安土桃山時代3
<解説編>

408 関ヶ原の戦いの位置付けの変化 最近の学説では・・・                      問題へ

【シリーズ関ヶ原の戦い その3】 その1の解説→ その2の解説
 問題ページの設定では、とても簡単には答えられません。そこで、ここではあらためて、もうすこし分かりやすく問題の所在を説明します。
 まず、中学校の教科書の記述です。


1 中学校の教科書の記述とその影響

 関ヶ原の戦いについての中学校の教科書の記述は、それほど多くはありません。したがって変化はあまり見られませんが、まあ、それを確かめる意味で、以下に、1983年・1998年・2006年の教科書の関ヶ原の戦いの部分を引用します。

中学校 1983(昭和58)年版の教科書「関ヶ原の戦い」 (1980年文部科学省検定済)

「江戸幕府の成立 秀吉が死ぬと,豊臣氏の力は弱まった。これに対して,徳川家康は,関東を領地とし,朝鮮へも出兵せずに実力をたくわえていたので,その勢力が大きくなった。これをみて,豊臣氏をもりたてようとする石田三成などの諸大名は,家康をたおそうとし,ついに,1600年(慶長5年),関ケ原(岐阜県)の戦いがおこった。家康は,この戦いに勝って全国支配の実権をにぎり,1603年には,征夷大将軍に任じられて,江戸幕府を開いた。ついで,1615年,豊臣氏を大阪城にほろぼし,反対勢力をまったく除いてしまった。
 江戸幕府は,これまでの武家の政権にはみられないほどの強大な力を備え,こののち260年あまりもつづいた。」

 鵜飼信威他著『新しい社会 〔歴史〕』(東京書籍 1983年)P139 ※赤太字は引用者が施しました


中学校 1998(平成10)年版の教科書「関ヶ原の戦い」 (1986年文部科学省検定済)

「江戸幕府の成立 秀吉の死後,関東を領地とする徳川家康が勢力を強めた。石田三成らの大名は,豊臣氏の政権を守ろうとしたが,1600(慶長5)年,関ケ原の戦いで敗れた。家康は,全国支配の実権をにぎり,1603年,征夷大将軍に任じられて,江戸幕府を開いた。1615(元和元)年には,豊臣氏を大阪の陣でほろぽした。江戸幕府は,秀吉の政策を受けつぎ,260年余りも続く戦乱のない時代をつくりあげた。この時代を江戸時代という。」

 田邊裕他著『新編 新しい社会 歴史』(東京書籍 1998年)P124 ※赤太字は引用者が施しました


中学校 2006(平成18)年版の教科書「関ヶ原の戦い」 (2005年文部科学省検定済)

「江戸幕府の成立 豊臣秀吉の死後,関東を領地とする徳川家康が勢力をのばしました。石田三成らの大名は,秀吉の子秀頼の政権を守ろうとしましたが,1600(慶長5)年,関ケ原の戦いで敗れました。家康は,全国支配の実権をにぎり,1603年には征夷大将軍に任命され,江戸幕府を開きました。1614年,1615年には豊臣氏に戦争するように仕向け,大阪の陣でほろぽしました。
 江戸幕府は,260年余りも続く平和な時代をつくりあげました。この時代を江戸時代といいます。」

 五味文彦他著『新編 新しい社会 歴史』(東京書籍 2006年)P90 ※赤太字は引用者が施しました

 この3教科書を比較すると、中学校のレベルでは、20年前も現在も、関ヶ原の戦いの位置づけは、まったく変化していません。「徳川家康は、関ヶ原の戦いの勝利によって、全国支配の実権を握った」ということになります。
 これは、日本史の研究のレベルでは新しい成果が出ているわけですが、記述の分量が限られている中学校段階の「日本史」では、その成果がまったく反映されておらず、旧来の位置づけが教えられているということを意味します。中学校の社会の先生がサボっているとかそういう問題ではなく、学習の水準からいえば、致し方がないことです。
 それとは対照的に、以下に示すように高等学校段階では教科書の記述は研究の成果を反映してずいぶん変わってきています。しかし、昨今話題となっているように、高校の日本史は全生徒が必修するわけではありませんので、「全国民的理解」としては、上記の徳川家康は、関ヶ原の戦いの勝利によって、全国支配の実権を握った」という中学校レベルの理解が、「日本の常識」となっているといえます。
 


 2 高校の教科書の記述の変化

 次は、高等学校の「日本史B」の教科書の記述の変化です。
 引用量が多くてすみませんが、中学校の歴史の教科書と違って、高校の日本史の教科書の記述は、研究の成果を反映して改正されています。

高等学校 1993(平成4)年版の教科書「関ヶ原の戦い」 (1987年文部科学省検定済)

「 5 江戸幕府の成立
 豊臣秀吉の死後に政権をにぎったのは徳川家康である。今川氏に従属した三河の小大名であった家康は,桶狭間の戦いののち信長の統一事業に協力し,東海地方に勢力をのばした。1590(天正18)年,秀吉の命令で関東に移り,関東の大部分を占める約250万石の領地を支配する最大の大名となった。江戸に居城を定めた家康は,これより領国内への家臣団の配置,江戸の町づくり,領内の検地など,本格的な領国経営をはじめた。こうして秀吉の家臣のなかでは五大老の筆頭として重んぜられ,朝鮮に出兵することもなく,カをたくわえた。
 秀吉の死後,その子秀頼が幼少であったので,家康が伏見城で実権をにぎるようになった。これに対して五奉行の一人石田三成は,小西行長らとはかって家康の排斥をくわだてて挙兵し,1600(慶長5)年,全国の大名は二つにわかれて,いわゆる天下分け目の閑ヶ席の戦いとなった。
結果は家康側の大勝に終わり,家康は三成らに味方した諸大名をきびしく処分して,全国の支配権をにぎった。さらに家康は,1603(慶長8)年に征夷大将軍に任ぜられて江戸に幕府をひらき,以後260年余りにわたって徳川氏の全国支配がつづいた。この時代を江戸時代という。
 家康は1605(慶長10)年,子の秀忠に将軍職をゆずり,その後駿府に移って大御所として幕政を指導した。しかし,まだ大坂には徳川氏に服従する姿勢をみせない豊臣秀頼がおり,家康は秀頼の再建した京都方広時の鐘銘問題で戦いをしかけ,1614〜15(慶長19〜元和元)年の2回にわたる大坂の役(大坂冬の陣・夏の陣)で豊臣氏を攻めほろぼした。」

 井上光貞他著『新詳説日本史 改訂版』(山川出版 1993年)P7−9 ※青赤太字は引用者が施しました

 15年前のこの教科書の記述は、中学校の教科書1・2・3と同じ内容となっています。つまり、「関ヶ原の戦いの大勝利によって徳川家康は全国支配権を握り、江戸幕府を開いた」という解釈です。
 しかし、現在の教科書は、以下のように、若干ニュアンスが異なった記述となっています。違いが分かりますでしょうか?
 まずは、山川出版版です。

高等学校 2007(平成19年版の教科書「関ヶ原の戦い」 (2006年文部科学省検定済)

「江戸幕府の成立
 織田信長と同盟し,東海地方に勢力をふるった徳川家康は,豊臣政権下の1590(天正18)年,北条氏滅亡後の関東に移され,約250万石の領地を支配する大名となった。五大老の筆頭の地位にあった家康は,秀吉の死後に地位を高めた。
 五奉行の一人で豊臣政権を存続させようとする石田三成と家康との対立が表面化し,1600(慶長5)年,三成は五大老の一人毛利輝元を盟主にして兵をあげた(西軍)。対するのは家康と彼に従う福島正則・黒田長政らの諸大名(東軍)で,両者は関ヶ原で激突した(関ケ原の戦い)。
 天下分け目といわれる戦いに勝利した家康は,
西軍の諸大名を処分し,1603(慶長8)年,全大名に対する指揮権の正統性を得るため征夷大将軍の宣下を受け,江戸に幕府をひらいた。江戸時代の幕開けである。家康は全国の諸大名に江戸城と市街地造成の審議を,また国単位に国絵図郷帳の作成を命じて,全国の支配者であることを明示した。
 
しかし,家康に従わない秀吉の子豊臣秀頼がいぜん大坂城におり,名目的に秀吉以来の地位を継承していた。1605(慶長10)年,家康は将軍職が徳川氏の世襲であることを諸大名に示すため,みずから将軍職を辞して子の徳川秀忠に将軍宣下を受けさせた。家康は駿府に移ったが,大御所(前将軍)として実権はにぎり続け,豊臣氏が建立した京都方広寺の鐘銘を口実に,1614〜15(慶長19〜元和元)年,大坂の役(大坂冬の陣・夏の陣)で豊臣方に戦いをしかけ,攻め滅ぽした。」

 石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦他著『詳説日本史』(山川出版 2007年)P160
 青赤太字は引用者が施しました。

 同じく、現在の教科書、三省堂版です。

高等学校 2007(平成19)年版の教科書「関ヶ原の戦い」 (2003年文部科学省検定済)

「江戸幕府の成立
 豊臣秀吉が亡くなると、朝鮮出兵をきっかけに支配力を弱めていた豊臣政権内部では、五大老や五奉行らの対立がいちだんと深まった。
 政権の運営は、秀吉のあとをついだ豊臣秀頼が幼かったため、五大老筆頭で政治手腕のある徳川家康が後見役として行なった。家康は江戸を拠点とする250万石の大大名で、朝鮮に出兵せず力をたくわえていた。しかし五奉行の石田三成は家康の影響力が強まるのを恐れ、五大老の毛利輝元らとはかり、1600(慶長5)年、家康討伐の兵をあげた。
 家康もまた、
福島正則や加藤渚正ら豊臣系の大名を味方にしておうじたため、三成方(西軍)と家康方(東軍)の両者は美濃の関ケ原で激突した(関ケ原の戦い・天下分け目の合戦)。
 これに勝った家康は、西軍の大名を処分し、1601(慶長6)年に京都所司代をもうけて、西国や朝廷の動向を監視させた。
1603(慶長8)年、家康は征夷大将軍となり、江戸幕府を開いた。しかし、関ケ原の戦いでは豊臣系の大名の協力がなければ勝てなかったし、大坂には、いぜん豊臣政権の象徴として秀頼がおり、幕府の基盤は堅固ではなかった。
 そこで家康は、1605(慶長10)年、徳川氏が将軍職を世襲することを示すために、わずか2年でその位を子の秀忠に譲り、みずからは大御所(前将軍)として駿府で幕府政治(幕政)を主導した。さらに1611(慶長16)年から翌年にかけて、大名に対して徳川氏にしたがうことを誓わせ、そのうえで、1614(慶長19)年から翌1615(元和元)年にかけて、家康は大坂城の豊臣秀頼を攻めほろぼした(大坂冬の陣・夏の陣)。
 こうして、戦国の動乱を終わらせた家康は、徳川氏が平和をもたらしたことを強調しながら、つぎつぎと政策をうち出し、大名や朝廷、寺社、農民らをあらたな社会秩序に組み込んでいった。

 青木美智男他著『日本史B』(三省堂 2007年)P146−147 ※青赤太字は引用者が施しました

 (1993年版)の教科書と比較して、5・6(現在使用中)の教科書に共通していえることは、次の諸点です。

 家康は関ヶ原の戦いで勝利したが、それは、豊臣系の大名の力に負うところが大きかった。

 戦いの後も大坂城には秀頼がおり、徳川家康の権力は確固たるものではなかった。

 家康の将軍就任は、戦いの勝利を名目的に裏付けるものというよりは、全国の指揮権を掌握するためには、必須の条件だった。


 3 新しい研究による「関ヶ原の戦いの実像」

 このクイズを設定できた大きな理由は、関ヶ原の戦いに関して最新の研究成果を発表しておられる笠谷和比古氏国際日本文化研究センター教授)の御講演を聴き、直接にいろいろお教えをいただいたことによります。これ以降の記述内容は、その講演や次の御著書から教示を得たものから構成しています。

 笠谷教授においでいただいた講演は、岐阜県高等学校公民地歴部会主催の平成20年度県講演会です。県内の多くの公民・地歴科の教員が参加し、平成21年1月26日(月)に開催されました。

 笠谷教授の関ヶ原の戦いに関する著書は多数ありますが、高校教員が勉強するには次のものが最適です。
  笠谷和比古著『
戦争の日本史17 関ヶ原の合戦と大坂の陣』(吉川弘文館 2007年)

 笠谷教授の他の御著書のうち、次のものは大きな示唆に富み、「江戸時代像」や「日本の会社組織論」などさまざまな分野において、「目から鱗」となります。
  笠谷和比古著『
武士道と日本型能力主義』(新潮選書 2005年)
  これについての問題は、→クイズ日本史:幕末明治維新期「幕末の幕臣川路聖謨らが登用された仕組みは」
 をご覧ください。


 笠谷先生が、従来の説「徳川家康は、関ヶ原の戦いの勝利によって、全国支配の実権を握った」に疑問を感じられたのは、次の2点からです。

 合戦時の部隊配置を見れば、徳川家康の東軍の構成は、家康にとっては非常に心許ないものである。小早川秀秋の裏切りとか、吉川広家の内応とか、そういう問題とは別に、東軍は家康にとっては大変不十分で「不安」な構成だった。

 高校の授業において質問するとしたら、次のようになるでしょうか。ただし、この質問を設定するためには、秀吉の全国統一の過程で活躍した人物として、福島正則・黒田長政・浅野幸長・山内一豊ら秀吉恩顧の武将について、事前に説明しておかなければなりません。

 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。

 西軍と対峙する東軍前線部隊約3万人のうち、本来の徳川家の戦力というのはおよそこ6000人ほどで、残りは豊臣系の諸武将でした。この正解の解説には、いろいろな内容が必要です。

 1 豊臣恩顧の大名の東軍への参加

 東軍総勢力の半分以上は、豊臣恩顧の大名で構成されています。戦闘の最前線部隊の福島正則をはじめ、南宮山に対峙した浅野幸長山内一豊らまで、多数の豊臣系大名が石田三成と袂を分かって、東軍に参加しています。
 この原因は、朝鮮出兵の際の
蔚山退却事件に端を発する豊臣家臣団の官僚派(石田三成ら)と武功派(加藤清正・福島正則ら)の対立にありました。

蔚山退却事件
 朝鮮出兵の二つの戦い(文禄の役、慶長の役)のうち、後半の慶長の役における蔚山の戦いにおいて、加藤清正ら諸将が豊臣秀吉の意図に反して蔚山城東から撤退して、処分を受けた事件。
 蔚山は釜山の北方に位置し、1597年に秀吉の命令によって遠征軍は新しい城を築いたが、年末から1598年初頭にかけて朝鮮軍・明軍と激戦があり、城を守る加藤清正らは食糧不足で危機に陥った。援軍によってかろうじて敵を撃退できたが、この後現地の諸将は蔚山城等の放棄と同地域からの撤退を合議した。しかし、この撤退は秀吉の意図に反したもので、石田三成の派遣した目付らによってその事実が秀吉に報告され、加藤ら諸将は秀吉から領地削減などの処分を受けた。
 前線の苦労を知らない三成ら官僚派が、目付の報告によって、命がけで戦っている武将派の処分につながる措置を行ったことから、武将派の怒りを買ったという事件です。

 加藤(関ヶ原の戦場には参加せず)・福島らは、豊臣秀頼を支持する武将であることはいうまでもありませんが、同時に、心の底から石田三成を嫌う存在でもあり、石田三成が徳川家康と戦うということになると、豊臣氏への恩顧という感情よりも、反三成の感情が強く働いて、家康方の東軍への参加ということになりました。


 2 東軍徳川家康部隊の構成

 関ヶ原の戦いの戦場にいた徳川家の武将は、井伊直政・松平忠吉(家康の4男)のみでした。本多忠勝の名前もありますが、彼の役目は東軍全体の「監察」(監軍)の役目であり、率いる軍勢は僅かでした。(本多家の主力は、子の本多忠政が率いており、中山道を進む徳川秀忠軍の中にあった。)
 家康本陣には約3万の「旗本」軍があったが、これは、本来小部将の寄せ集めによる家康本陣防衛軍という性格のものであり、前線で敵をなぎ倒すという部隊ではありませんでした。


 3 下野小山の軍議のタイミングの妙 

 関ヶ原の戦いに至るまでの経過は次のようになっています。
   会津の
上杉景勝の謀叛
   謀叛に対して豊臣政権の
会津討伐軍としての徳川家康指揮の諸部将が出陣(主に東国部将の参陣)
   石田三成が大谷吉継らと
徳川家康に対して挙兵計画(この段階では私的な勢力争い)
   石田三成が五奉行、毛利輝元らを巻き込み、
豊臣政権として徳川家康討伐の挙兵に成功

 笠谷教授の指摘のポイントのひとつは、次の点にあります。
 会津追討軍は、京都・大阪から「挙兵」の情報が届いたため、7月25日(旧暦)に下野(栃木県)小山(おやま)で評定(軍議)を開き、福島正則・山内一豊らの豊臣恩顧の大名が徳川家康に従うことが決まります。
 その時彼らの手元に届いていた「挙兵」とは、どのような内容だったのかということです。
 従来は、上記のの内容であったとされていました。ところが、笠谷教授は、書簡などの分析から、その情報はではなくであったと分析されました。
 とでは、軍議の争点はどのように異なるでしょうか?
 なら、会議はそれほど紛糾することはないでしょう。なぜなら、三成を憎く思っている豊臣系の武将派大名は、三成が私的な挙兵計画を起こしたとしても、それに与するよりは断然徳川家康に味方するのが自然だからです。
 実際には、小山の軍議では、の情報しか届いておらず、比較的簡単に、軍勢の反転、家康の指揮のもとでの石田三成追討が決まります。ところが、実際には大坂での事態は、からへと展開し、その様子を伝える書簡もすぐに家康の元に届きますが、すでに、軍勢は西に向かって出発した後であり、再度の軍議は開催できる状況にはありませんでした。
 の情報のもとで、軍議が開かれていたら、状勢はどう展開したでしょうか?
 公式に豊臣政権として、つまり、豊臣秀頼や淀君の意志の発動として「家康討伐」の命令が出されていたとしたら、いくらその事実上の中心が石田三成であったとしても、はたして、家康の元にいた多くの豊臣系武将は、どちらに味方すると決断したでしょうか?
 ところが、軍議は実際にはこの難しい状況は発生せず、の比較的簡単な状況で判断が行われました。


 4 家康が江戸に滞留した理由 一転秀忠軍 を待たずに早く決戦に臨んだ理由

 上記の笠谷教授の指摘によれば、徳川家康は、3の古い情報で決定した軍議に頼って軍勢を指揮するという非常に苦しい立場にあったことが分かります。つまり、3ではなく4の情報を知った豊臣系武将達が、いつ家康に従うことを止め謀反を起こすか分からないからです。
 このため、家康は、東海道を西へ向かっていく武将達の後を追わず、江戸に滞留して状勢の見極めを行いました。(江戸滞留の理由の一つには、上杉軍への防衛体制の確認という意味もありました。)
 ところが、木曽川を渡河した東軍は福島正則や池田輝政らの活躍によって、8月23日に西軍織田秀信の守る岐阜城を陥落させました。東軍はさらに揖斐川を渡って、8月11日以来石田三成が入城している大垣城に迫ります。
 8月27日に東軍の岐阜城攻略の報を聞いた江戸の家康は、それまでの1ヶ月の滞留とはうってかわって迅速な行動をとり、9月1日に江戸を出発し、9月14日には大垣城の北にある赤坂の岡山(現大垣市赤坂のお勝山、詳しくはこちら、→「大垣赤坂金生山と石灰石専用列車」を参照)に着陣しました。
 そして、間をおかずその夜には関ヶ原に向かい、9月15日の決戦の日を迎えます。

 ここでひとつの疑問を提示して、この戦いの別のポイントを考えます。
 
東軍の豊臣系武将が本気で石田三成と戦う意思があると判断した家康は、極めて迅速に移動し、石田三成軍との決戦に臨みました。彼を急がせた理由は何だったのでしょうか?
 小説やドラマのレベルでは、無能な徳川秀忠が中山道を関ヶ原に向かう途中に、信州上田の真田勢の攻略にとまどい、関ヶ原に間に合わなかったということになっていますが、事実とは異なります。
 小山の軍議の決定では、秀忠が3万余の徳川勢の主力軍団を率いて中山道を西に向かい、真田の上田城などを攻略することとされ、秀忠はそれにしたがって行動していました。
 したがって、本来なら、家康は中山道を西上する秀忠軍を大垣赤坂で待つべきでした。ところが、家康は敢えてそれを行わず、決戦を急ぎました。

 この秀忠軍を待たずに決戦をおこなうことは、実は二つのマイナスを覚悟しなければなりません。
 1 東軍の戦力そのものを心許なくする危険性がある。
 2 勝利したとしても、戦いの手柄は主力の豊臣系武将に握られることになり、戦後処理が難しくなる。


 1については誰もがお分かりと思います。
 2については笠谷教授が強く主張しておられるポイントの一つになります。
 
当たり前のことですが、武将の功績は、「戦場で戦ってなんぼ」のもので、戦闘で手柄を立てれば、戦いの後の恩賞=領地の加増につながります。逆に言えば、戦場にいなければ、戦後世界で大きな顔はできないということになります。(かってに「戦ってなんぼ」理論と命名)

 この二つのマイナスが分かっていたにもかかわらず、徳川家康はなぜ敢えて、決戦を急いだか?
 その答えは、一つしかありません。
 
大坂城にいる毛利輝元が、幼少の豊臣秀頼を奉じて、現実に西軍の陣内に現れたら、東軍の豊臣系武将は、どうなるかということです。それが起こったら家康にとっては最悪のシナリオになってしまう危険性がありました。

 
 以上、関ヶ原戦いの武将配置図から見た、戦いのポイントです。


 笠谷教授の指摘した従来の説への疑問点その2は、次の点です。

 合戦時の徳川家康の苦労は、合戦後の領地処分にも現れている。以下の戦後の大名配置を見れば、「関ヶ原の戦いの結果、家康が全国支配権を握った」とはとても言えない。

 細かな地図ですみません。高校の授業において質問するとしたら、次のようになるでしょうか。ちょっと難問です。
 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。

 この戦後の大名配置図には、当然ながら、上で笠谷教授が指摘の、「戦ってなんぼ」理論が貫徹しています。またいくつかに分けて説明します。

 1 徳川系大名の支配地は日本中央部に限定

 関ヶ原の戦いに参加した数が少なかった徳川親藩・譜代の大名の「出世」は、極めて地域限定的で、東は磐城平の鳥居忠政、西は近江彦根の井伊直政の間の地域に限られていました。


 2 豊臣系の大名の一国一円大名への出世 特に西国へ

 それとは対照的に、関ヶ原の戦場で大活躍した豊臣恩顧の大名の出世は目を見張るものがあります。尾張清洲から安芸広島50万石に転封された福島正則をはじめ、特に西国には、国持ち大名に出世した武将が居並んでいます。


 3 東国・西国の二分支配

 何より重要なのは、この時の領地変更に対して、「領地朱印状」は一通も現存していないことです。
 これだけの規模で領地の変更を行ったのですから、いくら戦後400年を経ているとはいえ、領地の変更を示す朱印状が残っていないのは不思議なことです。
 笠谷教授は、このことは、始めから朱印状が発行されず、領地変更は口頭で命令されたと考えられています。
 なぜ、朱印状が発行されなかったか?
 それは、徳川家康はあくまで、豊臣政権下の勢力争いでライバルの石田三成を破ったに過ぎず、
豊臣政権の主である豊臣秀頼に代わって領地朱印状を発行することはできなかったということです。
 
 西国の要の大坂には、依然として豊臣秀頼がいます。
 家康は、1600年の戦いの3年後、1603年に征夷大将軍になります。
 この解釈についても、これまでは、戦いの結果として力を握った者が至極当然に将軍に就任したという考えが当たり前でした。しかし、このページのようにこれまでとは異なる視点で見ていくと、異なった解釈が必要です。
 つまり、 徳川家康は、豊臣政権下の秀頼の補佐役という立場から上昇し、独自の政治的権威を確立するためにどうしても征夷大将軍になる必要があったという解釈です。
 
 笠谷教授は、この戦後の体制を、
大坂の豊臣秀頼の支配と江戸の徳川家康の支配とによる二重公儀体制と名付けておられます。


 講演会場で笠谷教授に直接質問しました。
「家康は、戦いの時点から、戦後秀頼を亡きものにしようと考えていたでしょうか?」
 笠谷先生は、答えられました。
「う〜ん、難しいところですが、多分、最初は豊臣家との平和共存を考えていたと思います。そうでなければ、孫娘を正室に送るということはないでしょう。その後の経過で、豊臣家滅亡となっていったと思います。」


 別の書物には、関ヶ原の戦いの後の世界は、次のように表現されています。

「 こうして徳川家康は勝利を手中におさめたが、戦いに勝ったからといって列島全体を支配下に置けたわけでは必ずしもなかった。石田三成や大谷吉継・増田長盛など、敵の中心にいたのは秀吉の近臣たちで、その遺領はさほどのものではなく、毛利や上杉などから没収した国々が最大の戦果だったが、これらは戦いに功績のあった大名たちに分け与えねばならず、家康やその家臣たちの所領が列島を覆う結果にはならなかったのである。また大坂には相変わらず秀吉の遺児秀頼がいて、一定のカを保っており、これをみずからの配下に置くことはなかなかできなかった。
 このころ家康は江戸と伏見を往来していたが、慶長8年(1603) 2月に朝廷の勅使が伏見を訪れ、内大臣であった家康を右大臣とし、あわせて征夷大将軍に任じるとの天皇の宣旨を渡した。3月下旬に京都の二条城に入った家康は、拝賀の礼を行なってこれにこたえ、4月4日、二条城で能楽を興行して公家衆や大名たちをもてなした。かつての秀吉と同じような立場になつたことを、こうしたかたちで内外に示しながら、家康は一方で秀頼を尊重する姿勢も見せ、子息秀忠の娘を秀頼の妻として大坂に送ることを取り決めた。このとき秀頼は11歳、姫君は7歳だったが、家康と秀頼はとりあえず親戚となり、両者の協調のなかでしばらく平和な時代が続くことになる。
 家康の力が伸びていることは疑いなかったが、秀頼の地位もあなどりがたいものがあった。同年の2月20日、親王や公家衆がまとまって大坂に赴き、秀頼に年頭の挨拶をしたが、翌慶長9年にも正月27日に公家衆や門跡の大坂参りがあり、やがてこれは毎年の恒例行事となった。公家や門跡立ちにとって秀吉は恩人で、その記憶はなかなか消えなかったのである。」

 山田邦明著『日本の歴史 戦国時代 戦国の活力』(小学館 2008年)P333−334)

 
 最後の部分にある、公家の秀吉に対する思いというのは、これまであまり強調されてこなかった部分と思います。

 徳川政権を真に盤石なものにするため、家康が打ったいろいろな手が、最終的には豊臣家の滅亡につながっていきました。 


 4 おわりに

 笠谷教授は、関ヶ原戦いについて、著書の「あとがき」で次のように「評価」しておられます。

「 関ヶ原合戦というドラマは、そのような絶対混迷の中で進行していたということである。何という慄然とする卓抜な展開であろうか。歴史としての関ヶ原合戦が開示するドラマツルギーは、シェイクスピアたち最高の劇作家たちをもってしても到底およぶことができないような、切れ味鋭い逆説と冷厳なアイロニーに充ちていたということである。」  

 ※笠谷和比古前掲書 「あとがき」P313
 
 地元に住んでいるからというわけではありませんが、豊臣政権と関ヶ原の戦いは、授業で「ぶ厚く取り上げる」べき部分と思います。歴史の面白さを味わい、考察力を高めるために。