」

 自動車は、東名阪自動車道路・伊勢道路をへて、勢和多気で42号線に入りました。
 ここから一般国道を130kmも走って、やっと新宮です。

実は、私たちがこの道を通った次の日に、「紀勢道路」の一部が開通し、勢和多気から大宮大台までは、伊勢道路の続きで行くことができます。大宮大台から国道42号線に降りて、110km程で新宮です。かなり飛ばしても、昼間なら2時間半はかかります。 

<補足>
 上の話は、次の参考文献を読んで予習し、また、あとから補足しました。

小山靖憲著『世界遺産 吉野・高野・熊野をゆく』(朝日新聞社 2004年) 

小山靖憲・笠原正夫編『街道の日本史36 南紀と熊野古道』(2003年 吉川弘文館)

宇江敏勝著『世界遺産 熊野古道』(新宿書房 2004年)

井上宏生著『伊勢・熊野 謎解き散歩』(広済堂出版 1999年)

田中利典・正木晃著『初めての修験道』(春秋社 2004年)


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