安土桃山時代6
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<解説編>
 
 411 越前一乗谷の朝倉遺跡から発見された次の遺物は何でしょうか? 12/05/28掲載

 越前一乗谷朝倉遺跡の北、足羽川沿いに、県道31号で福井市側に少し戻ったところに、県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館があります。
 150万点が出土した遺物のうち、2,343点が国指定重要文化財となっています。その3種類を紹介します。それぞれ何かをクイズ形式で考えてみて下さい。


 写真411-01・02 陶器製です。左も右も同じものです。   (撮影日 09/10/25)

 私が小さい頃は、まだ使っていました。バンドコという日本語がわかる方は年配の方です。

 写真411-03・04  左:陶器製の皿です  右:金属製です (撮影日 09/10/25)

 左:皿は皿ですが、食べ物に使う皿ではありません。皿の中には液体を入れます。使用目的は?
 右:ある道具の金属部品です。この部品の写真右端にさらに何かを装着して使います。誰でも知っているものです。

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 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。
 正解の補足です
 越前一乗谷朝倉遺跡について

 正解の補足です         | このページの先頭へ |

 バンドコは、現代なら布団の中の電気炬燵(こたつ)です。といっても、今では、電気毛布・室内暖房の普及で、その電気炬燵すらも使われなくなりました。うちは、妻が寒がりですので、ずいぶん前に購入したものが、未だ現役で活躍しています。
 私が幼少のころの昭和30年代中ごろ、映画「Always 3丁目の夕陽」の時代ですが、炭団(たどん)を熱源とする行火を使っていました。懐かしい思い出です。
 灯明皿は、当時の重要な光源です。使い方は次の下の写真411-01を参照してください。
 火縄銃の火縄ばさみは、下の写真411-02を参照してください。
  ※参考文献1 福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館編『越前朝倉氏一乗谷』(2005年)P41-59

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 写真411-05 灯明皿と灯明を再現しました (撮影日 04/04/04)

 この油は菜種油を使っていますが、越前一乗谷の中世の時代は、荏胡麻から絞った油を使用していたと考えられます。
 菜種油については、→目から鱗:「菜の花について考える」を参照ください。

 写真411-06 火縄銃の銃底分部分のアップです。 (撮影日 04/03/28)

 中央にあるのが火縄ばさみです。
 これについては、→目から鱗:「銃砲と歴史1 まずはじめに火蓋を切る」を参照ください。
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 越前一乗谷朝倉遺跡について           | このページの先頭へ |

 ついでに、このページの主役の一つ、越前一乗谷朝倉遺跡について補足説明します。私はこれまで2度越前一乗谷へ行ったことがあります。大学生の時の研究室の調査旅行と、2009年10月25日に県内の公民地歴科教員の研修旅行での訪問です。以下の写真は、2009年の時に撮影したものです。
 まずは、その場所です。下の地図をご覧ください。

 上の地図は、Google から正式にAPIキーを取得して挿入した、福井県越前地方中央部の地図です。

 左端が福井市です。JR越美北線(九頭竜線)に沿って、東南方向へ向かうと福井駅から15km程です。
 足羽川(福井市内を流れてその北西で九頭竜川と合流し三国湊で日本海に注ぐ)の支流の一乗谷川が作る谷沿いに形成された城下町です。
 

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 朝倉氏はもともと但馬国朝倉庄(兵庫県養父市八鹿町)を名字の地とする日下部氏の一族で、鎌倉時代初期には但馬の有力な御家人となっていました。
 しかし、承久の乱で後鳥羽上皇方に付いたため
朝倉庄の地頭職を奪われ、朝倉氏は代わって地頭職となった幕府有力御家人の長井氏に従属することとなりました。
 室町時代になると、長井氏が幕府有力御家人の斯波氏と関係があったことから、朝倉氏も斯波高経の越前守護職就任にともなってその家臣として越前に移住したものと考えられます。これが
越前朝倉氏の初代と2代にあたる朝倉広景高景父子です。彼らは現在の福井市周辺の領地の地頭職等をあてがわれました。その一つに近衛家領宇坂荘があり、そこに属する一乗谷も支配するようになりました。
 南北朝時代を経て
朝倉氏は次第に在地勢力内で力を強め、1459年、朝倉孝景は和田の合戦で勝利を収めて、在地における中心的存在となりました。
 1467年に応仁・文明の乱がおきると、
朝倉孝景は将軍足利義政の誘いで東軍方に付き、越前にいた斯波氏の勢力を駆逐して越前一国を平定し、義政から越前守護の地位を得ました。これにより、孝景戦国大名朝倉氏の初代となり、この後、氏景貞景孝景(初代と同じ名前)-義景と5代にわたって越前の地を支配することになります。一乗谷孝景によって朝倉氏の本拠とされ、滅亡まで100年余にわたって繁栄しました。
 
朝倉義景は、1568年に岐阜を本拠として全国統一を目指した織田信長に対して、近江の浅井氏と結んで対抗しましたが、1573年の信長の越前侵攻に敗れました。義景は自刃し、一乗谷も信長軍の放火によって灰じんに帰しました。
 その後一時的に町の復興が行われましたが、1575年に新しい領主となった柴田勝家が北の庄城(現福井城の場所)を築城して越前支配の本拠とすると、一乗谷は急速に寂れ、水田化が進んでいきました。結果的には、これが幸いし、中世の城下町一乗谷はタイムカプセルに封じ込まれたように、その姿を現代に伝えることになったのです。
  ※参考文献1 福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館編『越前朝倉氏一乗谷』(2005年)P6-18

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 朝倉氏の本拠一乗谷の城下は、一乗谷川の谷地の狭小な平野に細長く形成されました。上城戸と下城戸の間は、約1700mです。
 1930(昭和5)年に朝倉館跡と湯殿跡等が国指定史跡に指定されていましたが、本格的に発掘調査が行われたのは戦後のことです。
 1967年には地元の足羽町(現在は福井市と合併)が中心となった「朝倉氏遺跡整備事業委員会」が設置され、初めて近代的な発掘調査がなされ、翌1968年からは奈良国立文化財研究所の協力を得て本格的な発掘調査が開始されました。次々と重要な遺構等が見つかったため、史跡指定面積は1971年に278ヘクタールへと拡大され特別史跡となりました。1981(昭和56)年には、発掘調査の成果を展示公開する施設として
県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館が開館しています。
 発掘は30年間に長きにわたって行われ、約150万点の遺物が出土しました。   


 写真411-07・08  左:谷の中央を流れる一乗谷川、南から北へ流れます。 
                右:現在は、川に沿って県道16号が谷を貫いています。(撮影日 09/10/25)


 写真411-09 資料館のジオラマ。谷中央部の左岸:町屋と武家屋敷の復元 右岸:朝倉館(撮影日 09/10/25)


 写真411-10 谷中央部右岸にある朝倉館の復元模型           (撮影日 09/10/25)


 武家屋敷地や町屋敷地からは、たくさんのトイレ遺構と判定される石組み遺構が発見されました。(→クイズ日本史:「越前一乗谷のトイレ遺構を決定づけた木製遺物は何か」
 しかし、朝倉館そのものの跡からは、トイレ遺構断定できるものは発見されていません。
 実は研究者がそれと推定しているものはあります。
 下の写真をご覧ください。これは上の写真411-10の模型を復元する元となった、朝倉館の本物の遺構です。このうち、トイレ遺構と思われる部分はどこでしょうか。  

 写真411-11 朝倉館の遺構です。南から北を写した写真で、左手側が谷中央です。 (撮影日 09/10/25)


 写真411-12 トイレ跡と推定される遺構           (撮影日 09/10/25)

 上の写真411-11の右上の部分の拡大です。写真411-12の左端の水路に接して造られている石組みがトイレ跡と推定されているところです。しかし、確証はありません。もしそうなら水流を使った水洗トイレです。
  ※参考文献1 東京都大田区立郷土博物館編『トイレの考古学』(東京美術 1997年)P184
 

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 写真411-13・14  当時の中心道路と道具 (撮影日 09/10/25)

 町の中心を南北に貫く幹線道路は、京都や鎌倉でもそうですが、10丈=100尺(30.3m)を単位としてっその倍数で道道を区切り町割りのブロックを作っています。
 復元町並みには、基本的に検出した当時の礎石や溝・石垣等をそのまま用いるとともに、判明した材質はもちろんのこと、釿(ちょうな)や鑓(やりかんな)等の加工の技術の再現にも努めました。こうして約200mにわたる町並みを再現しています。

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 写真411-15・16 復元家屋     (撮影日 09/10/25)


 写真411-17・18 左:復元家屋 陶磁器屋  右:漆器屋 (撮影日 09/10/25)


 写真411-19・20 左:藍染め屋  右:扮装しているボランティア (撮影日 09/10/25)


 越前一乗谷朝倉遺跡は、施設の規模としても、見所としても、なかなか価値のある遺跡です。一見に値します。
 まだの方は、是非一度。


 【クイズ411 越前一乗谷朝倉遺跡関係 参考文献一覧】
  このページの記述には、主に次の書物・論文を参考にしました。

福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館編『越前朝倉氏一乗谷』(2005年)