現物教材 日本史23

 近世13  織田信長の「天下布武」印             12/02/12記載              | 目次へ

 日本史の授業に登場する印章といえば、2つあります。
 一つ目は、中国後漢王朝の光武帝から日本の小国の国王が賜ったという、「
漢委奴国王」印。
   ※→現物教材:「漢委奴国王」金印レプリカのページを見てください。
 二つ目は、織田信長が使用した「
天下布武」印です。
 これが教材として手に入りましたので紹介します。


 左:ゴム印を上から撮影しました。   中:ゴム印の印影です。  右:ゴム製の印面です。


 これを販売しているのは、安土桃山通販(千葉県八千代市八千代台北4−13−12 047−486−0090)です。もちろん、インターネット上でも購入できます。
  ※安土桃山通販のトップページです。http://www.aduchimomoyama.com/index.html 
  ※安土桃山通販の戦国武将朱印シリーズのページです。http://www.aduchimomoyama.com/a_03syuin.htm
 
 同社の天下布武」印は、価格2,000円です。配送料は、私の居住地(岐阜)までは740円でしたので、合計2,740円で入手できました。
 漢委奴国王」印と同様、授業で実物を紹介するだけではなく、提出物の確認印として押印すると、とても注目を集めること間違いなしです。


 これだけでは面白くありませんから、ちょっと「天下布武」印について学習します。
 まず、この「
天下布武」印には3つの種類があります。
 
楕円形印馬蹄形印円形印です。すべて、天下布武」の文字は同じく刻まれていますが、外枠等の形状が異なります。以下はそのイメージ図です。

この楕円形印の楕円形という形状は、イエズス会の印の形状を通してヨーロッパの印章文化の一部を受け継いだものであり、さらにそのルーツが古代オリエント文明の印章からつながるという推論については、クイズ日本史:近世「楕円形印の形状のツールは?」で説明しています。

 上図の印のサイズは次のとおりです。
  @楕円形印・・・・長径5.4cm、 短径4.7cm
  A馬蹄形印・・・・楕円形印の下部を切断、 縦5.5cm、 底辺1.8cm
  B円形印・・・・・・直径5.7cm
 


 この3つのタイプは、まず、使用の時期が異なります。以下の図2はそれぞれの使用時期を図示したものです。 

 信長が最初に、@楕円形天下布武」印を使用したのは、彼が齋藤氏の稲葉山城を後略し、自ら岐阜と名付けて岐阜城主となった直後の、1567(永禄10)年11月です。1570年1月まではこれを使用します。
 1570(永禄13)年3月には、@楕円形印に代わって、A
馬蹄形印が使用されはじめ、本能寺の変のおこる前月の1582年5月まで使われます。
 さらに、Aの馬蹄形印と同じ時期の1577(天正5)年5月から1579年6月までの短期間、
円形印が同時に使われます。

 これらの印の使用目的の違いについては、下で説明します。
 その前に、教科書や資料集における扱いについて、細かな注意を指摘します。
 たとえば高等学校で最も多く使用されている山川出版の教科書では、A
馬蹄形印の印影の写真を掲載し、「信長「天下布武」の印判」と説明してあります。この短い説明の場合は、短すぎてこれ自体は何ら問題はありません。
 ※石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦他著『詳説日本史』(山川出版 2007年)P150
 
 しかし、もう少し詳しい説明をすると、かえって裏にはまってしまう場合もあります。
 東京法令出版の資料集には、A
馬蹄形印の印影の写真を掲載し、 「「天下布武」の印 信長は1567年以来この印を用い、全国制覇を目指した。」とあります。
 「1567年以来この印を用い」という場合の、「この印」を、天下布武の文字を刻んだと広義にとらえれば問題はありませんが、写真にある馬蹄形の「天下布武」の印とすると、1567年ではなく、1570年としなければなりません。浜島書店の資料集にも同様の記述があります。
 教える教員の方は、「
天下布武」印の形状に3種類があることは一般には知りませんので、「馬蹄形の形状の印を1567年から使用した」と間違って解説する危険性もあります。
  ※東京法令出版編『日本史総覧』(2004年版)P108
  ※浜島書店編集部編『プロムナード日本史』(2007年)P87

 細かなことにこだわりました。
 では、信長自身はこれらの印についてどのような意味を込めたのでしょうか。
   


 「天下布武」の印の意味については、従来から、京都に入って政権を取ることの意思表示であるとの共通の理解がなされています。立花京子氏は、それを単純に「武力による全国制覇」という意味とは考えず、3つの形状の変化については、次のようにさらにその意味を深くとらえています。

1567年楕円形印の使用
 源頼朝が儒教思想を取り入れて、「天」の意にかなった武士が朝廷守護の任を果たすという天下思想を自己の政治思想としていたように、信長も同じく儒教に源を発する「七徳の武」による天皇のための天下の静謐の実現をその目標としており、朝廷守護こそを直接の政治目標と考えていた。
 このため、信長が岐阜攻略後、天皇領地の回復等を命じる「決勝綸旨」を奉じた使節を岐阜に迎え、天皇に忠節を誓ったことが直接のきっかけとなって、「天下布武」の印を用いることとなった。これは言い換えれば、結果的に将軍足利義昭の追放を含む全国制覇の正当性を獲得したことを意味する。

 

1570年馬蹄形印の使用
 これまでは、信長が足利義昭と決別して自己の政権確立を意図したことの象徴とされてきた。これに加えて、1570年3月に正親町天皇から、朝敵討伐を第一義とする将軍権限を委任されたことにより信長が足利義昭と同等の地位を得たことが重要な要因となったとする。上記1の領地の簒奪をおこなうものを討伐する権限から、抵抗勢力すべての討滅へとその権限を高めたことが、馬蹄形印への変更につながった。形状としてこれまで類を見ない馬蹄形としたことの意味は、「便宜上の処置」以外には有力な根拠はない。 
 

 

1577年円形印の使用
 「天下布武」の印文の回りに、二つの下降り龍の文様をあしらって、龍の神力と神聖性によって守護されることを期待したものと考えられる。
 信長は、1576(天正4)年11月21日に朝廷から内大臣に任命されており、これを記念して、公家・寺社宛の書状に円形印を用いた。
 ただし、例外が2通あるなど、使用が不徹底であり、なんらかの理由で継続できなかった。

 この「天下布武」印には、信長の旧秩序否定の意思と将軍権限重視の政治理念が込められています。
  ※立花京子前掲論文、前掲書P246−255