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まずは海の魅力1、七里御浜「大辺路」潮岬
熊野灘

「おい、みんなおきろー。」

 いくら父が日本史講義を続けても、おのずと限界があります。
 国道42号線を走るうちに、運転手父以外は、みんな爆睡です。出発が朝早かったですからね。しょうがありません。

「おきろー、海が見えるぞー

 このセリフは、わが家では、「寝た子を起こす決めゼリフ」です。
 我ら岐阜県人は、日常的には海を見て生活はしていません。海というと、「旅」・「非日常」の象徴です。
 子どもたちが小さい頃から、愛知県や北陸の海に海水浴に行く時はもちろん、新幹線で東京に行く時も、浜名湖あたりで海が見えると、 このセリフで子どもたちは起きました。
 大学生や、高校生になってもその効果は絶大です。

「ここは、どこ。」

「紀伊長島を通過して、もうすぐ尾鷲市内に入る。左手に見える海が、紀伊半島の東側の海、熊野灘だ。」

「尾鷲って、三重県だっけ。」

「そう、まだ三重県。和歌山県には入っていない。」

「あれ?紀伊長島の次が尾鷲で、まだ三重県?えーと、紀伊は和歌山県で、伊勢と志摩は三重県で・・・・??

 三男Dの、この???はどういうわけか説明します。
 
 彼は、この4月から高校2年生。
 春休みの日本史の宿題として、旧国名(美濃とか伊勢とか紀伊とか)と県名を覚えるというのが出ています。
 よくあることですが、紀伊といったら、普通の人は和歌山県を想像します。
 したがって、紀伊長島の次に尾鷲があるということは、尾鷲は和歌山県なの??・・・。という疑問を持ったのです。
 
 実は、三重県は基本的には、旧国名でいうと伊勢・志摩・伊賀から構成されていますが、その最南部は紀伊の国の一部なのです。つまり、紀伊長島も尾鷲も、旧国名で言うと紀伊の国です。紀伊=和歌山と思っている人には、???なわけです。ややこしいです。


この地図は、グーグル・アースよりGoogle Earth home http://earth.google.com/)の写真から作製しました。古道、都市・山の位置ともフリーハンドで書いていますので、正確さは今ひとつです。あくまでイメージ図です。

海岸線にも、「熊野古道」は走っています。
伊勢の方から新宮へ向かうのが「伊勢路」、和歌山県田辺市から、潮岬を回って那智に至るのが「大辺路」(おおへち)です。11世紀から中世・近世にかけての熊野三山へのメインルートは、中辺路でした。ただし、伊勢路は、東国からやって来てまず始めに伊勢神宮に参詣した人びとが、次に熊野三山に参詣する道として利用されました。
 また、大辺路は、潮岬を迂回するため中辺路より遠回りでしたが、中辺路が内陸の山ばかりの単調なルートであったのに対して、大辺路は風光明媚な海岸線を通っているため、特に風流を好む文人墨客に利用されました。

熊野古道全体の地図はこちらです。

01-02map_Kii_peninsula_middle_old_road.jpg',627,530,627,530


紀州の海岸と海

 南紀の魅力といえば、山々と海の両方の自然のに恵まれていることです。

 このページでは、まず、海の魅力について見聞したことをお話しします。
 まず、海岸の地形です。
 紀伊半島の南部の地形は複雑です。
 山地がそのまま海に入り込むリアス式海岸もあれば、波によって削られた海岸が隆起して、海食台・海食崖が、独特の奇形を残している部分もあります。
 また、さらに、一部ですが、きれいな砂浜の海岸線もあります。

 そんなことを言っているうちに、熊野市に入り、長大な海岸線が目に飛びこんできました。

「うわー、すごいね。これは何という海岸?」

「これがな、超有名な、七里御浜なのだ。すごいだろう。」

「七里という限り、28kmも続いているの?」

「正確には分からんけど、そのくらいはありそうだがね。」

「車止めて、あそぼ、あそぼ。」


七里御浜
 いわゆる砂浜ではなく、小さな小石の浜です。
 新宮方面を臨んでいます。






   

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 太平洋の荒波が豪快に押し寄せます。天気が花曇りだったのが残念です。

 写真中央、はるか向こうの陸上にたなびく白い煙は、和歌山県新宮市と熊野川を挟んで対岸の三重県側(写真で言うとこちら側と言うべきでしょうか)にある鵜殿村の、紀州製紙紀州工場の煙突の煙です。

 ここから直線で18kmぐらい先です。


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獅子岩

 七里御浜の途中、熊野市の井戸川河口の南に、獅子岩があります。紀州の海岸といえば、奇岩怪石。これもその一つですね。沈下した紀伊半島の山々を太平洋の荒波が削り取り、また隆起して、こんな語りが残りました。
 ここではいい写真が撮れなかったので、この写真は、フリーの写真集からお借りしました。こちらのサイトです。
【日本の写真集】デジタル楽しみ村

【追記】06/05/14
 2006年5月13日の『朝日新聞』によりますと、熊野市の調査によって、獅子岩に「
崩落の危険性がある不安定な部分」が5カ所もあることが明らかになしました。
 普通なら修復すればいいのですが、この獅子岩は
天然記念物です。手を加えると、天然記念物ではなくなってしまいますから、へたに修復はできません。
 熊野市では、目下対応策を検討中です。
 このままでは、「獅子」岩ではなくなってしまうかもしれません。


那智湾

 那智勝浦の温泉街が右手に広がる那智湾。
 きれいな白砂の浜辺です。
夏には海水浴で大にぎわいするそうです。

 岬の突端は、隆起海食台となっています。
 

いちばん右端の建物が、宿泊したホテルです。

  

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橋杭岩
 これには、弘法大師伝説が付けられています。 その昔この地を訪れた弘法大師が対岸の大島に渡ろうと、天の邪鬼を使って橋を架けようとしました。
 徹夜作業に疲れた天の邪鬼が鶏の鳴き声をまねして鳴くと、朝が来たと勘違いした弘法大師が工事を中止させ、橋は杭だけのままになってしまったというわけです。
 と、橋杭岩の看板に書いてありましたが、なぜ、夜の間の突貫工事なのか、なぜ、次の日にまたやればいいのに中止したのか、よく分からない伝説です。

知っている方は教えてください。 ここは2日目に訪問しました。 

潮岬

 ご存じ紀伊半島のいちばん端は、本州最南端の潮岬です。

 潮岬周辺と熊野灘は、波浪が荒く、古来から海難事故が絶えません。
 
 日本史の教科書に載っているこの地域で起こったいちばん有名な海難事故といえば何でしょう?


今日も潮岬先はひっきりなしに船が航行


 有名な海難事故といえば、「ノルマントン号事件」です。
 1886年10月25日早朝、大島東端の樫野崎灯台の看守が、強風の中漂流する2隻のボートを発見しました。
 海難事故の発生と知った近くの漁民141名は、荒天の中、9隻の鰹漁船を出航させ、漂流する船員の救助に当たりました。漁民の命がけの活躍で、ボートの乗員と合わせて、26名が救助されたのです。
 彼らは、イギリスの貨物船
ノルマントン号の船長や乗組員でした。

 ところが、その後問題が発生します。
 このノルマントン号には、
25人の日本乗客が乗っていたのですが、彼らは一人も救助されなかったのです。のち、日本人乗客は下層の甲板に押し込まれ、鍵をかけられて密閉されていたため、逃げることができなかったことが判明しました。

 船長らの責任を問う海難審判は、当時のルール、つまり、
外国人の犯罪は外国人領事によっておこなわれるというルールにしたがって、神戸のイギリス領事が審理しました。このようなことがおこなわれる元は、例の幕末に結ばれた諸外国との通商条約に規定された不平等な規程、「領事裁判権を認める」(治外法権)によるものです。
 結果、判決は、船長以下乗組員は全員無罪となりました。

 この屈辱的判決に世論の不平等条約に対する不満は爆発し、
井上馨外務大臣が進めていた条約改正交渉は、国辱的であるとして破綻しました。


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