妻 |
「どの道を歩くんだっけ。」 |
父 |
「地図を見ていなさい。
和歌山県の西海岸の田辺と言うところから、東に向かって内陸に向かう道がある。これが中辺路(なかへち)。この道の第1の目的地は熊野本宮なのだが、その先は、新宮市の熊野速玉大社と那智町の那智大社につながっている。
庶民の熊野参詣が多く多くなる室町時代以降、参詣道路としては、中辺路、小辺路、大辺路、伊勢道の4つがあったわけだが、これから行く中辺路がメインルートだった。」 |
K |
「全部歩くわけじゃないよね。」 |
父 |
「それでもいいが、そんなことしたら、この地に1週間以上滞在しなければならなくなる。実際に歩くのは、往復6km弱だ。
その昔は、中辺路を通って熊野本宮に着いた参詣者は、次に、船で熊野川(下流部分では新宮川)を船で下って熊野速玉神社に行き、さらに、海岸沿いの陸路で、那智の滝や那智大社に参詣した。」 |
Y |
「帰りは、?」 |
父 |
「帰りは、同じ道を那智から新宮まで行き、また、川を上ったんだ。」 |
D |
「エンジンもないのにどうやって川を上流へ上ったの?」 |
父 |
「昔の河川水運は、くだりは流れにまかせて、上りは、なんと、綱を使って何人もの人力で船を引っ張ったんだ。行きはよいよい帰りは大変な努力だった。
今、わが岐阜県の木曽川のライン下りの観光船は、下ったあと上る時は、トラックに積まれて国道を上流へ向かうけれど、そんな風にはいかなかった。」 |
K |
「じゃ、なんで、これから通るっていう、熊野本宮と那智大社の間の陸路があるわけ。」 |
父 |
「もちろん、みんなが河川を利用したんじゃない。
本来、熊野詣でというのは、ここがだいじなところだと思うけど、皇族でも一般庶民でも、熊野の山を苦労して登ると言うことに意義があったと思う。
その苦労がないと、山からは何も得られないと思われていた。」 |
K |
「だらか、船に乗って楽ちんではなく、ちゃんと険しい山道を自分の足で歩いた。」 |
Y |
「それをわれらがまねしようってわけ。」 |
父 |
「そう言う信心が感じられない口ぶりは、熊野にアルマジロ。
もっとも、この熊野川沿いの道は、現在の168号線ですら、奈良県五条市と新宮市が全通するのが1959(昭和34)年のことだから、京都・奈良からみて、熊野は20世紀になってからも、途方もなく遠い秘境の地だったのだ。 」 |