父 |
「二つ目は、鎌倉幕府の滅亡の時。1331年の元弘の変というのは知っているか。」 |
K |
「かろうじて覚えている。」 |
父 |
「後醍醐天皇は、鎌倉幕府政権への不満が高まっているのを見て、倒幕の計画を練る。最初は、計画の段階で見つかってしまい、策謀していた側近が逮捕された。これが1324年の正中の変。
次に1331年には、本当に挙兵するところまでこぎつけ、山城と大和の境にある笠置山に陣を構えた。しかし、幕府の大群に圧倒され、これまた失敗して捕らわれてしまい、隠岐に流されてしまう。これが元弘の変。元弘の乱といってもいい。
ところが、このあと、楠木正成や後醍醐天皇の皇子護良親王が武装蜂起し、抵抗をし続けているうちに、足利高氏ら各地の反幕府勢力の蜂起につながる。」 |
D |
「それで、十津川との関係は?」 |
父 |
「護良親王は、後醍醐天皇と一緒に笠置山にいたが、落城の前に脱出し、逃げた。そして、親王が逃げ込んだ場所が、十津川だった。
これは、かの有名な『太平記』に書いてある。」 |
K |
「『太平記』というと、楠木正成の千早城の奮闘何かを描いた軍記物だね。」 |
父 |
「『太平記』は、軍記物語だからすべて真実というわけではないが、十津川に逃げ込んできた護良親王を、十津川の郷士(半農・半武士の村の有力者)がかくまったとある。
また、十津川にある谷瀬の吊り橋の向こう岸には、護良親王が住んだと伝えられている、「黒木御所跡」という碑もある。」 |
K |
「軍記物語とはいえ、そう言うストーリーが生まれる以上、何らかの事実が合ったというわけだ。 |
父 |
「この鎌倉幕府滅亡時の事件が、その2。
これ以後、十津川は、「勤皇の地」として知られることになる。つまり、天皇に忠節を尽くす機運に満ちた土地と言うことだ。」 |
D |
「3つ目は?」 |
父 |
「今度は、豊臣氏が滅亡する大坂の陣の時で、十津川から総勢1000人が徳川家康方に付いた。また、その後、十津川の東隣の、北山というところで起こった豊臣氏を支持する一気も鎮圧して、家康から褒められた。
江戸時代、この村は、どこの藩の藩領でもない幕府の領地になった、つまり天領だ。北の吉野川の河畔にある五条という町にこの辺一円の天領を支配する幕府の五条代官所があって、十津川もその支配をうけた。
ところが、この天領は、年貢を納めなくてもよかったらしい。」 |
K |
「それは、不思議な。なんで?」 |
父 |
「この地は、ほとんど平地はなく、米の収穫はたかがしれている。すでに、江戸幕府以前、秀吉の時の太閤検地でも、結局、免租地(年貢を納めなくてもよい土地)になっている。
つまり、年貢もとれない農業に適さない土地だったからだ。」 |