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秘境大和十津川1 帰り道は「小辺路」 
十津川ってどこ? なぜ十津川に?

 3月12日昼、家族旅行の太地のくじら博物館を見学し、クジラピザを食べて終わりとなりました。

  ※この部分は、すでに「探検記3」に書きました。こちらです。

※熊野古道全体の地図はこちらです。
01-02map_Kii_peninsula_middle_old_road.jpg',627,530,627,530

 あとは帰るだけですが、どこを通って帰るかが問題です。

「どうやって帰ろう。」

「どうやってと言たって、来た時と同じ道を帰るんじゃないの?」

「お母ーさんも、父ちゃんの妻を20年以上もやっている割には、性格分かっていない。」

「行きと帰りが同じ道では地歴公民科教師のメンツにかかわる、ってやつだね。これまでも何回もあった。(--;)」

「好きにしなさい。レンタカーを返す時間は、午後8時ですから、遅れないように。」

「地図見ると、潮岬を西へ回って、白浜・田辺の先には、阪和自動車道が来ている。そこから大阪という手は?」

「熊野古道で言うと、大辺路紀伊路を通ると言うことだが、それもいいプランだ。」

「ってことは、他にいいのがある。

「新宮から、熊野川を遡って、大和十津川(とつかわ)の山中を抜け、五条で吉野川を渡って、天理へ抜けて、名阪国道を三重県の亀山に向かう。あとは、行きと同じ東名阪道路を通って帰る。」

「どこかに寄るの?」

「違う。大和十津川を通ることに意義がある。」

十津川って、どいうところ。」


この地図は、いつも使っている「NASAのWorld Wind」からの借用写真をもとに作成しました。
「NASAのWorld Wind」の説明はこちらです。


大和十津川を通って帰りたいのに、理由は二つある。
 ひとつは、熊野の秘密をもうちょっと深めたいこと。つまり、熊野三山を回って、大雲取越をちょこっと歩いてみて、熊野古道や熊野の自然の魅力は分かった。しかし、平安時代から江戸時代にかけての人は、国道42号線をドライブしたり、紀勢線を使って那智へ来たわけではない。
 当たり前だけど、紀伊半島の山の中を通って、那智にやってきた。
 紀伊半島の山の中を通らないと、熊野詣での本当の魅力は分からないかもしれない。」

「車の中から紀伊半島の山を確認しようと言うわけだ。もう一つは?」

十津川というところは、歴史的には、いろいろな事件にかかわる村で、ちょっと変わった存在なのだ。秘境も秘境、太鼓判の秘境なのだ。」

「どこを通っていくの?」

「新宮から熊野川をひたすら遡る。国道168号線だ。これは別名、十津川街道といって、吉野川沿いの五条まで続いている。
 熊野本宮を過ぎると、和歌山県から奈良県に入る。十津川は
大和十津川、すなわち、奈良県なのだ。」

「奈良県って、平城京の奈良県でしょ。何か方向が全然違う気がするけど。」

「そうだ。同じ奈良県なのに、十津川は、県の最南部で、川は熊野川に集まって、熊野灘に注いでいる。」

「ちょうど岐阜県の飛騨地方のように、水系が違うんだ。」

「そのとおり。」


 かの有名な歴史文学者、司馬遼太郎氏も、十津川を次のように表現しています。

「十津川郷とは、今の奈良県吉野郡の奥に広がっている広大な山岳地帯で、十津川という渓流が岩を噛むようにして紀州熊野に向かって流れ、平坦地はほとんどなく、秘境という人文・自然地理概念にこれほどあてはまる地域は日本でもまずすくないといっていい。」

司馬遼太郎著『ワイド版街道を行く12 十津川街道』(朝日新聞社 2005年)P8
注 文中の「十津川という渓流」は、新宮に注ぐ熊野川の上流です。

 司馬さんも太鼓判を押す「秘境」です。


大和十津川、やはり秘境です。

 熊野川河口から約20km。
 北山川との合流点です。
 北山川は、三重県と奈良県との境にある大台ヶ原山系に源を発する川です。
 本州では最多多雨地帯を水源にするだけあって、広大な河原です。

 この写真では、右手(左岸)が三重県、左手(右岸)は、和歌山県です。

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 熊野本宮を超えて、さらに上流に上った三重県に入る手前の熊野川。

 まだ川幅は広く、谷様子は明るい雰囲気です。


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 県境あたりでは、状勢は一変します。
 奈良県と和歌山県の県境をなす
果無山脈の東端を熊野川が流れているため、このような険しい地形となっているのです。
 水面は標高80m台、国道168号線は、標高220m前後を走っています。この谷の深さは、除くに怖いくらいです。
  

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 奈良県川から見た果無山脈と二津野ダムのダム湖。
 
果無山脈は和歌山・奈良県境に連なる、800m〜1200mの山々の総称です。

 奈良県に入ってすぐ、二津野ダムがあり、熊野川は堰き止められて、緑色の水を湛えています。


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 左は、十津川温泉から見た、果無山脈
 手前の低い丘を、熊野古道「
小辺路」が通っています。「小辺路」は、高野山から熊野本宮まで向かう古道ですが、山岳道路のため、江戸時代も参詣のメインロードではありませんでした。
 
果無山脈のやや低い部分といっても、標高1000mばかりの所を通って、大和と紀伊を繋いでいます。

 
十津川温泉は、十津川にある温泉郷のひとつです。
 わが岐阜県は温泉には恵まれていますので、温泉は山の方に行けばどこに出もあると思っていましたが、そうではないようです。奈良県では、この十津川村の温泉群の他には温泉はないそうです。

 右は、温泉郷の食堂で食べたカツ丼。
 山里らしく、カツ丼のカツの下に、たっぷりキノコが・・。おいしかったです。


これは、十津川役場そばの橋から撮影。左は下流、右は上流。 (撮影日 06/04/29)

 十津川の上流部に有名な吊り橋があります。
 これは、谷瀬の吊り橋です。

 今は観光客が多数訪れる吊り橋ですが、本来は、対岸にある集落のために1954(昭和29)年に架橋されました。長さ297.7m高さ50mだそうです。

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(撮影日 06/04/29)


 冒険好きの私ですが、実は高所恐怖症です。
 先の片側が絶壁の峠道や、さらには、明石海峡大橋などでも、ものすごい恐怖を感じる私ですので、この橋には、近づきもしませんでした。
 皆さん歩けます?この高さですよ。長さ297.7mですよ。CM「ファイト、一発」の吊り橋なんか、問題ではありません。

(撮影日 06/04/29)
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十津川村の歴史

  奈良県吉野郡十津川村は、その面積672.35平方キロメートル、面積では全国で最大の村です。最近、平成の大合併で、村がどんどん町や市に併合されていきましたが、この村は、他とは合併しません。
 何しろ由緒ある村です。
 過疎が進んで、人口密度は1平方キロメートルあたり7人を割っていますが(こちらは少ない方から23番目)、この村はきっと合併などしません。
そんな軟弱な村ではないのです。

「十津川というところは、すごい面白い村だ。」

「何が?」

「歴史が面白い。
 大和十津川という土地は、教科書にも1回も登場していないが、教科書に登場する事件に大いに関係している。そう言うのが、少なくとも4つある。
 まず始めは、
保元・平治の乱保元の乱。」

崇徳上皇後白河天皇が争って、平清盛源義朝の活躍で、後白河天皇方が勝った事件だね。しかし、十津川というのは出てこない。」

「負けたのは崇徳上皇藤原頼長なんだが、その頼長が、上皇方の武士であった源為義の夜襲(夜討ち)をしようという提案を拒否する。
 メインの理由は、夜討ちなどというのは、天皇や上皇の様な身分の高いものの争いの方法としては、やってはならないことであるというのだが、もう一つ理由があった。
 昔の軍記物語『保元物語』によると、朝になれば、奈良の僧兵が吉野、
十津川方面の3町、8町などとあだ名される弓の遠矢の名人など1000騎程をつれて、応援に来るから、夜襲などしなくていいというのだ。」

「出た、十津川。
 3町、8町の弓の遠矢ってのは?」

「弓の遠矢ってのは、遠い矢と書いて、遠矢。つまり、弓を遠くに飛ばす名人というわけだ。昔の1町は、約100mだから、3町、8町というのは、300m、800m先の的を射ると言うことになる。」

「そりゃ無理。いくらなんでも。」

「まあ、ちょっと、800mは嘘くさいね。
 ゴルゴ13並になってしまう。おそらく、十津川の山中で、遠くの獣を射て訓練した弓の強者がたくさん射たんだろう。」

「で、その、1000騎は、朝になってきたの?」

「来ていない。そのため、崇徳上皇藤原頼長は敗れた。しかし、上皇や朝廷の重職にある藤原氏(頼長は当時左大臣)に援軍するということからもわかるが、この時点で、大和の辺境、十津川村は、中央勢力と何らかのつながりがあった。 これが十津川と歴史上の大事件のかかわりその1。」

 

ここでちょっと日本史の勉強 保元の乱 対立関係図

 青囲みの方が、勝利した後白河天皇方。 夜撃ちの進言したのは、源為義。
 この乱では、源義朝(頼朝の父)と平清盛は、どちらも後白河方について勝者となる。この3年後の、平治の乱で、両者は袂を分かち相まみえる。清盛が勝って、平氏政権の誕生へと続く。


「二つ目は、鎌倉幕府の滅亡の時。1331年の元弘の変というのは知っているか。」

「かろうじて覚えている。」

後醍醐天皇は、鎌倉幕府政権への不満が高まっているのを見て、倒幕の計画を練る。最初は、計画の段階で見つかってしまい、策謀していた側近が逮捕された。これが1324年の正中の変
 次に1331年には、本当に挙兵するところまでこぎつけ、山城と大和の境にある笠置山に陣を構えた。しかし、幕府の大群に圧倒され、これまた失敗して捕らわれてしまい、隠岐に流されてしまう。これが
元弘の変元弘の乱といってもいい。
 ところが、このあと、
楠木正成後醍醐天皇の皇子護良親王が武装蜂起し、抵抗をし続けているうちに、足利高氏ら各地の反幕府勢力の蜂起につながる。」

「それで、十津川との関係は?」

護良親王は、後醍醐天皇と一緒に笠置山にいたが、落城の前に脱出し、逃げた。そして、親王が逃げ込んだ場所が、十津川だった。
 これは、かの有名な『太平記』に書いてある。」

「『太平記』というと、楠木正成の千早城の奮闘何かを描いた軍記物だね。」

「『太平記』は、軍記物語だからすべて真実というわけではないが、十津川に逃げ込んできた護良親王を、十津川の郷士(半農・半武士の村の有力者)がかくまったとある。
 また、十津川にある
谷瀬の吊り橋の向こう岸には、護良親王が住んだと伝えられている、「黒木御所跡」という碑もある。」

「軍記物語とはいえ、そう言うストーリーが生まれる以上、何らかの事実が合ったというわけだ。

「この鎌倉幕府滅亡時の事件が、その2。
 これ以後、十津川は、「
勤皇の地」として知られることになる。つまり、天皇に忠節を尽くす機運に満ちた土地と言うことだ。

「3つ目は?」

「今度は、豊臣氏が滅亡する大坂の陣の時で、十津川から総勢1000人が徳川家康方に付いた。また、その後、十津川の東隣の、北山というところで起こった豊臣氏を支持する一気も鎮圧して、家康から褒められた。
 江戸時代、この村は、どこの藩の藩領でもない
幕府の領地になった、つまり天領だ。北の吉野川の河畔にある五条という町にこの辺一円の天領を支配する幕府の五条代官所があって、十津川もその支配をうけた。
 ところが、この天領は、年貢を納めなくてもよかったらしい。」 

「それは、不思議な。なんで?」

「この地は、ほとんど平地はなく、米の収穫はたかがしれている。すでに、江戸幕府以前、秀吉の時の太閤検地でも、結局、免租地(年貢を納めなくてもよい土地)になっている。
 つまり、年貢もとれない農業に適さない土地だったからだ。」


 江戸時代の俗謡にうたわれた文句が、国道168号線の五条側から十津川に入る所に記念碑になっていました。
 御赦免とは、年貢を納めなくてもいいところ、という意味です。

 「つくりどり」とは、作った米が全部民衆の手に入るという意味で、他地域の村から見れば羨ましいことだったのでしょうが、実際には、十津川郷の米の生産力は微量でした。

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「おかげで、十津川は不思議な土地になった。幕府天領でありながら、年貢を納めなくてもいいということは、事実上、幕府の役人も十津川村には、関心を払わなかった。役人から見れば、収入もないところに人手をついやしても何の意味もないからだ。
 したがって、十津川は事実上、土地の村民の自治に任されていたといわれている。」


 またまた、司馬遼太郎氏の書物からの引用です。

「古代から明治維新まで、極端にいえば十津川郷(村)は誰の領地でもなかった。江戸期、行政上、天領(幕府直轄地)になっていたが、免租地だったということから考えると徳川家の領地とは厳密に言い難い。領地というのは本来、領主がそこから租税を取り上げる土地ということである。そういう四捨五入の整理の仕方でいえば十津川郷は古来、日本国における所領関係の空白地だったといえるだろう。そういう意味では、
「十津川共和国」
というものをつくることもできるし、ひるがえっていえば事態は多分そうだったといっていい。」

司馬遼太郎著『ワイド版街道を行く12 十津川街道』(朝日新聞社 2005年)P96

「そして、4つ目は幕末。
 もともと「勤皇」の志が高いこの地の郷士は、幕末の京都で活躍することになるんだ。
 京都市中に拠点となる屋敷を持ち、十津川から何十人もの郷士が出かけて行っては、天皇のいる御所の門の警護役を務めていた。正式には衛士というんだ。これは、五条の代官所の許可も得ていた。」

「別に、朝廷から何かもらっているわけではないでしょう?物好きというか・・・。」

「まあ、今日的にいえば、ボランティアなんだろうけど、朝廷に仕えるという気概が、彼らの誇りでもあった。
 そして、幕末の京都にあって反幕府的活動を続けた中心は長州藩と薩摩藩だったけど、十津川郷士もしだいに彼らやその他の藩の尊王攘夷派の武士と接触をもっていく。
 それが、4つ目の事件につながった。
 1863(文久3)年の前半は、京都の尊王攘夷派が最も勢力をもっていた時期で、この年8月、教科書にも出ている、
天誅組の変が起こる。

「教科書の脚注に書いてあったやつだ。」

「尊王攘夷派の公家中山忠光と土佐藩士吉村虎太郎らが大和五条の代官所を襲い、あたりを占拠して、無謀にも天皇直轄領の実現を目指そうとする。
 ところが、この挙兵の直後、
文久3年8月18日の政変が起こって、都は、薩摩藩と結んだ会津藩が牛耳り公武合体派の孝明天皇を擁して、長州藩や他藩の過激な尊王攘夷派とそれと結んでいた過激派公家は京都から一掃されてしまう。
 
天誅組としては、挙兵した瞬間に存在価値を失ってしまった形になってしまった。
 窮した彼らは、勤皇の志の篤い十津川郷へ助太刀の兵力を出すように命令した。」

「そんな権限はあるの?」

「正式にはそんなものいはない。
 しかし、勤皇を誇りとしている十津川へそういう命令を出せば、兵は集まる。なんと1000人もの兵士が、集まって
天誅組に加勢することになった。
 しかし、現在の十津川村の北にある大塔村の天辻峠の戦いに敗れてしまう。
 一方、京都では、その間に、尊王攘夷派を駆逐した
公武合体派の皇族中川宮が在京の十津川郷士を説得し、使いを十津川山中に送って天誅組からの離反を進めた。
 天誅組を正義と信じて挙兵した十津川郷士は、この政治情勢の変転に思い悩んだが、結局は天誅組から離れ、その結果、天誅組は瓦解する。

「そのあと、十津川はどうなったの?」

「十津川郷士はその後も京都の御所の警護をつづけ、明治維新後は、それらの功績が認められた。明治政府が士農工商の身分を辞め、士族と平民とに区分した時、十津川郷士は全員が、士族の身分となっている。」

参考文献
井上宏生著『伊勢・熊野 謎解き散歩 日本と日本人の源流を訪ねて』(広済堂出版 1999年)


 現代の十津川村込之上には、十津川高校があります。
 この高校の沿革を読むと、その成立は、1864(元治元)年です。
 このときすでに十津川郷士は、京都御所の門の警護に出ていましたが、武勇に優れ人格は高貴で質朴であっても、漢学や国学の教養は高いとは言えませんでした。
 それを嘆いた時の天皇、
孝明天皇の沙汰によって、京都から儒学者中沼了三がはるか秘境の地十津川に派遣され、彼によって、1864年5月4日、折立という場所の松雲寺で十津川初めての学校が開かれました。文武館と名付けられました。これが、現十津川高校の始まりです。
 幕府や藩が建てた学校ではありません。十津川の村の人びとが創立した学校です。

 この学校は、1920(大正9)年
十津川文武館中学となり、県立に移管されたのは、太平洋戦争中の1942(昭和17)年です。奈良県立十津川文武館中学校となりました。
 そして、戦後、
1948年県立高校となって、現在に至るのです。
 沿革を見ると、2004年に創立140年記念式典を挙行されています。すごい学校です。

玉置山に上る途中の標高336mの地点から、十津川高校を臨んでいます。高校のグランドの標高は、146mです。(撮影年月日 06/04/29)

十津川高校のHPはこちらです。http://www3.ocn.ne.jp/~totsu-hs/homeA1.html


「十津川村の子」

 十津川温泉のある十津川村平瀬のスーパーの駐車場の隅に、「村の子」という名で、「ふるさと讃歌」が掲げられています。

「十津川村は面積がとてつもなく大きいことで有名だが、それ以上に山深いことで天下に知られている。私ども十津川村で育ったものは、この村を包んでいる周囲にそばたつ霊嶽が、奢侈軽薄の風をさえぎり、気骨のある人材を数多く育ててきたと、今も信じている。」

 と書きはじめられているこの「讃歌」は、十津川の豊かな自然と、愛すべき木訥な人情を高らかに謳っています。 


「十津川はすごいところだね。」

「ああ、すごいところだ。」


 大和十津川、険峻な山々が、その心と歴史を作りました。

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