鎌倉〜戦国時代1
<問題編> クイズは時代の古い順に並んでいます。答えは各問題のをクリックしてください。  
最終更新日 2005年08月23日 ※印はこの5週間に新規掲載 
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番号 掲載月日   問                     題
306 04/10/11

 源頼朝が武家で初めての征夷大将軍となったのは、1192年。その翌年の1193年、通貨に関する命令が出されました。
 それは、次のうちどの命令でしょうか。 

 皇朝十二銭以来の独自の通貨を発行する。

 宋からの輸入銭(宋銭)の使用を認める。

 宋からの輸入銭の使用を停止する。

307 05/08/23

 右のマークをクリックしてください。写真が登場します。この丸いぶつぶつのようなものは何でしょうか。

305 03/04/05

 京都の鹿苑寺金閣には、一体何枚ぐらいの金箔が張られているでしょうか。通常、金箔1枚は、1辺が10.8pの正方形のものをいいます。

304 02/06/30

 室町時代、15世紀に活躍した日蓮宗の僧侶に日親という人物がいます。彼は拷問を受けて、あだ名が付きました。「○○かむりの日親」というのですが、さて、○○にあてはまる文字は何でしょう?

301 01/01/08

 南北朝時代は、後の江戸時代などと違って、武士の世界でも家来が主君を裏切ることは平気でした。足利氏と新田氏の争いは、最終的には足利氏が勝利を収めますが、ある時局地的な戦いで、新田氏が足利氏を破ったときがありました。負けた足利の小者(身分の低い家来)は、早速寝返って新田の家来になります。ちょうどよいことに、新田の笠験(かさじるし、旗などのマークのこと)は○の中に太い一本線、足利は○の中に細い二本線です。足利の二本線を墨で塗ってしまえば、新田へと早変わりです。それを見た庶民は、あまりのご都合主義に次の歌を詠んで、嘲笑しました。
 「二筋の中の白身を塗りつぶし、○○○○しげな笠験かな」
○○○○にあてはまる適語は何でしょう。

302

01/01/08

 戦国時代の武将、上杉謙信と武田信玄の争いは有名です。彼ら二人には、川中島の話から、「敵に塩」のような事実と確認できない言い伝えまで、様々なエピソードが語り継がれています。ある時信玄から謙信へ「すぎかれてたけたぐひなきあしたかな」(杉が枯れて竹が類(たぐい)ないくらい繁栄するの意味)という句を書いた書状が届きました。これを見た謙信は怒りましたが、書状を破り捨てることなく、もとの句の濁点のみを修正して送り返しました。さて何と修正したでしょうか。


303
  

01/04/22

 岐阜市の金華山山頂には織田信長が居城としたことで有名な、岐阜城があります。この城は標高329mの山頂近くにある典型的な山城です。そういうと難攻不落の城に思えますが、皮肉なことにこの城は、中世末から近世初頭にかけて、何回も落城・開城を経験しています。さて、その回数は、何回でしょうか。


<解説編>

301 二筋の中の白身を塗りつぶし、○○○○しげな笠験かな」        問題へ   

 問題の意味をもう一度図で確認します。下の図で、負けた足利側の家来が、中身を黒く塗って、左の新田氏に調子よく成りすましたという意味です。
 この問題は、ノーヒントではまず正解はでてきません。

  • ヒントその1・・・・「○○○○しげな」の意味はうまくいったという意味にならなければなりません。

  • ヒントその2・・・・○○○○は、「ばたばた」とか「ころころ」と同じような、2文字の繰り返しの擬態語です。

 この歌がいつ考え出されたものか詳しくはわかりません。(一次出典は不明)。ひょっとしたら、江戸時代の狂歌読みかなんかかもしれません。お待たせしました。
正解 「
二筋の中の白身を塗りつぶし、にたにたしげな笠験かな」です。わかります?
新田に成りすましたのですから、「新田新田し」=「にたにたし」なのです。
座布団3枚の名作と思いませんか。
 ※『歴史ものしり百科』(1982年三公社)


302 「すぎかれてたけたぐひなきあしたかな」の句への返答は何でしょう。 問題へ

 届いた書状は漢字で書けば「杉枯れて竹類なき明日かな」です。これでは、上杉は滅んで武田が栄えるばかりですから、反対の意味にしなければなりません。「たけたぐひなき」を「たけだくびなき」=「武田首なき」は誰しも気が付くところ。問題は前半です。「すぎかれて」を「すぎかれで」とするのが正解です。「で」は文法上は、打ち消しの接続助詞です。(違ったかな)つまり、「すぎかれでたけだくびなきあしたかな」が正解です。
 但し、もちろん、信玄と謙信が実際にこんなやりとりをしたことはありません。後世の誰かの作り事です。
  ※これの出典は不明です。どこに書いてあったか思い出したら記載します。


【記述追加】以下の説明と写真は、2012(平成24)年5月19日に追加掲載しました。 
 ところで、信玄と謙信といえば、川中島の戦が有名です。川中島は現在の長野市郊外にあります。
 川中島の戦いは5回あったとされ、そのうち特に有名なのは、第4次の戦いです。 


 写真302−01 長野市八幡原史跡公園にある第4次川中島の合戦の説明図      (撮影日 08/06/13)

 写真302−02 長野市八幡原史跡公園にある第4次川中島の合戦の説明図      (撮影日 08/06/13)

 第4次の戦いは、1561(永禄4)年の8月から9月にかけて発生しました。長い対陣ののち、武田信玄は啄木鳥(きつつき)の戦法を取ります。武田軍の別働隊を謙信の布陣する妻女山に向かわせ、自分は八幡原に本陣を構えて、追い出されてくる謙信軍を迎え撃つという戦法です。しかし、それを事前に察知した謙信は、夜中に霧に紛れて妻女山を降り、信玄本陣に迫ります。信玄本陣軍6,000人に対して、謙信軍は2倍以上の13,000人の軍勢でその正面に展開し、霧が晴れた9月10日(旧暦)早朝、攻撃を仕掛け、両軍ンも間に激戦が展開されます。
 激戦のさなか、謙信と信玄の一騎打ちという有名なシーンが展開されます。軍勢が手薄となった武田本陣に謙信が単騎で切り込み、本陣の床几に座っていた信玄がこれを軍扇で受けるというかの名場面です、どこまで史実かはわかりませんが、八幡原史跡公園にはそのシーンの銅像があります。  


 写真302−03 馬上から太刀を浴びせようとする謙信と受ける信玄       (撮影日 08/06/13)

 写真302−04・05 左:謙信  右:信玄 どちらもすごい形相です(撮影日 08/06/13)

 二人の像のそばには、もう一つの戦いのエピソードが「展示」してあります。それがしたの石です。この石の名前は、執念の石といいます。左下がその石。右下がその説明です。石の真ん中に穴が空いているのがミソです。

 写真302−06・07 執念の石とその説明  (撮影日 08/06/13)

 右の説明によると、謙信が馬上から斬りつけた時、信玄の護衛をしていた家臣のひとり、原大隅(はら・おおすみ)が槍をもって謙信に反撃を加えました。しかし、惜しくもその槍先は謙信の肩の上にハズレ、謙信を打ち損じました。槍が馬の前足の肩の筋肉をしたたか殴打したため、馬が驚いて立ち上がってそのまま走り去り、謙信・信玄両雄の一騎打ちは一瞬にして終わったとのことです。槍で謙信を射止めし損なった原大隅は、悔しさの余り、その槍をかたわらの石めがけて着いたところ、槍先は石を貫きました。その石がこの「執念の石」です。本当でしょうか?(^_^)

 八幡原史跡公園は、JR長野駅から川中島バスの「古戦場経由松代行き」で20分ほどで行けます。バス停川中島古戦場下車すぐです。バスは、土曜日曜は、1時間に2本の運行です。
  ※川中島バス 古戦場経由松代行きバス時刻表 http://www.alpico.co.jp/access/nagano/matsushiro/index.html


303 岐阜城が敵の手に落ちたのは、歴史上何度でしょうか。        問題へ

 織田信長が、木下藤吉郎らの活躍で斉藤氏を攻めたことは有名ですが、岐阜城は、それ以外にも、何度も落城・開城の憂き目にあっています。
 その回数は、1525年から1600年までに、合計なんと6回です。


 岐阜城のある金華山を西側から見た写真。写真の右手、南側の峰伝いに攻略するのが正攻法。


 1601年の廃城以来、江戸時代には山頂には城郭が存在しませんでした。1910(明治43)年になって模擬城が建設されました。その模擬城は、1943年に焼失。
 1956年現在の天守を再建。1997(平成9)年に近代化改修を行って、現在の姿となりました。


 右の絵は、ルイス・フロイスの『日本史』の記述を元に、昭和30年代にある高校の先生によって描かれた岐阜城と信長居館の想像図です。
 岐阜観光索道株式会社(ロープウエイ)の切符のデザインとなっています。絵はポスターとして販売されていて、ロープウエイ駅に隣接する土産物コーナーで購入することができます。大300円小250円です。
 058−262−6284へ連絡すれば、宅急便の着払い方式で購入できます。
 この切符は、同社の広報部長さんの許可を得て掲載しています。

 現在の岐阜公園内に復元された信長居館の門。

 信長居館跡。当時の石積み等が発見された。ロープウエイから撮影。


 本題の説明の前に、岐阜城の起源を説明します。
 今年は、「岐阜城築城800年祭」ということで、市をあげて盛り上げようとしています。800年ということは、起源は1201年となります。
 以下年表風に岐阜城の歴史の前半部分を表記します。

  • 1201年、鎌倉幕府の政所令を務めた、二階堂行政(ゆきまさ)が、京都への押さえとして、この山頂に砦を作りました。これがこの城の起源というわけです。この山は、信長が登場するまでは、稲葉山城と呼ばれていました。

  • 鎌倉時代には、行政のあと、その女婿の佐藤朝光、その子伊賀光宗、その弟の稲葉光資(姓の伊賀を居城に因んで、稲葉氏と改める)が、この砦を守ります。

  • 初代行政の子孫、二階堂行藤(1246〜1302)は1259年に、稲葉山の守りについたが、彼の死後は、この砦は長く放棄されます。

  • 15世紀の中頃、美濃の守護代であった斉藤利永が、長らく放棄されていた、稲葉山城を修築。斉藤氏は、院政時代に員を警護する北面の武士として仕えた家柄で、鎌倉時代に美濃の目代(国司の代理)に任命されて、美濃各務郡に居住した。室町時代に入って土岐氏が守護となると、その守護代として、美濃支配の中心となりました。
    土岐市は清和源氏の傍流で、美濃に勢力を張ったいわゆる美濃源氏の一族です。
    15世紀には、美濃革手城に(現在の地名では川手、済美高校の場所)を本拠としていました。
    守護代斉藤氏の城も北隣の加納にあり、稲葉山城が主城であったわけではありません。 

  • 利永の弟、斉藤妙椿は、応仁の乱の際に守護土岐成頼が京都出陣中に、稲葉山城に拠って、美濃国内を治めた伝えられます。 

 

ここまでは、岐阜市による岐阜城の説明看板等による記述です。
 
 1500年頃に、稲葉山の山頂付近にどんな「城」(砦)があり、誰がその城主だったかは、資料上はあまり正確には確認できません。
 『岐阜県史』・『岐阜市史』などは、16世紀初頭には、守護代斉藤氏の居城があったと記述されています。
 
 お待たせしました。それらに基づいた、
6度の落城の話です。 

  1. 1525年、守護代の家臣であった、長井長弘と長井新左衛門尉は、城主守護代斉藤利隆を攻めて稲葉山城を陥落させます。これが第一の落城です。
     その後、土岐氏・斉藤氏に代わって、長井氏が美濃支配の実権を握ります。

     この長井新左衛門尉は、いわゆる後の戦国大名斎藤道三の父親です。司馬遼太郎の『国盗り物語』など、一昔前の「斎藤道三」ものは、京都の油売りであった道三が、美濃へ来て諸家を乗っ取って大名に成り上がったという説でした。しかし、昭和40年代の研究で、これまでの道三の業績は、道三とその父の業績であることが判明しました。いわゆる、「国盗り二代説」です。
     父新左衛門尉は、このあと1533年に没し、長井新九郎規秀が跡を継ぎます。これが後の道三です。彼は翌1534年には、長井本家(長弘の後、景弘が相続)を打倒し、さらに1536年には守護に土岐頼芸を立て、自らが実権を握りはじめます。37年には、斉藤一族の跡を継いだ形で、斉藤利政と名乗りることになります。
     しかし、道三が追放した前守護土岐二郎との争いなどが繰り返し起こり、道三の治世は安定したものではありませんでした。
     1554年、家臣の信頼を失った道三は、子の義龍へ家督を譲らざるを得なくなります。56年には義龍追放を狙って挙兵しますが、味方するものは少なく、反対に長良川の戦いで敗死しまし
    た。
     跡を継いだ義龍は、美濃支配安定のために諸施策を実施します。1560年には近江の戦国大名六角氏と、政略結婚による同盟を結びます。
     しかし、1561年、義龍は急死します。跡を継いだ子の龍興は、この時まだ13歳。近江の浅井、越前の朝倉、そして尾張の織田(桶狭間の戦いはこの前年の1560年)などが強大化する中で、美濃の支配は弱体化します。
     

  2. 1564年、2度目の落城が起きます。
     美濃の有力な武士である竹中半兵衛重治と安藤守就らが反乱を起こし、稲葉山城を攻撃。城はあっけなく落城します。この後半年以上、竹中氏らが城の主でした。(この後再び斉藤龍興が城を取り戻しますが、その戦いの記録はなく、落城回数には含めていません。)
     この混乱を見た織田信長は、美濃攻略の好機ととらえ、本拠を小牧山に移して、美濃に出陣しています。 

  3. 3度目は、1567年。これが一番有名な落城です。
     この年9月、織田信長は、家臣木下藤吉郎らの活躍によって、稲葉山城を攻略し、斉藤義龍を追放します。
     信長は、これまで美濃井之口(井口)と呼ばれていた城下の町を、「岐阜」と改称し、ここに、現在の岐阜市の発展が始まります。
     1569年に岐阜に訪れたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、
    後にその様子を彼の日本滞在記『日本史』に描きました。
     それによると、人口は「人々が語るところによれば、八千ないし一万」・「同所では取引や用務で往来する人々がおびただしく、バビロンの混雑を思わせるほどで、塩を積んだ多くの馬や反物その他の品物を携えた商人たちが諸国から集まっていました」とも書かれています。
     信長の館についての描写もあり、「驚くべき大きさの裁断されない石の壁がそれを取り囲んでいます。」・「3階、4階の前廊からは全市を展望することができます。」などとあります。
     ※松田毅一・川崎桃太郎訳『日本史』(中央公論社)より
     

  4. 4度目は、1582年
     信長は、1576年安土城に移り、代わって岐阜城は長男の織田信忠が城主となります。しかし、1582年の明智光秀の謀反の際は、両者ともに京都本能寺で倒れます。岐阜城は家臣の斉藤利堯に乗っ取られます。
     詳しい経緯はわかりませんが、旧斉藤氏の一族であった利堯が、斉藤家の復活を図ったものと考えられます。しかし、秀吉が明智光秀を破って岐阜に迫ると、利堯は秀吉に降伏します。
     

  5. 5度目は、1583年
     信長の死後に開かれた清洲での重臣会議で、岐阜城は信長の第3子である神戸信孝に与えられます。
     しかし、信孝は秀吉が主導権を握ることに反発、柴田勝家と結んで秀吉に反旗を翻します。勝家は賤ヶ岳で秀吉に敗北し、信孝の岐阜城も秀吉軍に攻められて落城します。 

  6. 6度目は、1600年。
    この時の城主は、織田秀信。信長の長男信忠子で、石田三成の挙兵にしたがって家康に反したものの、家康にしたがった福島正則・池田輝政らに攻められ、この時もまたあっけなく落城しました。 

 

 関ヶ原の戦い(クイズ日本史近世編参照)に勝利した家康は、大坂の豊臣氏への対抗として、美濃・尾張を前進基地と重要視しました。そのひとつとして、中山道の宿場町加納(現在の岐阜市加納)に家康の女婿の奥平信昌を配置し、新たに加納城を築造させました。結果、岐阜城は廃城となり、その資材は、加納城の築造に使われたそうです。
 
 峻険な山の上の城というと、「難攻不落」というイメージがつきまといがちであるが、こと岐阜城に関しては、「よく落城した城」と結論できるようです。

 ※岐阜県『岐阜県史 通史編近世上』(昭和43年)
 ※岐阜市『岐阜市史 通史編中世』(昭和55年)
 ※谷口克広『目からウロコの戦国時代』(2000年PHP研究所)
 ※松田之利ほか『岐阜県の歴史』(2000年山川出版社)

 
 ところで、上にも出てきましたが、信長は斉藤氏時代は「井之口」であった稲葉山の西の麓の町を、現在まで続く「岐阜」と改称しました。
 『岐阜市史』は、「『安土創業録』には政秀寺開山沢彦(たくげん)の「周の文王が岐山より起こり、天下を定む」という中国の故事にちなんで、岐阜と付けることを進言し、これに信長が従ったと伝える」とあります。残念ながら、これでは、岐阜の意味や選定の理由がよく分かりません、目下自分なりにもっとわかりやすい説明になるよう、調査・研究中です。  


304 日蓮宗の僧侶日親のあだ名「○○かむりの日親」とは何?   問題へ

  15世紀、日本の仏教は、3人の偉大な人物によって発展を見ました。3人とは、臨済宗の一休宗純(1394〜1481年)、浄土真宗の蓮如(1415〜1499年)、そして日蓮宗の日親(1407〜1488年)です。この3人ついては、このクイズでこれから順番に紹介していくつもりです。
 
 日親は、応永14(1407)年に上総国(今の千葉県)に生まれました。幼少時から仏門に入ることを志ざし、秋から冬にかけての100日間、深夜寺に通い、1日ごとに一つの指の爪を剥ぎ、その後に針を刺し、あるいはその手を熱湯につけるなどの壮絶な苦行を摘んで意志の力を鍛えたと言います。但し、あまりの積極的な行動の故か、修行をしていた下総国中山法華経寺を破門されます。波乱の人生のスタートです。
 ※永原慶二著『日本の歴史10 下克上の時代』(中央公論社中公文庫10版1981年)P413
 
 鎌倉時代、宗祖日蓮によって始められた日蓮宗(法華宗)は、15世紀初めの時点では、いくつかの門派にわかれ、教団としてのまとまりがない状況でした。諸派が勢力を広げていく過程で、他宗派の吸収を図り、そのために他宗の仏像を日蓮宗の仏壇に安置したり、他宗派の信者からも平気で施しものを受けるなどして、宗祖日蓮の純粋さと宗教的情熱は次第に失われようとしていました。

 日親は、そのような状況の中で京都に上ります。1427年、はじめて、一条戻橋に立って、辻説法を始めました。
 「われは日蓮の流れをくみ、身命を惜しまず法をひろめ」、「われ日蓮宗の守りとならん」との誓いをたて、宗教論争を積極的に行い、法華を信じないものからは施しを受けず、また施しもしないという、厳格な、いわゆる「不受不施」の立場を主張しました。
 ※佐々木銀弥著『日本の歴史13 室町幕府』(小学館1975年)P338

 京都のまちで辻説法をする日親に対しては、比叡山延暦寺を初めとする旧仏教や、将軍家の帰依を受けていた臨済宗などの他宗派からの激しい弾圧を受けました。
 しかし、彼の情熱に惹かれ、次第に日親を支持する町の人々が増えていきました。
 もともと、すでに14世紀の中ごろ、南北朝の内乱時代に、日像による妙顕寺創建、日静による本圀寺創建などが行われ、京都の富裕な商人たち、いわゆる「町衆」に信者が広がって行きつつあり、日親の布教は、それに勢いをつけた形となりました。

 彼の究極の目的は、単に京都の町の中で、信者を増やすことではありませんでした。宗祖日蓮と同じように、時の室町幕府将軍に、日蓮宗への改宗を迫ることが目的だったのです。
 足利将軍家は、臨済宗に帰依しており、五山制度という仕組みを維持して、臨済宗を保護する立場にありました。日親の動きを察知した第4代将軍足利義教(よしのり)は、日親の直訴を禁止します。

 そんなことであきらめる日親ではありません。彼は、宗祖日蓮の『立正安国論』にならって、『立正治国論』を著し、「法華経=正法以外の教えを信ずることは、天下の乱のもとであり、日蓮宗を信ずることだけが日本の国土を安穏に治めるゆえんである」と論じ、直訴の機会を狙いました。
 しかしこの企ては発覚し、永享12年(1440年)2月に投獄されました。
 彼は、あらゆる拷問を受け、改宗を迫られましたが、屈しませんでした。ある時は、真っ赤に焼けただれた鍋を頭にかぶせられたこともあり、そのため頭の皮はひきつり、髪をそることさえもできなくなったと言います。
 
正解、このことから、日親は「鍋かむりの日親」とあだ名されました。

 
翌1441年、将軍足利義教が嘉吉の乱で暗殺された結果、日親は獄から放たれ、再び布教の活動を始めます。
 彼は、この過酷な体験の後もなおも40年以上布教活動を続けることになります。不屈の精神を持った宗教家でした。
 日蓮宗は、彼の活躍もあって、最盛期には京都市中に21の寺院を持つことになります。

 しかし、この日蓮宗の京都市中での勢力拡大は、同じく市中の富裕層からの財政的支援を基盤としていた比叡山延暦寺との対立を激化させました。

 1536年、ついに両者の武力衝突が起きます。
 延暦寺側の6万の軍勢が京都市中の日蓮宗寺院を襲撃、これをことごとく破却して、日蓮宗側か完全に敗北しました。
 但し、その後、再び日蓮宗は京都市中での活動を許され、いくつかの寺院が再建されていきます。
 
 ここで、もう一つクイズです。
 現在の京都市中にある寺院のうち、全国的に最も有名な寺院は何でしょうか?

 それが、あの本能寺です。信長が最後を遂げるのは、1582年のことです。