安土・桃山時代7
|  前の時代の問題へ  |  飛鳥~平安時代の問題TOPへ  |   次の時代の問題へ  |
 
<解説編>

412 たくさんの有名人や一族の墓が集中する墓地のある寺院とは?

 全体のボリュームが大きくなりますから、次の順序で説明します。
クイズの正解
高野山へのまでの道 南海電鉄・ケーブルカー
金剛峯寺と奥の院
なぜここに墓が集まったのか
奥の院までの道 墓・墓・墓・・・・

 
クイズの正解          | このページの先頭へ |

 このクイズは、本音を言うと、以前に出かけて撮影したその墓群の写真を紹介したくて、そのためにちょっと無理矢理設定しました。
 無理矢理と思っている理由は、このクイズはある程度人生経験を積んだ方には、全く簡単な問題であり、反対に、高校生のみなさんにとっては、とても難しい問題だからです。(現地に行ったことがある高校生は別ですが、普通は寺には行きません。(-_-;))
 高校生にとって難しいという理由はなぜかというと、簡単です。中学校や高校の授業では、この寺のことは学習しても、そこに膨大なお墓群があることは教えられないからです。教科書にはいっさい記述してありません。
 したがって、個人的に旅に興味があるとか、仏教に興味があるとか、TVの番組を見ていて注意力があって気がついたとか、何かがないと若い方には無理なクイズということになります。
 この問題では、この寺の創建者の名前が挙がっていて、その人物がいかに国民的な信仰・敬愛を集めているかがヒントとなっていますが、それも若い方には難しいと思います。
 また、このクイズを出題するタイミングも微妙です。その寺を学習したばかりの段階では、ダミーの選択肢がつくりづらくなります。このクイズが、安土桃山時代の設定になっているのは、一つには大名の墓がたくさんあって、それらの名前を学習したあとからの出題の方が興味を持てること、もう一つは、寺や宗教をたくさん学習して、ダミーも一杯知っていることです。

 そして、それでも敢えて、この中途半端な苦しいクイズを設定したねらいは、以下の4で解説する、「なぜそういう信仰が生じたのか」という点でしょう。これは教科書には書いてありませんから、クイズの正解は選べても、その理由まではご存じでない方が多いと思うからです。
 ずいぶん前置きが長くなりましたが、それでは、まずは正解です。


 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。

 4つの寺とそのゆかりの人物は、いずれも超有名な方です。
 1
奈良唐招提寺:鑑真   2 比叡山延暦寺:最澄   3 高野山金剛峯寺:空海  4 京都東本願寺:親鸞
 
 中でも、
真言宗の総本山である高野山金剛峯寺の開祖である弘法大師空海に対する信仰は、四国八十八カ寺巡礼などで有名なようにぬきんでて高いことはご存じの通です。基本的にはそれと同じ「大師信仰」が、この「お墓の集中」をにつながりました。高野山が「日本総菩提寺」と呼ばれる所以です。
 信仰の中味は、4の「なぜここに墓が集まったか」で説明します。

 
高野山までの道 南海電鉄・ケーブルカー      | このページの先頭へ |

 ここでいきなり墓の説明に行かないところが、このサイトの特色です。
 まずは、高野山まで、電車でどう行くかという、またまた電車の話です。これが当サイトの特色ですから。(^_^)

 右の地図をご覧ください。
 高野山は、和歌山県の北東部、紀伊半島の真ん中の山岳地帯にあります。
 大阪から鉄道で向かう場合は、通常は大阪の南の繁華街、ミナミにある
南海電車難波駅から高野線極楽橋駅まで行き、そこで最後の急坂をケーブルカーに乗り換えて高野駅まで上がるということになります。

 
南海電車高野線は、河内平野を南に進んだあと、大阪府と和歌山県の境にある和泉山脈を、紀見峠近くでトンネルで抜ける際に、標高280m程の高さを通過します。
 このあと一旦、紀ノ川が作る谷を通過するため平地
橋本駅に降り、紀ノ川を渡ったあとその南岸を西に下って、九度山駅を経て、高野下駅に至ります。この駅の標高は、100m余りですが、同線は、ここからは急坂と急カーブを懸命に走って、極楽橋駅に至ります。

 この駅の標高が530m前後です。
高野下駅-極楽橋駅間は、路線長は10.3kmですが、その間の標高差は、426.9mにもなります。平均勾配は40‰を越え、最大は50‰を越える急勾配もあります。平地を快調に走っていた高野線特急のこうや号も、曲線半径100mの急カーブを、キーキー^音を立てながら、時速35km程のスピードで、ゆっくり進みます。この路線の工事は難工事でしたが、1929年に完成しました。

 そして、さらに
極楽寺橋から高野駅までは、標高差329mを800m余りで昇っており、平均勾配400‰以上の急勾配をケーブルカーでゆっくりと上がることになります。
 このケーブルカーの部分も一層の難工事でしたが、1930年には営業を開始しています。
 高野駅からは、バスに乗って15分ほどで高野山の町の中心部に到達することができます。、

 ※上の地図は、Google から正式にAPIキーを取得して挿入した、○○の地図です。

 ※参考文献1 中西研二著『ケーブルカー 信貴山・高野山・六甲山』(東京文献センター 2004年)P27-29 
参考文献一覧へ

 写真04-12-01 南海電鉄難波駅の案内板     (撮影日 08/05/06)

 8時30分発の特急こうや号は、1時間20分ほどで極楽寺橋駅に到着しました。(2008年当時)
 2012年10月現在、料金は運賃850円、特急料金760円(合計1610円)です。  

高野山の広域Google地図へ||高野山堂上伽藍・奥の院地図

 写真04-12-02・03 特急こうや号 左:難波駅 右:極楽橋駅  (撮影日 08/05/06)


 写真04-12-04・05 昇っていくケーブルカーからの撮影です。 (撮影日 08/05/06)

 左:ケーブルカーの中間のすれ違い区間。ケーブルカーですから、2両の車両を使って、昇ったり下ったりしている運行です。写真の車両は上から降りてくる車両です。昇っていく車両の最前列からの撮影です。  
 右:勾配は、551.6‰

高野山の広域Google地図へ||高野山堂上伽藍・奥の院地図
金剛峯寺と奥の院      | このページの先頭へ |

 空海が唐から帰って10年後、朝廷に「紀伊国伊都郡の南に人跡の絶えた山がある、ここを修行の場として賜りたい」と願い出て、高野山に寺院造営を進めることにしたのは、嵯峨天皇の治世、816(弘仁7)年のことです。空海、43歳の時でした。
 当時の旅程では、「吉野より南へ行くこと一日、さらに西に向かって去ること両日程にして、平原の幽地あり」と表記された、深山の上の平地でした。
 空海は、「山が高ければ雲雨は草木をうるおし、水積もれば魚竜があつまる。このゆえにインドの雲鷲山(釈迦の説法したところ)には釈尊の徳が消えることがない。そのわけは、地勢がおのずからそうなのである。」として、霊山の神秘性が仏教を極めるのに必要であることを説いています。
  ※参考文献2 司馬遼太郎著『空海の風景 下』(中央公論社 1993年版)P321-323

 しかし、高野山での堂宇の建築は、思うようにはかどらず、空海が存命中に完成できたのは高さ十六丈の多宝塔、講堂、僧坊が一つであったとされています。
 この理由は、一つには山の奥地での寺院建築であったことも考えられますが、何より、資金不足が深刻であったと思われます。金剛峯寺は比叡山延暦寺と違って朝廷の保護で建てることになった寺ではなく、空海の私寺です。いっさいの建築費用は、空海自身が工面しなければなりません。唐から帰国して十数年の空海には、そののちに全国に名前が伝わることになるイメージとは違って、有力な権門勢家のパトロンがおらず、寄進を受けることも多くありませんでした。
 この時空海が頼った方法は、いや、頼らざるを得なかった方法は、地方の有力者や庶民の財力でした。
 しかし、この時の空海の苦労が、のちの空海に対する信仰を形成する基盤となっていきました。
 「空海がこの時代私寺造営のやり方としてはめずらしく世間の大方から一銭一粒の寄進を仰いだことが結局は中世後期からの高野山の性格を決定することになったといえるかもしれない。大衆という場からみれば
最澄叡山が、空海高野山に比べてなじみが薄かったことを思うと、その理由として空海最澄の思想の相違や、後年の高野聖などの活躍も考えられるにせよ、空海の高野山造営の募財の方法があるいは決定的に性格付けたといえるであろうか。」
  ※参考文献2 司馬遼太郎前掲書 P326

 造営事業は、弟子で甥の真然に受け継がれ、9世紀後半には多くの堂宇が建立されていきました。
 現在も高野山の中核部分は、
空海が最初に多宝塔を建築した場所を中心とする地域で、壇上伽藍と呼ばれています。

参考文献一覧へ||高野山の広域Google地図へ||高野山堂上伽藍・奥の院地図

 写真04-12-06・07  金剛峯寺 (撮影日 08/05/06)

 左:金剛峯寺の山門 
 右:檜皮葺の主殿。
豊臣秀吉が母の菩提を弔うために寄進・建立したもの。現在のものは1863(文久3)年の建立ですが、桃山様式を伝えています。
 ※参考文献3 講談社編集 五木寛之監修『五木寛之の百寺巡礼 ガイド版』(講談社 2004年)P12-18

参考文献一覧へ

 ただし、問題となっている「有名人・一族の墓」は、この壇上伽藍の周辺にあるわけではありません。
 下の地図をご覧ください。
 写真04-12-04の山門や壇上伽藍は、地図の左端にあります。そこから県道沿いに東に1km程行ったところに
一の橋があります。地図の中央下です。そこから北東の奥の院へ向かうおよそ1.2km程の参道沿いのエリア(紫色で示した部分)が、ここで問題にしている墓が集中している地域です。「墓原」(はかはら)と呼ばれ、数えることができる墓だけでも、20万基とされています。

 

参考文献一覧へ
なぜここに墓が集まったのか      | このページの先頭へ |

 奥の院は、空海の御廟所、つまり普通の人であれば、亡骸が眠るところです。一の橋中の橋御廟の橋の三つの橋を経て奥の院へ向かう参道沿いが「墓原」であり、20万基もの墓が集まる場所となっています。
 お寺に墓があるのはごく普通ですが、ここの墓の数は異例です。規模や著名人の数となると他に類をみません。「
日本総菩提所」といわれることも納得がいきます。
 では、なぜここにはこれだけたくさんの墓が集まっているのでしょうか?空海への信仰とはどういうものなのでしょうか?

 空海は、835年に高野山で亡くなりましたが(高僧の死亡を入定(にゅうじょう)といいます)、死亡の直後はともかく、しばらくすると、普通に亡くなったのではなく、次のようになられたという信仰が成立しました。

空海は生身のまま高野山に入定し、56億7000万年後の弥勒菩薩出世(この世に出現する)のときまで、空海自身が衆生(しゅうせい、生きとし生けるもの、人々)を救済し続ける。.

 これは基本的には、空海自身が弥勒菩薩信仰(弥勒菩薩が出現しを衆生を救済する)を『三教指帰』や『性霊集』で主張していたことに帰因します。
 さらに、空海の死後86年が経た921(延喜21)年、信仰の成立を後押しする「事件」が起こりました。『続群書類従』28上という本の中に、『高野山奥院興廃記』という資料が掲載されていて、それによると次のようであったといいます。
 真言宗の高野山座主(ざす、一番偉い人)と京都にある東寺長者(一番偉い人)を兼ねていた僧の観賢が、朝廷に対して空海への弘法大師号の奉請に成功し、その報告に空海の「入定禅窟」(空海が入定し存在し続けているという洞窟)に赴きました。すると、観賢の目には、空海は「容儀顔色于今不変、儼然如古相貌」(顔かたちは今も変わらず、昔の風貌のまま)であったといいます。同行した観賢の弟子の淳祐の方は、空海の姿が自分の目には見えず嘆き悲しんでいると、観賢は淳祐の手を取って大師の膝に触れさせました。すると、淳祐の手は彼が生きている間中、かぐわしい香りを放ったといいます。
 こうして、新しい「伝説」が生まれていきました。
 その後も、高野山で弘法大師空海と出会ったという話が伝えられました。

 さらに、平安時代後期になって、
浄土教信仰阿弥陀仏が衆生を救済して西方阿弥陀浄土へ導く)が広まると、高野山へ参詣すると極楽に往生できるという信仰も加わり、高野山と空海に対する信仰が高まっていったのです。1023年に藤原道長が高野参詣したのをはじめ、多くの貴族が高野山へ登りました。
 また、中世になると武士階級にも信仰が広がり、その厚い保護を受けるようになり、
高野聖(弘法大師信仰を広げるために全国を遊行勧進した僧侶)の活躍もあって、庶民から有力者まで、幅広い階層の人々が高野山へ納髪・納骨する風習が定着していったのです。
 つまり、
弥勒菩薩信仰浄土教信仰等が重なって、いわば「墓をつくるなら空海のおそば」という信仰が確立し、膨大な墓群が形成されていったというわけです。
  ※参考文献4 村上弘子著『高野山信仰の成立と展開』(雄山閣 2009年)P7-33

参考文献一覧へ||高野山の広域Google地図へ||高野山堂上伽藍・奥の院地図

 写真04-12-08・09 奥の院 (撮影日 08/05/06)

 左:奥の院灯籠堂拝殿、中は恐れ多くてはじめから撮影するつもりはありませんでした) 御廟の橋からの撮影です。
 右:今も「生き続ける弘法大師」に衣食の提供のおつとめをする僧侶たち。
 高野山信仰の源は、大師御廟のある
奥の院です。
 空海の世話をする人を、
維那(いな)または都維那(ついな)と呼ぶそうです。一般的には僧堂の庶務一般を総裁する職とのことです。
「高野山の場合は奥の院の最高管理者のことをいい、その職の仕事は本来、廟所にいる空海の衣を更えたり、朝夕の二度の食事の膳をすすめたりする。要するに
維那さんとよばれる人だけが、空海が地上にあったときとおなじように衣食の世話を通じて仕えている。(中略)
 私がかつて高野山できいたところでは、維那さんは廟所のなかにいる空海の模様をその法弟や息子にさえ他言せず、代々の維那で他言した人はおらず、そのために空海が生前の姿のままで凝然としてすわっているのか、単に木像があるのか、それともそれらが一切なく、ただ壁と板敷きだけの神聖空間があって二度の食事の膳をささげたり、ひいたりしているのか、そのあたりのことは維那をつとめた人以外は、一山の誰もが知らないというのである。「知る必要がないんですもの」と笑って私の質問を避けた若い僧もあり、その避け方の明るさが印象的であった。」
  ※参考文献2 司馬遼太郎前掲書 P339-340 

参考文献一覧へ||高野山の広域Google地図へ||高野山堂上伽藍・奥の院地図
奥の院までの道 墓・墓・墓・・・      | このページの先頭へ |

 最後は、墓原にならぶ墓・供養塔のほんの一部を紹介します。国道371号から分岐する一の橋から奥の院までの参道に沿って、20万基の墓が並ぶ姿は、とても神秘的で壮観です。


 写真04-12-10・11 一の橋から中の橋へ向かう参道の風景。鬱蒼たる杉木立に囲まれて、石畳の参道が続きます。(撮影日 08/05/06)

高野山の広域Google地図へ||高野山堂上伽藍・奥の院地図

 写真04-12-12・13 左:明智光秀墓所 右:石田三成墓所  (撮影日 08/05/06)

 非業の死を遂げた方の墓所もあります。誰がここに祀ったのでしょうか。興味あるところです。 


 写真04-12-14・15 左:豊臣家墓所  右:織田信長墓所 (撮影日 08/05/06)

高野山の広域Google地図へ||高野山堂上伽藍・奥の院地図

 写真04-12-16 無縁仏の墓です                       (撮影日 08/05/06)


 写真04-12-17・18 左:浅野内匠頭墓所   右:開けた場所にある新しい墓、個人や企業の墓です

高野山の広域Google地図へ||高野山堂上伽藍・奥の院地図

 
 写真04-12-19・20・21・22

 企業の墓です。 (撮影日 08/05/06)
 上左:ロケットの形をした新明和工業の墓
 上右:作業服を着た若者が二人並んでいます。
  日産自動車従業員物故者慰霊碑です。

 下左:ヤクルト株式会社の墓です。「ヤクルト物故者慰霊塔」
 下右:財団法人日本しろあり対策教会の墓です。墓碑銘は、「しろあり やすらかにねむれ」です。気持ちはわかりますね。企業利益のためとはいえ、何匹殺してしまわれたのでしょう。

高野山の広域Google地図へ||高野山堂上伽藍・奥の院地図

 写真にはありませんが、ここには、他の宗派の方の墓もあります。浄土宗の開祖の法然や、浄土真宗の開祖の親鸞の墓もあるのです。さすが、日本総菩提寺です。
 高野山は、真言宗の本山としても、いろいろな信仰が練り込められた弘法大師信仰の本源地としても、とても魅力あるところです。です、一度はご訪問ください。(社会科教員は必見の場所ですね。)

 

 【クイズ412 高野山の墓原 参考文献一覧】
  このページの記述には、主に次の書物・論文を参考にしました。

中西研二著『ケーブルカー 信貴山・高野山・六甲山』(東京文献センター 2004年)

  司馬遼太郎著『空海の風景 下』(中央公論社 1993年版) 
 

講談社編集 五木寛之監修『五木寛之の百寺巡礼 ガイド版 第六巻 関西』(講談社 2004年)

村上弘子著『高野山信仰の成立と展開』(雄山閣 2009年)

五木寛之著『百寺巡礼 第六巻 関西』(講談社 2004年)