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熊野古道と熊野三山、神々の領域
熊野古道中辺路大雲取越

 さて、今回の旅のメインイベントは、熊野古道ちょこっと探検です。
 そして、最初のページで話したように、
なぜ熊野崇拝がおこったのか、我らは我らなりに、理解、いや感得することが、目標です。

 といっても、土日を利用しての1泊2日の短期旅行で、しかも山も海もクジラもという欲張り旅行ですから、歩ける距離はほんの少しです。

 『るるぶ』やそのほかの「熊野古道解説書」を読んで、家族全員で楽に歩けそうな古道の一部分を選びました。
 それが、
中辺路の大雲取越の一部です。

 すでに、探検記1で紹介しましたように、今回世界文化遺産となった熊野古道には、大辺路(海沿いの道)、中辺路(紀伊田辺から本宮・新宮・那智へ向かう道)、伊勢路(伊勢から向かう道)、小辺路(高野山から本宮へ向かう道)、高野山町石道(吉野川から高野山へ向かう道)、大峯奥駈道(吉野から本宮までの修験道の修行の道)の6道があります。
 このどれを通っても、熊野古道を歩いたことになるのでしょうが、やはり、無難なところで、熊野3山に近い部分を歩くことにしました。

熊野古道全体の地図はこちらです。

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「どの道を歩くんだっけ。」

「地図を見ていなさい。
 和歌山県の西海岸の田辺と言うところから、東に向かって内陸に向かう道がある。これが中辺路(なかへち)。この道の第1の目的地は
熊野本宮なのだが、その先は、新宮市の熊野速玉大社と那智町の那智大社につながっている。
 庶民の熊野参詣が多く多くなる室町時代以降、参詣道路としては、中辺路、小辺路、大辺路、伊勢道の4つがあったわけだが、これから行く
中辺路がメインルートだった。」

K

「全部歩くわけじゃないよね。」

「それでもいいが、そんなことしたら、この地に1週間以上滞在しなければならなくなる。実際に歩くのは、往復6km弱だ。
 その昔は、中辺路を通って
熊野本宮に着いた参詣者は、次に、船で熊野川(下流部分では新宮川)を船で下って熊野速玉神社に行き、さらに、海岸沿いの陸路で、那智の滝那智大社に参詣した。」

「帰りは、?」

「帰りは、同じ道を那智から新宮まで行き、また、川を上ったんだ。」

「エンジンもないのにどうやって川を上流へ上ったの?」

「昔の河川水運は、くだりは流れにまかせて、上りは、なんと、綱を使って何人もの人力で船を引っ張ったんだ。行きはよいよい帰りは大変な努力だった。
 今、わが岐阜県の木曽川の
ライン下りの観光船は、下ったあと上る時は、トラックに積まれて国道を上流へ向かうけれど、そんな風にはいかなかった。」

「じゃ、なんで、これから通るっていう、熊野本宮那智大社の間の陸路があるわけ。」

「もちろん、みんなが河川を利用したんじゃない。
 本来、熊野詣でというのは、ここがだいじなところだと思うけど、皇族でも一般庶民でも、
熊野の山を苦労して登ると言うことに意義があったと思う。
 その
苦労がないと、山からは何も得られないと思われていた。」

「だらか、船に乗って楽ちんではなく、ちゃんと険しい山道を自分の足で歩いた。」

「それをわれらがまねしようってわけ。」

「そう言う信心が感じられない口ぶりは、熊野にアルマジロ。
 もっとも、この熊野川沿いの道は、現在の168号線ですら、奈良県五条市と新宮市が全通するのが1959(昭和34)年のことだから、京都・奈良からみて、熊野は20世紀になってからも、途方もなく遠い秘境の地だったのだ。 」


この地図は、グーグル・アースよりGoogle Earth home http://earth.google.com/)の写真から作製しました。古道、都市・山の位置ともフリーハンドで書いていますので、正確さは今ひとつです。あくまでイメージ図です。


熊野三山

 熊野古道に入る前に、車で駆け足で巡った熊野三山を紹介します。


 熊野本宮


 熊野本宮にいたる参道。見事な杉並木と、このいかにも神社らしい雰囲気は、なかなかいいものです。


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 熊野本宮の本殿。
 檜皮葺の重厚な屋根が印象的で、他の熊野速玉大社、那智大社に比べて、何か御利益がありそうでした。

 熊野本宮の境内に、八咫烏やたがらす)の説明がありました。
 熊野ではこの3本足の烏が神の使いとなっています。

 そういえば、日本サッカー協会のマークもこの八咫烏です。二本の足で立って、3本目の足で、ボールを押さえています。これならボールコントロールも楽ちんです。サッカー協会のサイトはこちらです。 左上隅にマークがあります。


 古い『古事記』『日本書紀』の世界では、初代天皇とされている神武天皇は、日向(現宮崎県)から東征の旅に出て、大阪湾上陸を目指しました。
 しかし、畿内の勢力の抵抗にあって実現せず、紀伊半島を迂回して潮岬を回って、熊野の海岸から上陸して、大和に向かいました。
 その時、神武軍を案内したのがこの八咫烏です。烏は、普通では不吉な鳥と思われがちですが、ここでは神の使いです。
 そう言えば、新宮と那智の間には、左の写真のような大きな看板が出ています。「
神武東征上陸地」。無論史実ではありません。

 ところで、この神武東征と八咫烏の話は、サッカー協会のマークのことも含めて、あの有名な扶桑社版『中学社会改訂版 新しい歴史教科書』(代表執筆者藤岡信彦 扶桑社 2005年)P30に掲載されています。すごい教科書です。


 熊野本宮の参道のすぐ西側に、「熊野道」と書かれた標識が立っています。

 これが、田辺から本宮へ向かう中辺路の到着点です。

 



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 熊野速玉神宮

 熊野速玉大社の本殿です。
 朱塗りが鮮やかな新しい社殿ため、風情は今ひとつです。
 これだけ見ると、何でここが神域なのという感じはします。
 しかし、この
速玉大社の元宮は、それらしい雰囲気を持っています。
 ここの市の名前が「新宮」となっているように、現在のこの位置の神社は、旧神社から移されてきたと考えられています。

 では、元の神社とはどこなのでしょうか。
 


  これは、現在の速玉神社の北西に位置する権現山の南西部にある、神倉神社です。
 これがそのルーツと考えられています。
 写真ではちょっと見づらいですが、写真中央の社殿のすぐ上に、
ゴトビキ岩という岩があります。
 ヒキガエルの形をしたこの奇岩に、神が宿るとされ、大昔より神事がくり返されてきました。
 このような奇岩・巨岩に神が宿るという信仰は、いわゆる、古代以前からの
磐座(いわくら)崇拝です。
 日本の素朴な
アニミズムの世界です。

 この岩山に張り付いた、もこもこした照葉樹林がいいですね。杉や檜の人工林ではありません。照葉樹林については、また、別のページで説明します。


 那智大社

 那智大社といえば、これはもう説明は簡単です。那智の滝そのものが古来からの信仰の対象でした。那智の滝は、その東南方にある烏帽子岳(909m)、北方の通称「那智山」と呼ばれている山塊から流れる水を集め、132m落下します。

 左の写真はえらく暗い写真です。
 実は、私は、2006年4月29日の夜明けは、この
那智の滝の直下で迎えました。

 誰もいない朝、ごうごうという滝の音を聞きながら迎える朝は、神秘的以外の何物でもありませんでした。
 自然と融合できる瞬間です。(午前5時15分の撮影)
 右の写真は、3月の家族旅行の時に撮影したものです。
 


 那智の滝と青岸渡寺の三重の塔。定番のアングルの写真です。

 左下は、
那智大社
 右下は、
青岸渡寺。この寺は、インドから熊野の地に流れ着いた、裸形上人(らぎょうしょうにん)が熊野権現を勧請して開いたとされています。
 天皇で言うと仁徳天皇の時代だそうです。古墳の世界です。今から1600年ほど前の、とんでもなく古い時代です。
 この二つの寺社は、江戸時代までは、
神仏混交により、一体となっていました。
     地図へ



 青岸渡寺(写真の左手の石垣の上が青岸渡寺)の横の何気ない石の階段が、熊野古道・中辺路大雲取越・小雲取越の入口です。

 ここから、熊野本宮まで36km。
『るるぶ』によると所要時間11時間30分です。
 
 現在も行われている熊野修験道の修験者(山伏)でも、10時間を要するとされています。


 わが家族は、そのほんの一部を歩きました。

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