奥の院は、空海の御廟所、つまり普通の人であれば、亡骸が眠るところです。一の橋、中の橋、御廟の橋の三つの橋を経て奥の院へ向かう参道沿いが「墓原」であり、20万基もの墓が集まる場所となっています。
お寺に墓があるのはごく普通ですが、ここの墓の数は異例です。規模や著名人の数となると他に類をみません。「日本総菩提所」といわれることも納得がいきます。
では、なぜここにはこれだけたくさんの墓が集まっているのでしょうか?空海への信仰とはどういうものなのでしょうか?
空海は、835年に高野山で亡くなりましたが(高僧の死亡を入定(にゅうじょう)といいます)、死亡の直後はともかく、しばらくすると、普通に亡くなったのではなく、次のようになられたという信仰が成立しました。
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空海は生身のまま高野山に入定し、56億7000万年後の弥勒菩薩出世(この世に出現する)のときまで、空海自身が衆生(しゅうせい、生きとし生けるもの、人々)を救済し続ける。.
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これは基本的には、空海自身が弥勒菩薩信仰(弥勒菩薩が出現しを衆生を救済する)を『三教指帰』や『性霊集』で主張していたことに帰因します。
さらに、空海の死後86年が経た921(延喜21)年、信仰の成立を後押しする「事件」が起こりました。『続群書類従』28上という本の中に、『高野山奥院興廃記』という資料が掲載されていて、それによると次のようであったといいます。
真言宗の高野山座主(ざす、一番偉い人)と京都にある東寺長者(一番偉い人)を兼ねていた僧の観賢が、朝廷に対して空海への弘法大師号の奉請に成功し、その報告に空海の「入定禅窟」(空海が入定し存在し続けているという洞窟)に赴きました。すると、観賢の目には、空海は「容儀顔色于今不変、儼然如古相貌」(顔かたちは今も変わらず、昔の風貌のまま)であったといいます。同行した観賢の弟子の淳祐の方は、空海の姿が自分の目には見えず嘆き悲しんでいると、観賢は淳祐の手を取って大師の膝に触れさせました。すると、淳祐の手は彼が生きている間中、かぐわしい香りを放ったといいます。
こうして、新しい「伝説」が生まれていきました。
その後も、高野山で弘法大師空海と出会ったという話が伝えられました。
さらに、平安時代後期になって、浄土教信仰(阿弥陀仏が衆生を救済して西方阿弥陀浄土へ導く)が広まると、高野山へ参詣すると極楽に往生できるという信仰も加わり、高野山と空海に対する信仰が高まっていったのです。1023年に藤原道長が高野参詣したのをはじめ、多くの貴族が高野山へ登りました。
また、中世になると武士階級にも信仰が広がり、その厚い保護を受けるようになり、高野聖(弘法大師信仰を広げるために全国を遊行勧進した僧侶)の活躍もあって、庶民から有力者まで、幅広い階層の人々が高野山へ納髪・納骨する風習が定着していったのです。
つまり、弥勒菩薩信仰・浄土教信仰等が重なって、いわば「墓をつくるなら空海のおそば」という信仰が確立し、膨大な墓群が形成されていったというわけです。
※参考文献4 村上弘子著『高野山信仰の成立と展開』(雄山閣 2009年)P7-33 |