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銃砲と歴史2-1
 銃砲と歴史について、シリーズで取り上げます。
 
 長篠の戦い1 「通説」への疑問 05/10/16 作成 
 
 教科書に書かれる「長篠の戦いの意義」   【一部改訂 05/10/30】       | このページの先頭へ |  

 歴史の教科書にはいろいろな「戦い」の名前が登場します。
 明治維新以前の戦いで、小学生でも知っている最も有名な戦いといえば、多分、「関ヶ原の戦い」でしょう。
 ここで取り上げる「長篠の戦い」は、桶狭間の戦い、鳥羽・伏見の戦い、天王山の戦いなどとならんで、「関ヶ原」の次に有名な戦いだと考えられます。

 この戦いそのものは、
織田信長と徳川家康の連合軍が、三河地方(愛知県東部)に進出を企てた甲斐の武田勝頼軍を破った戦いです。この戦いは、武田氏にとっては、その後の滅亡に繋がるという点で歴史的に重要な戦いとなりましたが、全体としては、信長の参加した天下統一の過程の戦いの一つであって、いわゆる「天下分け目」の戦いでも何でもありません。参加した軍勢の数も、両軍合わせて最大限多く見積もって5万3千ぐらいと、この時代の戦いとしては、そこそこのものです。

 それにもかかわらずこの戦いが有名な理由は、いうまでもなく、「
信長の鉄砲隊が武田の騎馬軍団を破ったところに歴史的意義があるとされてきた」ためです。

 現在の高校の教科書には次のように書かれています。

「1575年の三河の長篠合戦では、鉄砲を大量に用いた戦法で、騎馬隊を中心とする強敵武田勝頼の軍に大勝し」

石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦著『詳説日本史B』(山川出版 2004年)P150

 上の教科書の同じページには、東京の徳川黎明会蔵の「長篠合戦図屏風」の一部が掲載してあって次の説明文あります。

「長篠合戦において織田・徳川連合軍は鉄砲隊の威力で図の右から攻撃する武田の騎馬隊を破った。」

 この「長篠合戦図屏風」は、著作権の関係でここに写真を載せるわけには行きませんから、他のサイトへのリンクでご覧になってください。

徳川美術館のサイトです。トップはこちら。「長篠合戦図屏風」はこちら。


 つまり、基本的なキーワードは、「
鉄砲隊vs騎馬隊」です。
 上記の教科書には、すでに、その前の種子島への鉄砲伝来の部分で次のように結論が書かれています。

「鉄砲は戦国大名のあいだに新鋭武器として急速に普及し、足軽鉄砲隊の登場は従来の騎馬戦を中心とする戦法を変え

石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦著『詳説日本史B』(山川出版 2004年)P148

 1543年にポルトガル人によってもたらされた火縄銃のレプリカ。長さ99.8cmと意外に小振り。
 種子島の西之表市立種子島開発総合センター所蔵。2005年開催のEXPO05愛地球博のポルトガル館に展示されたところを撮影。


 これまでの「長篠の戦い」のイメージ                            | このページの先頭へ |  

 それでは、これまでの長篠の戦いのイメージをもう少し詳しく確認してみましょう。
 辞典や歴史学上の書物には、戦いはどのように表現されてきたのでしょう。いくつかの書物などから、戦いの記述を引用します。

「この長篠合戦は馬と鉄砲の戦争であり、とくに鉄砲の威力を最高度に発揮した合戦として知られている。従来の鉄砲隊は一列横隊であって、射程80−90メートル、しかも弾丸の装填には時間を要するため、初弾の発射後、つぎの弾丸の装填中に騎馬の襲撃をうけてはなはだ効果が薄弱であったのだが、信長は3000挺の銃を3隊に分かち、交互に発射させて発射間隔をうずめたのである。これによって鉄砲隊の威力はいちだんと光をましたわけである。武田側にもすでに述べたように鉄砲がなかったわけではないが、騎馬隊の突撃による成功につよい自信をもっていたので、鉄砲隊の新しい編成による威力に思いおよばなかったのであった。」

林屋辰三郎著『日本の歴史12 天下一統』(中公文庫 1974年)P177−178

 

「織田・徳川の連合軍が3千挺の鉄砲隊を組織して圧倒的な勝利を収めた。古代以来の騎馬戦法よりも、新しくヨーロッパから伝わった鉄砲の有効さを大規模な実戦で明らかにしたという点で、この合戦は日本史上画期的な事件であった。

上記参照ホームページ、徳川美術館の「長篠合戦図屏風」の解説


「(包囲された奥平貞昌の要請で)勝頼軍の約三倍の兵員で家康・信長の連合軍が救援に赴き、長篠城の西約2キロメートルの設楽原で連吾川を前にして三重の馬防柵を築き、3000挺の鉄砲を配備して武田勢を待った。これに村し武田勢は午前6時ごろから午後2時ごろまで騎馬隊による突撃を繰り返したが、柵に阻まれて敵陣に入ることができず、しかも鉄砲の一斉射撃を浴びて壊滅的な打撃を受けた。連合軍の戦術は、大きな合戦での鉄砲使用ということで画期的なものであり、以後の戦争に大きな影響を与えた。武田氏はこの敗戦で衰退に向かった。

笹本正治氏執筆「長篠の戦い」『日本史大事典』(平凡社 1994年)


 これらの記述から共通項目を箇条書きにすると次のようになります。

  1. 鉄砲隊と騎馬隊の戦いであった

  2. 鉄砲隊は馬防柵を築き3000丁の鉄砲を使って有効な射撃を加えた。

  3. 結果的に古い戦いの方式は消滅し、日本人の戦い方は一変した。(戦術革命が起こった)

 1980年に全国で放映された黒澤明監督の映画『影武者』は、一般国民にこの戦いのイメージを定着させることに貢献しました。
「広い平原を突進する騎馬隊。これまでなら一斉射で終わるはずの鉄砲隊の射撃が繰り返し行われ、次々の倒れる騎馬隊。そしてて、馬と武者の死体が累々と・・。」

 私も、長い間、このイメージで日本史の授業をしてきました。
 借り物の火縄銃を持ち込んだ授業では、
火縄銃の射程距離・発射速度と騎馬隊の進撃速度を詳細に説明して、この戦いの「意義」を理解させました。


 定説への疑問  【一部改訂 05/10/30】                              | このページの先頭へ |  

 ところが、この1975年ころから、従来の「長篠の戦いの虚像」を正し、「実像」を明らかにする研究の成果が提示されてきました。
 その中心人物が、
名和弓雄氏、鈴木眞哉氏、藤本正行氏です。

 特に1990年代以降になって3氏による複数の書物が広く知られるようになり、従来とは違う「新しい長篠の戦い像」が広がってきました。

 ただし、それでも、一番先頭に引用したように、現行の教科書には、基本的には依然と同じ表現が引き続き使われています。
 そのため、以前の私がそうであったように、現在も「実像」に気が付かず従来のイメージで「長篠の戦い」を教えておられる先生方も多いと思われます。
 以下、「実像」を提唱されている研究者の書物を引用しつつ、なにが「虚像」なのかを説明していきます。

このページ以降の記述には、主に次の書物を参考にしました。

1 鈴木眞哉著『鉄砲隊と騎馬軍団 真説・長篠合戦』(洋泉社 2003年)

2 鈴木眞哉著『鉄砲と日本人−「鉄砲神話」が隠してきたこと』(洋泉社 1997年)

3 名和弓雄著『長篠・設楽原合戦の真実』(雄山閣 1998年)

4 藤本正行著『信長の戦争 「信長公記」に見る戦国軍事学』(講談社学術文庫 2003年)

5 小和田哲男監修小林芳春編『長篠・設楽原の戦い』(吉川弘文館 2003年)

6 岩堂憲人著『世界銃砲史 上』(国書刊行会 1995年)


 2004年と2005年の秋に、戦いの舞台となった、長篠・設楽原に行ってきました。

本題の説明の前に、場所の表現の問題についても説明します。
一般に「長篠の戦い」といいますが、当時の長篠城があった場所と、織田・徳川軍が武田勝頼軍を撃破した場所とは異なっています。正確には後者は、
設楽原(したらはら)と呼ぶことから、専門的には二つの戦いを分けて、長篠・設楽原の戦いと呼びます。
このページでも、これ以後は、表記を分けて用います。

 百聞は一見に如かず。
 現地の設楽原に立つと、これまで自分がもっていたイメージが正確ではないことにすぐに気が付きました。
 すでに書いたように、この戦いの武田の騎馬隊というと、「平原」を疾駆して織田・徳川軍の陣地にせまるものの、鉄砲の一斉射撃を受けて倒れるというイメージでした。
 ところが、戦いがあった現地設楽原は次の写真のような場所でした。


 現地写真設楽原 設楽原の戦場。中央の細い川、連吾(連子)川をはさんで狭い谷あい地に水田が広がっています。この写真は南側から北側を撮影したもので、写真の左(西)側が織田・徳川軍の陣地、右(東)側が武田軍の陣地です。
 (デジカメ写真3枚の合成写真です。撮影日 2004/09/19)

 航空写真設楽原 設楽原の航空写真です。(1977年撮影)赤い○の部分が戦場です。写真の右上の長篠城跡の部分から下へかけて斜めに豊川が流れています。戦場の中央連吾川は、豊川へ注ぐその支流です。 (航空写真2枚を合成してあります。)
  ※この写真は国土交通省ウエブマッピングシステムの国土画像情報から入手しました。(説明はこちら。
  

 衛星写真設楽原 設楽原は愛知県の東部、浜名湖の北側にあります。(赤丸内の+の地点)
  ※この写真は、NASAのWorld Wind からのものです。(こちらに説明があります。
    上空159.45kmからの衛星写真です。


 衛星写真を見れば、設楽原は愛知県三河湾奥に注いでいる豊川の中流部で、平地部の端にあることが分かります。
 また、
航空写真を見れば、戦場は豊川の支流の連吾川が流れる、低い丘の間の谷あい地であることが分かります。
 どれを見ても、何千もの騎馬軍団が疾駆する平原というものとは、大きく食い違う戦場です。
 川も水田のあるこの谷あい地で、騎馬軍団はどのような戦闘が可能なのでしょうか?
 やはり、思いこみは誤解の元です。

 次回からは、真説提案者の研究を紹介し、設楽原の戦いの虚像と実像を追究します。


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