1853年6月に江戸湾口の浦賀に来航したアメリカ艦隊の 旗艦サスケハナ号(Susquehanna)のプラモデルです。本当は作り上げた作品の写真を載せたかったのですが、帆も付いた精密な模型のため、いまだ完成しておらず、やむ得ずパッケージでの紹介です。
【黒船の名前】
ペリーが座乗してきた黒船については、ありきたりの説明はどこにでもありますから、ここでは少し変わった視点から説明します。
まず、この船の名前Susuquehannaですが、見るからに英語っぽくありません。
この名前は、ペンシルバニア州を貫流してメリーランド州でチェサピーク湾の奥に流れ出るサスケハナ川に由来します。想像ですが原住民(インディアン)の言葉が川の名前になっていると思われます。
この川は、この軍艦以外では、その中州にあるスリーマイル島原子力発電所が、1979年3月に放射能漏れ事故を起こしたことで知られて、・・いないか?
【軍艦としての黒船】
1853年、ペリーは旗艦サスケハナ号はじめ4隻の軍艦を率いて来日しました。
この艦隊は当時の日本の常識を遙かに越えた「強大な軍事力」であり、江戸幕府はそれに「屈服」して、翌年日米和親条約を結びます。
この強大な軍事力ですが、実は本当に強大でした。
サスケハナ号は排水量3824トン、喫水船長76.20m、蒸気機関を搭載した外輪推進方式の新鋭艦でした。来航の2年半前の1850年12月に完成したばかりの新鋭艦です。(この時代、すでにスクリューは開発されていましたが、評価は絶対的ではなくアメリカ海軍は全面的なスクリュー推進導入には至っていませんでした。このため、この艦は、直径9.45mの外輪を備えていました。ちなみに、ペリー来航後の1854年以降は、アメリカ海軍の新造艦はすべてスクリュー推進となります。)
江戸時代の日本の船のうち最大のものは千石船でおよそ200トン程度、もちろん帆走のみです。しかも、サスケハナには、16門の大砲が装備されていました。4隻のアメリカ艦が積載していた大砲のうち、32ポンド砲以上の大きなものは合計63門ありました。当時の江戸湾の浦賀周辺地域には、99門の大砲が配備されていましたが、そのうち、32ポンド砲以上に相当する大砲は僅か19門に過ぎませんでした。さらに大砲の射程距離にいたっては、ペリー艦隊の半分にも及びませんでした。
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元綱数道著『幕末の蒸気船物語』(成山堂書店 2004年4月)P39 |
【ペリーの艦隊編成】
アメリカ海軍は、1815年に世界で初めて蒸気軍艦を建造しましたが、これには難点も多く(帆走と蒸気推進の切り替えが簡単ではなかったこと、石炭の消費量が大きかったことなど)、それからしばらくは、帆走艦の時代が続きました。
蒸気軍艦の建造が再開されたのは1837年で、この艦、港湾警備用のフリゲート艦フルトンⅡ(1011トン)の艦長となったのがペリー大佐(当時)でした。
ペリーはそれ以後蒸気軍艦の建造を推進し、「蒸気海軍の父」と呼ばれるようになります。
サスケハナ号は、1850年にフィラデルフィア海軍工廠で完成していますが、この最新鋭軍艦は、米墨戦争(アメリカ・メキシコ戦争)の最中に発注され、戦後完成したものです。ペリーは米墨戦争時はメキシコ艦隊司令長官でした。
1852年、東インド艦隊司令長官に任命されたペリー准将は、日本開国の交渉使節として、遠征艦隊の編成に取りかかります。当初の計画では、本国艦隊所属艦7隻(蒸気軍艦ミシシッピ3220トンなど)と東インド艦隊所属艦3隻(サスケハナなど)に補給艦3隻を加えた13隻の大艦隊が編成される予定でした。
しかし、日本までの長期航海のに耐えることができる艦は多くはなく、はじめから計画にはずれたもの、日本到着が遅れたものなどの関係で、初来航時は4隻、翌年の条約締結時は9隻が来航しました。2回目には、サスケハナ号とほぼ同型艦のポーハタン号も加わり(旗艦はサスケハナ号からポーハタン号へ変更された)、遠征艦隊は、当時のアメリカ海軍の蒸気軍艦で長距離の航海に動員できるほとんどすべての艦を参加させた、アメリカ海軍の総力をあげたものでした。
【ペリーの立場】
アメリカが日本へ開国を迫った理由は、このページの「鯨の話」でも説明していますが、中国貿易のための航路の中継地及び北太平洋の捕鯨船の補給地として日本の港を利用したかったからです。
ペリーは東インド艦隊司令長官でしたが、この時代太平洋航路は確立されておらず、彼も、バージニア州ノーフォークの港を出航してから、大西洋・インド洋を経由して日本近海へいたっています。ペリーは新造された最新鋭軍艦の使い道と自らの栄達のため、日本遠征を積極的に推進しました。
しかし、大統領フィルモアは議会の多数派を占める反対党が対外問題に不熱心であったため、ペリーを議会上院の承認を得た外交使節としてではなく、行政府の権限内(大統領ー海軍省)で派遣しました。彼は、正確には外交上の使節ではなく、あくまで、東インド艦隊司令長官でした。簡単にいえば、大統領は、ペリーに「発砲厳禁」の命令を出しており、ペリーは「日本が逆らえば大砲ぶっ放す」というような権限を持ってはいなかったのです。
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青木美智男「幕府はペリーの来航の予告になぜ無策だったのか」『争点 日本の歴史5近世編』(1991年新人物往来社)、加藤祐三『黒船異変』(1988年 岩波書店) |
【追記 ペリー艦隊の武力】(掲載 07/08/14)
ペリー艦隊の武力については、次のようなより詳細な、より現実的な指摘を見つけましたので追記します。(行間調整と文字の着色は引用者が施しました。また、注も引用者が付けました。)
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「黒船との軍事力格差
日本側が譲歩したのは、具体的には、ペリーが江戸内湾に派遣した測量船の威庄的な行動によるものであった。浦賀沖停泊の翌日、6月4日、ペリーは測量船に江戸湾内に入るように命ずる。ペリーの決断であった。「(測量船に)大砲の射程距離の外へは行かないように命じ、もし攻撃を受けたら、掩護が送られ得るよう見張りを置かせた」。測量船を支援したのは、もう一隻の蒸気軍艦ミシシッピー号(注1)であった。技術力を確認しておこう。
ミシシッピー号は、サスケハナ号よりひとまわり小型の外輪式蒸気フリゲート艦(快速艦)で、1839年(天保10)建造、全長225フィート(69メートル)、1692トン、乗員268名、大砲12門である。19世紀はじめになると、大型の戦列艦には4000トンクラスが、中ごろには9000トンのスクリュー式近代軍艦も登場した。それにくらべればミシシッピー号は中型艦である。しかし、日本の千石船は100トンクラスでしかなく最大級の一千六百石船でも150トン、乗員は20人であった。しかも、このミシシッピー号は、日本来航の前、アメリカのメキシコ戦争(1846~48年)で、首都メキシコシティー攻略の上陸作戦を、ペリー司令長官の指揮のもと、旗艦として戦った歴戦の軍艦であった。このように軍事力の格差はきわめて大きかった。
ミシシッピー号はその後も江戸湾の奥深くへ侵入し、日本側の記録では、羽田沖12丁、約1.3キロメートルに迫った。当時、領海は3カイリ(約5.6キロメートル)と近代国際法で決められていた。3カイリは、砲弾の到達距離である。このころは、炸裂弾も備えたパクサンズ型の滑脛大砲の有効射程距離は、3カイリをはるかに超えた。江戸城も竹芝沖から射程に入る。
サスケハナ号に乗艦した中島三郎助が、「去り際に、この鋭い頗つきの指揮官は、船尾へ足を運んで巨砲を見ると、これはパクサンズ砲ではないのか。射程距離は・・・・」と、船員にたずねたとウィリアムズの『ペリー日本遠征随行記』は記している。三郎助には新型大砲についての知識があり、「射程距離」を気にしていた様子がうかがえる。こうして軍事力の大きな格差があるなかで、幕府外交の真価が問われていたのである。」(注2) |
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井上勝生著『日本の歴史18 開国と幕末変革』(講談社 2002年)P181-182 |
注1 |
1853年に来航したペリー艦隊は、旗艦サスケハナ号を含めて4隻。このうち、外輪を持った蒸気軍艦はサスケハナ号とミシシッピ号の2隻でした。 |
注2 |
幕府役人の中にこのような正確な知識をもった人間がいることは強調すべきですね。江戸幕府政権は鎖国政策の中で、ただ「泰平の眠り」を貪っていたばかりではなかったのですね。 |
【模型の説明】
この模型は、静岡市にある今井科学株式会社のプラモデルです。この会社は、帆船モデルのシリーズを販売していてその中にこの「黒船」があります。
但し、150分の1サイズで、サスケハナ号の場合、全長713mm、高さ434mmのちょっとした迫力ものです。但し、値段も高く、写真の帆付きモデルは、2001年2月現在10,800円、帆のないモデルで、7,650円です。製作に必要な時間も半端ではなく、前者は約70時間、後者は35~40時間となっています。どちらもインターネット上で注文ができます。
このほかにも、授業で使えそうなモデルは色々あります。たとえば、木製(プラスチックではない)の咸臨丸は、価格43,200円(製作必要時間150時間)です。手に入れてみたいですが、作っているうちに、定年退職になりそうです。
※今井科学株式会社(0542-63-9749) http://www.intercraft.co.jp/aquacastle/mokei/imai/index.htm
【その他】
本土ではあまり知られていませんが、ペリーは、日本への来航時に、当時は一応別の国であった琉球王国へ何度も来航しています。その様子は、次のサイトに詳しく紹介されています。
※NTT西日本沖縄発
http://www.okinawa.isp.ntt-west.co,jp/tokusyu/rekisi/perry/perry.html
ペリーの日本遠征を解説するアメリカ側サイトもいくつかありますが、次のはその一つです。(英文)
http://www.smplanet.com/imperialism/letter.html
横須賀市久里浜にはペリーが最初に上陸したモニュメントがたくさんあります。横須賀市のサイトです。
http://www02.so-net.ne.jp/~sumikaz/kurihama/peruri.htm
アメリカ大統領に関する簡単な説明は、グロリア・マルチメディア・エンサイクロペディアの情報が便利です。(英文)
http://gi.grolier.com/presidents/aae/bios
この船に掲げられていた星条旗の星の数(つまりその時のアメリカの州の数)については、クイズのページを参照してください。
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