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現物教材 日本史1

原始・古代003  「漢委奴国王」金印レプリカ  改訂版 12/02/20 追加12/04/23 |現物教材:目次:日本史 | 

【改訂版】
 この項目は、2012(平成24)年2月20日に全面改定しました。
  ※2012年4月23日に、印綬の「綬」(=ひも)について解説を追加しました。→追加部分はこちら

2012年2月12日に、「現物教材日本史:「織田信長の「天下布武」印のスタンプ」を掲載しましたので、それに関連して、2000年12月に掲載したままになっていたこのページをリニューアルしました。なにしろ、教科書に登場する「2大印章」ですから、バランスを考えなくてはいけません。

 「後漢書東夷伝に、紀元後57年、光武帝が倭の「奴」国王に下賜した記述され、江戸時代後期の1784(天明4)年に福岡県の博多湾にある志賀島から発見された「漢委奴国王」の文字が刻まれた金印のレプリカスタンプです。中学校・高等学校の教科書で多くの方におなじみです。
 実物は現在
福岡市博物館にありますので、同博物館のミュージアムショップで購入することができます。
 本物そっくりの真鍮製
金印レプリカは、3,675円。ゴム印のスタンプは、実物大が710円、実物より大きめの「大」が892円です。
 遠隔地から注文して配達してもらうには、送料(配送地域により異なります)+手数料(300円)が余分に必要です。

福岡市博物館ミュージアムショップ 電話:092-823-2800
福岡市博物館のトップページ   http://museum.city.fukuoka.jp/
出版物・グッズ(ミュージアムショップ)のページ http://museum.city.fukuoka.jp/jc/jc_fr3_105.html

 本物は、写真で見て想像するよりもずいぶん小さなもので、印面は1辺僅か23mm程の正方形です。この小さいことと当たり前ですが、金色のきらびやかさが、レプリカとは言え手にした生徒に感動を与えます。


 桐の箱に入った立派なものです。本物は重さ僅か、109グラム。レプリカはそれより軽いです。

 実物金印の大きさ等のデータは、以下の通りです。

 総高

2.236cm

 鈕高(ちゅうこう、つまみの高さ)

1.312cm

 印面1辺の平均の長さ

2.347cm

 台高(平均値)

0.887cm

 質量

108.729g

 体積

6.062㎤

 比重

17.94

 
 左の写真の紫の
は、「」をまねて装飾品として付け加えました。歴史的考証物ではありません。「」の長さについては、下記に詳細を説明しています。

 ↑ 鈕(ちゅう、つまみ)の部分のアップです。蛇のデザインといわれています。 左:しっぽ側から  右:頭側から

 ↑ 同じく鈕の部分の側面です。 左:左側、右:右側

 ↑ 印面の側のアップです。 左:真上から  右:少し角度を付けて

 ↑ 金印スタンプ 
 左:実物よりもおおきな鈕です  
 右:実際の金印よりも大きなスタンプ面です。本物より大きめの方が、迫力はあります。
 4月の最初のノート等の提出物の検印は、もちろん、この「漢委奴国王」となります。検印を見た生徒の驚きが目に浮かびます。

 ↑ 金印を押したもの 左:ゴム印を紙に押したもの  右:レプリカを粘土に押したもの

 「
後漢書東夷伝のことや、金印発見の話にばかり重点をおくと、生徒諸君は、肝心な金印の使用方法について誤解をしてしまう危険性があります。
 左は、ごく普通に朱肉を使って紙の上に金印のゴム印を押したものです。これが現在でも常識的な印章の使用方法です。印章に彫られている文字もよくわかります。
 しかし、これは金印の本当の使用方法ではありません。まだこの時代には紙は発明されていませんでした。(後漢の蔡倫による紙の発明は、紀元後105年。)
 紙が普及する前の印章の使用方法は、木や竹に書かれた文書、木簡や竹簡を紐と粘土板等で封印するための「シール」として使用されました。右上の写真は、金印を油粘土(子どもが工作等に使うもの)に押しつけたものです。これが本来の印章の使用方法です。
 
金印の使用方法と綬(紐) 【追加記述】 12/04/23追加 研究者の方の論文から引用します。
  ※高倉洋彰著「漢の印制から見た「漢委奴國王」蛇鈕金印」(2007年) 『国華』(第1341號)13
「 漢代、あるいは紙が普及するようになる前の段階において、文書の交換には薄く丁寧に削った竹や木の細長い板(竹簡・木簡)が用いられていた。これに所用の文を書くと、現代の封書と同じょうに、信書の秘密を保持するために封をする。その實例は居延漢簡や教壇漢簡などとよばれる資料群で知られているが、まず竹簡・木簡の上下を現在の封書と同様に宛名を記す蓋板と底板(両者を合わせて檢とよぷ)で挟む。蓋板の中央は厚みをもつていて、そこに彫られた縄溝(通常三條)に細い紐(縄)を掛け、その上から粘土を塗つて、印を捺し封緘する。このため使用頻度の多い公文書は封緘印の形態を統一しておく必要が生じ、方一寸の角印と定める必要があつた。こうしておけば、紐を切つて不法に中身を讀むと、封泥とよばれる紐の上に塗つた粘土を外さずに元に復することができないから讀んだことが露見し、結果として内容の機密保持と發信者の正當性を證明できる。漢代およびその前後の時期の官印が、現在の文字を浮き彫りにした陽文と達つて、文字部分を彫り込んだ陰文になつているのは、封泥に捺した印文が隆起して讀みやすくなるように意圖されているからなのである。少帝が卑彌呼に輿えた詔書も封装され、親魂倭王への冊封が目的であつたと考えられるから、諸侯王を封じる時に用いる「皇帝之璽」印で封緘されていたと思われる。また文書ばかりでなく、湖南省長沙市馬王堆一號漢墓では行李を緊縛した紐にも、檢を簡易にした封泥匣を用いて粘土を填めた封緘がみられ、内容物の保全がはかられていた。
 このように、官印は文書の發信者の正當性を示し、かつまた内容の機密を保持する必須の道具であり、役人はその職に就いた時點で現在の辞令のように役職を示す印を授けられ、常時身に付けていた。印綬の綬は印を身に帯びるために必要な紐のことで、長さは1丈2尺、つまり約2.8米もあつた。そして先述したように、金印紫綬というように、金・銀・銅の印に對應して紫・青・黒の綬の色も定められている。」


 ↑ 金印がらのネクタイピン これはおまけです。金印が登場する授業をする時やその他いろいろアピールしたい時は、このネクタイピンを付けていきます。同じく、ミュージアムショップで購入することができます。印面ではなく、写された印面のデザインになっています。


 今回改訂に当たって、新たな問題意識が生じました。
 それは、
金印の真贋問題についてです。
 この金印が本物か贋物かについては、発見後の江戸時代からすでに話題となっていましたが、1980年代以降は、あまり問題とされなくなって来ていました。
 たとえば、私が大学1年生の1973(昭和48)年に出版された小学館の『日本の歴史』シリーズの第一巻は、直木孝次郎氏が「倭国の誕生」というタイトルで執筆されていますが、その「金印の発見」の項目には、次のようにあります。
うすらぐ疑い
 その後、印文のなかに「国」の字があるのがおかしいともいわれた。異民族の王をよぶばあいは。、「南越王」「鮮卑王」などと「国」をつけないのがふつうである。後述の『魏志』倭人伝にみえる、卑弥呼の得た称号も「親魏倭王」で、国ははいっていない。しかし『後漢書』の光武本紀に「東夷倭奴国王」とあるのだから、印文にも国がはいっていてふしぎはあるまい。すくなくともこれは、偽作の強い根拠にはならない。
 また、史上にまだあまり活躍していない倭人の国が黄金の印をもらうのは、地位につりあわないではないか、という説もあったが、異民族の王が金印をもらうことはそれほど珍しいことではない。右にあげた内蒙古や甘粛省出土の印は、いずれも金印である。漢が異民族の王にあたえる印は、つまみの部分(鈕)が亀の頭をかたどるのがふつうなのに、この金印の鈕をしらべると蛇をかたどつているのはおかしい、という疑問もだされたが、昭和三二年(一九五七)に中国雲南省の漢代の古墓から蛇鈕の金印が実際に出土したので、この間題は解決した。この印は「滇王之印」ときざんであり、「印」の字のあることが志賀島の金印とちがうが、印面の一辺は二・四センチあり、わが金印とほとんど同じである。これに関連して、岡崎敬氏が「漢魏晋代、南方蛮夷の国々にあたえるものには、湿潤の地にふさわしい<蛇鈕>を通制としたらしい」と論じているのは興味がある。
 しかも二・三五ないし二・四センチという長さは、漢の一寸の長さに一致する。これは大変重要なことで、志賀島の印も「滇王」の印も、印は方寸という漢の制度に合致するが、江戸時代の学者がそこまで正確に漢の一寸の長さを知っていたとは思われない。真印の証拠としてよいであろう。
なぜ埋めたか
 金印をにせものとする根拠にあまりたしかなものはなく、漢代の製作であることはまちがいなさそうである。」
  ※直木孝次郎著『日本の歴史 第一巻 倭国の誕生』(小学館 1973年)P234-235

 この時点で、疑いはおおむね払拭されているという表現です。
 時代が過ぎていくと、疑いはさらに消え、確定的となります。2000(平成12)年に刊行された、寺澤薫著『日本の歴史02 王権誕生』では、次のように記載されています。
「 金印研究の歴史は長く、私印説や贋作説まで生む結果となったが、今では『後漢書』に記された「印綬」に間違いないと考えられている。その理由は、①印面が正確に一寸(2.35センチ)にあたること、②同一規格で陰刻篆体の薬研彫り字体をもつ「廣陵王璽」の金印、(江蘇省揚州市邘江件甘泉二号墓出土)が、一年違いの永平元年(五八)八月に下賜されたものであること、③同じ蛇鈕で同規格の「滇王之印」の金印(前109年、武帝が下賜)が、雲南省晋寧県石塞山六号墓から見つかったこと。④純度九十五・一パーセントで、滇王之印や中国大陸の砂金の純度や他の金属組成とも一致すること、だ。」
  ※寺澤薫著『日本の歴史02 王権誕生』(講談社 2000年)P217-218

 しかし、21世紀になって、金印=真印説に対する反論、新しい疑問が投げかけられています。
 その反論は、無視できないものだと考えますので、引き続いて、別の場所でこれを特集したいと思います。
  →
目から鱗の話:「『漢委奴国王』金印への新たな疑問1・2」 


近代003 征露丸と正露丸                            |現物教材:目次:日本史 | 

 日露戦争のころ下痢止め・腹痛に効く薬として世に出た露丸。いつしか、ロシアとの関係を考慮して多くは正露丸となってしまいましたが、いまでも、「征露丸」も存在します。
 
 実は、「
正露丸」という名前の薬品は、いくつかの会社で製造発売されています。
 大幸薬品・正起製薬・日本製薬などなど合計30種類ほどあるそうです。「
正露丸」の名称の登録商標をめぐっては、裁判で争われたことがあり、最高裁判決では、「正露丸」は一般普通名詞とされています。
 ※町田忍『マッカーサーと征露丸』(1997年芸文社)

 右の写真の
は、一番有名なラッパのマークの「正露丸」、製造元は大幸薬品株式会社です。同社のホームページによると、製造開始と名前の変更は、次のようになっています。
 ※http://www.seirogan.co.jp/ 

1902(明治35年)

中島佐一氏が「忠勇征露丸」の製造販売を開始

1940(昭和15年)

初代柴田音治郎が柴田製薬所設立

1946(昭和21年)

柴田音治郎が「忠勇征露丸」の製造販売権継承。大幸薬品株式会社設立

1949(昭和24年)

「忠勇征露丸」を「中島正露丸」に名称変更

1954(昭和29年)

「中島正露丸」を「正露丸」に名称変更

 
 第二次世界大戦後に「
征露丸」から「正露丸」へ名称が変更されています。
 この経緯は、戦後戦勝国であるソビエトに気を遣った
厚生省からの「国際信義上好ましくないとの行政指導により」、一斉に正露丸になってしまったということです。 
 ※これは大幸薬品の品質保証部お客様相談係に問い合わせをして回答をもらいました。
  回答によると、同社においても「現在資料等より名称由来、社史について調査中で、明らかになっていない点もご
  ざいます。」とのことでした。郵送されてきた回答には、なんと、粗品のタオルまで同封されていました。タオルに
  は、もちろんラッパのマークが付いていました。大変誠実な会社です。ありがとうございました。
 
 ところが、現在でも、1社だけは、日本国内で「征露丸」の名前で同様の薬を販売しています。奈良県にある
日本医薬品製造株式会社です。写真のです。ここの商標はラッパではなく、陸軍軍医総監松本順の顔です。何故この人が登録商標なのかいろいろ聞こうとしましたが、電話では、「昔のことは分かりません。社長も知らないと言っております。」というおおらかな返事でした。
 ※
日本医薬品製造株式会社 電話をすると製品を送ってもらえます。
   奈良県御所市古瀬18番地 0745-67-0015  (夜)0745-67-0033
   550粒入り1800円 送料・消費税で合計2160円です。(2001/05/08現在)

 
 また、写真のは台湾で販売されているものです。
 なんでも、台湾ではあいかわらず「征」の字がないと、しっかり効き目があるようには思えないとのことで、「征露丸」で販売されているそうです。(不確かな伝聞ですが・・・)


正露丸の話追加 07/11/12追記                |現物教材:目次:日本史

 2007(平成19)年11月12日の「yahoo Japanニュース」によると、大幸薬品の「セイロガン糖衣A」が防衛省の装備品として採用され、これは、「日露戦争以来100ぶり」とのことだそうです。

 もともとの征露丸は、日露戦争前に旧陸軍によって開発され、日露戦争前にその装備品となりました。しかし、戦争後の1906年には製造が民間会社に許されて、装備品としての配給は廃止されました。
 今回、2007年3月の自衛隊員のネパール派遣に際して、隊員に支給され、約100年ぶりの復活となったというわけです。
 
 この記事に関して、なんと、この未来航路のこのページがリンクされました。
 お陰様で、1日に1000を超すアクセス件数が記録されました。大事件です。(^_^)
  そのページはこちらですが、そのうち消えちゃうでしょうね。


近代003-2 怪しげな正露丸 03/09/28追記            |現物教材:目次:日本史 |

 正露丸(征露丸)の続編です。

 ヤッフー・オークションを眺めていたら、下の写真のものが出品されていました。これは面白いと思って、1000円で落札しました。

高さ12センチ弱の瓶にラベルが貼ってあります。

タイトルは、戦役記念丸。


 年代物の瓶で、ラベルには、「戦役記念丸」と書かれています。

正体は、家庭常備薬。

そして旧名称は征露丸


 左の方に、「胃腸、腹痛、下痢 水傷、食傷、優良薬」とあり、家庭常備薬となっていますから、これは、薬瓶です。
 と言うことは、「戦役記念丸」は「せんえききねんがん」と発音しなければなりません。
 そして、驚くことに、次には、「旧名称、征露丸」とあります。
 つまり、この「戦役記念丸」は、それまでの「征露丸」が名前を変えたものなのです。製造元は、
第一製剤有限会社です。

 しかし、これ以外は、何のデータもありません。
 それから、インターネット等を使っていろいろ調べてみましたが、「戦役記念丸」も「第一製剤有限会社」も、全く該当がありません。この瓶とラベルは、わざわざ人をだますために誰かが作ったというものではないと思われますので、何らかの事実を想像しなければなりません。 

  1. 現在でもたくさん薬品会社から、30種類を超える正露丸・征露丸が売りに出されている。それは、今から100年ほど前も同じであったと想像できる。

  2. その時代の製剤会社の一つであった第一製剤有限会社が、日露戦争後、それまで「征露丸」の名前で売っていた薬を、「戦役記念丸」と改めた。

  3. その理由は、ロシアとの戦争が終わり、もはや、「征露丸」という名前よりも、「戦役記念丸」の方が、時代を先取りして、いい感じがしたからであろう。

  4. ところが、この第一製剤有限会社は、いつの時代にか倒産してしまい、その後どうなったか、今ではわからない。

  5. または、この第一製剤有限会社は、別社名に変更になり、薬の名前も、「正露丸」となって、今ではその経緯が忘れられてしまっている。

 どの点においても、確証はありません。
 情報をお持ちの方は、是非教えてください。(._.)(連絡はこちらへ、
 もう少し、事実関係がわからないと、「得体の知れないもの」で終わってしまいます。

 ところで、今回再び正露丸・征露丸のことを調べているうちに、面白い事実がわかりました。
 本来、征露丸は整腸薬としてではなく、脚気予防の薬として開発されたと言うことです。
 ちょっと説明します。

 19世紀は、今と違って栄養学や医学はまだまだ発展途上にありました。
 日本政府が対応に躍起となっていた病気に、脚気(かっけ)があります。現在では脚気は、ビタミンB1不足から来るものとその原因は解明されていますが、当時は、原因がわからない病気でした。
 農村からでて都会に寄宿する20代の若者に多い病で、手足の腫れに始まって最後は呼吸困難に陥り死に至るという怖い病気でした。

 特に軍隊では多く発症し、日清戦争においては全体の死者1万3309人のうち、脚気による死亡者は、4064人であったと報告されています。(そもそもこの戦争は、死者のうち、戦死者は1415人、戦病死者は1万1894人という統計が残っています。)
 ※浜島書店『新詳日本史図説』(1998年版)P184

 当時は、今と違ってご飯以外にたくさんの副食(おかず)をバランスよく食べるという食生活は実現されていません。
 農村にいたときは、麦や米ばかり食べていても、食べていたのはビタミンB1を含んでいた麦や玄米でしたから、脚気にならずにすみました。
 ところが、都会や軍隊では、白米中心の食事となり、本来はおいしい白米食が反対にあだとなって、脚気死亡者を増やしていったのです。
 陸海軍は、この予防に躍起になりました。特に犠牲者が多かった陸軍は必死でした。
 そのために、ドイツに留学し最新の細菌学を学んだ人物が脚気撲滅の任務に就きます。その人こそが、あの、森林太郎(森鴎外)です。
 
 ところが、ここに錯覚が生じました。
 森は細菌学者ですから、本来はあるはずもない「脚気菌」の発見に躍起となってしまたのです。世界の常識にも、森の頭の中にも、ビタミンB1不足と言う概念は存在しませんでした。
 そして、決定的な間違いがおこりました。
 日清戦争後、別の伝染病である腸チフス菌への対応を考えいた際に、クレオソートの錠剤を飲ませていた被験者から、腸チフス菌が全く発見されないと言う朗報がもたらされました。

 森と陸軍は、「腸チフス菌が死滅した以上、脚気菌も死滅しているに違いない」と判断し、クレオソートを主成分とする錠剤(これこそ征露丸に他なりません)を大量に生産し、兵士に飲ませたのです。
 その生産量は、5億6000万粒にも上ったといわれています。日露戦争の日本軍の総出征者数が、94万5394人ですから、ひとり平均600粒です。
 いくらなんでも、そんなには必要ありません。甘くておいしいものならともかく、あの征露丸ですから、兵士もいやがったに違いありません。

 しかし、いくらがまんしてクレオソート錠を飲んでも、「脚気菌」は死滅しません。そもそもそんな菌は存在しないのですから。日露戦争でも、陸軍の脚気死亡者は、2万7800人にも上ったと報告されています。(日露戦争全体の戦死者数は、6万0031人)
 
 見かねた陸軍大臣寺内正毅は、食べ物に原因があると言う立場の意見を尊重し、戦時非常食として麦と米の混合食を支給し、脚気の増加を食い止めました。
 つまり、征露丸大量生産は、森鴎外の大失敗だったのです。

 しかし、このとき大量に生産された征露丸は、整腸薬としては効き目があることが定着し、戦争後も民間によって製造されていったとのことです。
 ※この解説は、防衛ホーム新聞社の自衛隊ニュース2002年12月15日号を参照しました。
 
最後に、どこの家庭にもある、夫婦の不和。 
妻「また、こんな変な瓶を1000円も出して、買って!!」
 ※内緒ですが、送料と振り込み手数料を入れると、1800円ですじゃ。
私「授業で使う貴重な歴史の生き証人だ。」
妻「どこのなんだかわからないものをどうやって授業で使うの。」
私「・・・・、歴史の授業にはそういうロマンも必要なんだ!だ!だ!」


近世003  鯨の髭その他鯨セット                          |現物教材:目次:日本史 |

 昭和40年代までに小中学生時代を送った人は、学校の給食のメニューとして、「鯨肉の龍田あげ」が懐かしく思い出されます。しかし、稀少動物としての鯨の保護を求める国際的潮流は、欧米諸国を中心に1970年代になって急速に高まり、1982年には、IWC(国際捕鯨委員会。1948年設立。日本は1951年加入。)によって商業捕鯨モラトリアムが採択されました。これによって、現在、商業捕鯨は一時中断されており、日本国内で現在、合法的に販売ができるのはわずかに冷凍保存されている過去の鯨肉、鯨類捕獲調査の副産物してのミンククジラとIWC管轄外として沿岸小型捕鯨で捕獲されているツチクジラ、ゴンドウクジラだけになっています。また、 鯨肉の輸入も禁止されています。 
 
 捕鯨の歴史は古く、ノルウェーやフランスでは、9世紀頃から行われていました。日本では、江戸時代の初め頃の1606年、紀伊半島の太地で組織的な捕鯨が始まりました。太地の他にも、太平洋沿岸の地域では、江戸時代には各地で捕鯨が行われました。
 現在では鯨保護に熱心な欧米諸国も、18世紀から19世紀にかけては、盛んに捕鯨を行っていました。それが、日米関係の始まりの要因のひとつになります。
 アメリカは、植民地時代の18世紀初頭から捕鯨を開始しましたが、19世紀には領土が太平洋岸に達したこともあって、盛んに北太平洋に進出しました。但し、捕獲の主たる目的は食用鯨肉の獲得ではありません。鯨の脂肪や鯨の髭が、目的でした。脂肪は鯨油として、灯りの原料などになりましました。
 
 鯨の髭はちょっと説明が必要です。
 まず、鯨は多くの種類がいますが、基本的にはヒゲ鯨と歯鯨の二つに分類されます。歯鯨は、口に歯が生えているもので、イカや魚を食べます。代表例はマッコウクジラです。右の図の下のタイプです。
 ヒゲ鯨は、口の部分にオキアミや小魚を海水と一緒に飲み込んで、口にあるヒゲで濾してそれを食べる種類です。大胆なたとえですが、口に歯ブラシのようなものがあって、水の中の小動物を濾していると考えればだいたい当たっています。その濾過器にあたるのが、鯨の髭(ヒゲ)なのです。したがって、陸上動物のヒゲとはちょっと意味が違います。ヒゲ鯨の代表は白ナガス鯨です。右上の図の上のタイプの鯨です。(この二つの写真は両タイプの鯨の形を理解するためのイメージ図です。)
 また、右は、その実物の写真です。ナガス鯨の髭の一部で、長さ30センチぐらいです。見た目とてもいわゆるヒゲには見えません。
 
 さて、このヒゲですが、18世紀ではゼンマイの代わりとして使われました。日本の祭りに使う山車のからくり人形などは昔はこれを材料にからくり部分を作ったのです。このほかに、19世紀の欧米では、女性が着用するすそがパラシュートのように広がったスカートの芯(つまり、スカートを広げる骨組み)に使われていました。
 
 話を元に戻します。
 アメリカはこのような目的のため、19世紀中頃には大量の船を北太平洋に送り出します。1846年には、736隻が出漁しています。
 このようなアメリカの捕鯨船にとって、日本という国が鎖国政策をしていて、緊急避難先として寄港できないことは問題でした。アメリカ政府は、捕鯨船や、中国への貿易航路の寄港地として日本を開国させようと決意しました。そして、ペリー来航となるのです。
 捕鯨に関しては、話す内容も現物教材も豊富です。鯨の髭は、和歌山県太地町の町立くじら博物館で購入しました。問い合わせたところ現在では、在庫がないため、未加工のヒゲは売っていないとのことです。靴べらとかペーパーナイフに加工したものならあります。
 左は、鳥羽水族館で買った鯨のぬいぐるみ。頭を押さえると可愛く鳴きます。授業のアクセサリーとしては面白いです。
 右は大きなスーパーなどで売っている鯨肉の缶詰です。クイズの年間優秀賞の商品に最適です。

 ※
和歌山県太地町立くじら博物館 0735-59-2400
   http://www.town.taiji.wakayama.jp/museum/mainmu.htm
   ミュージアムショップのコーナーでは、通信販売もできます。
 ※宮城県牡鹿町のホームページの鯨レポート
   http://www3.famille.ne.jp/~oshika/whale_j/index.html


近代005 生糸と繭                                     |現物教材:目次:日本史

 高校の日本史の教科書には、「生糸」という単語がしばしば登場します。
 
【日本における生糸生産の歴史】
 原産地の中国では、すでに紀元前1500年の殷王朝の時代から養蚕が確認されていますが、日本へは、弥生時代に伝わったようです。有名な『魏志倭人伝』の中に養蚕の記述が見られます。
 しかし、当初は、当然ながら中国の方が生産量・品質ともに優れ、室町時代の日明貿易でも、安土桃山時代から鎖国までの近世初頭の貿易でも、さらには、江戸時代の長崎出島での貿易でも、生糸は日本の輸入品でした。
 ところが、江戸時代の間に日本の生糸生産の技術は高まり、1853年のペリー来航を契機に始まった欧米諸国との貿易では、生糸が主要な輸出品となります。
 
 明治政府は、ヨーロッパ(6世紀以降、中国から伝わった技術で養蚕・絹織物生産がはじまる。産業革命を経て、19世紀後半では、フランス・イタリアが生糸生産の先進国であった。)から機械による生産技術を学び(あの有名な群馬県富岡製糸場)、また、独自の工夫によって簡易な器械製糸を開発し、生産量・輸出量を増やしていきます。
 
 右は、明治32年の日本の輸出総額の品目別割合です。生糸は約30%。明治後半から大正時代にかけて、この割合はほとんど変わりません。1909年(明治42年)には、世界総生産額の34%を占め、中国を抜いて世界一の生糸生産国になります。日本の近代経済の発展、外貨獲得の主役は生糸でした。
 
 山本茂実『新版ああ野麦峠』(1968年朝日新聞社,角川文庫版もあり)には、「男軍人女は工女 糸を引くのも国のため」という、「工女節」の一節が登場します。また、それを原作として作られた東宝映画『ああ野麦峠』(1979年山本薩夫監督大竹しのぶ主演)の中でも、工場で働く彼女たちのもとへ、日本海海戦における日本海軍大勝利の報が伝えられると、工女が「うちらの引いた糸で日本が勝ったんや」と喜ぶシーンがあります。生糸は日本の外貨獲得の重要の手段でした。(クイズへ)
 
 昭和大恐慌の時は、アメリカの不況が、対米生糸輸出激減という形で日本の養蚕農家へ打撃を与え、農村の惨状を憂える軍事や右翼の台頭の背景となりました。また、生糸の輸出先はほとんどアメリカでしたから、太平洋戦争の開始は、日本の生糸生産に致命的な打撃を与えました。 
 世界全体の生産量は、1940年には5万9000tでしたが、第二次世界大戦前後のナイロンやポリエステルの登場によって急激に減少し、1950年には1万9000tになりました。その後、繊維需要全体の上昇によって、90年代半ばには11万トン以上にまで上昇しています。1位は中国で8万トン以上、2位はインドで約1万5千トン、日本はというと、僅か2400トンほどです。昔日の面影はありません。

【蚕と繭】
 カイコの幼虫は、糸をはいて自分の回りを囲み繭を作ります。その繭1つのからは1200m以上の糸がとれます。但し、繭全体が均質の糸でできているわけではありません。映画の『モスラ』では、幼虫は元気に糸をはき続けますが、本物の蚕は、はじめは元気に太い糸を出しますが、そのうち元気が無くなって糸が細くなります。つまり、繭の外側(最初の方)の糸は太いのです。そして、一番内側は、元気が無くなって細くなっています。糸屋さんに聞いた話では、外側・真ん中・内側と、大きく分けて三種類の糸の分類ができるそうです。
 
 1kgの生糸をとるのに約5500匹のカイコが必要です。中にいるさなぎを熱処理で殺し、絹繊維は糸繰りとよばれる作業により、まゆからとられます。繭をまず沸騰した湯で熱して、繭の糸を固定している粘着性の物質を分解します。このあと繭からとった数本の糸をひきそろえて1本の糸にし、糸車でまきます。糸は、とれる部位とか撚り方とかによっていろいろな種類があります。

【現在の生糸産業】
 現在の日本の生糸産業は瀕死の状態にあります。昭和59年に日本製糸協会に加盟していた製糸会社は96社もあったのですが、平成10年には15社、平成12年には7社と激減しました。原因は、生糸相場の下落による、業績不振です。現在の相場は、平成元年の最高値の約6分の1、何と昭和20年代と同じ値段となってしまいました。この間に、昭和45年に2万トン以上あった生産量は、平成19年には、僅か105トンになりました。
 同様に繭も昔は全国で生産されていましたが、現在では、福島・群馬などほんの少しの地域となってしまいました。
 普通の品質の生糸は、生産費が安い、中国・ブラジル・ベトナムからの輸入品が主流を占め、繭そのものも輸入されています。
 しばらくすると、製糸産業は日本から消滅し、教科書の中だけの話になる危険性があります。
 世界文化遺産登録を目指す富岡製糸場については、旅行記「産業遺跡訪問記 新潟佐渡・群馬富岡」をご覧ください。(こちらです→
【生糸・繭の入手】
 上記のような事情から、繭も生糸もすぐ近くの生産農家・会社から購入というわけにはいかなくなしました。自分の居住地の岐阜で電話帳をもとに調べたのですが、特定の生糸卸商に特別に頼んでという形しか取れませんでした。
 
 全国の誰もが気楽に購入できるのはやはりインターネットショップです。
京都の吉川商事という会社が、「西陣の糸屋」というサイトを開いています。糸と繭の注文ができるほか、生糸に関する基本的情報が満載です。専門用語や注文量がわからなくて困ったところ、電話で尋ねたら、丁寧に教えてもらえました。

 繭は、最低500グラムからの注文ですが、1個1グラム弱ですから、500グラム注文すれば、500数十個が手に入ります。学校で使うのにはちょっと多すぎるかな。
 値段は相場によって変化しますが、送料も含めて、平成13年7月段階では、3000円ほどです。

 最近では、学習教材用のセットも準備してあるようです。
 ※西陣の糸屋 http://www.savageblue.com/index2.htm 075-7225-7155
 また、生糸業界の詳しい情報(国内・国外とも)は日本生糸問屋協会のサイトに詳しく載っています。
 ※日本生糸問屋協会 http://homepage1.nifty.com/nittonkyo/


近代006  黒船   2005年06月11日改訂                  |現物教材:目次:日本史 |

 1853年6月に江戸湾口の浦賀に来航したアメリカ艦隊の旗艦サスケハナ号(Susquehanna)のプラモデルです。本当は作り上げた作品の写真を載せたかったのですが、帆も付いた精密な模型のため、いまだ完成しておらず、やむ得ずパッケージでの紹介です。

【黒船の名前】
 ペリーが座乗してきた黒船については、ありきたりの説明はどこにでもありますから、ここでは少し変わった視点から説明します。
 まず、この船の名前
Susuquehannaですが、見るからに英語っぽくありません。
 この名前は、ペンシルバニア州を貫流してメリーランド州でチェサピーク湾の奥に流れ出る
サスケハナ川に由来します。想像ですが原住民(インディアン)の言葉が川の名前になっていると思われます。
 この川は、この軍艦以外では、その中州にある
スリーマイル島原子力発電所が、1979年3月に放射能漏れ事故を起こしたことで知られて、・・いないか?

【軍艦としての黒船】
 1853年、ペリーは旗艦サスケハナ号はじめ4隻の軍艦を率いて来日しました。
 この艦隊は当時の日本の常識を遙かに越えた「強大な軍事力」であり、江戸幕府はそれに「屈服」して、翌年日米和親条約を結びます。

 この強大な軍事力ですが、実は本当に強大でした。
 サスケハナ号は排水量3824トン、喫水船長76.20m、蒸気機関を搭載した外輪推進方式の新鋭艦でした。来航の2年半前の1850年12月に完成したばかりの新鋭艦です。(この時代、すでにスクリューは開発されていましたが、評価は絶対的ではなくアメリカ海軍は全面的なスクリュー推進導入には至っていませんでした。このため、この艦は、直径9.45mの外輪を備えていました。ちなみに、ペリー来航後の1854年以降は、アメリカ海軍の新造艦はすべてスクリュー推進となります。)
 
 江戸時代の日本の船のうち最大のものは千石船でおよそ200トン程度、もちろん帆走のみです。しかも、サスケハナには、16門の大砲が装備されていました。4隻のアメリカ艦が積載していた大砲のうち、32ポンド砲以上の大きなものは合計63門ありました。当時の江戸湾の浦賀周辺地域には、99門の大砲が配備されていましたが、そのうち、32ポンド砲以上に相当する大砲は僅か19門に過ぎませんでした。さらに大砲の射程距離にいたっては、ペリー艦隊の半分にも及びませんでした。 

元綱数道著『幕末の蒸気船物語』(成山堂書店 2004年4月)P39

【ペリーの艦隊編成】 
 アメリカ海軍は、1815年に世界で初めて蒸気軍艦を建造しましたが、これには難点も多く(帆走と蒸気推進の切り替えが簡単ではなかったこと、石炭の消費量が大きかったことなど)、それからしばらくは、帆走艦の時代が続きました。
 蒸気軍艦の建造が再開されたのは1837年で、この艦、港湾警備用のフリゲート艦フルトンⅡ(1011トン)の艦長となったのがペリー大佐(当時)でした。
 
 ペリーはそれ以後蒸気軍艦の建造を推進し、「
蒸気海軍の父」と呼ばれるようになります。
 サスケハナ号は、1850年にフィラデルフィア海軍工廠で完成していますが、この最新鋭軍艦は、米墨戦争(アメリカ・メキシコ戦争)の最中に発注され、戦後完成したものです。ペリーは米墨戦争時はメキシコ艦隊司令長官でした。

 1852年、東インド艦隊司令長官に任命されたペリー准将は、日本開国の交渉使節として、遠征艦隊の編成に取りかかります。当初の計画では、本国艦隊所属艦7隻(蒸気軍艦ミシシッピ3220トンなど)と東インド艦隊所属艦3隻(サスケハナなど)に補給艦3隻を加えた13隻の大艦隊が編成される予定でした。

 しかし、日本までの長期航海のに耐えることができる艦は多くはなく、はじめから計画にはずれたもの、日本到着が遅れたものなどの関係で、
初来航時は4隻、翌年の条約締結時は9隻が来航しました。2回目には、サスケハナ号とほぼ同型艦のポーハタン号も加わり(旗艦はサスケハナ号からポーハタン号へ変更された)、遠征艦隊は、当時のアメリカ海軍の蒸気軍艦で長距離の航海に動員できるほとんどすべての艦を参加させた、アメリカ海軍の総力をあげたものでした。 

元綱数道前掲著 P40~53

【ペリーの立場】
 アメリカが日本へ開国を迫った理由は、このページの「鯨の話」でも説明していますが、中国貿易のための航路の中継地及び北太平洋の捕鯨船の補給地として日本の港を利用したかったからです。
 ペリーは東インド艦隊司令長官でしたが、この時代太平洋航路は確立されておらず、彼も、バージニア州ノーフォークの港を出航してから、大西洋・インド洋を経由して日本近海へいたっています。ペリーは新造された最新鋭軍艦の使い道と自らの栄達のため、日本遠征を積極的に推進しました。
 
 しかし、大統領フィルモアは議会の多数派を占める反対党が対外問題に不熱心であったため、ペリーを議会上院の承認を得た外交使節としてではなく、行政府の権限内(大統領ー海軍省)で派遣しました。彼は、正確には外交上の使節ではなく、あくまで、東インド艦隊司令長官でした。簡単にいえば、大統領は、ペリーに「発砲厳禁」の命令を出しており、ペリーは「日本が逆らえば大砲ぶっ放す」というような権限を持ってはいなかったのです。

青木美智男「幕府はペリーの来航の予告になぜ無策だったのか」『争点 日本の歴史5近世編』(1991年新人物往来社)、加藤祐三『黒船異変』(1988年 岩波書店)


【追記 ペリー艦隊の武力】(掲載 07/08/14)
 ペリー艦隊の武力については、次のようなより詳細な、より現実的な指摘を見つけましたので追記します。(行間調整と文字の着色は引用者が施しました。また、注も引用者が付けました。)

黒船との軍事力格差
 日本側が譲歩したのは、具体的には、ペリーが江戸内湾に派遣した測量船の威庄的な行動によるものであった。浦賀沖停泊の翌日、6月4日、ペリーは測量船に江戸湾内に入るように命ずる。ペリーの決断であった。「(測量船に)大砲の射程距離の外へは行かないように命じ、もし攻撃を受けたら、掩護が送られ得るよう見張りを置かせた」。測量船を支援したのは、もう一隻の
蒸気軍艦ミシシッピー号(注1)であった。技術力を確認しておこう。

 
ミシシッピー号は、サスケハナ号よりひとまわり小型の外輪式蒸気フリゲート艦(快速艦)で、1839年(天保10)建造、全長225フィート(69メートル)、1692トン、乗員268名、大砲12門である。19世紀はじめになると、大型の戦列艦には4000トンクラスが、中ごろには9000トンのスクリュー式近代軍艦も登場した。それにくらべればミシシッピー号は中型艦である。しかし、日本の千石船は100トンクラスでしかなく最大級の一千六百石船でも150トン、乗員は20人であった。しかも、このミシシッピー号は、日本来航の前、アメリカのメキシコ戦争(1846~48年)で、首都メキシコシティー攻略の上陸作戦を、ペリー司令長官の指揮のもと、旗艦として戦った歴戦の軍艦であった。このように軍事力の格差はきわめて大きかった。

 ミシシッピー号はその後も江戸湾の奥深くへ侵入し、日本側の記録では、羽田沖12丁、約1.3キロメートルに迫った。当時、領海は3カイリ(約5.6キロメートル)と近代国際法で決められていた。
3カイリは、砲弾の到達距離である。このころは、炸裂弾も備えたパクサンズ型の滑脛大砲の有効射程距離は、3カイリをはるかに超えた。江戸城も竹芝沖から射程に入る。

 サスケハナ号に乗艦した
中島三郎助が、「去り際に、この鋭い頗つきの指揮官は、船尾へ足を運んで巨砲を見ると、これはパクサンズ砲ではないのか。射程距離は・・・・」と、船員にたずねたとウィリアムズの『ペリー日本遠征随行記』は記している。三郎助には新型大砲についての知識があり、「射程距離」を気にしていた様子がうかがえる。こうして軍事力の大きな格差があるなかで、幕府外交の真価が問われていたのである。」(注2)

井上勝生著『日本の歴史18 開国と幕末変革』(講談社 2002年)P181-182

注1

1853年に来航したペリー艦隊は、旗艦サスケハナ号を含めて4隻。このうち、外輪を持った蒸気軍艦はサスケハナ号とミシシッピ号の2隻でした。

注2

幕府役人の中にこのような正確な知識をもった人間がいることは強調すべきですね。江戸幕府政権は鎖国政策の中で、ただ「泰平の眠り」を貪っていたばかりではなかったのですね。


【模型の説明】
 この模型は、静岡市にある今井科学株式会社のプラモデルです。この会社は、帆船モデルのシリーズを販売していてその中にこの「黒船」があります。
 但し、150分の1サイズで、サスケハナ号の場合、全長713mm、高さ434mmのちょっとした迫力ものです。但し、値段も高く、写真の帆付きモデルは、2001年2月現在10,800円、帆のないモデルで、7,650円です。製作に必要な時間も半端ではなく、前者は約70時間、後者は35~40時間となっています。どちらもインターネット上で注文ができます。
 このほかにも、授業で使えそうなモデルは色々あります。たとえば、木製(プラスチックではない)の咸臨丸は、価格43,200円(製作必要時間150時間)です。手に入れてみたいですが、作っているうちに、定年退職になりそうです。
 ※
今井科学株式会社(0542-63-9749) http://www.intercraft.co.jp/aquacastle/mokei/imai/index.htm

【その他】
 本土ではあまり知られていませんが、ペリーは、日本への来航時に、当時は一応別の国であった琉球王国へ何度も来航しています。その様子は、次のサイトに詳しく紹介されています。
 ※NTT西日本沖縄発
  http://www.okinawa.isp.ntt-west.co,jp/tokusyu/rekisi/perry/perry.html
 ペリーの日本遠征を解説するアメリカ側サイトもいくつかありますが、次のはその一つです。(英文)
  http://www.smplanet.com/imperialism/letter.html

 横須賀市久里浜にはペリーが最初に上陸したモニュメントがたくさんあります。横須賀市のサイトです。
  http://www02.so-net.ne.jp/~sumikaz/kurihama/peruri.htm
 アメリカ大統領に関する簡単な説明は、グロリア・マルチメディア・エンサイクロペディアの情報が便利です。(英文)
  http://gi.grolier.com/presidents/aae/bios

 この船に掲げられていた星条旗の星の数(つまりその時のアメリカの州の数)については、クイズのページを参照してください。


近代001 坂本龍馬のミニチュア像                    |現物教材:目次:日本史

 坂本龍馬は、幕末に活躍した人物です。残念ながら江戸幕府が倒される前の慶応3(1867)年の11月に京都で暗殺されました。彼はこの時期に活躍した人物の多くがそうであったように、大変新しいもの好きで、自分の姿を何枚も写真に残しました。日本史の写真資料集などでおなじみですが、立ったもの座ったもの色々あります。
 
 高知県の桂浜など観光名所には、龍馬関連グッズ盛りだくさんです。左は、立った写真をモデルにした立像のミニチュアです。立像の本物は、かの有名な桂浜の高台にあって、太平洋を見据えています。
 右は座った写真です。
 
 高知市内ならどこでも手に入りますが、高知市桂浜の「
土佐闘犬センター」(電話 0888-42-3315)に電話で注文すると送ってもらえます。送料は不明ですが、そこそこでしょう。左のプラスチック像は高さ約30㎝で、税込み2310円、右の写真は、高さ60㎝大のポスターですが、1枚300円です。
 ※坂本龍馬に関するクイズは、クイズ「日本史近代」へ 

 
龍馬の詳細と高知旅行記は「徳島・高知旅行記」へ 


原始・古代001 青銅鏡の模造品                           |現物教材:目次:日本史

 弥生時代の墳墓や、古墳時代の古墳から副葬品として発見されているのが銅鏡です。
 銅鏡の発見と分布は、日本における国・王権の成立を考える大きな要素のひとつとなっています。
 これまでに最大の注目を集めてきたのは、「三角縁神獣鏡」論争でしょう。
  ※下は東京神田の
明治大学考古資料館にある
    京都府物集女古墳
出土の三角縁神獣鏡です。

 『魏志』倭人伝には、景初3(239)年に卑弥呼に銅鏡100枚が贈られたとあります。
 小林行雄氏は、この鏡は倭国に参画する各地の首長に配布され、その鏡こそが西は宮崎県から東は福島県に至るまでの各地域の前期古墳に大量に副葬されている「三角縁神獣鏡」であり、近畿を中心に初め西に、後東に配布されていったという説を唱えました。
 
 この説は1961年に唱えられ、邪馬台国畿内説を支えることにもなりました。
 しかし、中国でこの鏡が1面も見つかっていないこと、出土数が100枚を越えていることなどを理由に、森浩一氏らが、「三角縁神獣鏡」は、倭国内で作られたものであるという反対説を唱えました。

 それ以後、40年が経過しましたが、未だに両説に決めてはなく、この問題は未解決のままです。しかし、その間にもこの鏡は続々と各地の古墳から発見され、2000年現在でその数は、500枚を数えています。
 ※寺沢薫『日本の歴史02 王権誕生』(講談社2000年)P309

 青銅器が当時の祭祀や首長の権威を示すものとして存在していたことを授業で生徒に理解させるには、銅鏡が最適です。
 鏡面が見せる神々しい輝きは、当時の人ならずとも、現代人も魅了します。太陽光にあてると、その印象は強烈です。

 銅鐸の模造品は、いろいろ博物館などで購入できますが、鏡面が研磨してあって本当に鏡らしい銅鏡模造品を購入できるところは、私は今のところ1カ所しか知りません。
 
 右上・右下の模造品は、滋賀県安土町にある滋賀県立安土城考古博物館で購入しました。滋賀県栗東町安養寺古墳群の中から発見された5世紀前半に作られた「画像鏡」のレプリカです。本物は、直径19.5㎝ですが、レプリカは11㎝と小ぶりです。値段は4800円でした。(01/05/04現在)
 ※
滋賀県立安土城考古博物館(0748-46-2424)内の
  土産物店(内線30番)喫茶&レストラン「ムエール」の
  小林直樹店長に注文すると手に入ります。

 
 三角縁神獣鏡については、次の2カ所にレプリカがありますが、いずれも、置物・壁掛け用で、鏡面の研磨は施してありません。
 ※
飛鳥資料館 0744-54-3561 三角縁神獣鏡のレプリカ直径約20㎝ 7500円 
 ※
野洲町観光案内所 077-587-3710 三角縁神獣鏡のレプリカ直径約16㎝ 3500円


原始・古代004 縄文時代火焔土器                   |現物教材:目次:日本史

 縄文時代に土器が作られたことは周知の事実ですが、縄文土器が世界で一番古い土器であることはあまり知られてはいません。高校の日本史の教科書にには書いてありますが、世界史の教科書には書いてありません。日本の縄文文化は、世界でも特筆すべき文化です。
  ※クイズ世界史「先史の世界編」へ
 
 「土器は、縄文時代から全国各地で多量に作られるようになり、植物質食糧の調理加工という、縄文人の食生活を支える代表的な道具となった。
 縄文土器とは、、野天で約700度から900度の温度で焼かれた素焼きの土器をさし、質量ともに世界の他の時代や地域のものと比べても際だっている。その名のとおり縄目のほかに、貝殻や竹、模様が刻まれた木棒、粘土紐などで多様な文様が作り出され、時期や地域によって文様、形、製作法などに個性が認められる。」
  ※岡村道雄『日本の歴史01 縄文の生活誌』(2000年講談社)
 
 もちろんといっては何ですが、新しい歴史教科書を作る会の西尾幹二氏著書の中には、「3 世界最古の縄文土器文明」という章があります。
  ※西尾幹二著新しい歴史教科書を作る会編『国民の歴史』(1998年産経新聞社)P55~P71
 
 縄文土器の変化から縄文文化の時代は、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に区分されています。晩期には、亀ヶ岡式土器と呼ばれる技術の高い土器が東北地方北部を中心に出現します。
 右はその土器群です。
  ※明治大学考古資料館所蔵

 授業の中では、時間的な制限もありますから、そう何種類も土器を見せることはできません。そんな中で見せるとしたら、ひとつの有力候補は火焔型土器でしょう。(右下の写真。レプリカ)
 
 火焔型土器は、縄文時代中期に、現在の新潟県の信濃川流域で作られた、独特の形の土器です。その名は、土器全面に一元多様の重渦巻きや唐草が連鎖して怒濤の巻崩れがあり、赤々と燃えたぎる灼熱火焔の湯を思わせることに由来します。土器の上半は翼を広げたような大きな広がり見せながら驚嘆すべき安定感を打ち出しており、この土器には湧きあがるような縄文人の気迫と神秘性が感じられます。
 芸術という点でも、注目の土器です。
 右は、新潟県長岡市関原町の馬高遺跡から出土した、縄文時代中期(約4,500年前)のもので、現在、2000年8月に開館した、新潟県立歴史博物館(馬高遺跡の地に建設された)に所蔵されている土器のレプリカです。
 長岡市の大積窯で注文生産されていますが、県立歴史博物館のミュージアムショップ「縄文」に電話すれば購入できます。
 ※新潟県立歴史博物館(http://www.nbz.or.jp/jp/
 ※同 ミュージアムショップ縄文 TEL 0258-47-6113
  高さ18㎝の大きさで値段は6000円です。もっと大型も小型もあります。
          ※ 同ショップのサイトです。http://www.jyomon.net/
 縄文土器を初めとして、日本史の授業では、土器・陶器・磁器など焼き物が何度も登場します。

 
 いろいろな焼き物の産地全てに精通する必要はありませんが、せめて、土器・陶器・磁器の区別ぐらいは、理解してほしいものです。岐阜県自体も陶磁器の産地ですが、隣の愛知県の「瀬戸物」のイメージが強く、焼き物を見れば何でも、「瀬戸物」という生徒もいる始末です。

 右の写真は、私が考案した「焼き物学習」セットです。学習プリントでは、土器・陶器・磁器の違いを、粘土・焼成温度・釉薬などから説明します。そして、生徒の印象に強く残すために、このセットが登場します。

 このセットは、右から、縄文土器レプリカ・萩焼のカップ・備前焼の湯飲み・多治見産の湯飲み・瀬戸物のコーヒーカップです。土器・陶器・磁器の違いは、手前の木槌でたたけば、一目瞭然ならぬ、一聞瞭然です。「ボコッ」から「チ~~~ン」まで、うまく音色が組み合わせてあります。
 


原始・古代005 酒に強いか弱いか判定セット                  |現物教材:目次:日本史 |

 酒に強いか弱いかは、アルーコールに対する体の反応ですから、別に、酒を飲まなくても分かります。遺伝的には、アセトアルデヒド分解酵素2(ALDH2)が、活性型か不活性型化によって決まります。
 それを簡単に判別する方法がアルコールパッチテストです。

 高いお金を払うと、ちゃんとしたセットが買えますが、値段はかなり高いものです。
  ※基本セット パッチテスト用絆創膏パンフ120人分 15750円
  ※特定非営利活動法人ASK(アルコール薬物問題全国市民協会)
   に頼むと購入できます。 TEL03-3249-2551
    URL http://www.ask.or.jp

 ここでは、授業で生徒相手に「実験」ができる簡単な「セット」を紹介します。

 右は、薬局で売っている消毒用エタノール(エチルアルコール、濃度約70%)です。これを脱脂綿に浸し、普通のテープで皮膚に貼ります。(左)

 こんなにいくつも貼らなくてもいいんですが、どのくらいの時間で効き目があるかを示す実験もかねて、四つ貼りました。(市販のアルコールパッチテストでは、7分間貼り付けて、はがした後10分後に判定します。)

 右下がその結果です。
 被験者は私です。酒に弱い私は、このパッチテストで、見事に皮膚が赤くなります。写真では少し見づらいですが、アルコールをすって脱脂綿の四角い形に反応がでた皮膚の赤い部分が、おわかりですか。

 左の写真の脱脂綿は、5分ごとに貼り付けていったもので、同時にはがすと、時間の経過によって反応の違いが確認できます。
 A・・25分後  B・・20分後   C・・15分後  D・・10分後  です。
 10分では反応はいまいちであることが分かります。

 高校生にこの実験をすると、クラスの3分の1ぐらいが、私のように反応します。
 酒に弱い、ALDH2不活性型遺伝子を持っている証拠となります。
<関連ページ案内>
目から鱗 日本人のアイデンティティを考えるⅠ 「酒に強い人弱い人」
目から鱗 日本人のアイデンティティを考えるⅡ 「酒に強い人弱い人」

目から鱗 日本人のアイデンティティを考えるⅢ 「酒に強い人弱い人」の東西分布
「クイズ日本史原始~古墳時代編」005・・・あなたの縄文人度・弥生人度をテストします
「なんだこりゃったらなんだこりゃ」へ・・・酒の飲めない男の独り言