次は、高等学校の「日本史B」の教科書の記述の変化です。
引用量が多くてすみませんが、中学校の歴史の教科書と違って、高校の日本史の教科書の記述は、研究の成果を反映して改正されています。
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高等学校 1993(平成4)年版の教科書「関ヶ原の戦い」 (1987年文部科学省検定済)
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「 5 江戸幕府の成立
豊臣秀吉の死後に政権をにぎったのは徳川家康である。今川氏に従属した三河の小大名であった家康は,桶狭間の戦いののち信長の統一事業に協力し,東海地方に勢力をのばした。1590(天正18)年,秀吉の命令で関東に移り,関東の大部分を占める約250万石の領地を支配する最大の大名となった。江戸に居城を定めた家康は,これより領国内への家臣団の配置,江戸の町づくり,領内の検地など,本格的な領国経営をはじめた。こうして秀吉の家臣のなかでは五大老の筆頭として重んぜられ,朝鮮に出兵することもなく,カをたくわえた。
秀吉の死後,その子秀頼が幼少であったので,家康が伏見城で実権をにぎるようになった。これに対して五奉行の一人石田三成は,小西行長らとはかって家康の排斥をくわだてて挙兵し,1600(慶長5)年,全国の大名は二つにわかれて,いわゆる天下分け目の閑ヶ席の戦いとなった。結果は家康側の大勝に終わり,家康は三成らに味方した諸大名をきびしく処分して,全国の支配権をにぎった。さらに家康は,1603(慶長8)年に征夷大将軍に任ぜられて江戸に幕府をひらき,以後260年余りにわたって徳川氏の全国支配がつづいた。この時代を江戸時代という。
家康は1605(慶長10)年,子の秀忠に将軍職をゆずり,その後駿府に移って大御所として幕政を指導した。しかし,まだ大坂には徳川氏に服従する姿勢をみせない豊臣秀頼がおり,家康は秀頼の再建した京都方広時の鐘銘問題で戦いをしかけ,1614〜15(慶長19〜元和元)年の2回にわたる大坂の役(大坂冬の陣・夏の陣)で豊臣氏を攻めほろぼした。」
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井上光貞他著『新詳説日本史 改訂版』(山川出版 1993年)P7−9 ※青赤太字は引用者が施しました
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15年前のこの教科書の記述は、中学校の教科書1・2・3と同じ内容となっています。つまり、「関ヶ原の戦いの大勝利によって徳川家康は全国支配権を握り、江戸幕府を開いた」という解釈です。
しかし、現在の教科書は、以下のように、若干ニュアンスが異なった記述となっています。違いが分かりますでしょうか?
まずは、山川出版版です。
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高等学校 2007(平成19年版の教科書「関ヶ原の戦い」 (2006年文部科学省検定済)
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「江戸幕府の成立
織田信長と同盟し,東海地方に勢力をふるった徳川家康は,豊臣政権下の1590(天正18)年,北条氏滅亡後の関東に移され,約250万石の領地を支配する大名となった。五大老の筆頭の地位にあった家康は,秀吉の死後に地位を高めた。
五奉行の一人で豊臣政権を存続させようとする石田三成と家康との対立が表面化し,1600(慶長5)年,三成は五大老の一人毛利輝元を盟主にして兵をあげた(西軍)。対するのは家康と彼に従う福島正則・黒田長政らの諸大名(東軍)で,両者は関ヶ原で激突した(関ケ原の戦い)。
天下分け目といわれる戦いに勝利した家康は,西軍の諸大名を処分し,1603(慶長8)年,全大名に対する指揮権の正統性を得るため征夷大将軍の宣下を受け,江戸に幕府をひらいた。江戸時代の幕開けである。家康は全国の諸大名に江戸城と市街地造成の審議を,また国単位に国絵図郷帳の作成を命じて,全国の支配者であることを明示した。
しかし,家康に従わない秀吉の子豊臣秀頼がいぜん大坂城におり,名目的に秀吉以来の地位を継承していた。1605(慶長10)年,家康は将軍職が徳川氏の世襲であることを諸大名に示すため,みずから将軍職を辞して子の徳川秀忠に将軍宣下を受けさせた。家康は駿府に移ったが,大御所(前将軍)として実権はにぎり続け,豊臣氏が建立した京都方広寺の鐘銘を口実に,1614〜15(慶長19〜元和元)年,大坂の役(大坂冬の陣・夏の陣)で豊臣方に戦いをしかけ,攻め滅ぽした。」
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石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦他著『詳説日本史』(山川出版 2007年)P160
青赤太字は引用者が施しました。
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同じく、現在の教科書、三省堂版です。
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高等学校 2007(平成19)年版の教科書「関ヶ原の戦い」 (2003年文部科学省検定済)
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「江戸幕府の成立
豊臣秀吉が亡くなると、朝鮮出兵をきっかけに支配力を弱めていた豊臣政権内部では、五大老や五奉行らの対立がいちだんと深まった。
政権の運営は、秀吉のあとをついだ豊臣秀頼が幼かったため、五大老筆頭で政治手腕のある徳川家康が後見役として行なった。家康は江戸を拠点とする250万石の大大名で、朝鮮に出兵せず力をたくわえていた。しかし五奉行の石田三成は家康の影響力が強まるのを恐れ、五大老の毛利輝元らとはかり、1600(慶長5)年、家康討伐の兵をあげた。
家康もまた、福島正則や加藤渚正ら豊臣系の大名を味方にしておうじたため、三成方(西軍)と家康方(東軍)の両者は美濃の関ケ原で激突した(関ケ原の戦い・天下分け目の合戦)。
これに勝った家康は、西軍の大名を処分し、1601(慶長6)年に京都所司代をもうけて、西国や朝廷の動向を監視させた。1603(慶長8)年、家康は征夷大将軍となり、江戸幕府を開いた。しかし、関ケ原の戦いでは豊臣系の大名の協力がなければ勝てなかったし、大坂には、いぜん豊臣政権の象徴として秀頼がおり、幕府の基盤は堅固ではなかった。
そこで家康は、1605(慶長10)年、徳川氏が将軍職を世襲することを示すために、わずか2年でその位を子の秀忠に譲り、みずからは大御所(前将軍)として駿府で幕府政治(幕政)を主導した。さらに1611(慶長16)年から翌年にかけて、大名に対して徳川氏にしたがうことを誓わせ、そのうえで、1614(慶長19)年から翌1615(元和元)年にかけて、家康は大坂城の豊臣秀頼を攻めほろぼした(大坂冬の陣・夏の陣)。
こうして、戦国の動乱を終わらせた家康は、徳川氏が平和をもたらしたことを強調しながら、つぎつぎと政策をうち出し、大名や朝廷、寺社、農民らをあらたな社会秩序に組み込んでいった。
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青木美智男他著『日本史B』(三省堂 2007年)P146−147 ※青赤太字は引用者が施しました
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4(1993年版)の教科書と比較して、5・6(現在使用中)の教科書に共通していえることは、次の諸点です。
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家康は関ヶ原の戦いで勝利したが、それは、豊臣系の大名の力に負うところが大きかった。 |
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戦いの後も大坂城には秀頼がおり、徳川家康の権力は確固たるものではなかった。 |
3 |
家康の将軍就任は、戦いの勝利を名目的に裏付けるものというよりは、全国の指揮権を掌握するためには、必須の条件だった。 |
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