「天下布武」の印の意味については、従来から、京都に入って政権を取ることの意思表示であるとの共通の理解がなされています。立花京子氏は、それを単純に「武力による全国制覇」という意味とは考えず、3つの形状の変化については、次のようにさらにその意味を深くとらえています。
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1567年楕円形印の使用
源頼朝が儒教思想を取り入れて、「天」の意にかなった武士が朝廷守護の任を果たすという天下思想を自己の政治思想としていたように、信長も同じく儒教に源を発する「七徳の武」による天皇のための天下の静謐の実現をその目標としており、朝廷守護こそを直接の政治目標と考えていた。
このため、信長が岐阜攻略後、天皇領地の回復等を命じる「決勝綸旨」を奉じた使節を岐阜に迎え、天皇に忠節を誓ったことが直接のきっかけとなって、「天下布武」の印を用いることとなった。これは言い換えれば、結果的に将軍足利義昭の追放を含む全国制覇の正当性を獲得したことを意味する。
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1570年馬蹄形印の使用
これまでは、信長が足利義昭と決別して自己の政権確立を意図したことの象徴とされてきた。これに加えて、1570年3月に正親町天皇から、朝敵討伐を第一義とする将軍権限を委任されたことにより信長が足利義昭と同等の地位を得たことが重要な要因となったとする。上記1の領地の簒奪をおこなうものを討伐する権限から、抵抗勢力すべての討滅へとその権限を高めたことが、馬蹄形印への変更につながった。形状としてこれまで類を見ない馬蹄形としたことの意味は、「便宜上の処置」以外には有力な根拠はない。 |
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1577年円形印の使用
「天下布武」の印文の回りに、二つの下降り龍の文様をあしらって、龍の神力と神聖性によって守護されることを期待したものと考えられる。
信長は、1576(天正4)年11月21日に朝廷から内大臣に任命されており、これを記念して、公家・寺社宛の書状に円形印を用いた。
ただし、例外が2通あるなど、使用が不徹底であり、なんらかの理由で継続できなかった。 |
この「天下布武」印には、信長の旧秩序否定の意思と将軍権限重視の政治理念が込められています。
※立花京子前掲論文、前掲書P246−255
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