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熊野古道 「中辺路」大雲取越・胴切坂
 出発は小口 

 2006年3月11日午後、わが家族は、中辺路大雲取越の小口登り口に着きました。いよいよ熊野古道です。
 小口は、新宮から国道168号線で熊野川を10数キロさかのぼり(右岸堤防、川の南西側)、支流の赤木川をまた数キロさかのぼった所にある山間の集落です。


 すでに、探検記1で紹介しましたように、今回世界文化遺産となった熊野古道には、大辺路(海沿いの道)、中辺路(紀伊田辺から本宮・新宮・那智へ向かう道)、伊勢路(伊勢から向かう道)、小辺路(高野山から本宮へ向かう道)、高野山町石道(吉野川から高野山へ向かう道)、大峯奥駈道(吉野から本宮までの修験道の修行の道)の6道があります。

熊野古道全体の地図はこちらです。

01-02map_Kii_peninsula_middle_old_road.jpg',627,530,627,530


 古道への入口は、旧小口小学校(現在は廃校)のすぐ南の道路に面したところです。

 自動車は、旧小口小学校のグランドに駐車させてもらいました。(古道を少し上ったところから撮影)


 われわらが目指したルートを説明します。
 以下の地図中の、
赤い点線が中辺路です。
 地図右側中央の
熊野速玉神社から海岸線を通って、那智湾にいたり、そのまま北西に上って、那智の滝、那智大社・青岸渡寺にいたります。
 そこから熊野本宮まで、山間の道が36km続いています。2つの部分に分けることができます。

  1. 那智大社−小口間の大雲取越(概ね18km)

  2. 小口ー熊野本宮間の小雲取越(概ね18km)

 全行程36kmをあるくと11時間以上かかると言うことですから、とても無理です。どちらか半分を歩くにも、昼ご飯の寿司屋さんで大食して遅延してしまった結果、小口到着が14:00頃となってしまい、これまた無理です。
 
 そこで、当初の計画通りのしょぼいプランを実行に移すことにしました。

 
小口@ → 円座石 → 楠の久保旅籠跡 → (すこし登山) → 分岐点A → 大山集落B → 小口帰着

 これでも、古道を約3km(すべて上り、標高差約300m)、普通の山道を約800m(下り)、大山集落から小口集落まで舗装道路を約2kmと、全行程2時間15分ほどのコースです。

この地図は、グーグル・アースよりGoogle Earth home http://earth.google.com/)の写真から作製しました。古道、都市・山の位置ともフリーハンドで書いていますので、正確さは今ひとつです。あくまでイメージ図です。


熊野古道「中辺路 大雲取越」を歩く

「今歩いているところは、熊野古道の中でも、一番険しいところなのだ。」

「それほどでもないけど。いや違う違う。
地図を見てみろ、今歩いているところは、先ほどの小口小学校の所から、「
楠の久保旅籠跡」の先の分岐点まで3kmほど進んで、標高差は約300m。平均勾配は、10分の1。」、

「簡単に言えば、10m進んで1mあがると言うことだね。」

「そのとおり。
 そのくらいなら、ちょっとしんどいけど、たいしたことはない。
 ところが、その先、分岐点から
越前峠までは、僅か1kmちょっとで、500mを上ることになる。」

「普通に算数して、平均勾配は、2分の1。つまり、10m進むと5m上る。」

「そりゃすごい。行こう行こう。」

「えーと、(--;) いやいや、そこまで行ってみて、みんなが元気だったらいこう。」

「・・・・・・・・・」

 2年前までの身体強健だった時の私なら、いやがる家族を引きずってでも上るところですが、昨年からの膝痛持ちの身では、分相応の「登山」を考える方が無難です。


 古道は整備されていますから、晴天であれば道に迷うことはありません。
 左の写真は、500mごとにある、道標です。遭難した時のために、連絡先の電話番号「熊野町役場の0735-44-0301」が書いてあります。

 右は、上り始めの坂にあった祠。

 ところで、こうやって、ポイントポイントで写真を撮影する私は、どうしても、家族から遅れがちになります。
 そうすると、次はかなり急いで上って追いつくことになります。また、次のポイントで写真撮影、そして、また遅れて小走りに上る・・・・・。

 これはまずい登山ですね。
 まるで、天下の険、大雲取越で、陸上のインタバルトレーニングをしているようなものです。(--;)


円座石

 小口から歩き始めて登り初めて20分、最初のポイント円座石(わろうだいし)に到着。偶然にも、那智の青岸渡寺からやって来たという初老の男性とすれ違って、シャッターを押してもらいました。地図へ 

 円座石わろうだいし)というのは、横5メートル、高さ2メートルほどの大きな石で、そのうえに、右の様な文字が書いてあります。(左の家族写真では、顔の位置の背後にあたります。)

D

「父ちゃん、円座とかいて『わろうだ』と読むのは何で?それに、この○の中の奇怪な文様は何?」

「これは、いくつも説明しないといけない。
 まず、円座という言葉の意味そのものだが、これは、もともと、昔の人が座る時に尻の下に敷いた、丸い藁でできた敷物のことなんだ。丸い座布団の様な敷物だから、漢字で、円座と書くのはすぐわかる。」

D

「で、なんで、『わろうだ』なの?」

「わらで作った丸い鍋の蓋のようなもの、つまり、『わらふた』が、なまって、わろうだとなった。」

Y

「何か、嘘くせぇ。」

「嘘じゃない、ちゃんと広辞苑で予習してきた。」

D

「ほんじゃ、あの模様は?」

「その前に、誰がこの石に座るのかというと、なんと、熊野の本宮速玉大社(新宮)那智大社の3神がこの石に座って酒を酌み交わしたという言い伝えがある。
 熊野の3神は、
本地垂迹説(探検1で説明、こちらです。)によって、それぞれ、仏さんの化身とされていたから、この石の上には、それぞれが座る場所、右から、阿弥陀如来(本宮)、薬師如来(速玉大社)、千手観音(那智大社)を意味することばが書かれているのだ。あの模様のようなものは文字だ。」

「これって何語?日本語?」

「いや違う。梵字(ぼんじ)だ。」

D

「ぼんじ?何それ。」

「君はまだ習っていない。
 世界史の古代インドの所で出てくる、
サンスクリット語のことだ。日本では別名梵語といい、それを著す文字をサンスクリット文字梵字というのだ。古代インドの身分制度の最上級の人びとであるバラモン階級の言語だった。父ちゃんの大学の同級生には、梵語梵文学という勉強をしている友達がいた。」

D

「なんやらわけがわからない、話を聞くだけで得体の知れない石だ。」

「神々しい石と言ってほしい。」

 この円座石のところで、偶然にも、那智からやって来たというおじさんとすれ違いました。9時過ぎに青岸渡寺を出て、昼ご飯も含めて、17kmの山道を5時間半ぐらいで歩いてきたとのことです。
D

「あのおじさんすごいな。わられも、「目指せ那智の滝」ってのはどう?」

「う〜ん。」

 ちなみに、この日、われわれが古道を歩いたのは、1時間半とちょっとでしたが、その間にすれ違ったのは、このおじさんと、もう一組の初老のグループの2組でした。こちらのかた方は、女性も混じっていましたが、このグループも青岸渡寺から来た人たちでした。
 人気の熊野古道ですから、蟻のように人がいるかと思いきや、さすがに、ここまで来て歩く人は少ないんですね。
 しかし、これは幸いでした。雑踏のようなら、興ざめです。

 おかげで、熊野の山の霊気、森のエネルギーを感じることができました。


ダル

 道の所々には、いつ頃のものでしょうか?、南無阿弥陀仏と書かれた大石があっtり、誰かを祀った祠のようなものもありました。
 
 江戸時代の人の墓のようなものもあります。地蔵もあります。石に刻まれている字が判読できません。
             地図へ 


「この大雲取越は、熊野古道随一の難所だった。
 その昔、
後鳥羽上皇が1201年に熊野詣でに向かった時、あの歌人で有名な貴族、藤原定家がお供をした。彼は、その時の様子を『御幸記』という記録に残している。
 彼は、那智大社から熊野本宮に向けてこの大雲鳥越を歩いたのだが、気の毒に雨も降っていて、散々な目にあった。
 もちろん、貴族の身分だから自分の足で、てくてく歩いたのではなく、12人の従者の担ぐ「輿」(こし)に載っていったのだが、それでも艱難辛苦を極めたと書いている。」

「へー、800年以上前に、教科書に載っているあの後鳥羽上皇藤原定家もこの道を通ったんだ。」

「気持ちよくない話だからあまり言いたくないけど、この難所では、名もない旅人が多く命を落とした。
 墓のようなものや、弔ったような石がいくつもある。
 よくある話だけど、その霊がさまよっていて、人に取り憑くそうだ。そう言う霊をここでは、
ダルとか餓鬼とかひだる神とか言うのだそうだ。」

「取り憑かれるとどうなるの?」

ダルに取り憑かれると、旅人はにわかに疲労困憊して動けなくなる。そう言う時は、食べるものがなくて死んでいった人びとの霊を慰めるため、ご飯などをたくさん食べる。すると回復するそうだ。だから、大雲取越を歩く時は、絶対食物を持参していかなければならないのだそうだ。
 みんな持ってきているな。」

明治時代の和歌山県の生物学者南方熊楠も次のように書いています。

「予、明治34年よ冬より2年半ばかり那智山々麓におり、雲取も歩いたが、いわゆるガキに付かれたことあり。寒き日など行き労れて急に脳貧血を起こすので、精神茫然として足進まず、一度は仰向けに仆れたが、幸いに背負うた大きな食物採取胴乱が枕となったので、岩で頭を砕くのを免れた。それより里人の教えに随い、必ず握り飯と香の物を携え、その萌しあるときは少し食うてその防ぎとした」

 原典は『南方熊楠全集』、直接には宇江敏勝著『世界遺産 熊野古道』(新宿書房 2004年)P187より引用

「夢も何もない話だけど、このダルってのは、寒いとき暑いときに急激に疲れが来て血糖値が下がったときに、まあ、点滴というわけにもいかないし、昔だから甘いものを食べるというわけにはいかないから、かわりに炭水化物をたくさん食べろということじゃないかな。」

「おー、科学的だ。」

「まあ、そういったところかもしれない。とにかく、自然を甘く見てはいけない。」


 ずいぶん高いところまで上ってきました。標高は、300mを越えました。
 下の方に見えるのは、熊野川町野中の集落。


            地図へ


 ずいぶん坂も急になってきました。
 道の周囲は、植林された杉木立です。
 本来、熊野の山は、樫などの
照葉樹林常緑広葉樹)やブナなどの落葉広葉樹の混在する森であった

と思われますが、近代以降の植林で、杉・檜の林が多くなりました。 

「お〜い、待て待て。とーちゃんをおいてきぼりにして行くなー。」
 また走らねばなりません。(T_T)
 


 古道の所々には、昔の「遺跡」があります。

 左の写真は、石垣のあと。(どんなもんだい、追い越してやったぞ。(^_^))

 右写真は、
楠(くす)の久保旅籠跡
 この地には集落があり、少なくとも江戸時代には旅籠がありました。といっても食糧は十分ではなく、案内板によると、食事には大根のような野菜もなく、ミョウガを煮てくれたという旅人の記録があるとのことです。山の中の厳しい暮らしです。

 旅籠は、明治の終わり頃まであり、集落の方は昭和35年頃まであったそうです。写真左手の杉林が集落のあったところです。廃村と同時に植えられた杉がもうこれだけ育っていると言うことです。


ほんのちょこっとの探検でした

 これから胴切坂の本番と言うところに、幸か不幸か分岐点。以下の理由で、下山しました。  地図へ


「お父ーさーん、早く来てー、分かれ道らしいよー。」

「まてまて、待てと言うとるのに。父さんは、つかれとるんじゃ。」

「父さーん、どこー、早く上ってきてー。」

 わかっとる、わかっとるがな。
 早く行きたくても、疲れて、えらいんじゃ。
 こりゃいかん、本当に疲れた。

「お父さん、大丈夫。」

「見りゃわかる、大丈夫じゃない。」(ひーひー、ぜーぜー)

「自分で、熊野古道随一の険しい道、大雲取越って言っておきながら、そんな、インタバルトレーニングのような登り方するから、バテる。」

「父ちゃん、背中にダルが取り憑いとる。」

「本当だ。ダルが5匹ぐらい乗っている気分だ。」

「おにぎりはないけど、パンはある。食べる?」

「いかん、気持ち悪くて・・。お茶だけくれ。」

「これじゃ、予定通り。この先へはいけないね。ここを降りれば、山里の何とか村へ降りれるんじゃない。」

「疲れた、降りよ。」

「賛成。」

 冒険牽引役の私がリタイヤしては、最早わが家族に、越前峠に至る胴切坂の急峻な坂にチャレンジするポテンシャルはありません。あっさり、山里へ向かいました。


 20分も下ると、大山集落へ出ました。左の写真中央が山道の出口です。唐突に人家の庭先に出てきてしまった雰囲気です。
 右の写真は、大山集落から
越前峠を臨んだもの、最高点は、熊野古道の最高標高点で、870.6mもあります。先ほどの分岐点からは、500m、写真の撮影場所からは、750mほどの標高差です。   地図へ


 3D地図ソフト、カシミールを使って作図しました。右上の写真の撮影地点の上空1200mから、熊野灘(那智湾)方面の眺めた3Dです。那智まで険しい山々が続きます。これが大雲取越です。 地図へ


 やはり、無理に挑戦せずに正解でした。
 もし、本当に那智まで行ったら、到着時間は、多分、夜の8時頃になります。これでは遭難です。救助隊に払う捜索費だけで破産です。(^_^)

 この道は、お気楽ハイキング気分では踏破できない道です。そんな気分では、
ダルどころか、熊野の山の神々の怒りをかいそうです。

 大山集落からは、谷あいの普通の生活道路を通って、30分ほどで、自動車が置いてある小口小学校廃校跡に着きました。
 2時間15分あまりの、ささやかな熊野古道探検でした。


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