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秘境大和十津川2「大峯奥駈道」
熊野古道「大峯奥駈道」と玉置山・玉置神社

 大和十津川の話を続けます。

「あの山の上にも熊野古道が通っている。」

「あのって、どれ?」

「あの高い山のてっぺんだ。」

「うそ、相当高いよ。」

「熊野川(十津川)の東側の山を、大峯山脈という。その稜線を熊野古道のひとつが通っている。これは、普通の熊野古道と違って、大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)と呼ばれる、修行のための道なんだ。今日は、帰りを急ぐから、立ち寄れないが、いつかは行ってみたいもんだ。」


この地図は、いつも使っている「NASAのWorld Wind」からの借用写真をもとに作成しました。
「NASAのWorld Wind」の説明はこちらです。

※熊野古道全体の地図はこちらです。
01-02map_Kii_peninsula_middle_old_road.jpg',627,530,627,530


 上の地図を見てください。

 十津川の東側に、
紫の線が入っています。
 これが、
大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)です。
 道は、
玉置山(1076.4m)、釈迦ヶ岳1799.6m、八剣山1914.9mなどの山々を尾根づたいに通っており、北の吉野山までつながっています。
 道が通っているこれらの山々が
大峯山脈です。紀伊半島の山地の中でも、標高の高い山々が連なっています。

 つまり、
大峯奥駈道は、大峯山脈の尾根づたいに、吉野から熊野本宮に至る道です。

  4月29日にひとりで十津川を再訪した時は、家族旅行では登ることができなかった、十津川の東にそびえる大峯山脈のひとつ、玉置山(たまきやま)(標高1076.4m)に登りました。


 これは、十津川村折立のの国道168号線脇から見上げた、大峯山脈
 
玉置山の頂上は、左側の峰(標高911m)の奥にあり、この写真では、直接は見えません。
 それにしても、電線がど真ん中とは、へたくそな写真です。すみません。
 この写真の一番右の峰の付近の林道から逆に撮影した写真が、次の写真です。

 (撮影日 06/04/29)
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 玉置山
 山頂へ向かう林道から撮影した、十津川村折立の集落。
 上の写真は、この写真の中央左よりの十津川の流れのすぐ右に少しだけ見える国道168号線から撮影しています。
 標高680m付近から標高160m(国道168号)の地点を見下ろしています。

 「標高1076.4mの玉置山に登った」というと、何か大変な登山をしたような書きぶりですが、実は違います。
 (撮影日 06/04/29)
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 実は、玉置山には、頂上近くの標高1007m地点まで林道が通っていて、自動車で登ることができるのです。
 ちゃんと駐車場もあります。
 見晴らしもよく、南の方の山々、奈良県と和歌山県の境をなす果無山脈(はてなしさんみゃく)を見渡すことができます。
 この日(撮影日 06/04/29)は、あいにくの曇り空でしたが、かえって雲海が微妙に秘境感を醸し出してくれています。
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 そして、驚くべきことに、標高1000m程の玉置山の頂上近くには、玉置神社があります。
 標高1000m前後にこんな大きな社殿がと、驚くくらい立派な古い神社です。

 玉置神社は、「玉置神社縁起」によれば、神武天皇にゆかりのある所だそうです。
 
神武天皇が、東征の際に、紀伊半島東部に上陸し、熊野の山地を経由して大和の平野部に向かう際、この玉置山に登って、身の安全を祈願した所だそうです。(神社内にある説明板より)
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 玉置神社の社務所。年代を感じさせる落ち着きです。
 この地に神社そのものを作ったのは、第10代天皇
崇神天皇(すじんてんのう)だそうです。
 下って、奈良時代以降は、この
大峯奥駆道修験道修行の場となり、玉置神社は、熊野神社の奥宮として、信仰されました。
 
玉置神社は、山そのものと神社付近に見事に成長している樹齢600年を超える杉の巨木が、尊崇の対象となっています。 
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現代修験道

「修行の道というと、例の山伏の・・・。」

修験道だね。」

「おとうさんも、今回の旅の予習をするまで知らなかったんだが、現在も、修験道という宗教活動は、一部の方の手によって、熱心に続けられている。

「今も山伏がいるの?」

 ※修験道という宗教の概要については、すでに、「探検記1」で説明しました。こちらです。 

「いる。」

「えっ、怪しい格好で、街道を歩き回っているの。

「違うっての、それは、時代劇が作った勝手なイメージ。

「本来、修験道は、荘厳な山や森に霊気を感じ、山中での修行によって、自然から力を得る、自然と共生するという発想だから、古代人のみならず現代人にも十分魅力がある。」


 以下の3枚の写真は、那智勝浦町で、毎年秋に行われている、「あげいん熊野詣」の時の様子を伝えるものです。
  「
あげいん熊野詣」は、那智勝浦町観光協会が主催して行われるもので、2006年は、10月22日(日)に開催予定です。一般の方も、平安時代の衣装を着て行列を作って当時の熊野詣でを再現します。

那智勝浦町公式サイトへ

 写真は、那智青岸渡寺で行われた、大護摩祈祷。
    地図へ


 護摩祈祷というのは、
修験道や密教の行事で、仏の智恵の火をもって煩悩(苦悩の根元)を焼き尽くして、清浄な願いを叶え、現世利益を得るための儀式です。

 この山伏姿の修験者は、観光客ではありません。本当の修験者です。


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 山伏といえば法螺貝。
 素人ではうまく吹けませんが、修験者は行事の合図にこのほらを吹きます。山中で修行する場合のコミュニケーションのひとつです。
 嘘つきのことを法螺吹きといいますが、これは、その昔不良山伏が、法螺を吹いて人を集めあれこれと嘘を付き金品をだまし取ったことから、法螺吹き=嘘つきとなったという説が有力です。
 ちなみに、法螺貝は英語では、trumpet triton です。海の王子トリトンのトランペットというわけです。

 この3枚の写真は、私が撮影したものではありません。フリーの写真集から、規程に従ってお借りしました。ありがとうございました。 こちらのサイトです。 【日本の写真集】デジタル楽しみ村


「現在でも、いくつものお寺の修験者たちがによって、毎年何回も、この大峯奥駈道で修行がなされている。吉野から熊野まで、なんでも170km程あって、それを、6泊7日ぐらいで歩き抜くのだそうだ。」

「ということは、一日、平均25kmは歩くのか?しかも山道を。」

「まさに、修行だね。」

「誰がそんなことするの。」

「本によれば、参加する人には、特別な宗教家の方もいるけど、会社員とか普通の人もいる。」

「じゃ、父ーちゃんが、やる気になれば参加できるわけだ。」

「本によれば、健康であれば、費用を払えば参加できるそうだ。苦しい時には、『懺悔懺悔、六根清浄』と唱えながら、歩くんだそうだ。」


「懺悔懺悔(さんげさんげ)、六根清浄(ろっこんしょうじょう)」の声が、大峯の山々、谷々をこだまして響きわたる。これこそ、山伏たちが大峯奥駈修行でおこなう「掛け念仏」だ。           峻険な登り道にかかると、修行を統率する大先達の号令とともに、必ずこの掛け念仏の大合唱がはじまる。苦しいときにこそ、唱えるのだ。
 この掛け念仏の大合唱は、集団でおこなう山伏修行の特徴だ。一心不乱に声を出し、ひたすら身体を前へ進めると、不思議なことに、身も心も知らず知らず、掛け念仏に同化していく。すると、疲れ切っているはずなのに、身体の深いところから、新たな力が湧き出てきて、おのずから足を前に運んでくれる。そういう神秘的な力が、掛け念仏に秘められている。
 掛け念仏の「懺悔懺悔、六根清浄」の「懺悔」とは、自分自身の宿業を悔いて、神仏にひれ伏すことだ。普段の生活では、いくら懺悔といっても、口先のことになりかねない。どうしても、実感がともなわない。しかし、山の中では違う。実際に懺悔の世界が体現される。
 掛け念仏を忘不乱に唱えていると、自分の声と仲間の声が融け合い、いつしか自分が唱えているのか、仲間が唱えているのか、わからなくなってくる。自他の区別がなくなる。体中が熱くなり、汗や脂が流れ出る。心身の汚れが、みんな出ていくような感覚が訪れる。
その瞬間、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意の六つ)が聖なる山に浄化されるという実感が、いやおうなく迫つてくる。まさに六根清浄なのだ。
 この感覚は、
今風の言葉をつかえば、「癒される」ということなのかもしれない。むろん、癒してくれるのは自然のなかに厳然として存在する神仏だ。

田中利典・正木晃著『初めての修験道』(春秋社 2004年)P151

 

「参加するなんて、いわんといてね。」

「いまのところは、やらない。」

「あぶなそう。」

<大峯奥駈道で修行を行っている、主な修験道の寺院>

天台寺門宗総本山園城寺(三井寺)

http://www.shiga-miidera.or.jp/

真言宗醍醐派総本山醍醐寺

http://www.daigoji.or.jp/index3.html

金峯山修験本宗総本山金峯山寺

http://www.kinpusen.or.jp/<

本山修験宗総本山聖護院門跡

http://www.shogoin.or.jp/

このページの内容で、予習・復習に使った参考文献。

田中利典・正木晃著『初めての修験道』(春秋社 2004年)

藤田庄市著『熊野、修験の道を往く「大峯奥駈」完全踏破』(株式会社淡交社 2005年)


熊野信仰とは何か

 修験道は、奈良時代におこり、平安時代後期に都の皇族や貴族の間に熊野信仰が高まっていく過程で、その参詣の旅の先達を務めるなどによって、熊野信仰の中に深く入り込んでいきました。

 熊野信仰は、那智の滝、紀伊の山々と森、これらが織りなす、自然の魅力をベースに起こった信仰といえるでしょう。

 
国道168号線は十津川村の北、大塔村までは、十津川(熊野川上流)にそって走っていますが、天辻峠の下を抜ける天辻トンネルを抜けると、十津川と別れます。

 トンネルを出たところは、西吉野村。
 水系も変わって、水は、
吉野川(下流は紀ノ川)水系にとなります。

 そして、国道はやがて、平坦地に出ます。
五條市です。 地図へ

「この大きな川は?」

「ナビによると、これが吉野川、つまり紀ノ川。」

「ようやく、平地に降りてきた。長かった。」

「新宮から約135km。たっぷり3時間かかった。」

「岐阜県も山国だから川と谷と山は見慣れているけど、この紀伊山地の山は、なかなかのもんだね。」

「京都や奈良から、平坦な所を進んできて、そして、吉野川を越えて急に山地に入る。そして、山また山。
 結局、この縦走する山の深さと、森が熊野信仰を生んだんだろうね。」

「十津川経由で帰ってきたのは、意味があったと思う。
 同じく那智の滝に行くのでも、
JR紀勢線沿いに海ばかり眺めていては、熊野三山の信仰に込められた思いは分からない。


 いつもの、グーグル・アースGoogle Earth home http://earth.google.com/)を使って、紀伊半島や熊野を、奈良・京都方面から鳥瞰した地図を作ってみました。
 京都から見れば、奈良の先、吉野川までは、平坦な土地です。そして、そこから先が、
紀伊山地です。
 
熊野三千六百峰と呼ばれた、その山また山の先に、熊野三山があります。 


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