現物教材 日本史3

近代009 太平洋戦争中の日米軍戦闘機(プラモデル)              |現物教材:目次:日本史 |

 兵器というのは、当然ですが、それを採用する国と軍の、兵器の使用や自国の将兵の取り扱いに関する思想が色濃く反映されます。また、兵器を開発するその国の経済力が兵器の能力の上限を決定します。

 ここでは、太平洋戦争中の日米両軍の戦闘機の比較をしながら、両国の用兵思想・経済力の違いを説明します。

 写真1は日本海軍の
零式艦上戦闘機、いわゆるゼロ戦の21型です。ゼロ戦は1940年に制式に採用され、各種改良型が作られ、太平洋戦争の終了時点まで長く日本海軍の戦闘機の主役となりました。
 各型とも共通して、小回りのきく運動性能(空中での相手戦闘機との格闘性能が抜群)と、増加燃料タンクをつけると最大航続距離が3350kmにもなるという「足の長さ」という大きな優れた特色を持っていました。武装も主翼に20mm機関砲を2門装備するという強力さです。

 しかし、エンジンはほとんどの型で栄12型940馬力、栄21型1130馬力を搭載していたため、最高速度は550q前後でした。軽量化するために、パイロットを保護する操縦席後部の防弾板、燃料タンクの発火防止装置(特殊ゴムのシールドによる防弾燃料タンク)などは装備されておらず、攻撃による被弾にもろい飛行機でした。人命軽視というか、捨て身の攻撃が身上の飛行機でした。
 開戦当初のアメリカ軍機は、ゼロ戦より特に優れた性能を持つ飛行機がなく、緒戦では、ゼロ戦は無敵でした。アメリカ軍は、正直なところ、日本軍がこんな優れた戦闘機を開発するとは考えていませんでした。

 ところが、米軍は墜落したゼロ戦を捕獲し徹底的に分析した上に、日本より勝る技術をつぎ込んで、ゼロ戦の対抗機を次々と繰り出します。
 その代表的戦闘機が、写真2の左側の海軍戦闘機
グラマンF6Fヘルキャットです。

 F6Fは2000馬力の高出力エンジンを積み、最高速度は600q以上、武装は12.7o機銃6門、航続距離は1750qという性能でした。

 写真3はゼロ戦とF6Fの上からの比較写真です。同じ一人乗りの戦闘機なのに、F6Fの方が一回り大きいのが分かります。
 操縦席の防弾板・防弾燃料タンクなどを装備して、なお600q以上の速度が出せたのは、2000馬力のエンジンのおかげです。

 また、機銃が12.7oと、ゼロ戦の20oに比べて小さいのは、別に20oでなくても、日本機はパイロットの負傷や燃料タンクの発火によって簡単に落とすことができたからです。

 12.7oと20oとでは、飛行機に積める銃弾の量も違いますし、また、命中率も違っていました。考えてもみてください、重い機関銃弾の方が、当然ですが、真っすくは飛ばずに、重力の加速度によって落ちていってしまいます。
 
 写真4はアメリカ陸軍の
リパブリックP47Dサンダーボルトです。この飛行機に至っては、一人乗りながら、2300馬力のエンジンを積み、対地攻撃用に爆弾を積むこともできました。
 
 そして、写真5が、第二次世界大戦中の究極の戦闘機とまで言われた、アメリカ空軍の
ノースアメリカンP51−Dムスタングです。最高速度は700qを越え、敗戦までの5ヶ月間、B29とともに日本の空を席巻しました。

 アメリカ軍機と、日本軍機の設計・用兵の違いは、今みてきたとおりですが、その相違は、
単に発想の問題と言うよりは、技術力・工業力の相違から来るものでした。

 日本の飛行機技術者たちも、戦争後半期には、2000馬力以上の出力を持つエンジンの開発に努力を傾けますが、結局は、完全に安定したものを量産することはできませんでした。
 
 撃墜されたアメリカのB29爆撃機のエンジンを分解して調査した日本人の技師は次のように感想を書いています。

「エンジン全体の技術がきわめて常識的で、無理をしていない。減速比を2分の1にするため、遊速ギアの二段にして、外径を小さくコンパクトにまとめてあった。その分のしわ寄せがベアリングにきて、軸の径が小さくなるので、日本のようなケルメットでは面圧がもたない。そこで、銀ベアリングをいたるところに使っていて、誰がみても、これならいけるのではないかという設計になっていました。」
 ※前間孝則著『マン・マシンの昭和伝説』  (1993年講談社)上P228

 専門家の難しい表現ですが、簡単に言えば、強度の高い銀ベアリングをたくさん使うことができたかどうかが、エンジン開発の能力を規定していたのです。

 エンジンに以外にも、
排気ターボ過給器(今では自動車にも使うターボエンジンのターボ)も、日本では全く開発されていませんでした。高高度の空気の薄いところで、エンジンが額面通りの馬力を出すには不可欠の排気ターボ過給器が、日本の戦闘機にはついていませんでした。この、技術力の差は、パイロットの技量で克服とかいう問題ではなかったのです。
  目から鱗「昭和時代前半の日本は何だったのか」へ


 ※アメリカ海軍機コルセアの説明は、「クイズ世界史戦後世界と対立」にあります。こちらです。
 ※日本陸軍の飛燕と五式戦の説明は、「岐阜・美濃・飛騨の話 各務原・川崎航空機・戦闘機」にあります。


近世004 火縄銃(模造品、これは高価でした)                  |現物教材:目次:日本史 |

 ご存じ火縄銃の模造品です。 教育現場で銃をみせるというのは、ちょっと間違うと「非教育的」と批判を浴びそうですが、これは純歴史教材ですから、問題はないと思います。
 しばらく前までは、授業には、知り合いのお寺に秘蔵してある本物の銃を借りて持っていっていました。しかし、そのお寺自身がその銃砲の登録をしていないという「ご禁制の品」でしたし、それを私が持ち歩くと、ちょっとやばいというわけで、思い切って模造品を購入しました。

 とはいっても、火縄銃の模造品などそう簡単に見つかりません。最初は、映画・放送関係の方に紹介をと思って、NHKの知り合いディレクターに尋ねたりしましたが、うまくいきませんでした。そこでと考えたのが、火縄銃を土産にできる唯一の場所、すなわち、鹿児島県種子島の探索です。西之表市の種子島総合開発センター(古い火縄銃が100丁ほど展示してある)に聞いてみると、種子島空港の売店に土産物の火縄銃模造品があることが分かりました。
 価格は、「う〜と」考え込む高さでしたが、まあ、ここで撤退は無理というもんです。銀行振り込みで購入しました。
 
 全長109センチ、銃身は鉄でできた重さ1.68sの写真の火縄銃模造品は、定価33,000円、送料と消費税を含めると合計35,810円です。(妻には内緒です。おまけに種子島特産「黒砂糖」が同封されていました。お慰めありがとうございました。)
 ※種子島航空センター株式会社種子島空港売店 (09972)−7−1155
 

 以前に借りていた、お寺秘蔵の本物(たぶん江戸時代の作品)はかなり重く、4,5sはありました。この模造品は2s足らずですから、手に持った重量感は全く違います。それでも、授業中に生徒に「回覧」させれば、印象に残る授業ができるに違いありません。

 もちろん、授業では、鉄砲伝来のページと織田信長の長篠合戦のページと2カ所で登場してもらいましょう。(費用がかかってますから1年にたった1度では元が取れません。)
 授業の詳しい内容は、クイズ火縄銃の作り方で。
 日本史クイズ安土桃山時代