安土桃山時代5
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<解説編>
 
 410 越前一乗谷のトイレ遺構の発見の決め手となった木製遺物は何でしょうか? 12/05/28掲載

 このクイズは、出土木製遺物シリーズ、Ⅰ「刀筆の吏」Ⅱ「籌木」Ⅲ「越前一乗谷朝倉遺跡トイレ遺構」の3つ目です。できましたら、一つ目から順番に読んでいただくと、わかりやすくなっています。
 この項目は、以下の見出しにしたがって説明します。
 クイズの正解
 トイレ考古学について


 クイズの正解          | このページの先頭へ |

 まず、トイレの跡地の認定について、発見の時点で考古学上はどんな事情だったのかを簡単に説明します。(詳しくは、「2トイレ考古学について」で説明します。)
 その木製遺物が出土したのは、1980(昭和55)年のことです。越前一乗谷では、1967年から発掘調査がはじまり、その過程で、長さ1~2m、幅0.5m~1m、深さ0.4m~1m程の枡形の掘り込みで、四方の壁に3~4段の河原石を積んだ遺構が、各屋敷地内から数多く発見されていました。これらのうちいくつかはトイレ遺構ではないかと考えられていましたが、トイレではなく、単なるゴミ捨て穴、または水溜であるとの説を主張する研究者もあり、トイレ遺構であるという決め手が見つかりませんでした。現在では、いろいろな科学的な判定方法が確立されていますが、当時はまだそれがなかったわけです。


 写真410-01・02 屋敷地内で発見された石組みの遺構 (撮影日 09/10/25)


 ところが、次の木製遺物が発見されたのです。これが決め手となりました。なんだかわかりますでしょうか?


 写真410-03 福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館にて撮影            (撮影日 09/10/25)

  正解です。これはトイレの、いわゆる、「金隠し」の板です。これがトイレの決め手となりました。 


 1980(昭和55)年のこの発見は、越前朝倉氏遺跡どころか、日本で最初に考古学的に確認された確実なトイレ遺構となったのです。名誉ある発見でした。この金隠しは国指定重要文化財となっています。解説を引用します。
「この石組桝形汲取式トイレは、主軸を北西に置き、長さ1.8m、幅1m、深さ1m、石組は6段程であった。中には有機質の泥が溜り、調査を担当した水野和雄氏(当時、福井県教育庁朝倉氏遺跡調査研究所)は悪臭がしたのを記憶しているという。長辺壁の両側に直径約15cmの杭が3~4本ずつ打ち込まれ、その一部は桝の上端より突き出していた。これを柱として桝(便槽)をおおう簡単な片屋根の小屋を設け、板材(発掘時に桝から出土している)で床を渡し、排泄物の落し穴に金隠しをはめ込んだと考えられている。この桝からは陶磁器の破片・明かり取りのための灯明皿などの他に、毛抜き・鋼銭「照寧元宝」「元祐通宝」・将棋駒「飛車」・櫛・下駄といった当時の人がうっかり落としてしまったと思われる生活に密着した遺物も出土している。
 このトイレは町屋(商工業者の家)の裏庭に設置されていた。町屋は谷を南北に走る幹線道路等に面して、短冊状に並んでいる。」
  ※参考文献1 東京都大田区立郷土博物館編『トイレの考古学』(東京美術 1997年)P57-60
  ※参考文献2 黒崎直著『水洗トイレは古代にもあった トイレ考古学入門』(吉川弘文館 2009年)P10-14
  ※参考文献3 福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館編『越前朝倉氏一乗谷』(2005年)P6-18

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 写真410-04・05 越前一乗谷朝倉遺跡の復元トイレのひとつ (撮影日 09/10/25)

 右はアップです。金隠しは前面にしつらえてあります。前向きにしゃがむタイプです。


 上の地図は、Google から正式にAPIキーを取得して挿入した、福井県越前一乗谷中央部の地図です。

 遺跡の街並み復元部分の空撮写真です。越前一乗谷朝倉遺跡の詳細については、次のクイズ:「越前一乗谷出土物クイズ」で詳しく説明します。


 トイレ考古学について          | このページの先頭へ |

 続いて、日本のトイレ考古学について、説明を続けます。
 1980年、
越前一乗谷朝倉遺跡のトイレは、金隠しがあったおかげで無事にトイレと「認定」されました。しかし、その時点では、トイレの遺構を科学的に判定できる手法はまだ確立していませんでした。
 この時点以前にトイレ遺構だろうと想定されていたものには、福岡市鴻臚館跡の深さ4mの溝、岩手県平泉町柳之御所跡の土坑、秋田県大館市矢立廃寺跡の土坑などがありました。
 これらの遺構には、発掘状況からトイレ遺構と判定できる遺物が出土していました。その遺物とは、
①籌木(クソベラ)②ウリの種③はえの蛹(さなぎ)の3種です。
 このうち、
①籌木(クソベラ)とは、古代から中世に欠けて一般的に使われた、紙の代わりにお尻の穴の回りについたうんこをぬぐう木のことです。これについては、木製遺物クイズシリーズ2(Ⅰ「刀筆の吏」Ⅱ「籌木」Ⅲ「越前一乗谷朝倉遺跡トイレ遺構」)で説明していますから、詳しくはそちらをご覧ください。
 
②のウリの種というのは、食物のウリの種です。ウリは縄文時代から日本列島の住人に食物として食べられてきたものであり、今と違って当時は、種もそのまま食していたため、消化されずにうんことして排泄され、便所や糞尿の廃棄場所にたまったものです。
 
③はえの蛹は、糞便がたまっているところへはえが卵を産み付け、それが蛹となって羽化せずに残った死骸のことです。

 この①・②・③が土壌中に大量に含まれていることは、その土坑・石組み・溝などが、トイレの跡もしくは糞尿の廃棄場所であることを物語っています。黒崎直氏は、この3っつを、「
トイレ遺構判別の『三種の神器』」と呼んでいます。
 ※参考文献2 黒崎直前掲書 P16

 
越前一乗谷の金隠し発見から12年経て、ようやくトイレ遺構の科学的な判定の基礎が造られました。
 それは、
1992年1月末、奈良県藤原京跡からトイレの遺構と見られる土坑が発見されたことが端緒となりました。発掘担当者の黒崎直氏は、これはトイレの遺構と直感し、奈良国立埋蔵文化財センター長の田中琢氏に連絡したところ、研究員の松井章氏(現埋蔵文化財センター長兼京都大学大学院人間・環境学研究学科客員教授)が調査やってきました。
 この松井氏こそが、トイレの科学的判定をおこなう立役者となるのです。
 そこでクイズです。
 松井氏がおこなった顕微鏡分析の結果、科学的にトイレ科学的判定の要因となったものは、あるものの発見でした。松井氏が大量に発見したものは何だったのでしょうか?


 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。
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 松井氏は、1977年からのアメリカ・ネブラスカ大学留学時の恐竜の糞石の研究や、1989年のイギリス自然史博物館の客員研究員として環境考古学の研究を通じて、日本のトイレ考古学を花開かせる下地をもっておられました。イギリスで師事されたジョーンズ博士は、1981年に世界で初めてトイレ土壌の顕微鏡分析によって寄生虫卵を発見し、英国最初のトイレ考古学者の名声を確立した人でした。
 松井氏は、藤原京から持ち帰ったトイレ土壌から
ウォーター・フローテーション法(回転する水流の力で土壌を分解し、中に含まれた微細ないびつを浮かび上がらせて採集する方法)によって遺物を採集し、顕微鏡によって初めて寄生虫卵を発見しました。
 余談ですが、寄生虫卵と言っても若い方にはぴんとこないかもしれませんが、寄生虫とは人間の消化器官にすくう、回虫・鞭虫・肝吸虫などのことです。人糞を肥料として野菜等を育てていた私の若い頃は、寄生虫をもっている児童はたくさんいました。年配の方なら、学校で「
寄生虫検査だ」と言われて、粘着テープの着いたセロファンをもらって帰り、家で次の日の朝の排便前にお尻の穴にセロファンを押しつけ、それを学校に提出したのを覚えておられずはずです。こうすると、お尻の穴の回りに付いている寄生虫卵がセロファンの粘着部分に移り、それを調べることによって寄生虫を「飼っている」かどうかがわかるのです。もちろん、寄生虫がいた場合は、「虫下し」と称する薬を飲まなければなりませんでした。公益財団法人東京予防医学協会のHP(→http://www.yobouigaku-tokyo.or.jp/)によれば、昭和20年代後半には、東京都内平均で72%もの人が、寄生虫の感染者でした。あの検査は、いつ頃から学校でおこなわなくなったのでしょうか?
 さらに脱線ですが、現在の花粉アレルギーなどのアレルギー症状は、日本人が寄生虫を宿さなくなったからだと言う説もあります。
 ※参考文献3 松井章著『環境考古学への招待 -発掘からわかる食・トイレ・戦争-』(岩波新書 2005年)P44-62

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 話を元に戻します。
 ただし、寄生虫卵が見つかればそれでトイレかというとそうではありません。松井章氏から調査依頼を受けて寄生虫卵の研究を進めた金原正明氏(奈良教育大学教育学部教授)・正子氏(古環境研究所)夫妻によれば、
土壌1立方センチメートル当たり寄生虫卵1,000個以上の存在が、トイレの目安とのことです。上記の藤原京の遺構からは、1立方センチメートル当たり5000個を越えました。
 寄生虫卵の他にも、
昆虫遺体(例 コクゾウムシ・・米の害虫、ご飯に混じって食べられ死骸となってそのまま排泄される)、花粉(例 アカザ・・穂が腹痛を抑える薬と考えられていたため、服薬され消化されなかった花粉が排泄される)などが土壌から発見されることも、その土壌がトイレ以降であることの証拠となります。 
 ※参考文献1 東京都大田区立郷土博物館編『トイレの考古学』P8 
 
 こうして、
1992年の発見と分析が、「真に科学的な意味でのトイレ考古学のはじまりを宣言した記念すべき調査」(黒崎前掲書P34)となり、この年はいわば、トイレ考古学元年となりました。
 これによって、
トイレ考古学の基礎は確立し、1990年代中盤から後半にかけては、トイレ考古学は脚光を浴びました。ただし、黒崎氏によれば、それ以降現代に至るまでトイレ考古学が着実に発展したかと言えば、必ずしもそうはなってはいないとのことです。原因は、考古学現場ではあくまでトイレ遺構は脇役で、新しい発掘場所で発掘者によってどんどんトイレ遺構が発見され、資料の蓄積がなされている状況にはなっていないからとのことです。
 確かに、それは想像できます。発掘現場で血眼になってトイレ遺構を探すという研究者がそう多くいるとは思えません。(^_^)
 焦らずに成果を期待したいものです。 


 越前一乗谷朝倉遺跡については、ページをあらためて紹介します。


 【クイズ410 越前一乗谷とトイレ考古学関係 参考文献一覧】
  このページの記述には、主に次の書物・論文を参考にしました。

東京都大田区立郷土博物館編『トイレの考古学』(東京美術 1997年)

 

黒崎直著『水洗トイレは古代にもあった トイレ考古学入門』(吉川弘文館 2009年)

福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館編『越前朝倉氏一乗谷』(2005年)