この寺は、平安時代前期から、江戸時代中期にかけて、奇妙な宗教活動の舞台となりました。
この寺の僧が、寺の南の砂浜から、海上にあると想定されていた「補陀洛」(ふだらく)を目指して、船で海を渡って行ったのです。
この寺の名前ともなった、「補陀洛」(ふだらく)とは、何でしょうか。
熊野三山の神様と、本地垂迹説による本地仏をまとめると、以下のようなります。
※これの詳しい説明は、「探検記1」にあります。こちらです。
神社名 |
祭 神 |
本地仏 |
熊野本宮大社 |
熊野坐神(くまのにいますかみ) |
阿弥陀仏 |
熊野速玉大社 |
熊野速玉神(くまのはやたまのかみ) |
薬師如来 |
熊野那智大社 |
熊野牟須美神(くまのむすびかみ) |
千手観音 |
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3神の本地仏である、阿弥陀仏・薬師如来・千手観音は、それぞれ、仏教世界でいう苦しみのない極上の世界=浄土の主でした。
因みに仏教では、釈迦如来が主の北方浄土も加えて、東西南北の浄土は、次のように「分担」されています。
東(瑠璃浄土) 薬師如来
西(西方浄土) 阿弥陀如来
南(補陀洛浄土) 観世音菩薩(いわゆる観音様)
北(北方浄土) 釈迦如来
つまり、那智大社の本地仏、千手観音は、南方の浄土=補陀洛浄土を主宰する仏さんであり、那智の地は、その観音様の浄土の地と信仰されていました。
それどころか、熊野三山には、阿弥陀浄土・瑠璃浄土・補陀洛浄土と、3仏の主宰する3つの浄土があるとされていましたから、ずいぶんと欲張りな、豪華絢爛な場所です。
まあ、この豪華さが、全国の民衆の信仰を集めた理由にもなるのです。
ここまでならすごく分かりやすいのですが、さらにもうひとつ別の考えもありました。
那智の地は補陀洛浄土そのものではなく、海上にある本当の補陀洛浄土の東門とされ、観世音菩薩の加護をうけるには、海を渡ってその浄土に行かなければならないというのです。
確かに、補陀洛浄土を目指して、那智の地にやってきたら、滝はありますが、現実には浄土はありません。来てみたら、「浄土は海の向こうだよ」ということなのです。今なら誇大広告、いや詐欺といわれてしまいそうです。
ちなみに、観世音菩薩=観音様を祀った寺院は、東京浅草の観音様の他、全国にあまたあります。京都の有名な寺院、清水寺も千手観音を本尊としています。
清水寺といえば、「清水の舞台から飛び降りる」あの舞台建築が有名ですが、あれは、本堂の南に作られています。
つまり、南にある補陀洛浄土を見る(心を向ける)ための舞台です。
江戸時代には、記録に残るだけで、この舞台から人が飛び降りた事件が234件ありました。
これらの人は、「多重債務の果てに借金で首が回らなくなって自殺」という人もいるでしょうが、基本的には観音菩薩に導かれて、南の(ここが重要です)補陀洛浄土に向かって身を投げたという発想の人が多かったと思われます。
清水の舞台は、方向を変えれば、西にも東にも飛び降りることができますが、そんなことしたら、観音様には導いてもらえそうもありません。自殺の時は、南に飛び降りましょう。(^_^)
さてさて、話を本題に戻します。
南の海に補陀洛浄土があると信じられていたのなら、そこへ向かう人がいたとしてもおかしくはありません。
この寺の伝えによると、およそ800年の間に、25名の僧侶が補陀洛浄土を目指したのです。 |