父 |
「現在でも、いくつものお寺の修験者たちがによって、毎年何回も、この大峯奥駈道で修行がなされている。吉野から熊野まで、なんでも170km程あって、それを、6泊7日ぐらいで歩き抜くのだそうだ。」 |
K |
「ということは、一日、平均25kmは歩くのか?しかも山道を。」 |
父 |
「まさに、修行だね。」 |
D |
「誰がそんなことするの。」 |
父 |
「本によれば、参加する人には、特別な宗教家の方もいるけど、会社員とか普通の人もいる。」 |
D |
「じゃ、父ーちゃんが、やる気になれば参加できるわけだ。」 |
父 |
「本によれば、健康であれば、費用を払えば参加できるそうだ。苦しい時には、『懺悔懺悔、六根清浄』と唱えながら、歩くんだそうだ。」 |
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「懺悔懺悔(さんげさんげ)、六根清浄(ろっこんしょうじょう)」の声が、大峯の山々、谷々をこだまして響きわたる。これこそ、山伏たちが大峯奥駈修行でおこなう「掛け念仏」だ。 峻険な登り道にかかると、修行を統率する大先達の号令とともに、必ずこの掛け念仏の大合唱がはじまる。苦しいときにこそ、唱えるのだ。
この掛け念仏の大合唱は、集団でおこなう山伏修行の特徴だ。一心不乱に声を出し、ひたすら身体を前へ進めると、不思議なことに、身も心も知らず知らず、掛け念仏に同化していく。すると、疲れ切っているはずなのに、身体の深いところから、新たな力が湧き出てきて、おのずから足を前に運んでくれる。そういう神秘的な力が、掛け念仏に秘められている。
掛け念仏の「懺悔懺悔、六根清浄」の「懺悔」とは、自分自身の宿業を悔いて、神仏にひれ伏すことだ。普段の生活では、いくら懺悔といっても、口先のことになりかねない。どうしても、実感がともなわない。しかし、山の中では違う。実際に懺悔の世界が体現される。
掛け念仏を忘不乱に唱えていると、自分の声と仲間の声が融け合い、いつしか自分が唱えているのか、仲間が唱えているのか、わからなくなってくる。自他の区別がなくなる。体中が熱くなり、汗や脂が流れ出る。心身の汚れが、みんな出ていくような感覚が訪れる。その瞬間、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意の六つ)が聖なる山に浄化されるという実感が、いやおうなく迫つてくる。まさに六根清浄なのだ。
この感覚は、今風の言葉をつかえば、「癒される」ということなのかもしれない。むろん、癒してくれるのは自然のなかに厳然として存在する神仏だ。
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田中利典・正木晃著『初めての修験道』(春秋社 2004年)P151 |
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妻 |
「参加するなんて、いわんといてね。」 |
父 |
「いまのところは、やらない。」 |
Y |
「あぶなそう。」 |