歴史の教科書にはいろいろな「戦い」の名前が登場します。
明治維新以前の戦いで、小学生でも知っている最も有名な戦いといえば、多分、「関ヶ原の戦い」でしょう。
ここで取り上げる「長篠の戦い」は、桶狭間の戦い、鳥羽・伏見の戦い、天王山の戦いなどとならんで、「関ヶ原」の次に有名な戦いだと考えられます。
この戦いそのものは、織田信長と徳川家康の連合軍が、三河地方(愛知県東部)に進出を企てた甲斐の武田勝頼軍を破った戦いです。この戦いは、武田氏にとっては、その後の滅亡に繋がるという点で歴史的に重要な戦いとなりましたが、全体としては、信長の参加した天下統一の過程の戦いの一つであって、いわゆる「天下分け目」の戦いでも何でもありません。参加した軍勢の数も、両軍合わせて最大限多く見積もって5万3千ぐらいと、この時代の戦いとしては、そこそこのものです。
それにもかかわらずこの戦いが有名な理由は、いうまでもなく、「信長の鉄砲隊が武田の騎馬軍団を破ったところに歴史的意義があるとされてきた」ためです。
現在の高校の教科書には次のように書かれています。
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「1575年の三河の長篠合戦では、鉄砲を大量に用いた戦法で、騎馬隊を中心とする強敵武田勝頼の軍に大勝し」 |
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石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦著『詳説日本史B』(山川出版 2004年)P150 |
上の教科書の同じページには、東京の徳川黎明会蔵の「長篠合戦図屏風」の一部が掲載してあって次の説明文あります。
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「長篠合戦において織田・徳川連合軍は鉄砲隊の威力で図の右から攻撃する武田の騎馬隊を破った。」 |
この「長篠合戦図屏風」は、著作権の関係でここに写真を載せるわけには行きませんから、他のサイトへのリンクでご覧になってください。
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徳川美術館のサイトです。トップはこちら。「長篠合戦図屏風」はこちら。 |
つまり、基本的なキーワードは、「鉄砲隊vs騎馬隊」です。
上記の教科書には、すでに、その前の種子島への鉄砲伝来の部分で次のように結論が書かれています。
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「鉄砲は戦国大名のあいだに新鋭武器として急速に普及し、足軽鉄砲隊の登場は従来の騎馬戦を中心とする戦法を変え」 |
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石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦著『詳説日本史B』(山川出版 2004年)P148 |
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