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現代熊野信仰、山や木や神について思うこと
結びに

 熊野三山の信仰が、深い山々と森に対する信仰であると確認できたら、さらに加えて、もうすこし、触れておきたいことがあります。
 一つ目は、
日本人の意識にある森とはどういうものかということです。
 二つ目は、
熊野詣が日本人のアイデンティティとどう関わり合うかということです。

 ちょっと難しい内容ですが、熊野古道探検記の結びとして、書き加えます。


日本人の意識にある森
熊野古道周辺の森

 熊野古道は、世界文化遺産登録にともなって、地元の自治体やNPOなどの努力によって急速に整備が進みました。
 1990年代前半までは、草刈りをしながら進まなければならない道もずいぶんあったと聞いていますが、今はそんなことはありません。
 
 しかし、整備された古道と、昔の古道をもし比較するなら、実は大きく異なる点があります。


写真@

 左の写真(@とします)は現在の熊野古道「中辺路」大雲取越、小口−越前峠間の登り坂です。
 下の
写真(Aとします)は、デジカメ2枚の合成写真ですが、同じ「中辺路」大雲取越、舟見峠−青岸渡寺間の古道から、那智山・烏帽子山方面を撮影したものです。遠くはよく分かりませんから、右手直近の山や、中央手前の山に注目してください。
 もう1枚
下の写真(Bとします)は、青岸渡寺から撮影した那智の滝の東にある那智原始林です。 


写真A

 写真@・Aと、写真Bは、森の様子が明らかに異なっています。
 江戸時代の熊野詣での旅人も見ることができた風景は、
写真@・A写真Bのうちどちらでしょうか?また、何が違っているのでしょうか?


写真B

 家に無事帰って、パソコンで、デジカメ写真を見ながら旅を振り返ると、また、新たな勉強もできるものです。

「中辺路」大雲取越で撮影したこの写真(@)と、青岸渡寺から撮影したこちらの写真(B)を見て、違いは何か。?」

「道と山」

「そうではなくて、人の目に映る、森の様子として、どう違う?」

写真@は木がスカスカで日が差し込んでいる。写真Bは枝や葉っぱがもこもこで、日は差し込んでいないように見える。」

「おー、一気に正解に近づいた。」

写真@の歩いた古道の周りは、写真のような、杉や檜の林だった。写真Bの写真では、詳しい木の種類は知らないけど、杉のような針葉樹だけではなく、広葉樹も含まれている。」

「正解。
 では、
写真@とBのうち、江戸時代の参詣人が見た風景、つまり、古くからある風景は、どちらだろうか?」

「これは分かる。」

写真@の方が規則正しく整備されている感じがするから、写真@の方が新しい。写真Bが古い。」

「母さんや、Yの意見は?」

「わからん。」

写真Bのような気がするけど、理由は分からん。」

「スギ花粉症って、お父さんが子どもの頃や大昔は、あんまりなかったんでしょう。それはなぜかというと・・・・。」

「わかった、杉はあとからたくさん植えられた。」

「ということです。つまり、写真@の杉林の方が新しい景観で、江戸時代の参詣人が見たのは、
写真Bのもこもこの常緑広葉樹林(照葉樹林)ということだ。
 もう少し解説すると、日本の森林は大まかな流れとして次のように変化した。」


<日本の樹相の変化>

時    代

気候の特色

樹     相

氷河時代

乾燥・冷涼な気候

 針葉樹の疎林が広がる。

縄文時代前半

時代によって多少の差違はあるものの、温暖湿潤な気候

 ブナ・ナラなどの温帯落葉広葉樹林が次第に広がる。

縄文時代後半

 西日本には、椎・樫・椿・楠などの温帯常緑広葉樹林(照葉樹林)が広がる。東日本は、温帯落葉広葉樹林

弥生時代以降

 沖積平野を中心に水田が広がり、特に西日本を中心に平野部の樹林は消滅。その周辺の樹林も、燃料・資材調達のために伐採され、その後には二次林としてアカマツ林などが広がる。

昭和時代前半

 明治時代以降の近代化による開発によって、樹林は減少。
 特に
戦時期には、多くの樹林の木が燃料・資源として伐採され、放置される。 

昭和時代後半

 1950年代から、戦時中に放置されていた山への建築資材用の杉・檜の植林が始まる。また、これまでの広葉樹林も伐採されて、杉・檜の植林が進む。

昭和末期〜

 1970年代以降、安い海外材の輸入が本格化し、それまで植林された杉・檜林は、採算が合わなくなり、林業が衰退

※安田喜憲著『森の日本文化 縄文から未来へ』(新思索社 1996年)などを参考に作製

熊野古道全体の地図はこちらです。01-02map_Kii_peninsula_middle_old_road.jpg',627,530,627,530
グーグル・アース
Google Earth home http://earth.google.com/)を使って作製してあります。


昔の熊野の森

 今は、結構たくさんの割合で人工林(植林された杉・檜林)に覆われている熊野の山々ですが、昔は、どのようになっていたのでしょうか。
 2つの文献から、その様子を確認します。(例によって、太字や色つき文字、行間空けは、引用者が施しました。)
  

「 紀伊半島は三角定規をつき出したような形をしている。尖った先っぽが潮崎だ。その名のとおり黒潮がうち寄せる。
 先端の一点から垂線を引いていくと、熊野本宮にぶつかるだろう。これを基点にして、ほぽ90度の角度で左右に二本の道が分かれている。一つは熊野川沿いに新宮へ通じている。もう一つは逢坂峠をこえて田辺へつづいている。こちらは熊野詣が盛んだった中世このかた「中辺路」とよばれてきた。

 かりに海岸線と、この二つの道路を線でむすぶと、ややいびつな菱形をした四辺形ができる。地図ではたいてい空白でのこされるのは、
熊野三千六百峰といわれる山また山だからだ。その中央にスックと大塔山がそびえている。」
大塔山の森についてのこの引用書の写真のキャプションの説明です。

「大塔山の森について
 紀伊半島の南部、熊野の主峰、
大塔山は標高1122mとそう高くはないが、山懐が深く里からではその頂を見ることはない。また、紀伊半島に接する黒潮の影響もあって、独自の植生が見られる。このエリアではカシをはじめシイ、ツバキ、サカキなどの照葉樹を主体とした西日本の太平洋側を代表する天然林とコナラ、サクラ、シデといった落葉広葉樹が交ざり、頂上近くでは本州南限のブナが混生するといった貴重な森が残されている。

「 黒潮に抱かれ、暖かい海洋性の気候で雨が多い。火山はないが、あちこちに温泉があることからもわかるとおり、地下のマグマが地表ちかくに押しあげられて固まった。地層は「酸性熊野層」といって火山岩にちかい。浸食され、風化しやすい。滝や断崖や峡谷をつくる。地図の空白は、ながらく人を寄せつけなかった地形の特徴を示している。

 植物学では照葉樹林と分類されている常緑の森林帯にあって、かつて熊野は深い森に覆われていた。
シイ、カシ、ツバキ、クス、ハイノキ。南国特有の精気をもって、もくもくと盛り上がる。幹にはコケがつき、根かたにはシダが繁る。朽木にはカビやキノコがはえてくる。粘菌とよばれる風変わりな生きものたちの天下だった。民俗学の南方熊楠は34歳のとき熊野に来て、生涯ここに住みつづけた。知人への手紙に述べているとおり、「千古斧を入れない熊野の大森林」が粘菌の研究にうってつけであったからだ。

 むろん、1千古斧を入れない」は比喩であり、山には山の人がいて、たえず斧を入れてきた。中央の大塔山は文字どおりの分水嶺として、北に大塔川、東に和田川、南に古座川、西に日置川をつくってきいる。広大な山系を縫って林道がのび、人々の往きかいがあった。炭を焼く。木を伐る。川魚をとる。

 (中略)
 
目の下は一面の杉林である。林道がつくられ、天然杉が伐採された。ついで植林。林道の荒れぐあいが、その後の手入れの状況をものがたっている。

 宇江さんが荷台から山用の道具をもってきた。岩をぶっかき、土を削って、足元の大きな亀裂に押しこんでいく。手伝おうにも要領がわからない。ころがった石を運んだり、蹴とばしたりしていた。
かたわらは急斜面の崖で、うっかりすると、もんどり打って谷底まで落ちていく。
「あとは歩いていきませんか」
 心細くなったので声をかけた。
「まあ、入れるだけ入りましょう。なんとかなりますよ」
 背をこす草が繁っていて、道のけはいがしないのだが、宇江さんには先が見えているらしい。腰から下を宙に浮かしたような軽トラに乗りこんで、またもや躍りながら走り出した。

われは炭焼きの子
宇江敏勝著『昭和林業私史』の第一章だ。父は炭焼きをしていた。熊野の高校を出て、自分も炭焼きになった。石炭が石の炭なら、木炭は木の炭だ。戦後の復興を支えた貴重なエネルギーだった。
 昭和30年代に入って石炭の斜陽化がいわれはじめた。石油、液化ガスが輸入され、燃料革命と称された。三井三池鉱山の大争議は昭和史にのこる大事件だった。首切り反対、指名解雇、ロックアウト、全山無期限スト。「去るも地獄、残るも地獄」の横断幕が闘争本部に掲げられていた。

 石炭の陰にかくれて木炭は注目されなかったが、事情は同じである。需要が激減して、
昭和30年代はじめに全国で30万人を数えた炭焼きが、その後の十年間で三分の一になっていた。宇江さんは『昭和林業私史』に書いている。同じ「炭」でも木炭の場合はちがっていた。「・・・・政治家も労働運動の指導者も、また世の識者といわれる人々も、眼をくれようともせず、社会的にもなんの配慮もされなかった。山中の窯の火は、世に知られることもなく、一つまた一つと消えていったのである。」

「「熊野詣の人は
ヤマヒルに悩まされたようですね」
 田辺市の熊野中辺路刊行会から出されているくまの文庫の一冊『古道と王子社』によると、延喜7(907)年の宇多上皇にはじまって、以来四百年ちかく、くり返し御幸があって、「蟻の熊野詣」といわれるほどに賑わいをみせた。講をくんで京・大阪から、ひと月ちかくかけて往復する。わが国中世の大パック・ツアーであって、途中に「九十九王子」とよばれる宿舎兼休憩所があった。

 海沿いにきた道が田辺から山に入る。当時、
中辺路は深い深い森につつまれ、うっそうとした山間の霊気が、なおのこと人々に霊域の思いを抱かせたにちがいない。夜にはオオカミの遠吠えがした。頭上をクマタカが舞っていた。熊野古道は急峻な大塔山系と果無山脈を避けて、その間隙をぬっていた。照葉樹林帯の道は年中しめっていて、野宿をするとヤマヒルが吸いつく。
「ヒルもいなくなりました」

生態系が変わってしまったんでしょうか」」

池内 紀著『日本の森を歩く』(山と渓谷社 2001年)P186−189、P191−192、P200

 上記に引用されている宇江敏勝さんの著書の内容については、直接の引用本である『昭和林業私史』は入手できず、確認できませんでした。
 しかし、以下の著書で、昭和30年代から50年代にかけて、
熊野の炭焼き業者の生活や、植林・育林にたずさわった人びとの生活を知ることができました。
 宇江さんの書物からは、時代の動きを知ることができるとともに、宇江さんという「山人」の目を通して、熊野の「山の息づかい」を感じることができます。「山人」自身による貴重な記録です。
 
宇江敏勝著『山びとの記』(中公新書 2000年)
宇江敏勝著『炭焼日記 吉野熊野の山から』(新宿書房 1996年)


  

「古座川人にとって江戸時代の印象というのは、城下町としての新宮の出現ということに尽きるかもしれない。新宮は、木炭を江戸や上方に運びだす商港でもあった。古座川の川たけのひとびとは山のカタギ(アオカシやウマメガシ)を伐って値の高いピンチョウ炭をつくり、新宮へ送りつけて現金収入を得た。

ピンチョウ炭といいますのはね」
 と、Kさんはすぐれた建築家なのだが、このとき、まるいひたいを椎の実色に光らせて、仙に立つ炭焼きの顔になった。山の炭焼きが里の者に自分の山の炭を自慢するような調子で、
ピンチョウ炭がどういう炭かを語りはじめた。ピンチョウ炭は良質の無煙炭の割れ肌のような金属的な光沢をもち、たたきあわせると音までが金属的で、いかにも火力が出そうである。そのくせ、松炭などよりはるかに低温で、600度しか出ない。低温であるということも温度にむらがないという特性のために、日本料理には欠かせないものとされてきた。
「いまでも東京あたりで、いい蒲焼の店へゆくと、
ピンチョウ炭使用、などと書いてあります」

 材料の
姥芽樺(ウバメがし、ウマメがし、バベがし)は近畿地方に多い木で、和歌山県では県の木になっている。まるみのある小型の葉が厚手で、葉の色が轍葉色なのがいい。材は、舟の櫓臍や荷物の車輪につかわれてきたほどだからいかに堅くてねばりがあるかがわかるし、それが乾溜されて木炭になった場合、金属音を発するのも当然であろう。紀州の山々は、この姥芽樺でおおわれた照葉樹林なのである。実であるドングリは他のドングリにくらべてしぶ味がすくなく、古代食の出土状況からみると、縄文時代ではむしろ主食ともいうべき存在であった。」

司馬遼太郎著『【ワイド版】街道をゆく 熊野・古座街道、種子島みちほか』(朝日新聞社 2005年)P23 


 
熊野の森は、主に常緑広葉樹林(照葉樹林)で覆われた、深い暗い、そして神秘的な森でした。


 日本の東西樹林相の違いは、中尾佐助の「照葉樹林文化」を発展させた、佐々木高明の「ナラ林文化と照葉樹林文化」に示されています。
 これによれば、縄文中期以降、東日本の植生は、
ブナ・ナラ・トチなどの落葉広葉樹林が中心となり、西日本は、カシ・シイ・クス・ツバキなどの常緑広葉樹林が中心となりました。(常緑広葉樹は、葉が厚く、表面に光沢があるため、照葉樹林という別名があります。)

 
照葉樹林文化については、中国の雲南を中心として、西はインドのアッサム地方から東は長江南部地域にまたがる「東亜半月弧」と呼ばれるエリアがあり、これが日本も含めたこの文化のルーツであるとされています。
 
照葉樹林文化については、項目を改めて、説明します。

クイズ古代「壇ノ浦の戦いの前に、戦わせた動物は?

クイズ原始〜古墳時代「縄文時代、西日本と東日本とでは人口はどちらが多い?」


 上の「東西日本の樹林相の相違」を見ても明らかなように、私が住んでいる岐阜県の美濃地方の平野部は、落葉広葉樹林帯と常緑広葉樹林帯の両勢力の境目に当たる地域です。

 左の写真は、
岐阜市のシンボル金華山と岐阜城です。(河岸のホテルは十八楼、その下の川は長良川で、赤い屋根の鵜飼い見物の屋形船が浮かんでいます。)
 
 金華山は、湿気の多い谷筋はは照葉樹が多く、乾燥している尾根筋は、落葉樹が多く

なっています。さらに、針葉樹も適度に混ざっており、3つの樹林が混在する緑豊かな山です。(撮影日 06/05/21 都ホテル横の長良川北岸から)  


 同じく、別の角度からの春の金華山です。
 濃い緑は針葉樹林、薄い緑は落葉広葉樹林、そして黄色い緑が黄金色の花を咲かせつつある照葉樹林のツブラジイです。湿気の多い谷筋に照葉樹林が多いことが分かります。
(撮影日 07/05/12 大縄場大橋の上から) 


 
 初冬の金華山。
 上の写真より少し西側から撮影しています。

 写真中の白の直下の峰には、紅葉した樹木はあまり見られません。

 反対に展望台の下の峰の半分は紅葉した樹木です。

 照葉樹林と落葉広葉樹林の分布がよく分かります。
(撮影日 06/12/10 忠節橋東の北岸から)



 上と同じく初冬の金華山の頂上から中腹にかけて。
 展望台から下の峰には紅葉した落葉広葉樹林がたくさん見られます。

 夕焼け時のため、赤いコントラストが強調されています。
(撮影日 06/12/15 寺町から)


※注 撮影した2006年は、秋の冷え込みがあいまいで、通常なら11月に紅葉する金華山の木々も、12月になってもまだ落葉していませんでした。 


 左の写真は、現在私が住んでいる岐阜市郊外にある小丘陵、船来山の南端にある、照葉樹林です。
 
美濃地方の平野部の代表的照葉樹である、ツブラジイの花が咲いて、山が黄色くもこもこと盛り上がっています。(東南の方角から、丘陵の南端部を撮影)
 このような平野部の照葉樹林は、普通は長い歴史の間にことごとく切られてしまい、昔のままの姿をとどめているのは、わずかです。
 この小丘陵のこの部分には、寺と神社があって、その特別なエリアとして、伐採を免れ

ました。(撮影日 06/05/14)


 左の写真は、岐阜市中心部(名鉄岐阜駅から徒歩10分)にある溝旗神社社叢です。
 美濃地方の平野部の神社の社叢は、杉などの針葉樹の他、照葉樹と落葉広葉樹の混合林が多く見られます。
 
 この神社は私の父母が結婚式を挙げた神社で、私はこの近くで成人まで過ごしました。

 どこの神社にもあるように、鳥居の奥にの左手には、手水場があります。今は水道水ですが、
昔は湧き水でした。それを示す、水がたまる小さな池の遺構もあります。今でもなん

となくじめっとしています。(これは方言かな?湿っぽいことです。)(撮影日 06/05/27) 

 神社の社叢(鎮守の森)は、平野に水田や都市が広がる前の、日本の原風景の名残を示しています。
 1990年代になって、鎮守の森に関する研究が広がりました。
 2002年には、社叢学会が誕生しました。鎮守の森を始めとする社寺林などを、歴史学、民俗学、地理学、植物学、文化人類学などの研究者が、それぞれの学問の垣根を取り払って、いろいろな視点から研究しようと言う学会です。
 ※同会のサイトはこちらです。http://www2.odn.ne.jp/shasou/ 

【追記】上の写真の溝旗神社のことについては、06/07/16に「なんだこりゃ 少年時代・学生時代 鎮守の森」で、祭礼等について記述しました。


熊野詣が日本人のアイデンティティとどう関わり合うか
熊野古道の世界文化遺産化が意味するもの


「こういう熊野古道みたいな文化遺産が、世界遺産となった意味については、どう考えるべきだろうか?」

「まあ、観光資源にはなる。けど、それだけじゃないんだよね。」

「ただの観光資源だと、一過性に終わってしまう。」

「修験道を行っている人びとも、世界遺産登録運動に参加したんだろうか?」

「参加されている。宗教家の思いは、観光資源化とはまた別の重いだろうと想像できる。」

「山や森や、自然に対する畏敬の念、つまり、アニミズムのもつ自然への素朴な思いは、環境問題とかを考える上で重要だと思う。」

「山を開発しすぎたり、放置することは、よくないよね。」


 熊野古道は、自然遺産ではありません。
 自然を舞台としている文化遺産です。
 それが世界遺産に登録されてことについて、
金峯山修験本宗総本山金峯山寺執行長の田中利典さんは、その意義について、修験道の復興と、自然環境保護の2点を指摘されています。

 自然環境保護についての意見の引用です。(例によって、行間の調節、太字等は引用者が施しました。)

  

「 第二は、吉野大峯の自然環境保全への願いだ。私たち修験道の修験道たるゆえんは、山を拝み、樹を拝み、祈りの心をもって、山々を登拝修行することにある。それは、山や森林の大自然を、神仏の曼荼羅世界と想念するものでもある。

 ところが、近年、その肝心の根本道場たるべき大峯山脈が荒廃してしまい、その惨状には、目を覆うものがある。物質文明の災禍がもたらす乱開発や、酸性雨災害・自然生能系激変による自然環境の荒廃。これらが原因となって、連綿として修験の法灯を継承させてきた宗教文化とその歴史の舞台が、いままさに喪失の危機に瀕している。
 
 だからこそ、ユネスコの世界遺産条約にうたわれている「普遍的価値を有する人類共有の遺産として、次代に守り伝えていこう」という精神を拠りどころに、世界遺産の登録を文字どおり千載一遇の機会と捉え、多くの人々の力を集めて、修験道をはぐくんできた自然環境の保全を実現させていきたいと願ったのである。

 日本で世界遺産といえば、過去の事例を見るかぎりは、地域活性化や観光客誘致のほうにばかり目を奪われがちだ。しかし、それは明らかにまちがっている。本来は、人類の所産である文化とその母体である自然の両者を、全人類で力を合わせて保護しょうという世界遺産条約の基本理念こそ、重視されるべきなのだ。したがって、吉野大峯や奥駈道の世界遺産登録においても、やすきに流れることなく、この理念をきちんと踏まえたうえで、取り組んでいかなければならない。

 こうしてみると、先に述べた「修験道が生みだし、つちかってきた歴史的価値・文化的価値が再認識される土壌を作りたい」ということは、今回の「紀伊山地の霊場と参詣道」の全体に関わるキーワードでもあると思われる。
「修験道が生みだし、つちかってきた歴史的価値・文化的価値」というのは、言葉を換えれば、四季の豊かな日本がはぐくんできた多神教的世界観であり、吉野・熊野・高野山に共通する日本固有の精神文化なのだ。

 爆発的な流行をもたらした熊野詣も、高野山でいとなまれてきた真言密教の曼荼羅世界も、実は修験道と同じように、その根底には多神教的な世界観があった。日本固有の多神教的な風土によって、すなわち八百万の神々があまたの仏菩薩とともに人々を見守ってくれる風土によつて、支えられた宗教文化そのものだった。

 そもそも世界遺産の精神は、「諸民族が互いの文化や価値観を理解することで偏見を取り除き、心のなかに平和のとりでを築こう」とするユネスコ憲章の思想に、根をもっている。この原点を思い起こせば、
今回の世界遺産登録がめざすべき意義とは、日本固有の多神教的精神文化の再認識を、何よりも重視すべきなのではないだろうか。

 神仏分離政策は、修験道に致命的な打撃をあたえただけではない。有史以来、日本列島に絶えることなくはぐくまれてきた多神教的な世界観を、そしてそれを中核とする日本固有の精神文化の崩壊をも招いたのだ。
 日本は全国土の七割が山といわれている。有史以前から日本列島に住み着いて、精神文化を築きつづけてきた私たちの先祖たちは、山や大自然からもたらされる豊かな恵みのなかで、多神教的な風土にもとづく歴史を積み上げてきた。
 それゆえに、日本人一般の信仰は、その原点をたどれば、自然のなかで、日本古来の神々も、外国から来た諸仏諸菩薩も、まったく分けへだてなく、敬い拝むという多神教的な風土の大らかさに根ざしていたはずなのである。

 ところが、このような日本固有の精神文化は、明治の欧米化や近代化政策によって、次第に捨てられかえりみられなくなってしまった。昨今の殺伐とした社会のなかで、人々の心が荒廃し、
かつては想像もできなかった事件が頻発する原因もまた、日本人がこうした民族のアイデンティティを喪失していったがゆえと思われてならない。

 吉野大峯から熊野に至る紀伊山地垂吉野大峯・高野・熊野の三霊場こそは、神仏宿る聖地として、日本固有の宗教文化を最も色濃く今日に伝える貴重な文化遺産だ。異なる宗教の共生、自然と人間との共生という二重の意味において、世界遺産の精神ともみごとに重なり合う。

 これを宝物といわずして、なにを宝物というのだろうか。この宝物をきちんと守り活かしていくこと。それこそは、真に豊かな日本の国家を築くことにとどまらない。ともに生きるどころか、敵対者はうむをいわせず抹殺する宗教戦争の様相すら見せている世界に対し、共存共生の一つのモデル・ケースを提示することにさえなりうる。

 
キリスト教やイスラム教のような一神教的な思想にもとづいて、世界全体を一元的な価値観に染め上げ、グローバル化することが、いかなる末路を迎えるか。それは、2001年9月起きたアメリカの同時多発テロ事件、それに続くアフガンやイラク戦争などから明らかだ。
 そして、この冷厳な事実に、いまや世界中が気付きはじめている。このときに及んで、むしろグローバル化の対極として、吉野大峯・熊野・高野に象徴される山岳霊場がはぐくんできた多神教的な世界観、互いの価値観を認め合う世界観のなかにこそ、諸宗教や諸民族が仲良く共生するための秘訣がある。

 
こう考えてくると、「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産としてもちうる意義も、おのずから明らかになってくる。豊かで寛容な信仰が、古代から現在に至るまで、修行や巡礼のかたちで絶えず実践されているという事実そのものが、全人類を苦悩させ絶望させている環境破壊と宗教対立に満ちた今日の世界に向けて、まさに有意義なメッセージとなりうるのだ。

 今回の世界遺産登録は、ぜひとも以上のような視点から見つめていただきたい。世界遺産を活かした地域作りにあたっても、経済的な議論の前に、こういった精神的な視点をきちんと踏まえることを求めたい。そのうえで、私たちは、日本の伝統文化を世界に向けて発信していくべきなのである。
 もちろん、世界遺産登録をきっかけに、日本人みずからが先祖たちが長い歴史のなかでつちかってきた日本人のアイデンティティを見つめなおすことになれば、どんなに素晴らしいか。
それを切に願っている。」

田中利典・正木晃著『初めての修験道』(春秋社 2004年)P256−257


「今はやりの、教育基本法の改正を巡る、愛国心問題をこれに結びつけて、強引に結びにしよう。
 国を愛すると言うことは、決して、国歌を歌ったり国旗を掲揚したりという形式的なことや、隣国との国境紛争に熱くなれということではないだろう。
 日本人としてのアイデンティティを確認しそれに誇りを持つこと、それこそが、本当に国を愛することだと思う。熊野はそれを考えさせてくれるきっかけを与えてくれる。そうは思わないかい。」

「考える価値はあるね。」



 これで、長く長く連載しました、「熊野古道ちょこっと探検記」をすべて終わります。
 家族のずっこけ旅行記と言いたい放題のエッセイにつきあってくださってありがとうございました。


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